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.第9章 穏やかな日々
218 二十歳の誕生日(5)
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それから十分ほどして、準備ができたと部屋に兄が呼びに来た。
家族全員で食卓を囲むと、母がいそいそと冷蔵庫から瓶を取り出す。
「祝いの席なら、乾杯はシャンパンでしょ!」
それはシャンパンのボトルだった。健人兄が「よしきた!」と手にしてアルミのフィルムを剥がす。
「いつの間に用意してたの」
「そりゃ、事前に」
「さすがに常備してないよね?」
「昔はしてたけど」
「それ、独身時代の話?」
母がちょっと目を逸らして、父が噴き出している。
「……それ、どうしてたんだよ」
「仕事がんばったときとか……自分へのご褒美」
「一人で一本開けてたのか?」
「悪い?」
そういう話を聞いていると、母がおひとり様街道まっしぐらだった、という話はよく理解できる。私が笑っているうちに、「行くよー!」と健人兄が言って、ぽんっ!! と勢いよく栓の開く音がした。
「テイスティングは父さんね」
「そんなに本格的にやるのか?」
笑いながら、ワイングラスに一口、お酒を注がれて父が口に含む。
「美味い」
「よかった。久々に買うから迷っちゃった」
言う母の後ろを通って、相変わらずギャルソン姿の兄が私のグラスにシャンパンを注いだ。左手には白いナフキン、酒瓶の底を持つようにグラスに注ぐ。
「……そういえば、お前、ホテルでバイトしてたんだっけ」
「え、何それ。今さら?」
結婚式での給仕も、パーティーでのバーカウンターの経験もあると話す兄に、私は「はぁ」とあいまいな感嘆を漏らす。
「お兄ちゃん、ちゃんと真面目に仕事できるんだ……」
「え、待って? 俺っていったい、みんなの中でどういうキャラなの?」
「いや、よく分かんないけど。よく分かんないんだよ、あんまり自分のこと話さないから」
人のことはおちょくるくせに、と恨めしい視線と共に言ったけど、兄は「そうかな」と肩をすくめつつ、順にグラスにシャンパンを注いだ。ちょうど自分のところで注ぎ切り、健人兄は空いたボトルを持ち上げる。
「五人で飲むとあっという間だね」
「ま、次を開ければいいだろ」
「ちゃんぽんは怖いわよー」
「それ、経験談?」
母の神妙な顔に健人兄が笑った後で、「俺、白ワイン買って来てあるから」と言うと、それまで黙っていた悠人兄が「あ」と口を開けた。
「しまった、ワイン被った」
「え、白?」
「いや、赤」
「んじゃ、どっちも飲めばいいじゃん。あっという間っしょ!」
あくまで明るく言い切る健人兄に、父が苦笑する。
「飲み過ぎるなよ」
「大丈夫大丈夫、俺も悠人兄も明日休みだし!」
「そういう問題じゃないでしょ。私たち明日仕事なのよ」
「そっちこそ、そういう問題じゃなくね?」
真剣な顔で突っ込んだ母に、健人兄が呆れて、「仕方ないな」と父が笑った。
「とにかく、飲もうよ。あー腹減った。礼奈、二十歳の誕生日おめでとー!」
「おめでとう」
「おめでと!」
みんなでグラスを掲げて、軽く重ねていく。母、父、悠人兄、健人兄。みんなと小さく重ねたグラスを、口に運んだ。
しゅわっとした泡と共に、さっぱりした甘さが喉を落ちていく。
「美味しい」
「あ、こいつ飲めるな」
思わず口をついて出た感想に、健人兄が間髪入れず目を輝かせる。私が首を傾げると、兄はにやにやしていた。
「だってこれ、結構辛口。ね、母さん」
「私好み」
「俺もこれくらいが好き」
「……俺、もうちょい甘くてもいい」
悠人兄がおっとり言うけど、どうせうちの家族はみんなお酒に強いのだ。だから私も、そんなに弱くないだろうと思っている。
私はシャンパンを片手に、温野菜をチーズに絡めて口に運んだ。健人兄はご丁寧にも、バーニャカウダとチーズフォンデュ、両方を準備してくれている。要望を軽々と超えて来る兄の有能さには、素直に感心せざるを得ない。
「あんまり気を抜くなよ。飲める飲めると思ってると痛い目見るからな」
「そうよー。特に女子はね」
父と母が順に言うと、悠人兄がはっとした顔をした。
「礼奈、青いお酒は絶対飲んじゃ駄目だよ。何か入れられるかもしれないから」
「現役消防士からいきなりガチな講義始まったな」
何のことかと思えば、液体に注ぐと青く染まる睡眠薬があるらしい。どうして悠人兄が知ってるんだろうと思ったら、中にはそれで倒れて救急車で運ばれる例もあるとか。
「世の中には悪い人もいるんだよ」
「うん、まあそうな……」
真剣な面持ちの悠人兄の横で、健人兄が苦笑いしながらシャンパンを口に運んでいる。
年齢は悠人兄の方が上だけれど、人生経験は健人兄の方が豊富そうだ。
「まあ、そう脅かすな。――けど、そういう奴もいるってことは、頭に入れておいた方がいいな」
父が言って、私もこくりと頷いた。グラスを空にした健人兄が、「白ワイン開けまーす」と冷蔵庫へ向かった。
「そういえば、栄太郎の引っ越し、手伝ったんだろ。どうだった?」
「うん、いいとこだったよ」
白ワインを持って来た健人兄が、父にも「要る?」と声をかける。父が頷くと、グラスに手慣れた仕草でそれを注いだ。
「広かったからびっくりした。あれなら二人でも暮らせるねーって、な、礼奈」
「えっ、あのっ?」
「なーに言ってんの」
戸惑った私に、呆れたような母の声がかぶさった。
「まだ礼奈は学生なんだから。そんなことまだ先の話でしょ。少なくとも就職してからじゃないと――ねぇ、政人」
母に言われて、父が苦笑する。私はふと、昼間に父が言っていたことを思い出した。
――彩乃がどう思っているかは、分からない。
母も、栄太兄と私がつき合うことに、反対しているわけではなさそうだった。はっきり聞いては来ないものの、気にしている様子もある。
けど、それが将来の話になるとは、母も思っていないんだろうか。
母には明確に答えないまま、父が健人兄に「そういえば」と水を向ける。
「健人。お前も就職したら都内に引っ越すつもりだったろ。どうするんだ?」
「んー、とりあえずこっからでも通えるし、仕事に慣れた頃でもいいかなって。お金もかかるし」
「それがいいな。家の探し方、栄太郎にも聞いとけ。就職後も家変えてるから、今まで3回は家探ししてるはずだし」
「あ、そうだね。見るべきとことか聞いとく」
健人兄が頷いて、私の手元に手をやり、にやりとした。
「なんだ。もう空いてんじゃん。白ワインでいい?」
「いいけど、アクアパッツァは?」
「あ、忘れてた。あっためてくる」
しっかりしてんなぁ、と健人兄が笑って、私の額を小突いていく。
だって、楽しみにしてたんだもん。
父にワインを注いでもらいながら、私はまた、手元の櫛を野菜にぷすりと刺した。
家族全員で食卓を囲むと、母がいそいそと冷蔵庫から瓶を取り出す。
「祝いの席なら、乾杯はシャンパンでしょ!」
それはシャンパンのボトルだった。健人兄が「よしきた!」と手にしてアルミのフィルムを剥がす。
「いつの間に用意してたの」
「そりゃ、事前に」
「さすがに常備してないよね?」
「昔はしてたけど」
「それ、独身時代の話?」
母がちょっと目を逸らして、父が噴き出している。
「……それ、どうしてたんだよ」
「仕事がんばったときとか……自分へのご褒美」
「一人で一本開けてたのか?」
「悪い?」
そういう話を聞いていると、母がおひとり様街道まっしぐらだった、という話はよく理解できる。私が笑っているうちに、「行くよー!」と健人兄が言って、ぽんっ!! と勢いよく栓の開く音がした。
「テイスティングは父さんね」
「そんなに本格的にやるのか?」
笑いながら、ワイングラスに一口、お酒を注がれて父が口に含む。
「美味い」
「よかった。久々に買うから迷っちゃった」
言う母の後ろを通って、相変わらずギャルソン姿の兄が私のグラスにシャンパンを注いだ。左手には白いナフキン、酒瓶の底を持つようにグラスに注ぐ。
「……そういえば、お前、ホテルでバイトしてたんだっけ」
「え、何それ。今さら?」
結婚式での給仕も、パーティーでのバーカウンターの経験もあると話す兄に、私は「はぁ」とあいまいな感嘆を漏らす。
「お兄ちゃん、ちゃんと真面目に仕事できるんだ……」
「え、待って? 俺っていったい、みんなの中でどういうキャラなの?」
「いや、よく分かんないけど。よく分かんないんだよ、あんまり自分のこと話さないから」
人のことはおちょくるくせに、と恨めしい視線と共に言ったけど、兄は「そうかな」と肩をすくめつつ、順にグラスにシャンパンを注いだ。ちょうど自分のところで注ぎ切り、健人兄は空いたボトルを持ち上げる。
「五人で飲むとあっという間だね」
「ま、次を開ければいいだろ」
「ちゃんぽんは怖いわよー」
「それ、経験談?」
母の神妙な顔に健人兄が笑った後で、「俺、白ワイン買って来てあるから」と言うと、それまで黙っていた悠人兄が「あ」と口を開けた。
「しまった、ワイン被った」
「え、白?」
「いや、赤」
「んじゃ、どっちも飲めばいいじゃん。あっという間っしょ!」
あくまで明るく言い切る健人兄に、父が苦笑する。
「飲み過ぎるなよ」
「大丈夫大丈夫、俺も悠人兄も明日休みだし!」
「そういう問題じゃないでしょ。私たち明日仕事なのよ」
「そっちこそ、そういう問題じゃなくね?」
真剣な顔で突っ込んだ母に、健人兄が呆れて、「仕方ないな」と父が笑った。
「とにかく、飲もうよ。あー腹減った。礼奈、二十歳の誕生日おめでとー!」
「おめでとう」
「おめでと!」
みんなでグラスを掲げて、軽く重ねていく。母、父、悠人兄、健人兄。みんなと小さく重ねたグラスを、口に運んだ。
しゅわっとした泡と共に、さっぱりした甘さが喉を落ちていく。
「美味しい」
「あ、こいつ飲めるな」
思わず口をついて出た感想に、健人兄が間髪入れず目を輝かせる。私が首を傾げると、兄はにやにやしていた。
「だってこれ、結構辛口。ね、母さん」
「私好み」
「俺もこれくらいが好き」
「……俺、もうちょい甘くてもいい」
悠人兄がおっとり言うけど、どうせうちの家族はみんなお酒に強いのだ。だから私も、そんなに弱くないだろうと思っている。
私はシャンパンを片手に、温野菜をチーズに絡めて口に運んだ。健人兄はご丁寧にも、バーニャカウダとチーズフォンデュ、両方を準備してくれている。要望を軽々と超えて来る兄の有能さには、素直に感心せざるを得ない。
「あんまり気を抜くなよ。飲める飲めると思ってると痛い目見るからな」
「そうよー。特に女子はね」
父と母が順に言うと、悠人兄がはっとした顔をした。
「礼奈、青いお酒は絶対飲んじゃ駄目だよ。何か入れられるかもしれないから」
「現役消防士からいきなりガチな講義始まったな」
何のことかと思えば、液体に注ぐと青く染まる睡眠薬があるらしい。どうして悠人兄が知ってるんだろうと思ったら、中にはそれで倒れて救急車で運ばれる例もあるとか。
「世の中には悪い人もいるんだよ」
「うん、まあそうな……」
真剣な面持ちの悠人兄の横で、健人兄が苦笑いしながらシャンパンを口に運んでいる。
年齢は悠人兄の方が上だけれど、人生経験は健人兄の方が豊富そうだ。
「まあ、そう脅かすな。――けど、そういう奴もいるってことは、頭に入れておいた方がいいな」
父が言って、私もこくりと頷いた。グラスを空にした健人兄が、「白ワイン開けまーす」と冷蔵庫へ向かった。
「そういえば、栄太郎の引っ越し、手伝ったんだろ。どうだった?」
「うん、いいとこだったよ」
白ワインを持って来た健人兄が、父にも「要る?」と声をかける。父が頷くと、グラスに手慣れた仕草でそれを注いだ。
「広かったからびっくりした。あれなら二人でも暮らせるねーって、な、礼奈」
「えっ、あのっ?」
「なーに言ってんの」
戸惑った私に、呆れたような母の声がかぶさった。
「まだ礼奈は学生なんだから。そんなことまだ先の話でしょ。少なくとも就職してからじゃないと――ねぇ、政人」
母に言われて、父が苦笑する。私はふと、昼間に父が言っていたことを思い出した。
――彩乃がどう思っているかは、分からない。
母も、栄太兄と私がつき合うことに、反対しているわけではなさそうだった。はっきり聞いては来ないものの、気にしている様子もある。
けど、それが将来の話になるとは、母も思っていないんだろうか。
母には明確に答えないまま、父が健人兄に「そういえば」と水を向ける。
「健人。お前も就職したら都内に引っ越すつもりだったろ。どうするんだ?」
「んー、とりあえずこっからでも通えるし、仕事に慣れた頃でもいいかなって。お金もかかるし」
「それがいいな。家の探し方、栄太郎にも聞いとけ。就職後も家変えてるから、今まで3回は家探ししてるはずだし」
「あ、そうだね。見るべきとことか聞いとく」
健人兄が頷いて、私の手元に手をやり、にやりとした。
「なんだ。もう空いてんじゃん。白ワインでいい?」
「いいけど、アクアパッツァは?」
「あ、忘れてた。あっためてくる」
しっかりしてんなぁ、と健人兄が笑って、私の額を小突いていく。
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