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.第10章 インターン

265 インターン最終日(4)

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 栄太兄は、もうシャワーを浴びて、寝るだけの状態だったらしい。駅に着いた私を迎えに来てくれたら、優しいシャンプーの匂いがして、思わずTシャツにしがみついてくんくん匂いを嗅いでしまった。

「なんや、酔ってはるんか?」
「酔ってないよー」

 乾杯のビールの他は、梅酒を1杯飲んだだけだ。酔うはずもない、と唇を尖らせる。
 ほっとした反動で、語尾が伸びているのを自覚した。肩の力が抜けた途端、足元も妙におぼつかなくなる。
 都内のオフィス特有の、無機質な空間に身を置いていた二週間が、どれほど自分を消耗させたか、栄太兄の横にいるとよく分かった。
 小さな段差につまづいている私を見て、栄太兄は「おいおい、大丈夫か?」と手を差し伸べてくれた。大きな手をぎゅっと握って、引っ張られるように歩いて行く。
 何をしても、何をされても、心地がよかった。

「栄太兄~」
「何や、酔っ払い」
「酔ってないってば」

 ついさっきまではしっかりしてたのだ。
 酔ったとすれば、栄太兄に酔った。

「なんか、すごい久しぶりな気がする」
「まー、7月以降会っとらんからなぁ」

 栄太兄が困ったように笑う。――ああ、その笑顔も好きだなぁ。胸がぎゅうっと締め付けられた。
 はやくその身体に抱き着きたい。けど、ここじゃそれもできない。
 私はきりっと気を引き締め直して、「行こう!」とちゃかちゃか歩き始めた。
 栄太兄が「ん、え? 何や急に」と慌ててついて来る。私はお腹から湧き上がる笑いに、くつくつと喉を鳴らした。

 ***

 栄太兄の家に着くと、玄関が閉まるなり栄太兄のお腹に抱き着いた。

「ちょ、こら。礼奈」
「やだー、離れない」

 消耗して、憔悴して、いろいろ不足してるのだ。しっかり、充電させてもらいたい。

「と、とにかく上がれ。ほら」
「うん……」

 手を引かれて、中へと入る。通されたキッチン横の座卓は前にも一緒にご飯を食べた辺りだ。思いっきり息を吸って、ふはぁと吐き出す。訝しむ栄太兄に、「栄太兄の匂いがする」と笑うと、「まるで犬やな」と笑われた。
 犬でも何でもいい、とにかく全部で栄太兄を充電したい。
 飲み物を取って来る、と立ち上がろうとした栄太兄を引きとめて、「いいから」と座らせる。あぐらをかいたその胸に頬を寄せると、おずおずと抱きしめられた。
 嬉しい。幸せ。
 さっきまで空っぽだった心のどこかが、急激に満たされて行く気がする。こんなの、まるで麻薬みたい。

「よっぽど疲れたんやな」
「んー、うん」

 栄太兄はゆっくり私の髪を撫でてくれる。私は目を閉じたまま、こくりと頷く。

「仕事は、雑用ばっかりだし、そんなに緊張しなかったんだけど……社員さんの、人間関係が、いろいろ……気になって」
「見え過ぎるねんな、礼奈は」

 くすりと笑われて、思わずちらっと目を上げた。

「……栄太兄も、そう思うの?」
「うん?」
「私、そんなに見てるかな、他の人のこと」

 栄太兄の手は、変わらず私の頭を撫でている。その目は優しくて穏やかで、ちょっと年下扱いされている感じがしたけど、今はそれも心地よかった。

「イトコで集まっても、ようみんなのことじぃーっと見てはるやん。あれはもう、癖やろうな。みんなが何してるかじぃーと見とって、真似してみたり、親にチクったりしよったやろ」
「チクっ……て……危ないときとかだよ」
「そうやけど」

 くすくすと、栄太兄が笑う。
 兄たちが危ないことをしようとしたとき、大概私は誰かを呼びに行っていた。そこに栄太兄がいるときは、必ず栄太兄を呼びに行った。母たちを呼んだら、きっと叱りつけるだろう、と幼心に分かっていたから。

「それに、会話について行けないから……相槌打ってるだけしかできないし……」

 あれ、そういえば、そんなことも最近何度か言われたな。

「……私、相槌上手なのかな? そんなことも言われた……」
「そうかも知れんな」

 くすくすと、栄太兄が笑う。その振動が、胸から、腕から、私を小さく揺する。
 栄太兄から漂ってくるせっけんの香りと、シャンプーの香りと、その温もりは、今まで私を包んでいたものとは程遠くて、全然違って、一気に、身体と心が解されていく。一気に――
 私はたまらず、目をつぶった。深く息を吸って、吐いてを繰り返しているうち、気づいたら眠ってしまったらしい。
 夢すらも見ないままに、深い深い眠りについていた。
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