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.第12章 親と子
317 母と娘(2)
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母が唖然とした顔で私を見つめている。
私は目を見開いたまま、真っ白になった頭で思っていた。
違う――違う。そんなこと――思ってない。いや、確かに、思ったことはあった。けど、こんな風に伝える気はなかった。
母がどれだけ努力しているか、仕事にやりがいを感じているか、父がそれを理解して支えているか、今の私は全部分かっていて――そんな両親を誇らしくも思っていた。
なのに。
「お母さん……違うの……あの……」
震える声は、かすれて、小さくなった。伸ばそうとした手は震えて、母は私から目を逸らした。
分断された視線に、拒否された気がして胸が痛む。手をそれ以上母に近づく勇気もなく、黙って膝上に引き寄せた。
うつむいて、唇を噛み締める。
膝の上で握った拳が震えた。
「そんな風に……思ってたのね……」
小さな呟き。
うつむいたまま、私は身動きが取れない。
罪悪感と、自分で可能性の芽を摘んでしまった後悔に、ただただ打ちひしがれていた。
母は立ち上がると、私の頭をまっすぐに見下ろした。
「とにかく、私は学生結婚なんて反対です。就職して2、3年しなければ、どうなるかなんて分からない。世の中、好き勝手生きていけるほど甘くないの。――二人が本当に一緒に生きて行けるか、今までの様子だけで判断するのは早すぎると思う。政人が許しても、私は認めません」
母ははっきりとそう言うと、リビングを出て行く。
開いたドアが、ぱたんと乾いた音を立てるのが聞こえた。
立ち上がったときのままになった母の椅子の前に、すっかり冷めたミルクティーが、照明の光を反射してゆらめいていた。
しばらくそのまま、しんと静まり返ったリビングで、沈黙を破ったのは父のため息だった。
「――礼奈」
私を呼ぶ静かな声に、バレンタインデーのときのような温かさはない。
私は膝上で握り締めた自分の手を見つめながら、滲む涙に視界が歪むのを感じた。
「……言いすぎたな」
父はそう言って、立ち上がる。母のマグカップを手にして、自分の分と共に食洗器に突っ込むと、また食卓に戻って来た。
引いたままの2脚の椅子を机に寄せ、私の肩をぽんと叩く。
「栄太郎と、もう一度よく話しなさい。彩乃の気持ちも分かってやれ。――別に結婚を反対してる訳じゃないんだから」
静かに言われて、私は唇を引き結ぶ。頷くことも首を振ることもできず、ただただ、膝上で握る手に力を込めた。
父がため息をつくのが聞こえる。
彩乃はな、と父は言った。私の背中を、ぽんぽんと叩く。
「子どもたちを、ひとりで生きていける人間に育てることが、彩乃の目標だったんだ。経済的、社会的、人間的に――性別も何も関係なく、きちんと自分の足で生きていけるように育てることが、彩乃の夢だったんだ」
快活に笑う母の姿が、閉じたまぶたの裏に浮かんだ。目に溜まっていた涙が頬を伝い落ちる。なまぬるいそれが手を濡らして、父がティッシュ箱を私の前に引き寄せた。
「彩乃は彩乃なりの方法で、子育てをして、家族を守ってきた。俺も俺なりの方法で、そうしてきた。ただそれだけのことだ」
知ってる。そんなこと、今の私には分かってる。
父の言葉に、私はようやく、こくこくと頷く。
涙が膝の上に散って、ズボンにシミを作った。
「栄太郎だって、お前と彩乃の関係にヒビを入れることを望んでるわけじゃないだろう? 焦らないで、ゆっくり話し合いなさい」
「でも――」
父の言葉に、私はぱっと顔を上げた。
父がじっと私を見下ろしている。
痛ましいものを見るようなその目に、すがりつくように手を伸ばした。
「……でも、おじいちゃんが、いつまで生きてるか……」
父は困ったように笑って、私の頭に手を置いた。
「そうだな。俺も、お前の気持ちは分かってる。たぶん、彩乃も。――けどやっぱり、それはそれ、これはこれ、だろう」
ぽんぽん、と頭を叩かれて、父のニットを掴んでいた手を離す。
「じいちゃんがいつまで生きるかは、じいちゃんの話だ。それこそ、あと何年残ってるか分からない余生の話。お前たちの話は違うだろう? 何年、なんてもんじゃない。十年、二十年――まだまだ、人生の折り返しにも達してない二人が、本当に一生を誓い合えるのかどうか――」
父は膝を折って、私の濡れた頬を手でぬぐった。
「大丈夫。きっと、お前たちならちゃんと答えを出せるよ。――力になれなくて悪いけど、これもこれで、俺の仕事だ」
そう言うと、父はまた私の背中を叩いて、リビングを出て行く。
開いたドアから、ひんやりした空気が足元を抜けて行った。
一人残されたリビングは、しんとしていて広い。
私は顔を覆って、ため息をついた。
自分の無力と幼稚さを、改めて思い知って。
私は目を見開いたまま、真っ白になった頭で思っていた。
違う――違う。そんなこと――思ってない。いや、確かに、思ったことはあった。けど、こんな風に伝える気はなかった。
母がどれだけ努力しているか、仕事にやりがいを感じているか、父がそれを理解して支えているか、今の私は全部分かっていて――そんな両親を誇らしくも思っていた。
なのに。
「お母さん……違うの……あの……」
震える声は、かすれて、小さくなった。伸ばそうとした手は震えて、母は私から目を逸らした。
分断された視線に、拒否された気がして胸が痛む。手をそれ以上母に近づく勇気もなく、黙って膝上に引き寄せた。
うつむいて、唇を噛み締める。
膝の上で握った拳が震えた。
「そんな風に……思ってたのね……」
小さな呟き。
うつむいたまま、私は身動きが取れない。
罪悪感と、自分で可能性の芽を摘んでしまった後悔に、ただただ打ちひしがれていた。
母は立ち上がると、私の頭をまっすぐに見下ろした。
「とにかく、私は学生結婚なんて反対です。就職して2、3年しなければ、どうなるかなんて分からない。世の中、好き勝手生きていけるほど甘くないの。――二人が本当に一緒に生きて行けるか、今までの様子だけで判断するのは早すぎると思う。政人が許しても、私は認めません」
母ははっきりとそう言うと、リビングを出て行く。
開いたドアが、ぱたんと乾いた音を立てるのが聞こえた。
立ち上がったときのままになった母の椅子の前に、すっかり冷めたミルクティーが、照明の光を反射してゆらめいていた。
しばらくそのまま、しんと静まり返ったリビングで、沈黙を破ったのは父のため息だった。
「――礼奈」
私を呼ぶ静かな声に、バレンタインデーのときのような温かさはない。
私は膝上で握り締めた自分の手を見つめながら、滲む涙に視界が歪むのを感じた。
「……言いすぎたな」
父はそう言って、立ち上がる。母のマグカップを手にして、自分の分と共に食洗器に突っ込むと、また食卓に戻って来た。
引いたままの2脚の椅子を机に寄せ、私の肩をぽんと叩く。
「栄太郎と、もう一度よく話しなさい。彩乃の気持ちも分かってやれ。――別に結婚を反対してる訳じゃないんだから」
静かに言われて、私は唇を引き結ぶ。頷くことも首を振ることもできず、ただただ、膝上で握る手に力を込めた。
父がため息をつくのが聞こえる。
彩乃はな、と父は言った。私の背中を、ぽんぽんと叩く。
「子どもたちを、ひとりで生きていける人間に育てることが、彩乃の目標だったんだ。経済的、社会的、人間的に――性別も何も関係なく、きちんと自分の足で生きていけるように育てることが、彩乃の夢だったんだ」
快活に笑う母の姿が、閉じたまぶたの裏に浮かんだ。目に溜まっていた涙が頬を伝い落ちる。なまぬるいそれが手を濡らして、父がティッシュ箱を私の前に引き寄せた。
「彩乃は彩乃なりの方法で、子育てをして、家族を守ってきた。俺も俺なりの方法で、そうしてきた。ただそれだけのことだ」
知ってる。そんなこと、今の私には分かってる。
父の言葉に、私はようやく、こくこくと頷く。
涙が膝の上に散って、ズボンにシミを作った。
「栄太郎だって、お前と彩乃の関係にヒビを入れることを望んでるわけじゃないだろう? 焦らないで、ゆっくり話し合いなさい」
「でも――」
父の言葉に、私はぱっと顔を上げた。
父がじっと私を見下ろしている。
痛ましいものを見るようなその目に、すがりつくように手を伸ばした。
「……でも、おじいちゃんが、いつまで生きてるか……」
父は困ったように笑って、私の頭に手を置いた。
「そうだな。俺も、お前の気持ちは分かってる。たぶん、彩乃も。――けどやっぱり、それはそれ、これはこれ、だろう」
ぽんぽん、と頭を叩かれて、父のニットを掴んでいた手を離す。
「じいちゃんがいつまで生きるかは、じいちゃんの話だ。それこそ、あと何年残ってるか分からない余生の話。お前たちの話は違うだろう? 何年、なんてもんじゃない。十年、二十年――まだまだ、人生の折り返しにも達してない二人が、本当に一生を誓い合えるのかどうか――」
父は膝を折って、私の濡れた頬を手でぬぐった。
「大丈夫。きっと、お前たちならちゃんと答えを出せるよ。――力になれなくて悪いけど、これもこれで、俺の仕事だ」
そう言うと、父はまた私の背中を叩いて、リビングを出て行く。
開いたドアから、ひんやりした空気が足元を抜けて行った。
一人残されたリビングは、しんとしていて広い。
私は顔を覆って、ため息をついた。
自分の無力と幼稚さを、改めて思い知って。
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