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.1章 うさぎはかめを振り返る
..02 ふたり
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俺と早紀は、大学で出会った。
他大学と合同の、いわゆるインカレの合唱サークル。
入部した俺は、近くの女子大に通う友人に声をかけ、彼女たちが連れてきたのが、早紀だったのだ。
一見して染めたことのなさそうな黒髪と、白い肌。顔立ちも態度も、他の女子より控えめで。
だからこそ逆に、周囲の目を引く特有の雰囲気があった。
深窓の令嬢。箱入り娘。
そんな言葉がぴったりで、男と話すのは極度に苦手なようだった。
中学からずっと女子校に通っていると聞いたときには納得したくらいだ。
男子と会話するときは、早紀の緊張が伝染るのか、みんな緊張していた。そんな中でも俺は、区別も遠慮せず話しかけた。
元々、誰とでもすぐ打ち解けるたちだ。そのうち早紀も慣れるだろうとたかをくくっていた。
実際、最初は戸惑っている様子だった早紀も、比較的早く俺に慣れた。共通の友達がいたことも大きいのだろうけど。
初めて向こうから挨拶してくれたときのことは、未だに思い出すと笑ってしまう。
入学して一か月。ゴールデンウィーク中に、区民センターを借りて練習する日だった。
まだ数度しか降りたことのない駅でばったり会った俺と目が合うなり、早紀は、「ごきげんよう」と声をかけてきたのだ。
俺はというと――聞き慣れない挨拶に、思わず、凍り付いてしまった。
返事よりも、お嬢様学校での挨拶が「ごきげんよう」だという噂は本当だったのか、と思う方が先だったのだ。
とっさに返事できずにいる俺に、早紀は「あっ」と口を押さえた。
みるみる赤くなる顔が面白かった。慌てて「ごめん」と謝る早紀に、「いや別にいいけど」と笑った。
「誰にも言わないでね」
真っ赤な顔でお願いされて、かわいいなと思った。けど、それは妹に対する感覚に近くて、こういう子が好きな男子は多いよな、と他人事みたいな感想の方が強かった。
二か月、三か月と経って、早紀が俺の目を見て話してくれるようになったことにも、臆病なうさぎを手なずけた喜びに近かった。そんな自分の気持ちが、いずれ恋愛感情に発展するなんて、正直全く思っていなかった。
***
二泊して、徳島を後にした。
もう一泊していくという母を置いて出たから、ばあちゃんたちからは「もう少しゆっくりすればいいのに」と言われたけれど、仕事があるからということにした。
実際には、気疲れするからだ――姪が産まれた今年は、なおさら。
母の気遣わしげな顔も、ばあちゃんのひ孫かわいがりも、自覚していた以上に俺の精神力を削っていたらしい。ばあちゃんと会えたことは嬉しかったけれど、家を出てひとりになったとたん吐息が漏れた。
タクシー、電車、飛行機と乗り継いで都内へ戻る。野外に出る時間は短かったけれど、夏の日差しは目に入るだけで俺を灼くように思えた。
見慣れた駅について、改札をくぐる。セミの声が聞こえた。徳島とは比較にならないほど控えめで、どこにいるかも分からない。
けれどそれも、自宅マンションのエントランスをくぐると、ほとんど聞こえなくなった。
玄関の前に立ち、ドアノブに手をかけて、一度息をつく。
夏にひとり、こうして玄関を開けるとき、俺は少し緊張する――五年前のあの日から。
気合いを入れてドアを開けると、目の前に人影があって怯んだ。
「おかえり」
早紀――
いないと思っていたから、一瞬声が出なかった。
表情をとりつくろって、「ただいま」と答えてから、ドアを後ろ手に閉める。
「今日、仕事だったんじゃないの?」
「うん。早く終わったから、帰ってきた」
早紀が微笑む。
そっか、と俺が答えて、うん、と早紀がうなずく。
ひと呼吸、間が空いた。
早紀は微笑んだまま顔を上げる。
「お茶、いる?」
「うん。ありがと」
台所へ向かう早紀の背を見ながら、玄関先にボストンバッグを下ろして靴を脱いだ。
バッグに押し込んだばあちゃん自家製漬物は、ストラップが食い込むほど重かったから、これでようやく身軽になれた。ぐるりと肩を回して、洗面所へ向かう。
早紀の声が、幸弘くん、と呼んだ。
「外、暑かった?」
「うん」
「そっか。じゃあ、冷たい飲み物がいいね」
顔と手を洗って台所へ向かうと、早紀が冷蔵庫から麦茶を取り出していた。
「おばあさまは、お元気だった?」
「うん、元気だったよ。大叔母さんとも会えた」
「そう。なら、よかったね」
淡々とやりとりを交わす。
早紀の声も表情も、いつもと変わらず穏やかだ。
口元に微笑みを浮かべたまま、並べたコップに麦茶を注いでいく。
その指が、ひどく白く見えた。
半ば衝動的に、後ろから抱きすくめる。
驚いたのか、早紀は俺の腕の中で身体を強ばらせた。
「……なに?」
「……うん」
早紀がとっさに隠そうとした手を、自分の手の中に包み込む。
俺よりも低い体温。
麦茶のボトルを持っていた指先は、少し濡れている。
「手、……震えてた気がして」
「……」
早紀は答えずに、視線をまた、手元へ戻した。
うっすらと口元に微笑みを浮かべたまま、うん、と顎を引く。
「しかたないよ。薬、飲んでるし……」
密着している二人の間を、沈黙が漂っていく。
数秒の後、早紀は控えめに目を上げた。
「幸弘くん、明日……」
「……うん、早く帰る」
俺は早紀の顔を見ないまま、その頬に頬を寄せた。
目を閉じると、頬にはやっぱり俺よりも低い早紀の体温を感じる。
早紀がほっとしたように吐息をついた。
それがまるで、自分の嘆息のように感じる。
動かずにいる俺の腕の中で、早紀もじっと、動かずにいた。
他大学と合同の、いわゆるインカレの合唱サークル。
入部した俺は、近くの女子大に通う友人に声をかけ、彼女たちが連れてきたのが、早紀だったのだ。
一見して染めたことのなさそうな黒髪と、白い肌。顔立ちも態度も、他の女子より控えめで。
だからこそ逆に、周囲の目を引く特有の雰囲気があった。
深窓の令嬢。箱入り娘。
そんな言葉がぴったりで、男と話すのは極度に苦手なようだった。
中学からずっと女子校に通っていると聞いたときには納得したくらいだ。
男子と会話するときは、早紀の緊張が伝染るのか、みんな緊張していた。そんな中でも俺は、区別も遠慮せず話しかけた。
元々、誰とでもすぐ打ち解けるたちだ。そのうち早紀も慣れるだろうとたかをくくっていた。
実際、最初は戸惑っている様子だった早紀も、比較的早く俺に慣れた。共通の友達がいたことも大きいのだろうけど。
初めて向こうから挨拶してくれたときのことは、未だに思い出すと笑ってしまう。
入学して一か月。ゴールデンウィーク中に、区民センターを借りて練習する日だった。
まだ数度しか降りたことのない駅でばったり会った俺と目が合うなり、早紀は、「ごきげんよう」と声をかけてきたのだ。
俺はというと――聞き慣れない挨拶に、思わず、凍り付いてしまった。
返事よりも、お嬢様学校での挨拶が「ごきげんよう」だという噂は本当だったのか、と思う方が先だったのだ。
とっさに返事できずにいる俺に、早紀は「あっ」と口を押さえた。
みるみる赤くなる顔が面白かった。慌てて「ごめん」と謝る早紀に、「いや別にいいけど」と笑った。
「誰にも言わないでね」
真っ赤な顔でお願いされて、かわいいなと思った。けど、それは妹に対する感覚に近くて、こういう子が好きな男子は多いよな、と他人事みたいな感想の方が強かった。
二か月、三か月と経って、早紀が俺の目を見て話してくれるようになったことにも、臆病なうさぎを手なずけた喜びに近かった。そんな自分の気持ちが、いずれ恋愛感情に発展するなんて、正直全く思っていなかった。
***
二泊して、徳島を後にした。
もう一泊していくという母を置いて出たから、ばあちゃんたちからは「もう少しゆっくりすればいいのに」と言われたけれど、仕事があるからということにした。
実際には、気疲れするからだ――姪が産まれた今年は、なおさら。
母の気遣わしげな顔も、ばあちゃんのひ孫かわいがりも、自覚していた以上に俺の精神力を削っていたらしい。ばあちゃんと会えたことは嬉しかったけれど、家を出てひとりになったとたん吐息が漏れた。
タクシー、電車、飛行機と乗り継いで都内へ戻る。野外に出る時間は短かったけれど、夏の日差しは目に入るだけで俺を灼くように思えた。
見慣れた駅について、改札をくぐる。セミの声が聞こえた。徳島とは比較にならないほど控えめで、どこにいるかも分からない。
けれどそれも、自宅マンションのエントランスをくぐると、ほとんど聞こえなくなった。
玄関の前に立ち、ドアノブに手をかけて、一度息をつく。
夏にひとり、こうして玄関を開けるとき、俺は少し緊張する――五年前のあの日から。
気合いを入れてドアを開けると、目の前に人影があって怯んだ。
「おかえり」
早紀――
いないと思っていたから、一瞬声が出なかった。
表情をとりつくろって、「ただいま」と答えてから、ドアを後ろ手に閉める。
「今日、仕事だったんじゃないの?」
「うん。早く終わったから、帰ってきた」
早紀が微笑む。
そっか、と俺が答えて、うん、と早紀がうなずく。
ひと呼吸、間が空いた。
早紀は微笑んだまま顔を上げる。
「お茶、いる?」
「うん。ありがと」
台所へ向かう早紀の背を見ながら、玄関先にボストンバッグを下ろして靴を脱いだ。
バッグに押し込んだばあちゃん自家製漬物は、ストラップが食い込むほど重かったから、これでようやく身軽になれた。ぐるりと肩を回して、洗面所へ向かう。
早紀の声が、幸弘くん、と呼んだ。
「外、暑かった?」
「うん」
「そっか。じゃあ、冷たい飲み物がいいね」
顔と手を洗って台所へ向かうと、早紀が冷蔵庫から麦茶を取り出していた。
「おばあさまは、お元気だった?」
「うん、元気だったよ。大叔母さんとも会えた」
「そう。なら、よかったね」
淡々とやりとりを交わす。
早紀の声も表情も、いつもと変わらず穏やかだ。
口元に微笑みを浮かべたまま、並べたコップに麦茶を注いでいく。
その指が、ひどく白く見えた。
半ば衝動的に、後ろから抱きすくめる。
驚いたのか、早紀は俺の腕の中で身体を強ばらせた。
「……なに?」
「……うん」
早紀がとっさに隠そうとした手を、自分の手の中に包み込む。
俺よりも低い体温。
麦茶のボトルを持っていた指先は、少し濡れている。
「手、……震えてた気がして」
「……」
早紀は答えずに、視線をまた、手元へ戻した。
うっすらと口元に微笑みを浮かべたまま、うん、と顎を引く。
「しかたないよ。薬、飲んでるし……」
密着している二人の間を、沈黙が漂っていく。
数秒の後、早紀は控えめに目を上げた。
「幸弘くん、明日……」
「……うん、早く帰る」
俺は早紀の顔を見ないまま、その頬に頬を寄せた。
目を閉じると、頬にはやっぱり俺よりも低い早紀の体温を感じる。
早紀がほっとしたように吐息をついた。
それがまるで、自分の嘆息のように感じる。
動かずにいる俺の腕の中で、早紀もじっと、動かずにいた。
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