うさぎはかめの夢を見る

松丹子

文字の大きさ
7 / 39
.1章 うさぎはかめを振り返る

..07 告白

しおりを挟む
 旅行の計画が半端な形で流れてから、俺たちはそれまでになく淡々とした毎日を過ごしていた。
 当初は気まずい空気になったけれど、決定的に関係が冷え切るほどではないまま、旅行の話はタブーになって、どちらも口にしなくなった。
 学校の夏休みが始まって、少しした頃、早紀は朝から体調が悪いと言って、珍しく仕事を休んだ。
 俺は出勤したものの気がかりで、どうにか定時で帰宅した。
 けれど、外が薄暗くなり始めているのに、家には明かりが点いていない。
 体調が落ち着いて出かけたのか、とも思ったけれど、玄関先には脱いだ形のままの早紀の靴があって、首を傾げた。

「……早紀? どうした?」

 ぱちん、とリビングの電気を点けてから、一瞬、怯んだ。
 早紀は、リビングのソファに座っていた。
 手を膝の間に挟んで、じっと机の上を見つめて。
 その横顔は、蝋人形のように生気を失っていた。

「……早紀?」

 おそるおそる、早紀に近づいた。机の上には授業で使うのか、教本の類いが広がっている。
 けれど早紀の目はそれを見ていなかった。もっと遠くを見ていた。早紀は俺の声に、一度びくりと震えると、ゆっくり、息を吐き出して、ゆっくり、目を上げた。
 その顔は、涙で濡れていた。

「……ごめんね、幸弘くん」

 絞り出すような早紀の第一声は、それだった。
 何のことか分からず、俺はますますうろたえた。帰路に感じていたべたつくシャツの不快感も、家に着いたら洗い流そうと思っていた額の汗も、すっかり意識の外に追いやられた。
 身動きが取れずにいる俺に、早紀は膝の内側から、何かを取り出した。
 両手にしっかり握りしめたそれは、手帳のようだった。
 文庫サイズの、柔らかそうなカバーがついた、けれど、本というよりは薄い、冊子のような……

「……心臓、止まってるって……」

 動揺のあまり、呼吸を忘れた。血の気を失っている早紀の顔を、俺は唖然として見つめた。
 震える彼女の手が、歪めそうなほど力を込めて握りしめているその手帳が、いったい何のためのものなのか――理解していながら、理解しきれなかった。理解を拒む何かが、俺の中に膨れ上がって思考を遮断していた。

「……早紀……」
「ごめん……」
「早紀……」
「ごめんね……」

 謝罪の言葉しか口にしない早紀を、俺は何も言わず抱きしめた。ごとん、と、俺のビジネスバッグが落ちる音がした。
 身体が、震えていた。早紀も、震えていた。俺の胸に、早紀は手帳を持った手を、額を、押しつけた。

「また、駄目だった……ごめんね、赤ちゃん……ごめんね……」

 また。
 ――また?
 ぐらぐら、視界が揺れて、一瞬、白くなるのを感じた。泣きじゃくっている早紀の背中に手を回したまま、俺は早紀が握りしめた手帳を直視する勇気を持てずにいた。
 また。
 早紀が口にした言葉が、頭の中をぐるぐる回っていた。
 その言葉が意味することを、俺は受け止めきれなくて。
 また。
 いったい、いつ?
 いつの間に、そんなことが? なぜ?
 ――なぜ、早紀は、それを、俺に、話してくれなかった?
 呼吸の仕方を忘れたように、喉に何かがつかえていた。
 額ににじんでいた汗が、つつ、とこめかみを伝い落ちる。
 暑くてかいたはずの汗なのに、それはひどく冷たく、首筋を撫でていった。
 早紀はうなるような声をあげて泣き始めた。泣いて、泣いて、聞いたこともないくらい低い、動物的な嗚咽をあげ続けた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

ソツのない彼氏とスキのない彼女

吉野 那生
恋愛
特別目立つ訳ではない。 どちらかといえば地味だし、バリキャリという風でもない。 だけど…何故か気になってしまう。 気がつくと、彼女の姿を目で追っている。 *** 社内でも知らない者はいないという程、有名な彼。 爽やかな見た目、人懐っこく相手の懐にスルリと入り込む手腕。 そして、華やかな噂。 あまり得意なタイプではない。 どちらかといえば敬遠するタイプなのに…。

シンデレラは王子様と離婚することになりました。

及川 桜
恋愛
シンデレラは王子様と結婚して幸せになり・・・ なりませんでした!! 【現代版 シンデレラストーリー】 貧乏OLは、ひょんなことから会社の社長と出会い結婚することになりました。 はたから見れば、王子様に見初められたシンデレラストーリー。 しかしながら、その実態は? 離婚前提の結婚生活。 果たして、シンデレラは無事に王子様と離婚できるのでしょうか。

【完結】指先が触れる距離

山田森湖
恋愛
オフィスの隣の席に座る彼女、田中美咲。 必要最低限の会話しか交わさない同僚――そのはずなのに、いつしか彼女の小さな仕草や変化に心を奪われていく。 「おはようございます」の一言、資料を受け渡すときの指先の触れ合い、ふと香るシャンプーの匂い……。 手を伸ばせば届く距離なのに、簡単には踏み込めない関係。 近いようで遠い「隣の席」から始まる、ささやかで切ないオフィスラブストーリー。

課長と私のほのぼの婚

藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。 舘林陽一35歳。 仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。 ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。 ※他サイトにも投稿。 ※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

処理中です...