うさぎはかめの夢を見る

松丹子

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.2章 かめは甲羅に閉じこもる

..13 義両親

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 ――幸弘くん、少しお話できない?

 早紀の母からそう連絡があったのは、夏の終わりのことだった。
 早紀には内緒で来て欲しい。その要望どおり、俺は週末、部活に出かける早紀を見送ってから家を出た。
 暦は九月になっていた。徳島に帰省した頃には刺さるようだった日差しはもう鋭さを失っている。肌にまとわりついた湿度も、すっかりなりを潜めていた。
 都内の北方にある俺たちの家から、埼玉の早紀の実家のある駅までは、電車で一時間とかからない。
 けれど、それは最寄り駅まで、という意味だ。駅から早紀の実家へは丘を登ることになるので、車がないと不便だ。
 バスもあるにはあるが、本数が限られる。学校に行くにも塾に行くにも、毎日親が車で駅まで送迎してくれていたと聞けば、実家通いだった早紀が、大学時代にバイトをしなかった理由もうなずける。
 その日も、義両親はわざわざ駅まで迎えに来てくれた。

「悪いね、せっかくの休日にわざわざ」

 そう俺を気遣う、困ったような笑顔は、早紀のそれとよく似ている。義父の隣に座った義母もそうだ。控えめな態度も視線も、早紀の両親と紹介されずとも分かる――初めて会ったとき思ったことを、今でも会うたび思う。

「いえ、大丈夫です。こちらこそ、わざわざ車出してくださってありがとうございます」

 できるだけ快活に、かつ穏やかに返した。助手席と運転席に座った義両親は顔を見合わせてからまた微笑む。

「それじゃあ、悪いけど我が家に……」
「はい、お願いします」

 義父がうなずいて、車が走り出した。駅前の広い通りを直進すると、すぐに道が開けてくる。
 俺の実家も、そう都会というわけではないけれど、建物が密集しているからこちらほどの開放感はない。そんな話をしたとき、その代わりに海があるからいいなと、早紀が羨んでいたのを覚えている。
 わずかに開いた窓から入り込む風を吸った拍子に、そのときの早紀の表情を思い出した。まるで遠くに海を見ているようにまぶしげなその笑顔と、うらやましそうな声のトーン。ツンと鼻の奥が痛む。
 どうしてそんな風に、沁みるような感覚を抱くのか、自分でもよく分からない。分からないけど、今の俺にあのときの早紀の思い出が痛いのは確かだ。
 早紀の実家に着くと、義母がスリッパを勧めてくれた。一階の半ばが駐車場になった、三階建ての家。リビングは二階部分にある。

「どうぞ、二階へ。今、お茶淹れるから……コーヒーでいいかしら?」
「はい、……お構いなく」

 答えながら、しまったなと思った。義実家に来るのに手土産も何も持参していない。とにかく、早紀に言わずに来ることだけを考えていた。
 こういうところが抜けてる、と友達に呆れられるのだ――高校時代からの同級生でもあるザッキーの妻の香子は、俺のことをよく分かっているししっかりしてるから、友達の家を訪ねるときお茶菓子を持って来て、「私たちからです」なんてしれっと渡したりしてくれた。もちろん後から代金は払ったけど、俺はその度に「サンキュー」なんて軽く感謝して、香子は「別にいつものことだし」と笑ってた。
 けれど、ここに香子はいない。「ま、こばやんらしいよね」と呆れてくれるザッキーもいない。一緒に「失敗したね」と舌を出してくれる早紀もいない。
 いまだに成熟しきれていない自分に自分で呆れながら、軽く頭を下げた。

「すみません、来ることばかり考えていて手土産もなく……」
「あら、いいのよ、そんなの。わざわざ来てくれただけで」
「そうだよ。母さんはこちらから出向くつもりだったからね」

 義父母が困ったように笑う。本当に困っているのか、笑ったらそういう顔になるだけなのか。早紀のことも分からないけれど、その両親のことになると一層分からない。
 とはいえ、変に勘ぐるのも失礼だ。下げていた頭を上げて微笑み返した。
 コーヒーを差し出され、チーズ味のラスクを勧められた。駅前にあるパン屋で売っているもので、以前、俺が気に入ったのを覚えていてくれたんだろう。
 好意をありがたく受け止めて、お礼を言ってひとつ、手にする。

「元気そうでよかった」
「ご無沙汰してしまって、すみません」

 型どおりの挨拶から、今年は残暑がそう厳しくなかったこと、もう秋めいてきたことなど、とりとめもなく会話が転がっていく。
 義父の話題に応じながら、今回呼ばれたのはこんな世間話のためじゃないだろう、次の話題こそ本題か、と腹をくくっては拍子抜けし、またくくり直しては困惑することを数度繰り返した。
 ふっと沈黙がおとずれて、それぞれがコーヒーをすする音だけになった。心の準備が必要だったのは、俺だけじゃなく義両親もだったのだろう。
 何か言おうと息を吸いかけては、またコーヒーカップに唇をつける――そんな気配を感じながら、黙って「そのとき」を待った。
 「早紀は」という義母の小さな声に、俺は目を上げた。

「……どう考えてるのかしら」

 悩みに悩んで選んだ結果、言葉足らずになったような口ぶりだった。

「……どう、とは」

 夫婦のことか。それとも、結婚したこと?
 ――もしかして、離婚すべきとか?
 予感が胸をよぎって、自分の覚悟が中途半端だったことに気づいた。話をしたいと言われたとき、俺は不妊治療のことだと思ったけれど、もしかしたら義両親はそれ以上のことを話すつもりなのかもしれない。早紀の流産に気づかなかったように、俺がまた何か、早紀の大事な変化に気づかなかった可能性もある――瞬時に血の気が引いた俺に、義母は早口に言葉を継ぎ足した。

「不妊治療のことなの。夫婦で話し合っているのか、気になって……この前電話したら、体外受精? とか、卵子の……冷凍? とか、言っていたから……」

 子どもが欲しいっていうだけなのに、ずいぶん大変な話になるのね、と早紀の母は早紀によく似た控えめな言い方で口に手を添えた。義父が横から口を出す。

「そんな話は、私たちの時代にはあんまり聞かなかったことだから……早紀の気持ちは、分かっているんだけれど。幸弘くんがどう思っているのか、あまり聞いたことがなかったなと思ってね。早紀がひとりで突っ走っているんじゃないかと、気になったんだよ。その……私も直接、話を聞いたわけではないけど、今でも……そういう日にタイミングを合わせて、するんだろう? そういうのは……苦痛、ではないのかなとか」

 言葉をぼかしながら、夫婦の営みのことを指摘される。苦痛ではないか、と正面切って聞かれれば、苦痛ではない、とは言えない。
 けれど、早紀はもっと苦しんでいるはずだ。俺よりもっと。だから、俺が苦痛だなんて言ってはいけない、そんな気がする。そう思ってきた。そう思っている。今でも。

「……早紀も、がんばってるので。俺も、できるだけ協力したいと……」

 協力?
 口から滑り出た言葉にぎくりとして身をすくめた。
 脳裏に、高校時代の香子の言葉がよみがえっていた。

 ――育児に協力的な男性、って言うけどさ、あれって私、嫌いなんだよね。だって子どもって女ひとりでできるもんじゃないでしょ。男の人がいないとできないでしょ。産むのは女だけどさ、育てるのは当然、二人だよね。協力って言うと、あ、主体は女なのね、ってなるじゃん。そういう、協力的ですね、って言われて喜ぶような男、嫌だな、私。――

 何の話をしてたときだったか、香子は何のためらいもなくそう言い放った。辛辣なその言葉を聞いて、他の男子はみんなドン引きしていたのを覚えている。正論だ。確かに正論なのだけど、そこまではっきり口にする女をこそ、多くの男が嫌煙するに違いない。あえてそんなこと、言わなくてもいいのに、香子のやつ馬鹿正直だよな。そんな風に呆れて、でも香子らしいなと思って、じゃあ自分はどうなんだろう、できればそんな男にはなりたくないなと、そう思った。
 その記憶が、自分の言葉で急によみがえったのだ。
 それは育児の話だったけれど、妊娠、について、男は主体になれるんだろうか。なるべきなんだろうか。今、俺が言いかけた言葉は、早紀を怒らせるだろうか。傷つけるだろうか。香子は? ザッキーが俺の立場だったら、そんな言葉を言うだろうか。
 突然、頭の中が情報であふれかえって、身動きが取れなくなった。黙った俺を気遣うように、義父が口を開く。

「もちろん、それもこれも、夫婦の問題だからね。私たちがどう言う権利もないんだけれど……どうも、早紀はこうと決めたら頑固というか、思い込みが激しいというか。自分も幸弘くんも、子どもが欲しいんだから、後悔したくない、ってそればかり言っていてね。私にはどうも……幸弘くんが本当にそう思っているのか……つまり、そこまでして子どもが欲しいのか、正直よく、分からないんだよ。いや、父親になっておいて私が言うのもなんだけど、男はあんまり、そういうことに当事者意識を持ちにくいものだと思うんだ。私なんて、今思えば情けないことだけど、出産もなんだか怖くて立ち会えなくて、産まれてから会いに行って、そしたら早紀が産まれてて、育てているうちにようやく親の実感が湧いてきたくらいで……」

 義父の言葉に、義母が笑う。その笑いが珍しく、母親らしい強さを感じさせた。
 早紀もああなるんだろうか、もしも母になったら。
 ――そんな将来が来るのかどうか、俺には分からないけれど。

 とにかく、夫婦でよく話し合うようにね。もし、何か手伝えることがあるならいつでも連絡をして。
 去り際、義父母はそう念を押して、俺をまた駅まで送ってくれた。
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