23 / 39
.3章 うさぎはかめに手を伸ばす
..23 早紀の気持ち
しおりを挟む
その後、香子はあえて、その話題を避けてくれたようだった。
茶菓子を食べながら軽く他の話をして、俺の気持ちが緩んだところで、「散歩がてら迎えに行こっか」と立ち上がる。
ああ、とうなずいて立ったときには、来るときの重い気分は嘘みたいに軽くなっていた。
外に出ると青空がすっと視界に入ってくる。
これに気づかなかっただなんて、俺は相当、視野が狭くなっていたらしい。
二人で並んで歩きながら、香子は笑った。
「なんか、懐かしいね、この感じ。高校時代はよく一緒にぶらぶらしたよね」
「そうだなぁ。学校帰り、サリーとアイス買い食いしたりして」
「あーそうそう。夏はいいんだけど、冬がキツかったよね。サリーってば、期間限定のやつ、見つけたら全種類すかさず買ってたから」
「今でもそうなのかな」
「どうだろね。サリーのことだからあり得るけど」
二人で笑って、どちらからともなく空を見上げる。
道の端に並んでいるイチョウが、太陽の光を浴びて、キラキラ光って見えた。
「……早紀って、自分の気持ちを言葉にするの、下手だけどさ」
香子の静かな声。友人の顔を横目で見ながら、言葉の続きを待った。
「ここぞってときには、頑固だよね。ほんとに……はっきりしてる」
意味深なことを言うと、香子はふふっ、と楽しげに笑った。
次いでいたずらっぽく人差し指を立てる。
「ひとつだけ、教えてあげるよ」
「なんだよ」
「早紀ね、あんたと結婚する前、私に聞いてきたの。幸弘のことが好きなのかって」
ぎくりと、足が止まりかけた。香子はそれでも、平気な顔で歩いている。
俺たちが結婚する前――香子とザッキーが、つき合い始める前。
十年前、俺が気づいていなかったこと。早紀が知っていたこと――知っていて、俺に黙っていたこと。
「……なんて答えたの」
聞きながら、内心ドキドキしていた。
俺が知らないところで、二人の間にどんなやりとりがあったのか、知りたいような知りたくないような、妙な気まずさがあって。
香子はうんとうなずいて、
「それ聞いて、何か変わるの? って聞いた」
あまりに平然と言ったものだから、思わず唖然としてしまった。それって、早紀の質問への答えになっているようで、なっていなくて、それでも、一番大事なことだ。そう――大事なこと。
ずぐりと、胸の中に何かが入り込んできた。早紀がそれに、どう答えたのか。聞いていいものかと、不安が膨れ上がる。
そんな俺を差し置いて、香子はあっさり続けた。
「早紀、はっきり言ってたよ。変わらないって。私は幸弘くんといたいんだ、って。全然、迷わずそう言った」
楽しげに笑った香子の顔が遠ざかって、歪んだ。違う、自分が立ち止まっただけだ。そう気づいてうつむく。目の前が歪んで、あれっと思った。俺、泣きそうになってる? やべ、こんなとこで、香子の前で泣くなんて――
俺の足元に、靴が近づいてきた。香子のスニーカー。俺と友達ぶんの距離を開けて立ち止まった靴から、ゆっくり目を上げていく。
高校来の友人の顔には、呆れたような、でも慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。
「幸弘ってさ、要領がいいようで、ときどき抜けてるよね」
あ、こいつ、ほんとに俺のこと好きだったんだな。
その顔を見て、初めてほんとに、そう思った。
思えば、香子は呆れたような顔をしながらも、いつも、優しい目で俺を見ていたのだ。
馬鹿なことしてるときも、失敗したときも、上手くいかずに苛立ってるときも、そういえばこいつは、いつも俺の傍に来て、さっきみたいに肩を叩いて、「ドンマイ」って励ましてくれていた。
厳しく指摘してくるイメージが強かったから、母親や姉みたいに感じていたけれど――もしかしたら、それも香子なりの照れ隠しだったのかもしれない。
愛情表現。そうか、香子なりの愛情表現だったのか――その事実に、十五年越しで気づくことになるだなんて。
「ちゃんと伝えなよ」
香子の言葉は、すっと耳に入ってきた。
人のアドバイスにはあまのじゃくになりがちな俺の心に、自然と、溶けるように。
「伝わるまで、伝えなよ。早紀に。あんたの言葉で。何度でも。どれだけ、時間がかかっても」
何度でも。
どれだけ、時間がかかっても。
ザッキーは、伝えたんだろうか。香子に。伝わるまで。彼の想いを。伝えて、伝えたから、今があるんだろうか。二人はこうして、夫婦になったんだろうか。
俺は今まで、どれだけ早紀に伝えただろうか。夫婦になるために。家族になるために。どれだけ早紀に、伝えようと努力しただろうか。
公園の前まで来ると、縄飛びから走り出た少女が両手を振った。
「おかーさーん!」
すかさず母親の顔になった香子が、微笑んで手を振り返す。
縄を手にしていたザッキーが、驚いたような顔で俺と香子を見比べた。
「あれー? 早かったね」
「うん」
こちらに手を挙げるザッキーの声が弾んでいる。香子も優しくそれに応えて、もう一度俺の方を向いた。
「ねぇ、幸弘。私は――ううん、私たちは、さ」
公園に入った香子に、ふたりの子どもが駆け寄ってくる。
小さな身体を受け止めると、香子はもう一度顔を上げた。
「友達として、ふたりの幸せを祈ってるよ。あんたたちが二人で過ごすようになってから今までずっと。……心から」
うなずくこともできずにいるうち、香子の後ろに影が近づいてきた。香子が見上げ、ザッキーが微笑む。四人。信頼し合う家族。ああ、いいな、と素直に思う。
もしも今、俺たちに子どもができたとしても、こんな家族にはなれないだろう。
「うん……サンキュ」
小さく呟くと、大人の会話に飽きた子どもが香子の手を引く。
「お母さん、鉄棒しよー!」
「えっ、鉄棒!? で、できるかな……!?」
「俺、逆上がりできるようになったよ!」
「がんばれー、香子ちゃん」
ザッキーが笑って三人を見送り、俺の横に立った。
そして、はぁっとため息をつく。
「……なに?」
「いや……ほっとした」
脱力した肩をたたくと、アーモンド型の目が照れくさそうに細められた。
「香子ちゃんが、ちゃんと俺のとこに戻って来てくれたから……」
「なんだよそれ」
俺は思わず噴き出した。
「妻のこと疑ってんの?」
「いや、そんな風に思いたくはないんだけえど。でも、だって……香子ちゃんて、キレイだし仕事できるし家事できるし……」
「もういい。もういいから」
どこまでもノロケが始まりそうな気配に、慌てて脇腹を突いた。ザッキーは語り足りないと言いたげ顔をしたけど、逃げるように子どもたちの方へ走り出す。
「俺も久々に鉄棒やってみよっと」
「こばやーん! 前回り手伝ってー!」
「おー、いいぞー」
「そ、それはお父さんがやる……!」
神崎家と、公園でわいわいいいながら遊んだ。青空の下、無心で笑う。忘れかけていたこういう時間が、とても大切で愛おしくて、嬉しくて、苦しくて、痛いくらいに思った。
――どうして、ここに早紀がいないんだろう。
笑い合いたい。早紀と。青空の下で。手を繋いで。
茶菓子を食べながら軽く他の話をして、俺の気持ちが緩んだところで、「散歩がてら迎えに行こっか」と立ち上がる。
ああ、とうなずいて立ったときには、来るときの重い気分は嘘みたいに軽くなっていた。
外に出ると青空がすっと視界に入ってくる。
これに気づかなかっただなんて、俺は相当、視野が狭くなっていたらしい。
二人で並んで歩きながら、香子は笑った。
「なんか、懐かしいね、この感じ。高校時代はよく一緒にぶらぶらしたよね」
「そうだなぁ。学校帰り、サリーとアイス買い食いしたりして」
「あーそうそう。夏はいいんだけど、冬がキツかったよね。サリーってば、期間限定のやつ、見つけたら全種類すかさず買ってたから」
「今でもそうなのかな」
「どうだろね。サリーのことだからあり得るけど」
二人で笑って、どちらからともなく空を見上げる。
道の端に並んでいるイチョウが、太陽の光を浴びて、キラキラ光って見えた。
「……早紀って、自分の気持ちを言葉にするの、下手だけどさ」
香子の静かな声。友人の顔を横目で見ながら、言葉の続きを待った。
「ここぞってときには、頑固だよね。ほんとに……はっきりしてる」
意味深なことを言うと、香子はふふっ、と楽しげに笑った。
次いでいたずらっぽく人差し指を立てる。
「ひとつだけ、教えてあげるよ」
「なんだよ」
「早紀ね、あんたと結婚する前、私に聞いてきたの。幸弘のことが好きなのかって」
ぎくりと、足が止まりかけた。香子はそれでも、平気な顔で歩いている。
俺たちが結婚する前――香子とザッキーが、つき合い始める前。
十年前、俺が気づいていなかったこと。早紀が知っていたこと――知っていて、俺に黙っていたこと。
「……なんて答えたの」
聞きながら、内心ドキドキしていた。
俺が知らないところで、二人の間にどんなやりとりがあったのか、知りたいような知りたくないような、妙な気まずさがあって。
香子はうんとうなずいて、
「それ聞いて、何か変わるの? って聞いた」
あまりに平然と言ったものだから、思わず唖然としてしまった。それって、早紀の質問への答えになっているようで、なっていなくて、それでも、一番大事なことだ。そう――大事なこと。
ずぐりと、胸の中に何かが入り込んできた。早紀がそれに、どう答えたのか。聞いていいものかと、不安が膨れ上がる。
そんな俺を差し置いて、香子はあっさり続けた。
「早紀、はっきり言ってたよ。変わらないって。私は幸弘くんといたいんだ、って。全然、迷わずそう言った」
楽しげに笑った香子の顔が遠ざかって、歪んだ。違う、自分が立ち止まっただけだ。そう気づいてうつむく。目の前が歪んで、あれっと思った。俺、泣きそうになってる? やべ、こんなとこで、香子の前で泣くなんて――
俺の足元に、靴が近づいてきた。香子のスニーカー。俺と友達ぶんの距離を開けて立ち止まった靴から、ゆっくり目を上げていく。
高校来の友人の顔には、呆れたような、でも慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。
「幸弘ってさ、要領がいいようで、ときどき抜けてるよね」
あ、こいつ、ほんとに俺のこと好きだったんだな。
その顔を見て、初めてほんとに、そう思った。
思えば、香子は呆れたような顔をしながらも、いつも、優しい目で俺を見ていたのだ。
馬鹿なことしてるときも、失敗したときも、上手くいかずに苛立ってるときも、そういえばこいつは、いつも俺の傍に来て、さっきみたいに肩を叩いて、「ドンマイ」って励ましてくれていた。
厳しく指摘してくるイメージが強かったから、母親や姉みたいに感じていたけれど――もしかしたら、それも香子なりの照れ隠しだったのかもしれない。
愛情表現。そうか、香子なりの愛情表現だったのか――その事実に、十五年越しで気づくことになるだなんて。
「ちゃんと伝えなよ」
香子の言葉は、すっと耳に入ってきた。
人のアドバイスにはあまのじゃくになりがちな俺の心に、自然と、溶けるように。
「伝わるまで、伝えなよ。早紀に。あんたの言葉で。何度でも。どれだけ、時間がかかっても」
何度でも。
どれだけ、時間がかかっても。
ザッキーは、伝えたんだろうか。香子に。伝わるまで。彼の想いを。伝えて、伝えたから、今があるんだろうか。二人はこうして、夫婦になったんだろうか。
俺は今まで、どれだけ早紀に伝えただろうか。夫婦になるために。家族になるために。どれだけ早紀に、伝えようと努力しただろうか。
公園の前まで来ると、縄飛びから走り出た少女が両手を振った。
「おかーさーん!」
すかさず母親の顔になった香子が、微笑んで手を振り返す。
縄を手にしていたザッキーが、驚いたような顔で俺と香子を見比べた。
「あれー? 早かったね」
「うん」
こちらに手を挙げるザッキーの声が弾んでいる。香子も優しくそれに応えて、もう一度俺の方を向いた。
「ねぇ、幸弘。私は――ううん、私たちは、さ」
公園に入った香子に、ふたりの子どもが駆け寄ってくる。
小さな身体を受け止めると、香子はもう一度顔を上げた。
「友達として、ふたりの幸せを祈ってるよ。あんたたちが二人で過ごすようになってから今までずっと。……心から」
うなずくこともできずにいるうち、香子の後ろに影が近づいてきた。香子が見上げ、ザッキーが微笑む。四人。信頼し合う家族。ああ、いいな、と素直に思う。
もしも今、俺たちに子どもができたとしても、こんな家族にはなれないだろう。
「うん……サンキュ」
小さく呟くと、大人の会話に飽きた子どもが香子の手を引く。
「お母さん、鉄棒しよー!」
「えっ、鉄棒!? で、できるかな……!?」
「俺、逆上がりできるようになったよ!」
「がんばれー、香子ちゃん」
ザッキーが笑って三人を見送り、俺の横に立った。
そして、はぁっとため息をつく。
「……なに?」
「いや……ほっとした」
脱力した肩をたたくと、アーモンド型の目が照れくさそうに細められた。
「香子ちゃんが、ちゃんと俺のとこに戻って来てくれたから……」
「なんだよそれ」
俺は思わず噴き出した。
「妻のこと疑ってんの?」
「いや、そんな風に思いたくはないんだけえど。でも、だって……香子ちゃんて、キレイだし仕事できるし家事できるし……」
「もういい。もういいから」
どこまでもノロケが始まりそうな気配に、慌てて脇腹を突いた。ザッキーは語り足りないと言いたげ顔をしたけど、逃げるように子どもたちの方へ走り出す。
「俺も久々に鉄棒やってみよっと」
「こばやーん! 前回り手伝ってー!」
「おー、いいぞー」
「そ、それはお父さんがやる……!」
神崎家と、公園でわいわいいいながら遊んだ。青空の下、無心で笑う。忘れかけていたこういう時間が、とても大切で愛おしくて、嬉しくて、苦しくて、痛いくらいに思った。
――どうして、ここに早紀がいないんだろう。
笑い合いたい。早紀と。青空の下で。手を繋いで。
0
あなたにおすすめの小説
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
ソツのない彼氏とスキのない彼女
吉野 那生
恋愛
特別目立つ訳ではない。
どちらかといえば地味だし、バリキャリという風でもない。
だけど…何故か気になってしまう。
気がつくと、彼女の姿を目で追っている。
***
社内でも知らない者はいないという程、有名な彼。
爽やかな見た目、人懐っこく相手の懐にスルリと入り込む手腕。
そして、華やかな噂。
あまり得意なタイプではない。
どちらかといえば敬遠するタイプなのに…。
シンデレラは王子様と離婚することになりました。
及川 桜
恋愛
シンデレラは王子様と結婚して幸せになり・・・
なりませんでした!!
【現代版 シンデレラストーリー】
貧乏OLは、ひょんなことから会社の社長と出会い結婚することになりました。
はたから見れば、王子様に見初められたシンデレラストーリー。
しかしながら、その実態は?
離婚前提の結婚生活。
果たして、シンデレラは無事に王子様と離婚できるのでしょうか。
【完結】指先が触れる距離
山田森湖
恋愛
オフィスの隣の席に座る彼女、田中美咲。
必要最低限の会話しか交わさない同僚――そのはずなのに、いつしか彼女の小さな仕草や変化に心を奪われていく。
「おはようございます」の一言、資料を受け渡すときの指先の触れ合い、ふと香るシャンプーの匂い……。
手を伸ばせば届く距離なのに、簡単には踏み込めない関係。
近いようで遠い「隣の席」から始まる、ささやかで切ないオフィスラブストーリー。
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。
舘林陽一35歳。
仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。
ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。
※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる