うさぎはかめの夢を見る

松丹子

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.3章 うさぎはかめに手を伸ばす

..23 早紀の気持ち

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 その後、香子はあえて、その話題を避けてくれたようだった。
 茶菓子を食べながら軽く他の話をして、俺の気持ちが緩んだところで、「散歩がてら迎えに行こっか」と立ち上がる。
 ああ、とうなずいて立ったときには、来るときの重い気分は嘘みたいに軽くなっていた。
 外に出ると青空がすっと視界に入ってくる。
 これに気づかなかっただなんて、俺は相当、視野が狭くなっていたらしい。
 二人で並んで歩きながら、香子は笑った。

「なんか、懐かしいね、この感じ。高校時代はよく一緒にぶらぶらしたよね」
「そうだなぁ。学校帰り、サリーとアイス買い食いしたりして」
「あーそうそう。夏はいいんだけど、冬がキツかったよね。サリーってば、期間限定のやつ、見つけたら全種類すかさず買ってたから」
「今でもそうなのかな」
「どうだろね。サリーのことだからあり得るけど」

 二人で笑って、どちらからともなく空を見上げる。
 道の端に並んでいるイチョウが、太陽の光を浴びて、キラキラ光って見えた。

「……早紀って、自分の気持ちを言葉にするの、下手だけどさ」

 香子の静かな声。友人の顔を横目で見ながら、言葉の続きを待った。

「ここぞってときには、頑固だよね。ほんとに……はっきりしてる」

 意味深なことを言うと、香子はふふっ、と楽しげに笑った。
 次いでいたずらっぽく人差し指を立てる。

「ひとつだけ、教えてあげるよ」
「なんだよ」
「早紀ね、あんたと結婚する前、私に聞いてきたの。幸弘のことが好きなのかって」

 ぎくりと、足が止まりかけた。香子はそれでも、平気な顔で歩いている。
 俺たちが結婚する前――香子とザッキーが、つき合い始める前。
 十年前、俺が気づいていなかったこと。早紀が知っていたこと――知っていて、俺に黙っていたこと。

「……なんて答えたの」

 聞きながら、内心ドキドキしていた。
 俺が知らないところで、二人の間にどんなやりとりがあったのか、知りたいような知りたくないような、妙な気まずさがあって。
 香子はうんとうなずいて、

「それ聞いて、何か変わるの? って聞いた」

 あまりに平然と言ったものだから、思わず唖然としてしまった。それって、早紀の質問への答えになっているようで、なっていなくて、それでも、一番大事なことだ。そう――大事なこと。
 ずぐりと、胸の中に何かが入り込んできた。早紀がそれに、どう答えたのか。聞いていいものかと、不安が膨れ上がる。
 そんな俺を差し置いて、香子はあっさり続けた。

「早紀、はっきり言ってたよ。変わらないって。私は幸弘くんといたいんだ、って。全然、迷わずそう言った」

 楽しげに笑った香子の顔が遠ざかって、歪んだ。違う、自分が立ち止まっただけだ。そう気づいてうつむく。目の前が歪んで、あれっと思った。俺、泣きそうになってる? やべ、こんなとこで、香子の前で泣くなんて――
 俺の足元に、靴が近づいてきた。香子のスニーカー。俺と友達ぶんの距離を開けて立ち止まった靴から、ゆっくり目を上げていく。
 高校来の友人の顔には、呆れたような、でも慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。

「幸弘ってさ、要領がいいようで、ときどき抜けてるよね」

 あ、こいつ、ほんとに俺のこと好きだったんだな。
 その顔を見て、初めてほんとに、そう思った。
 思えば、香子は呆れたような顔をしながらも、いつも、優しい目で俺を見ていたのだ。
 馬鹿なことしてるときも、失敗したときも、上手くいかずに苛立ってるときも、そういえばこいつは、いつも俺の傍に来て、さっきみたいに肩を叩いて、「ドンマイ」って励ましてくれていた。
 厳しく指摘してくるイメージが強かったから、母親や姉みたいに感じていたけれど――もしかしたら、それも香子なりの照れ隠しだったのかもしれない。
 愛情表現。そうか、香子なりの愛情表現だったのか――その事実に、十五年越しで気づくことになるだなんて。

「ちゃんと伝えなよ」

 香子の言葉は、すっと耳に入ってきた。
 人のアドバイスにはあまのじゃくになりがちな俺の心に、自然と、溶けるように。

「伝わるまで、伝えなよ。早紀に。あんたの言葉で。何度でも。どれだけ、時間がかかっても」

 何度でも。
 どれだけ、時間がかかっても。

 ザッキーは、伝えたんだろうか。香子に。伝わるまで。彼の想いを。伝えて、伝えたから、今があるんだろうか。二人はこうして、夫婦になったんだろうか。
 俺は今まで、どれだけ早紀に伝えただろうか。夫婦になるために。家族になるために。どれだけ早紀に、伝えようと努力しただろうか。
 公園の前まで来ると、縄飛びから走り出た少女が両手を振った。

「おかーさーん!」

 すかさず母親の顔になった香子が、微笑んで手を振り返す。
 縄を手にしていたザッキーが、驚いたような顔で俺と香子を見比べた。

「あれー? 早かったね」
「うん」

 こちらに手を挙げるザッキーの声が弾んでいる。香子も優しくそれに応えて、もう一度俺の方を向いた。

「ねぇ、幸弘。私は――ううん、私たちは、さ」

 公園に入った香子に、ふたりの子どもが駆け寄ってくる。
 小さな身体を受け止めると、香子はもう一度顔を上げた。

「友達として、ふたりの幸せを祈ってるよ。あんたたちが二人で過ごすようになってから今までずっと。……心から」

 うなずくこともできずにいるうち、香子の後ろに影が近づいてきた。香子が見上げ、ザッキーが微笑む。四人。信頼し合う家族。ああ、いいな、と素直に思う。
 もしも今、俺たちに子どもができたとしても、こんな家族にはなれないだろう。

「うん……サンキュ」

 小さく呟くと、大人の会話に飽きた子どもが香子の手を引く。

「お母さん、鉄棒しよー!」
「えっ、鉄棒!? で、できるかな……!?」
「俺、逆上がりできるようになったよ!」
「がんばれー、香子ちゃん」

 ザッキーが笑って三人を見送り、俺の横に立った。
 そして、はぁっとため息をつく。

「……なに?」
「いや……ほっとした」

 脱力した肩をたたくと、アーモンド型の目が照れくさそうに細められた。

「香子ちゃんが、ちゃんと俺のとこに戻って来てくれたから……」
「なんだよそれ」

 俺は思わず噴き出した。

「妻のこと疑ってんの?」
「いや、そんな風に思いたくはないんだけえど。でも、だって……香子ちゃんて、キレイだし仕事できるし家事できるし……」
「もういい。もういいから」

 どこまでもノロケが始まりそうな気配に、慌てて脇腹を突いた。ザッキーは語り足りないと言いたげ顔をしたけど、逃げるように子どもたちの方へ走り出す。

「俺も久々に鉄棒やってみよっと」
「こばやーん! 前回り手伝ってー!」
「おー、いいぞー」
「そ、それはお父さんがやる……!」

 神崎家と、公園でわいわいいいながら遊んだ。青空の下、無心で笑う。忘れかけていたこういう時間が、とても大切で愛おしくて、嬉しくて、苦しくて、痛いくらいに思った。

 ――どうして、ここに早紀がいないんだろう。

 笑い合いたい。早紀と。青空の下で。手を繋いで。
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