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.4章 かめは本音をさらけ出す
..33 ふたりの幸せ
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不妊治療はもうやめる――病室に戻ってきた義両親にそう伝えると、ふたりはどこかほっとしたように顔を見合わせた。
俺も早紀も、明らかに泣いた後っていう顔をしてたと思うけど、そこには何も言及せずに、ただ静かに「そう」と答えて。
けれどそのとき、早紀が「あ」と言った。
場の視線が早紀に向く。
「……でも、次の検診の予約、しちゃった」
「そんなの、キャンセルすればいいじゃない」
「でも……」
あ、これは、すぐ納得しないやつ。
義母の言葉に、早紀は何かを探すように目を泳がせている。それを見て、思わず笑いそうになった。
ここで無駄に押しても意味はないと知っている。「いいですよ」と俺は微笑んだ。
「これで最後にします、って、そのとき、先生に言うつもりなんだろ?」
「でも……それでまた、先生から何か言われて、悩むことにならない?」
義母が鋭い指摘をした。
それもありえる。けど、
「そうなったらまた、そのときに話し合いますよ」
くよくよ悩んで、決めてもなおためらって。
なかなか進む勇気が持てず、自己嫌悪に陥って。
その不器用さが早紀で、俺はそんな早紀と一緒にいたいと思ったんだ。
当然のように俺が答えると、義両親は感心したように顔を見合わせた。
義母が呆れ半分、娘を見下ろす。
「早紀……あんた、幸せ者ねぇ」
聞きようによっては、軽く嫌味の混ざった声音に、早紀は俺を見やってから、「うん」とうなずいた。
やたらと、迷いなく。
うつむきがちに、照れくさそうに細めた目を、俺に向けてくる。
……ああ、すげぇかわいいな。
ずっと忘れていたあったかい感情。ほんわか、じんわり、幸せが胸いっぱいに広がっていく。
俺たちが交わす視線を見て、義両親は安心したように笑った。
「それじゃあ……ふたりとも落ち着いたみたいだし、我々はそろそろ帰ろうかね」
「あら、そうね。もう、大丈夫かしら?」
義父の言葉に、義母が俺と早紀を見比べる。はい、とうなずいて頭を下げた。
「すみません。ほんとに今日は、ご迷惑おかけしました」
「いやいや。もう嫁いだとはいえ、娘のことだからね」
義父は手を振って早紀を見た。
優しい目。娘を思いやる目。ザッキーが子どもを見る目と同じ。そして、俺の父の目とも同じ目だ。
いいな、と思う。こういう風に、誰かを優しく見守る男になりたい。
けど、相手は自分の子どもでなくてもいいと思う。それはきっと、愛するべき人を愛している人の目だ。
「じゃあ、早紀、お大事に。幸弘くんも、何かあったらいつでも呼んでくれ」
「はい。本当にありがとうございました」
営業の癖で深々と頭を下げる。義両親はどこか恐縮するように笑った。
義両親が病室を去ると、早紀と俺だけが残された。
どちらからともなく目を合わせて、笑う。
ようやく通じた気持ちが嬉しくて、くすぐったい。
柔らかな沈黙を味わう俺に、早紀は「ねぇ、幸弘くん」と呼びかける。
なに、と答えると、早紀はしみじみうなずいた。
「私は……幸せ者だね」
「なんだよ、急に」
さっき義両親に言われたことを気にしてるんだろうか。そんなの、気にしなくていいのに。
困惑したら、早紀は真剣な顔で首を振った。
「ううん。ほんとに、そう思うの。……そう、思ったの」
早紀は言って、自分で自分の気持ちを確認するように数度うなずいた。
それから、まっすぐに俺を見上げて微笑む。
「幸弘くんと出会えて、よかった。幸弘くんと結婚できて、幸せ」
表情だけは照れくさそうだったけれど、その言葉にためらいはなかった。
不意打ちすぎて、どう答えればいいか分からない。俺が反応に困っている一方、早紀は遠い目になって呟いた。
「そんなこと……充分知ってたはずなのに。いつの間に、忘れてたのかな」
ああ、そうか。
早紀も……俺と同じなんだ。
そう分かると、俺もほっとした。
「忘れてたのは、早紀だけじゃないよ」
「え?」
俺の言葉に、早紀がまた顔を上げる。
「俺も……忘れかけてたんだと思う」
大切なこと。大切なひと。
好きだと思ったところ。かわいいと思ったところ。
一緒に、どんな風に過ごしたいか、どんなふたりでいたいか、ということ。
何も気にせず刻んだ毎日が、知らないうちに、本当に大切にすべきことを見えにくくしてしまった。
そのことに、ようやく気づいた。
「優しいね……幸弘くんは」
早紀は笑った。
それはなんだか満足げで、俺が違うと言うのがはばかられるほど幸せそうだ。
「優しい……昔から」
そんなことない、と、早紀の呟きに心の中で答える。
早紀が思うほど、俺はいい男じゃない。立派な人間じゃない。
けど、そんなこと――ここであえて言う必要は、ないのかもしれない。
俺は早紀といる。早紀は俺といる。
それだけで、充分だ。
充分じゃないか。
「……なぁ、早紀」
今度は俺から呼びかける。「うん? なぁに?」と柔らかな声が答えた。
「あのさ……温泉、行かない?」
「……温泉?」
これも思わぬ提案だったのだろう。早紀は目を丸くして俺を見つめる。
俺はこくりとうなずいた。
最後の通院の後。不妊治療としての、最後のチャンスになるのだろう。
その結果を、ドキドキしながら待つ心労は、今までと変わらないはず――いや、もしかしたら、諦める決心が必要になる分、もっと辛いかもしれない。
だから、何か楽しみを用意しておきたかった。
ふたりの楽しみを。
もし、授からなかったら、月経が落ち着くであろう頃。
もちろん、授かったとしても、身体の変化が少ないうちに。
少し、二人でゆっくり過ごすのもいいだろう。
早紀はしばらく考えていたけれど、ゆっくりとうなずいた。
「うん。……久々だね。旅行」
「だろ? 楽しみだろ」
「……うん」
早紀は笑った。ちょっとだけ、寂しげだったけれど、それでも、うわべだけの笑顔ではない。
それでいい。今はまだ、それでいい。
一つずつ、少しずつ、少しだけ先の楽しみを作っていこう。来週の楽しみ。来月の楽しみ。半年後の、来年の楽しみ。
そうして一つずつ積み上げた楽しい思い出が、きっと俺たちを幸せな夫婦にしてくれる。
そう、信じてる。
俺も早紀も、明らかに泣いた後っていう顔をしてたと思うけど、そこには何も言及せずに、ただ静かに「そう」と答えて。
けれどそのとき、早紀が「あ」と言った。
場の視線が早紀に向く。
「……でも、次の検診の予約、しちゃった」
「そんなの、キャンセルすればいいじゃない」
「でも……」
あ、これは、すぐ納得しないやつ。
義母の言葉に、早紀は何かを探すように目を泳がせている。それを見て、思わず笑いそうになった。
ここで無駄に押しても意味はないと知っている。「いいですよ」と俺は微笑んだ。
「これで最後にします、って、そのとき、先生に言うつもりなんだろ?」
「でも……それでまた、先生から何か言われて、悩むことにならない?」
義母が鋭い指摘をした。
それもありえる。けど、
「そうなったらまた、そのときに話し合いますよ」
くよくよ悩んで、決めてもなおためらって。
なかなか進む勇気が持てず、自己嫌悪に陥って。
その不器用さが早紀で、俺はそんな早紀と一緒にいたいと思ったんだ。
当然のように俺が答えると、義両親は感心したように顔を見合わせた。
義母が呆れ半分、娘を見下ろす。
「早紀……あんた、幸せ者ねぇ」
聞きようによっては、軽く嫌味の混ざった声音に、早紀は俺を見やってから、「うん」とうなずいた。
やたらと、迷いなく。
うつむきがちに、照れくさそうに細めた目を、俺に向けてくる。
……ああ、すげぇかわいいな。
ずっと忘れていたあったかい感情。ほんわか、じんわり、幸せが胸いっぱいに広がっていく。
俺たちが交わす視線を見て、義両親は安心したように笑った。
「それじゃあ……ふたりとも落ち着いたみたいだし、我々はそろそろ帰ろうかね」
「あら、そうね。もう、大丈夫かしら?」
義父の言葉に、義母が俺と早紀を見比べる。はい、とうなずいて頭を下げた。
「すみません。ほんとに今日は、ご迷惑おかけしました」
「いやいや。もう嫁いだとはいえ、娘のことだからね」
義父は手を振って早紀を見た。
優しい目。娘を思いやる目。ザッキーが子どもを見る目と同じ。そして、俺の父の目とも同じ目だ。
いいな、と思う。こういう風に、誰かを優しく見守る男になりたい。
けど、相手は自分の子どもでなくてもいいと思う。それはきっと、愛するべき人を愛している人の目だ。
「じゃあ、早紀、お大事に。幸弘くんも、何かあったらいつでも呼んでくれ」
「はい。本当にありがとうございました」
営業の癖で深々と頭を下げる。義両親はどこか恐縮するように笑った。
義両親が病室を去ると、早紀と俺だけが残された。
どちらからともなく目を合わせて、笑う。
ようやく通じた気持ちが嬉しくて、くすぐったい。
柔らかな沈黙を味わう俺に、早紀は「ねぇ、幸弘くん」と呼びかける。
なに、と答えると、早紀はしみじみうなずいた。
「私は……幸せ者だね」
「なんだよ、急に」
さっき義両親に言われたことを気にしてるんだろうか。そんなの、気にしなくていいのに。
困惑したら、早紀は真剣な顔で首を振った。
「ううん。ほんとに、そう思うの。……そう、思ったの」
早紀は言って、自分で自分の気持ちを確認するように数度うなずいた。
それから、まっすぐに俺を見上げて微笑む。
「幸弘くんと出会えて、よかった。幸弘くんと結婚できて、幸せ」
表情だけは照れくさそうだったけれど、その言葉にためらいはなかった。
不意打ちすぎて、どう答えればいいか分からない。俺が反応に困っている一方、早紀は遠い目になって呟いた。
「そんなこと……充分知ってたはずなのに。いつの間に、忘れてたのかな」
ああ、そうか。
早紀も……俺と同じなんだ。
そう分かると、俺もほっとした。
「忘れてたのは、早紀だけじゃないよ」
「え?」
俺の言葉に、早紀がまた顔を上げる。
「俺も……忘れかけてたんだと思う」
大切なこと。大切なひと。
好きだと思ったところ。かわいいと思ったところ。
一緒に、どんな風に過ごしたいか、どんなふたりでいたいか、ということ。
何も気にせず刻んだ毎日が、知らないうちに、本当に大切にすべきことを見えにくくしてしまった。
そのことに、ようやく気づいた。
「優しいね……幸弘くんは」
早紀は笑った。
それはなんだか満足げで、俺が違うと言うのがはばかられるほど幸せそうだ。
「優しい……昔から」
そんなことない、と、早紀の呟きに心の中で答える。
早紀が思うほど、俺はいい男じゃない。立派な人間じゃない。
けど、そんなこと――ここであえて言う必要は、ないのかもしれない。
俺は早紀といる。早紀は俺といる。
それだけで、充分だ。
充分じゃないか。
「……なぁ、早紀」
今度は俺から呼びかける。「うん? なぁに?」と柔らかな声が答えた。
「あのさ……温泉、行かない?」
「……温泉?」
これも思わぬ提案だったのだろう。早紀は目を丸くして俺を見つめる。
俺はこくりとうなずいた。
最後の通院の後。不妊治療としての、最後のチャンスになるのだろう。
その結果を、ドキドキしながら待つ心労は、今までと変わらないはず――いや、もしかしたら、諦める決心が必要になる分、もっと辛いかもしれない。
だから、何か楽しみを用意しておきたかった。
ふたりの楽しみを。
もし、授からなかったら、月経が落ち着くであろう頃。
もちろん、授かったとしても、身体の変化が少ないうちに。
少し、二人でゆっくり過ごすのもいいだろう。
早紀はしばらく考えていたけれど、ゆっくりとうなずいた。
「うん。……久々だね。旅行」
「だろ? 楽しみだろ」
「……うん」
早紀は笑った。ちょっとだけ、寂しげだったけれど、それでも、うわべだけの笑顔ではない。
それでいい。今はまだ、それでいい。
一つずつ、少しずつ、少しだけ先の楽しみを作っていこう。来週の楽しみ。来月の楽しみ。半年後の、来年の楽しみ。
そうして一つずつ積み上げた楽しい思い出が、きっと俺たちを幸せな夫婦にしてくれる。
そう、信じてる。
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