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第壱章 名取葉子の自意識

03 小さな矜持

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 12月が近づいて来た土曜の朝。
 眠りを妨げる音に目を覚まし、枕元のスマホに手を伸ばした。
 かかってきた電話に出ると、不機嫌な母の声がした。
『何や、まだ起きてなかったんやな』
 わたしは相手に悟られないよう、静かに息を吐き出す。
「うん……電話で起きた」
 ちらりと時計を見やると9時。
 ベッドに入ったのは3時前だった。
 終電を利用し、深夜に帰宅したわたしにとっては早朝だ。
『あんた40にもなってそんな不健康な生活して。あきれるわ』
 別に貴女にあきれられても構わない。今までわたしの心を斟酌することのなかった母の心を斟酌する気もない。
 言い返す言葉は心中に留める。朝からヒステリックな声など聞きたくない。
 ゆるゆるとベッドに上体を起こした。身体はまだ鈍く重い。
 12月末に控えた株主総会に向け、仕事も少しずつ忙しくなっている頃だ。
 母はわたしが就職してから、最低でも2週間に一度、土日にこうして電話をよこす。大概の場合は今日のように朝であり、わたしの都合などお構いなしで、一方的に話して一方的に切る。
 家にいた頃にはわたしを遠ざけ、話しかけて来ることなどほとんどなかったのに、不思議なものだ。
『年末はどうするん。帰って来るんやろ?』
 祖母が施設に入ってから、今年で3回目の冬を迎える。その間、わたしは一度も実家に戻っていない。
「どうしようかな。年末、仕事で忙しいねん」
 嘘ではない。12月の株主総会までは、毎日終電で帰る。ときどき終電を逃してタクシーを使うことだってあるほどだ。時間で言うと7、8時間の残業。定時の倍、会社にいることになる。
『おばあちゃん、何歳やと思うてるん。しばらく会ってへんやろ。いつどうなるとも知れんで』
 母の声はあからさまな苛立ちを帯びて来る。わたしはその苛立ちに気付かぬふりであいづちを打つ。
「せやなぁ……」
 わたしは思い返す。昨年会ったときの祖母を。表情はどこかぼんやりしていたが、一応、わたしのことは分かったのでほっとしたのを覚えている。
 施設の祖母を訪ねるときには、母に言わないでくれと職員に断る。
 母はだいたい毎日、決まった時間に施設に顔を出している。わたしの来訪については、職員から聞くことがなければ、母には知れない。
 たとえ祖母が何かを言っても、その言葉を信じたりしないからだ。
「まあ、帰れたら帰るわ」
『薄情な子』
 母の声は苛立ちが強くなった。ヒステリーを抑えているような、震える声がスピーカー越しに耳に届く。
『あれだけ可愛がってくれたおばあちゃんやろ、何にも思わんの。あんたそんなに薄情な子ぉやったんか』
 声がだんだんと甲高くなるのを耳にしながら、わたしの心はむしろ鎮まっていく。
 薄情。
 母からわたしへの言葉としては、随分滑稽なものだと思う。
 娘であるわたしを突き放し続けていた母は、自身のことを温情溢れた人間だとでも思っているのか。
「どうやろな」
 答えたとき、ちくりと下腹が痛む。
「用があるさかい、切るわ」
『何言うてん、葉子……』
 なおも何か言おうとした母の声を遮るように、通話ボタンを切った。
 スマホの画面をブラックアウトさせ、伏せて枕元に置くと、トイレへ向かった。
 ズボンと下着を下ろし、便座に腰掛けたとき、ドロリと赤いものが流れ出て息をつく。
 もともと不順気味だった月経は、ここ最近ますます不順になってきた。
 閉経が近いからか、と覚悟している。
 母の閉経も45と早い方だったので、わたしもそうなのだろう。
 わたしの思春期にヒステリックだった母は、更年期が重なったのだろうと気づいたのは最近のことだ。わたしはそうはなるまいと、落ち着かない感覚が強くなってきた頃から、早めにホルモンバランスを整える薬を飲み始めている。
 その薬がそろそろ尽きることを思い出す。
(病院、行こ)
 ショーツにナプキンを当て、立ち上がって服を身につける。
 便器から伝い落ちた経血が水を濁している。タンクについたノブをひねり、水を流した。
 汚れた水が渦を巻いて流れていく。
 白い便器に飲み込まれていく経血を見送って、蓋を閉めた。

 身支度を整え、朝食代わりに牛乳を口にして、行きつけの産婦人科に向かう。
 土曜の産婦人科は混む。行きつけの産婦人科ではお産を扱ってはいないが、妊婦検診で通う人は多いらしい。
 一見して妊婦らしい人がいる一方、わたしより年上の初老と見える人もいる。夫婦で来ている男性を除けば、女性ばかりだ。
 それぞれ思い思いにスマホをいじったり本を広げながら、黙って呼ばれる順番を待っている。
 1、2時間待ちはざらなので、わたしも本を持っていた。
 手元の本をめくっていると、三歳くらいの女の子が近寄ってきた。
 何も言わず、丸い目でじっとわたしを見つめる。
 わたしは愛想笑いを返した。女の子は困ったような、怖がるような顔で母親の元に戻って行った。母親はわたしの方へ会釈をして、女の子へ何か耳打ちをしている。女の子はわたしと母親を見比べ、照れ臭そうに微笑んで、わたしに手を振った。
 小さな手は見るからに柔らかそうに肉づいている。わたしも微笑みと共に手を振り返すと、女の子は満足げに笑った。
 母親の鞄にはマタニティマークが揺れている。女の子は椅子に座ると床に足が届かず、ぶらぶらしているうちにスリッパが落ちた。母親はそれを引き寄せ、丁寧に足元に揃える。母親のその肩に女の子がのしかかり、母親は笑ってそれをたしなめた。
「名取さん、名取葉子さん。お待たせしました」
 診察室のドアが開き、わたしを呼ぶ声がした。わたしは返事をして立ち上がる。女の子がわたしに気づき、ぱっと顔を上げて手を振った。わたしも小さく振り返す。女の子は母親に報告するように耳打ちした。診察室に入るとドアが閉まる。白い無機質な壁沿いに視線を部屋の内側に送ると、白衣をまとった初老の男性が椅子に座っている。
「どうですか、その後調子は」
「気分は悪くないです」
「じゃあ、同じ薬を続けますか」
「お願いします」
 医師はてきぱきとカルテに何かを書き込む。その手元を眺めながら、わたしは不意に尋ねた。
「先生」
「何ですか?」
「どうなると、閉経した、言うんでしょう」
 医師はカルテから目を上げて、わたしを見た。
「一年間月経が来なければ、ということになっています」
「そうですか」
 頷いたとき、年配の看護師さんが笑った。
「心配しないで。昔は『閉経したら女も上がりだ』なんて言ってたけど、そんなことないわ。ちょっと体重が増えたりすることもあるけど、月のものがないと楽よ」
 わたしはそれに微笑みを返した。
 女も上がり。
 女でなくなれるのなら、それに越したことはないのだが。
(関係ないやろな)
 産む性であるということだけを以て女であると云うのなら、閉経を迎えれば女ではなくなる。
 しかしそれは、わたしの周りにいる男たちに何か変化をもたらすものではないだろう。むしろ孕ませるかもしれないと恐怖するよりは気が楽と考えるかもしれない。
「他に何か?」
 一瞬間を置いたわたしを見て、医師が促した。
 わたしは静かに首を振る。
「いえ、何でも。ーーありがとうございました」
「はい、どうも。また何かありましたらいつでもお越しください」
 わたしは礼をしてドアに手を伸ばした。年配の看護師が先にそれを開け、わたしに出るのを促す。
 目で礼をして外へ出ると、となりの診察室に礼の母娘が入っていくのが見えた。女の子の目が一瞬わたしをとらえ、にこりとした。
 わたしも笑顔を返したが、それはもうドアに阻まれて見えなかったかもしれない。
 女の子の笑顔が残像のようにまぶたの裏に残った。
 椅子に座って会計を待ちながら、ふとスマホの着信に気づく。診察中にかかってきたのだろう。誰からかと思えば、母からだった。
 今度はこちらのタイミングでかけさせてもらおうと、スマホの電源を落とした。

 会計を済ませて外に出ると、もう昼時を過ぎていた。外で食べてから帰ろうか、と駅前を歩く。店に並ぶのはもう冬服ばかりで、まだ購入意欲は湧かない。
 しばらく歩いて、食欲がないことに気づいた。一食くらい抜いてもたいして問題ないかと、後ほど早めの夕飯を摂ることに決め、本屋に足を運んだ。
 わたしが時間を潰すときは大概本屋に足を運ぶ。基本的には昔の作家が好きだが、新しい作家のものも、ピンと来れば手に取ってみる。
 本を読んでいるときだけは、わたしは自由でいられた。友人を作るにもうまく行かないと気づいてからは、すっかり本の虫になった。そのおかげなのかどうか、勉強も比較的できる方で、何も考えずに大学まで進学した。大学は偏差値だけを基準に選んだ。
 あれだけ親元を離れたいと思っていたのに、わたしは京都府内の大学へ進学を果たした。家を離れるという選択肢に気づいたのは大学に入ってからのことだ。
 わたしの通う大学の学生で、実家から通っている人などほんの一握りだけだった。全国の至るところから学生が集まっていたので、当然下宿や一人暮らしをしている人も多かった。
 だから、本当の意味で進路を自発的に考えたのは、就職するときが初めてかもしれない。少なくとも関西を出ること、そして一人で生きていける経済的基盤を築くこと、それが大きな目標だった。
 そして今、すべてがすべて望んだ形になったわけではないが、少なくともその二点だけは満たされている。
 せめてそこにわずかな慰めを感じることくらいが、わたしの味気ない毎日を支える小さな矜持だ。
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