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第壱章 名取葉子の自意識

09 歪曲

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 廊下でマーシーに呼び止められたのは、その翌日のことだった。
 彼はいつもより穏やかな笑顔で、仕事でしばらく九州に行くことを告げた。
「俺がいない間、橘のことよろしく頼みます」
 爽やかな笑顔で言われれば、わたしも自然と笑顔になる。
 その笑顔が、本当の意味でわたしに向いたものではないとわかっていながら。
「そんな顔で言われたら、お姉さん断れへんわ」
 言いながら近づき、頭一つ上にある彼の顔を覗き込む。
「むこうで浮気でもしはったら、ただでは済まさんよ」
 マーシーは苦笑して、小さく肩を竦めてみせた。
「もう女はこりごり、っていう目に合わせるんでしたっけね」
「せや」
「それは勘弁願いたいな」
 あくまで冗談だと思っているのだろう。笑顔は変わらず爽やかなままだ。
(うちはそれでもええねんで)
 むしろ、一度でいいから、この男を腕に抱けたなら。
 この爽やかな笑顔を歪めさせて、柔らかな声で唏かせて、わたしの名前を呼ばせられたら。
(行く前に、一晩だけでも)
 暴走しそうな思いと共に、喉元まで出かけた言葉は、どうにか笑顔でごまかした。 
「きばりや。--アーヤ恋しさに、仕事手ェ抜いたらあかんで」
 言いながら肩を叩く。
 わたしに許される範囲でのボディタッチ。
 それを気にすることもなく、マーシーは笑って頷いた。
(うちのために笑う顔、見てみたかったわ)
 多くを引き付ける彼に、誰もが望むであろうことだ。
 締め付けられるような息苦しさを感じつつ、表面上はいつもの笑顔を崩さない。
 マーシーは軽く礼をして事業部のデスクへ戻った。わたしはその後ろ姿を見送り、彼と出会ったときのことを思い出す。
(抱かれたいなんて、初めて思たんやで)
 苦笑と共に、心中で彼に告げた。
 胸はひりひりと痛む。
 想いの外、焼き付く痛み。
(十の年の差ーー)
 その所為にしようとしている自分が憐れで、笑いが込み上げた。
 もし、わたしが今、アーヤと同じ年齢だとしても、わたしは到底アーヤにはなれない。
 それは誰よりもわたしが一番分かっていることだ。
 静かに息を吸い、吐き出す。
 まぶたの裏にはマーシーの後ろ姿の残像がある。
 身体の前に寄せた自分の手首をつかむと、不意にクリスマスイヴの夜を思い出した。
 シャツ越しに触れた彼の身体。
 わたしの手首をつかむ温かい手。
 上擦った声で呼ばれた名前。
 ーー半身を襲う、甘い痺れ。
 二週間も前のことなのに、こんなにも生々しく覚えている自分が滑稽なほどだ。
 わたしは下腹部の余韻に浸るように、少しの間佇む。
 そのとき、エレベーターがフロアに到着したことを示す音が聞こえた。
「あっ、ヨーコさん」
 見やると細身の長身が立っている。
 男は丸い目を輝かせた、嘘臭い笑顔。
 女を、獲物としてしか見ない男。
「ちょうどよかった」
(ちょうどええわ)
 彼の台詞と同じことを、同時に心中でつぶやく。
 わたしは口の端を引き上げ、微笑みを返した。
 無邪気なふうを装って、首を傾げる。
「どうしたん、ジョー」
 ジョーは頬を紅潮させて目を輝かせた。
「今夜、予定あります? この前話してたバー、行ってみませんか」
 駅前にオープンしたバー。
 そういえば昨日、この子犬を振り払うために何か言ったような気もする。
 くだらない男。
 下半身だけで生きているような男だ。
(そんなにうちに興味があるなら、つき合うたる)
 わたしは表面上の微笑みのまま、ジョーを見る。
 一見すれば無害で少年じみたその表情に、騙されるほど無垢ではない。
(せいぜい、利用したるわ)
 男には、散々翻弄されてきたのだ。
 一方的に関係を求められ、身体を搾取され、こころを削がれてきたのだ。
(それをうちがこの子犬にしたかて、誰も文句言えへんやろ)
 胸中にしまい込んだ箱の中で、何かがゴトリと音を立てたような気がした。
「ええのん? うちみたいなおばはんと一緒で」
 馬鹿な子犬がわたしの不穏な気配を察することのないよう、当たり障りのない笑顔で問いかける。
 ジョーは両手を握り、何の迷いもなく言った。
「いいんです! 俺はヨーコさんと行きたいんです!!」
 わたしは目を弓なりに細めた。
 奥に潜む歪みを、子犬に気付かれないように。


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いつもご覧くださりありがとうございます!
明日から一週間は、ジョーの話を一部公開して、また公開を開始します。
再読下さっている方がどれくらいいらっしゃるかわかりませんが、一度目とはまた違う楽しみ方をしていたたければ…と思っての試みです。
面倒おかけしますが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
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