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第弐章 安田丈の振る舞い

02 抱かれる男

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 ジョーはホテルの部屋に入るや、わたしを後ろから抱きしめた。
 同じ動作であっても、その腕の力強さは門倉と違う。
(27と47やもんな)
 違うわけだと納得もする。
「……見えるところに、跡つけんといて」
 服を脱がせるより先に、首もとに口づけようとする男を、わたしは小さく牽制した。
 それがオスを益々煽ると知りながら、そう言わざるを得ない。
 ジョーは興奮で荒げた息を整えようともせず、自分のジャケットを脱ぎ去り、口づけを求めてわたしの腰を引き寄せると、わたしのコートを引きはがそうとした。
 わたしはその眼前に人差し指を立てる。
 ジョーはそれを目にして動きを止めた。
 その目の奥で、期待と焦燥が入り混じり、燃えているのを見て取る。
(ええ子やね)
 わたしは微笑み、そっとジョーの唇に人差し指を添えた。
「自分で脱ぐさかい。離して」
 ジョーはおずおずとわたしの身体を離す。
 わたしはできるだけゆっくりと、服を脱ぎはじめた。
 ボタンを一つ一つ焦らすように開け、ソファの背もたれにコートとスーツジャケットをふわりと乗せる。
 乳白色のシルクのトップスは、ホテルの暖色ライトを浴びて艶やかに光を反射していた。隠しボタンを一つ一つ、またゆっくりと外していく。
 ジョーの丸い目は一瞬も休むことなく、わたしの一挙一動を見つめ続けている。
(そんなに、欲しいんか)
 不意に、女とホテル街を歩いていた彼の姿を思い出す。
(どれだけ女を抱いても、餓えが満たされんのやな)
 わたしは下着が見えるかどうかのところで、ふと手を止めた。ジョーが困惑したように、開いたボタンとわたしの顔を交互に見る。
 微笑んで、一歩ジョーに近寄った。
 そっとその衿元に手を添え、つつ、と胸元へ走らせる。
 細く見えて、その身体は筋肉質だと分かった。
(代わりにするには、ちょうどええかも知れんなぁ)
 残念ながらマーシーほどの逞しさや安心感はないが、40男と比べば遥かにマシだろう。
 期待に揺らぐジョーの目を覗き込み、微笑んだ。
「うちが脱がせたるわ」
 囁くように言って、わたしはその細めのネクタイに手をかける。
 一瞬、そのまま首を締めてやろうかと思った。が、少なくとも今日はやめておこう、と結び目に指先をねじこむ。
 あえて乱暴にそれを解くと、シャツのボタンを一つ一つ外しはじめた。
 ジョーは興奮のあまり、胸で息をしている。じっとしていることが辛そうに、わたしを潤んだ目で見つめていた。
「ジョー。気持ちようしてやるな」
 囁くように、わたしは続ける。
 顔には自然と笑顔が浮かんだ。
「でも、一つだけ守って」
 前のボタンをすべて外し、スラックスから裾を引き出す。
 インナーシャツ越しの脇腹に手を這わせると、ふ、とジョーの口から吐息が漏れた。
 ジョーの目はますます欲情を帯びて潤む。
「今日はあんたはうちの言うことを聞くんや。ーー勝手に動いたら、あんたを置いて帰るで」
 ジョーは一層紅潮させた頬で、こくこくと大袈裟なほどに頷いた。
 その滑稽さを嗤うと、わたしはそのネクタイを引き抜いて自分の肩にかけた。
「なあ、ジョー。このネクタイはお気に入り?」
 その端を手にしてわたしが問うと、ジョーはわたしの意図を問うような目をする。
「ダメになってもええか?」
 わたしは言いながら、肩に掛けたネクタイの端に唇を寄せた。ジョーの目尻が赤らみ、うわずった声で答える。
「はい……はい、す、好きにしてくださいっ」
 まるで童貞のようなその表情に、わたしの胸中にふつふつと何かが沸き起こる。
(相当に、女を食ってはる癖して)
 いまさら善良な少年のように振る舞おうとなど、片腹痛い。
 うなじ辺りの髪が逆立つような感覚を覚えたが、表面上はあくまでいつも通りの笑顔を崩さない。
「さよか。……なら」
 ネクタイを口に咥えると、ジョーを流し見た。
「早う横になり。楽しませたるさかい」
 ジョーは潤んだ目で、こくこくと頷いた。

 * * *

 ベッドの上で散々喘ぎ、唏いたジョーは、三度目の吐精の後すやすやと眠りについた。
 元々童顔な彼は、眠ると更に幼く見える。
 わたしは身体に彼の名残がないことを確認して身支度を整えると、財布から札を一枚取り出して枕元に置いた。
「ほな」
 短い髪を撫でて出て行こうとしたとき、その手首をベッドに結わえ付けていたままであることに気づく。
 これでは起きても帰れず慌てることだろう。その様子を想像して笑うと、手首を結わえていたネクタイを解いた。
 解いたそこは、うっすらと赤くなっていたが、わたしの肌につくような痛々しさない。
 わたしはそれを確認して、なんとなくおもしろくない気分がした。鞄を手に立ち上がる。
 今後また彼とベッドを共にする気はない。次を期待する雄犬の顔を見るのは御免だ。
 わたしは足早に部屋を後にした。

 時計を見ると、文字盤は既に深夜帯を示していた。わたしは迷わずタクシーを呼び止め、乗り込む。
 簡単に自宅付近の場所を告げると、タクシーは静かに走り出した。
 会社からわたしの家へは数駅間の距離だが、今の部署に来てからは、終電を逃すことも増え、すっかりタクシーに乗り慣れてしまった。
 ドライバーが女性である場合を除き、家の前まで乗るのは避けている。そのときの気分で一本手前の道や、少し行きすぎたところで停めてもらうことにしていた。
「お客さん、家は近く?」
 財布からお金を出すわたしに、ドライバーが言った。わたしはその意図を探るように目を上げる。
「いえね、最近この辺りで変質者が出るらしいから。お客さんみたいに美人さんだと、狙われそうだなと思って。お気をつけて」
 言われて、わたしは微笑んだ。
「ご心配どうも」
 メーター通りの料金を支払い、レシートの受け取りは断って車を降りる。
 タクシーが走り去るのを見届けて、わたしは自宅へ向かった。
 滑稽さに笑いが込み上げた。
 今までわたしを侵してきたのは、顔を知らない「変質者」ではない。顔も名前も所属も肩書も、知っている男ばかりだ。
(名前も知らないドライバーさんが、ご丁寧に心配してくれはってもな)
 わたしは込み上げる笑いを堪えながら、家に入った。

 シャワーを浴びながら、身体をさすっていく。
 ジョーの手は最初からずっとベッドに縛ったままだったので、彼の手はほとんどわたしに触れていない。
 普段男と寝た後には執拗に擦る肌も、あまり汚れたような気がしなかった。
 ゆっくりと身体を洗い流し、息をつく。
 腰を洗いながら、思い出した。
(若かったなぁ)
 思わず笑いが込み上げる。
 頬を紅潮させ、目を潤ませて、喘ぎながらわたしに救いを求めるジョーの恥態。
 シャワーの音と共に、くつくつと笑い声が響く。
 ジョーはわたしの手で一度果て、足で一度果てて、最後にようやく中へと招き入れた。
 焦らしに焦らすわたしに耐えかねて、下から突き上げようとした気配を感じたわたしは、微笑んで制したのだった。
「動いたら帰るで。約束したやろ?」
 ジョーは恨めしげに、しかし興奮を隠せない表情で、わたしを見返した。
(腐るほど女を抱いてても、女に抱かれたのは初めてなんやろな)
 思いながら、わたしはシャワーを止めた。

 そして身体を拭き終わる頃には、もうジョーのことは忘れていた。
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