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第弐章 安田丈の振る舞い

10 修業不足

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 意識が混濁しかけたわたしを救護室に運んだジョーは、そのまま心配そうにベッドの横に座っていた。
「ジョーってばうちのヨーコちゃんに何したのよーぷんぷん」
 さらにその横で、阿呆の子のように拗ねて見せるのは山崎部長だ。騒ぎを聞き付けて降りてきてくれた山崎部長は、吐瀉物を片付けるよう周囲に手早く指示してくれた。
 わたしは息を吐き出しつつ、小さく頭を下げる。
「すみません」
 部長は唇を尖らせた。
「ヨーコちゃんは悪くないでしょ。可愛そうに」
 どこか口調が女性的だが、本人なりの気遣いがそういう形になっているのだろう。
 ジョーが困惑した顔で部長を見た。
「俺としては愛の告白を」
「そんなの朝っぱらからぁ」
「だってぇ。ヨーコさんなかなか立ち止まってくれないからぁ」
 ジョーはほとんど泣きそうな顔になった。
 二匹の犬がじゃれあっているような会話だが、和む気にはなれず苦笑する。
「立ち止まってくれないんだったら、脈無しと思って諦めなよ」
 山崎部長の的を射た言葉に、わたしは思わず頷いた。
 ジョーは唇を尖らせてすねる。そういう顔をすると、童顔がますます少年じみて見えた。
「諦められるならこんなつきまとってないですよ。どうやったら諦められますか? 部長、教えてください」
「君、もしかして欲しいものは全部手に入れてきたクチ?」
「あ、俺五人兄弟の末っ子で。でも兄も姉も十歳以上離れてるんで、大事に育ててもらいました」
 にこりと笑うジョーの顔は邪気がない。それが余計たちの悪さを感じさせる。
 そう思ったのはわたしだけではなかったらしい。部長はあきれ顔で嘆息すると、わたしの顔を見やった。
「ヨーコちゃん、うまく手綱握ってやってよ。この大型犬、放っておいたら迷惑だよ」
 わたしはゆるりと首を振る。
「嫌やわぁ、部長。こんな弱った女子にそんな大役押し付けはるのん。もっと元気な若い子にお願いして」
「だそうだよ。君、脈無し。諦めなって」
「無理ですぅ」
 ジョーは部長の言葉に駄々っ子のように首を振る。胸の奥で感じていた吐き気は、救護室で横になりながら水を舐めていたら、だいぶ楽になった。
 部長がぽんとベッドのふちをたたく。
「そうだ、ヨーコちゃん。もうこの際だからさ、アッシー君として活用したら?そしたら互いにハッピーじゃない?」
 「アッシー君は古いです」とジョーが笑うと、山崎部長は「古いとかひどい」と口を尖らせる。事業部長に文句言っちゃうぞ。仲いいんですか。いいよーだって僕同期だもん。そうなんすか、初めて知りました。
 無駄にテンポのいいキャッチボールが続くのを、聞くともなしに聞きながら目を閉じ、静かに息を吐き出した。
「大丈夫ですか?」
 わたしの顔を、心配そうにジョーが覗き込んで来た。
「あんたがいなくなれば大丈夫や」
 答えると、ほらほら、しっしっ、と部長がからかう。二人とも始業時間直前まで動きそうにないので、仕方なくゆっくりと起き上がった。
 ジョーが慌てる。
「もう少し休んでた方が」
「妊婦でも体調不良でもないさかい」
 ブーツに足を通しながら答える。黒いタイツを纏ったわたしの脚に視線を感じてちらりと目を上げると、ジョーがはっとしてぶんぶんと首を振った。
「す、すみませんっ」
 慌てたような反応に、わたしは笑う。
「別にええよ。慣れとる」
 フォローのつもりで言った言葉は、逆に彼を傷つけたらしい。うっ、という声にならない声を挙げたと思えば、目が潤んでくるのが見える。
「何、泣いてはるの」
 わたしが問うと、ジョーは情けない顔のままうなだれた。
「まだまだ、修業が足りないみたいです……」
 つくづく反省するような声音と、落とされた肩。
 激昂して男を投げ飛ばしたときと同一人物だとは到底思えないその様子に、思わず噴き出す。
 部長が首を傾げる横で、わたしはしばらく、声を上げて笑った。
(いつぶりやろ。こんなふうに笑ったの)
 笑うわたしに戸惑うジョーの顔が、また笑いを誘った。
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