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第参章 想定外のプロポーズ
02 離れる日
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「ヨーコさぁん。怒らないでくださいよぉ」
すたすたと歩くわたしの後ろを、大型犬がついてくる。
わたしは一瞥を向けただけで、知らん顔のまま歩いていく。
「おはようございます、名取さん。ジョーもおはよう」
会社の前で、爽やかな笑顔を向けてきたのはマーシーだった。
アーヤと結婚後、子どもを授かったマーシーは、すっかり毒気が抜けたように見える。
が、その色気は相変わらずーーいやむしろ何割か増しているので、不倫を迫る女は後を絶たないようだ。本人はその誘いを冗談だと思っているようだが。
「マーシー。ストーカーがついて来はる。助けて」
か弱い風を装って、マーシーの腕に腕を巻き付ける。わたしにとってはあるだけ邪魔な二つの脂肪の塊をマーシーの腕に押し付けると、ジョーも周りの男性社員も目をとめるのが分かった。
「名取さん。勘弁してください」
苦笑するのはマーシーだ。
「ええやろ。うちならアーヤも妬かへんやろ」
「妬きませんけど凹みます」
「なんで凹むん」
「本人に聞いてください。男の俺には分かりません」
マーシーの腕に抱き着いたまま言い合っていると、ジョーがふるふると震え始めた。
「ヨーコさぁん」
その情けない声に、マーシーがちらりと目を投げる。
「名取さん。あいつまた何かしでかしました?」
「しでかしたも何も。うちの家の前で一晩明かしはってん」
マーシーが呆れたように半眼でジョーを見る。
「ジョー、お前な」
「だってぇ。ほんとに開けてくれないなんて、思わないじゃないですかぁ!」
「知るかよ。俺に絡むな。巻き込むな」
ジョーがマーシーのもう片方の腕につかまって泣きつく。マーシーは心底うんざりしたように言った。
わたしは周りを見回して、首を傾げる。
「今日、アーヤは?」
結婚してから、二人は毎日一緒に通勤している筈だ。
「子供が熱出して休みです。俺が休んでもいいって言ったんですけどね」
アーヤは昨年出産し、育休を取っていた。この四月に復帰したばかりだ。
「やっぱり子供ができると大変やねぇ」
他人ごとのように言いながら、他人ごとのように言っているなぁと気づき、ああもう他人ごとなのだったと、改めて気づく。
閉経を迎えたわたしには、もう縁のない話だ。
子供が欲しいかと言われれば、別に欲しいとは思わない。いつか持つものなのだろうと思っていたが、実際に持ちたいと思っていたわけではない。
そして、持たずに来てしまった今となっては後悔もない。むしろすっきりしている。もし授かった子が女の子で、わたしのように育ってしまったのなら、きっとわたしは母と同じように冷たく突き放してしまっただろうから。
(でも、それはうちの方の都合やな)
マーシー越しに、若い恋人の姿をちらりと見やる。
細く見えて筋肉質な身体。一晩中求めて来る体力。玄関の外で座ったまま一晩明かしても、翌日にはこうして笑っていられる気力。
すべてが彼の若さを示している。
もう折り返し地点を過ぎた自分とは違う。発展途上の存在なのだ。
彼の貴重な人生の一部を、わたしが奪っている。最近特にそんな気がしてならない。
この関係の潮時がいつなのか、わたしには分からない。
わたしの求めで彼が側にいるのではない分、余計それが分からない。彼は彼の意思でわたしの隣にいる。が、それもいつまでなのかも、終わりがあることなのかも、分からない。
ただ、その日、二人でいる最後の日が来るとしたなら、その決定権は彼にあり、わたしが決めることではないのだろう。
それが、この三年間で嫌が応なしに理解させられた事実だ。
そこまで思い至るたび、わたしの胸中にざらついた風が吹く。
その砂をかむような感覚が、どういう心理から来るものなのか、あえて考えないようにしてきた。
今までも。これからも。
ジョーとわたしの時間は、ジョーの意思だけをもって、成り立っている。
「ジョー。お前いい加減落ち着けよ」
「落ち着いてますよー。ヨーコさんに喜んで貰おうと思っただけなのにー」
たしなめるマーシーにジョーが答える。
「行くで」
「げ、ちょ、離してくださいよ」
「嫌や」
「じゃあ俺も嫌だ」
「勘弁してくれよ……」
嫌がるマーシーを間に挟んだまま、わたしとジョーは執務室のあるフロアへと向かった。
すたすたと歩くわたしの後ろを、大型犬がついてくる。
わたしは一瞥を向けただけで、知らん顔のまま歩いていく。
「おはようございます、名取さん。ジョーもおはよう」
会社の前で、爽やかな笑顔を向けてきたのはマーシーだった。
アーヤと結婚後、子どもを授かったマーシーは、すっかり毒気が抜けたように見える。
が、その色気は相変わらずーーいやむしろ何割か増しているので、不倫を迫る女は後を絶たないようだ。本人はその誘いを冗談だと思っているようだが。
「マーシー。ストーカーがついて来はる。助けて」
か弱い風を装って、マーシーの腕に腕を巻き付ける。わたしにとってはあるだけ邪魔な二つの脂肪の塊をマーシーの腕に押し付けると、ジョーも周りの男性社員も目をとめるのが分かった。
「名取さん。勘弁してください」
苦笑するのはマーシーだ。
「ええやろ。うちならアーヤも妬かへんやろ」
「妬きませんけど凹みます」
「なんで凹むん」
「本人に聞いてください。男の俺には分かりません」
マーシーの腕に抱き着いたまま言い合っていると、ジョーがふるふると震え始めた。
「ヨーコさぁん」
その情けない声に、マーシーがちらりと目を投げる。
「名取さん。あいつまた何かしでかしました?」
「しでかしたも何も。うちの家の前で一晩明かしはってん」
マーシーが呆れたように半眼でジョーを見る。
「ジョー、お前な」
「だってぇ。ほんとに開けてくれないなんて、思わないじゃないですかぁ!」
「知るかよ。俺に絡むな。巻き込むな」
ジョーがマーシーのもう片方の腕につかまって泣きつく。マーシーは心底うんざりしたように言った。
わたしは周りを見回して、首を傾げる。
「今日、アーヤは?」
結婚してから、二人は毎日一緒に通勤している筈だ。
「子供が熱出して休みです。俺が休んでもいいって言ったんですけどね」
アーヤは昨年出産し、育休を取っていた。この四月に復帰したばかりだ。
「やっぱり子供ができると大変やねぇ」
他人ごとのように言いながら、他人ごとのように言っているなぁと気づき、ああもう他人ごとなのだったと、改めて気づく。
閉経を迎えたわたしには、もう縁のない話だ。
子供が欲しいかと言われれば、別に欲しいとは思わない。いつか持つものなのだろうと思っていたが、実際に持ちたいと思っていたわけではない。
そして、持たずに来てしまった今となっては後悔もない。むしろすっきりしている。もし授かった子が女の子で、わたしのように育ってしまったのなら、きっとわたしは母と同じように冷たく突き放してしまっただろうから。
(でも、それはうちの方の都合やな)
マーシー越しに、若い恋人の姿をちらりと見やる。
細く見えて筋肉質な身体。一晩中求めて来る体力。玄関の外で座ったまま一晩明かしても、翌日にはこうして笑っていられる気力。
すべてが彼の若さを示している。
もう折り返し地点を過ぎた自分とは違う。発展途上の存在なのだ。
彼の貴重な人生の一部を、わたしが奪っている。最近特にそんな気がしてならない。
この関係の潮時がいつなのか、わたしには分からない。
わたしの求めで彼が側にいるのではない分、余計それが分からない。彼は彼の意思でわたしの隣にいる。が、それもいつまでなのかも、終わりがあることなのかも、分からない。
ただ、その日、二人でいる最後の日が来るとしたなら、その決定権は彼にあり、わたしが決めることではないのだろう。
それが、この三年間で嫌が応なしに理解させられた事実だ。
そこまで思い至るたび、わたしの胸中にざらついた風が吹く。
その砂をかむような感覚が、どういう心理から来るものなのか、あえて考えないようにしてきた。
今までも。これからも。
ジョーとわたしの時間は、ジョーの意思だけをもって、成り立っている。
「ジョー。お前いい加減落ち着けよ」
「落ち着いてますよー。ヨーコさんに喜んで貰おうと思っただけなのにー」
たしなめるマーシーにジョーが答える。
「行くで」
「げ、ちょ、離してくださいよ」
「嫌や」
「じゃあ俺も嫌だ」
「勘弁してくれよ……」
嫌がるマーシーを間に挟んだまま、わたしとジョーは執務室のあるフロアへと向かった。
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