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第三章 凶悪な正義
02 お誘い
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梅雨入りしたとは聞いていたが、その年の天候はあまり梅雨らしくなかった。
雨はしとしとじとじとと降り続くのではなく、ざー、とスコールのように降っては止み、降っては止む。そんな南国のような気候に、うっかり者の俺はずぶ濡れになることも度々あった。
「おはよーございますっ」
朝、ヨーコさんは半々くらいで挨拶を返してくれるようになり、その後も俺が隣を歩くのを許してくれるようになった。
相槌すらほとんど返してくれないけど、俺が一方的に話しながら会社へと向かう。
「はやく梅雨明けしてほしいっすよね。昨日、ゲリラが降るっていうから、傘持ってったんすけど、帰りに会社に置いてっちゃって。こっち出るとき降ってなかったんすけど、家の最寄り駅ついたら降り始めたんすよね。ダッシュすれば大丈夫かと思ったらびっちょびちょ。しかも家についたら止むし。駅で少し様子見りゃよかったって大後悔っすよ」
ヨーコさんはちらりと俺の横顔を見て、また前を向く。その表情は笑んだような無表情のまま、変わらない。
「せっかく傘持って行ったのに骨折り損ですよね。でも今朝雨降らなくてよかったです。大学の時、うっかり傘忘れてその場しのぎで買ってたら、ビニール傘が十本以上になっちゃって。玄関先傘だらけ。コレクターかって笑われるくらいでしたね。コンビニ傘とか100均の傘とか駅の売店の傘とか、より取り見取り」
「……ビニール傘やのに、どうしてどれがどれか分かるん」
あっ。反応してくれた。
ヨーコさんの問い掛けに、俺は内心の動揺を押し隠しながら答える。
「あれですよ、シールです。レジで貼ってくれるじゃないですか、お店のシール。それがものによって違うんで、すぐ分かるんですよ。これはあの駅で買ったやつだなとか、これは大学の売店だなとか」
何となく言い方が誇らしげになった。
ヨーコさんが噴き出す。
「あんた、阿呆やなぁ」
俺が言う冗談は笑わないのだけど、ときどきこうして笑いはじめることがある。これが狙ってできればいいのに、といつも思うけど、ヨーコさんの笑いのツボはよく分からない。でも逆に、ヨーコさんに言わせれば、俺の話のツボがよく分からないから、つい笑ってしまうんだろう。
口元を押さえて笑う横顔に、俺もつい、笑顔になる。
あー、今日はいい一日だ。
もうこれだけで俺の仕事終わりって帰ってもいいくらい。いっそ帰宅して祝杯をあげたいくらいだ。
そのとき、ヨーコさんのかばんの中から、小さな音がした。
ヨーコさんはかばんからスマホを取出し、画面をタップする。
その瞬間、スイッチが切り替わったように表情が戻った。
いつもの無表情。
誰だよ、くそ。
心中で毒づく。
せっかく可愛い笑顔だったのに。しかもそれを独り占めしていたのに。ヨーコさんも楽しそうだったのに。
「……どうかしました?」
「うん? ああ……」
ヨーコさんは俺の顔をちらりと見て、繕ったような、自嘲気味な笑みを口元に浮かべて、スマホの画面を落とすとまたかばんにしまい込んだ。
「何でも」
声からはすっかり、感情が抜け落ちている。
俺の胸は痛んだ。
男からだ。
直感的にそう思ったけど、だからといって俺が何をできるわけでもない。
いや、ヨーコさんに頼まれれば何でもするけど、ヨーコさんが俺に何かを頼むことはないだろう。
どこのどいつか分かっていれば、門倉のように黙らせてやるのに。
二度と彼女に手出しできないようにしてやるのに。
脳裏をかすめるのは、いつかホテル街で見たもう一人の男の姿だ。
白髪に銀縁の眼鏡。身体に合っていないスーツを身につけて、彼女よりずいぶん、年上だった。
あの、エロジジイ。
心中で毒づく。
「梅雨は、なんやすっきりせえへんから」
独り言のような呟きが聞こえて、俺は意識をヨーコさんの方に戻した。
もったいない。せっかく二人でいられる時間を、くだらないオヤジのことに気をとられて過ごすなんて。
思いながら、その横顔を見る。
「ゆっくり美味しいものでも食べたくなるな」
言う目はちっとも俺のことを見ていないのだけれど、俺は目を輝かせた。
「し、調べます!」
「うち何も言うてへんで」
「美味しいもの食べに行くんでしょう!?」
「だからあんたと行くて言うてへん」
「イタリアンがいいですか? それともスパニッシュ? あ、思いきってフレンチとか!」
「お店だけ教えてもらえば一人で行くで」
「駄目です! 変な男に絡まれたらどうするんですか!」
ヨーコさんは少しだけ、眉を寄せた。
不服げに俺を見る目を、無言の賛同と取る。
「じゃ、後でメッセージ送りますから。午前中に調べて、昼の間で選んでもらって、午後予約すれば」
「こら。仕事してへんことになってんで」
「今日の仕事は店探しです! そうだ、マーシーにも聞いてみよっと。いい店知ってるかも」
ヨーコさんは完全にあきれた顔で俺を見ていたけど、やれやれとため息をついて前に向き直った。
雨はしとしとじとじとと降り続くのではなく、ざー、とスコールのように降っては止み、降っては止む。そんな南国のような気候に、うっかり者の俺はずぶ濡れになることも度々あった。
「おはよーございますっ」
朝、ヨーコさんは半々くらいで挨拶を返してくれるようになり、その後も俺が隣を歩くのを許してくれるようになった。
相槌すらほとんど返してくれないけど、俺が一方的に話しながら会社へと向かう。
「はやく梅雨明けしてほしいっすよね。昨日、ゲリラが降るっていうから、傘持ってったんすけど、帰りに会社に置いてっちゃって。こっち出るとき降ってなかったんすけど、家の最寄り駅ついたら降り始めたんすよね。ダッシュすれば大丈夫かと思ったらびっちょびちょ。しかも家についたら止むし。駅で少し様子見りゃよかったって大後悔っすよ」
ヨーコさんはちらりと俺の横顔を見て、また前を向く。その表情は笑んだような無表情のまま、変わらない。
「せっかく傘持って行ったのに骨折り損ですよね。でも今朝雨降らなくてよかったです。大学の時、うっかり傘忘れてその場しのぎで買ってたら、ビニール傘が十本以上になっちゃって。玄関先傘だらけ。コレクターかって笑われるくらいでしたね。コンビニ傘とか100均の傘とか駅の売店の傘とか、より取り見取り」
「……ビニール傘やのに、どうしてどれがどれか分かるん」
あっ。反応してくれた。
ヨーコさんの問い掛けに、俺は内心の動揺を押し隠しながら答える。
「あれですよ、シールです。レジで貼ってくれるじゃないですか、お店のシール。それがものによって違うんで、すぐ分かるんですよ。これはあの駅で買ったやつだなとか、これは大学の売店だなとか」
何となく言い方が誇らしげになった。
ヨーコさんが噴き出す。
「あんた、阿呆やなぁ」
俺が言う冗談は笑わないのだけど、ときどきこうして笑いはじめることがある。これが狙ってできればいいのに、といつも思うけど、ヨーコさんの笑いのツボはよく分からない。でも逆に、ヨーコさんに言わせれば、俺の話のツボがよく分からないから、つい笑ってしまうんだろう。
口元を押さえて笑う横顔に、俺もつい、笑顔になる。
あー、今日はいい一日だ。
もうこれだけで俺の仕事終わりって帰ってもいいくらい。いっそ帰宅して祝杯をあげたいくらいだ。
そのとき、ヨーコさんのかばんの中から、小さな音がした。
ヨーコさんはかばんからスマホを取出し、画面をタップする。
その瞬間、スイッチが切り替わったように表情が戻った。
いつもの無表情。
誰だよ、くそ。
心中で毒づく。
せっかく可愛い笑顔だったのに。しかもそれを独り占めしていたのに。ヨーコさんも楽しそうだったのに。
「……どうかしました?」
「うん? ああ……」
ヨーコさんは俺の顔をちらりと見て、繕ったような、自嘲気味な笑みを口元に浮かべて、スマホの画面を落とすとまたかばんにしまい込んだ。
「何でも」
声からはすっかり、感情が抜け落ちている。
俺の胸は痛んだ。
男からだ。
直感的にそう思ったけど、だからといって俺が何をできるわけでもない。
いや、ヨーコさんに頼まれれば何でもするけど、ヨーコさんが俺に何かを頼むことはないだろう。
どこのどいつか分かっていれば、門倉のように黙らせてやるのに。
二度と彼女に手出しできないようにしてやるのに。
脳裏をかすめるのは、いつかホテル街で見たもう一人の男の姿だ。
白髪に銀縁の眼鏡。身体に合っていないスーツを身につけて、彼女よりずいぶん、年上だった。
あの、エロジジイ。
心中で毒づく。
「梅雨は、なんやすっきりせえへんから」
独り言のような呟きが聞こえて、俺は意識をヨーコさんの方に戻した。
もったいない。せっかく二人でいられる時間を、くだらないオヤジのことに気をとられて過ごすなんて。
思いながら、その横顔を見る。
「ゆっくり美味しいものでも食べたくなるな」
言う目はちっとも俺のことを見ていないのだけれど、俺は目を輝かせた。
「し、調べます!」
「うち何も言うてへんで」
「美味しいもの食べに行くんでしょう!?」
「だからあんたと行くて言うてへん」
「イタリアンがいいですか? それともスパニッシュ? あ、思いきってフレンチとか!」
「お店だけ教えてもらえば一人で行くで」
「駄目です! 変な男に絡まれたらどうするんですか!」
ヨーコさんは少しだけ、眉を寄せた。
不服げに俺を見る目を、無言の賛同と取る。
「じゃ、後でメッセージ送りますから。午前中に調べて、昼の間で選んでもらって、午後予約すれば」
「こら。仕事してへんことになってんで」
「今日の仕事は店探しです! そうだ、マーシーにも聞いてみよっと。いい店知ってるかも」
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