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第四章 二人の生活
02 不協和音
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翌日、出勤すると課長であるマーシーに挨拶に行った。
彼は気を効かせて、個人的に香典を、会社からは伝報を手配してくれたのだ。
立つ俺に合わせて立ち上がったマーシーは、大変だったなと労うと言った。
「で、ヨーコさんは戻って来るのか?」
呼び名が変わっていて笑いそうになる。マーシーは主義を改めたらしい。俺の気持ちを察したのか、「まあ、確かに失礼だなと思ってな」と肩をすくめた。
「義母も帰っていいと言ってたんですけどね。ああそうですかと放って来れるひとじゃないですから」
「だろうな」
マーシーは苦笑して、俺の肩を叩く。
「ま、もう少しの辛抱かな。無理するなよ」
「少しは充電できましたから、大丈夫です」
笑い返すと、マーシーはふっと笑って軽く俺の肩をたたき、デスクに座った。
俺も部下の一人一人に声をかけながら、不在の間の様子を聞いていく。アンナにはすでに昨日聞いたので簡単に済ませると、周囲が不思議そうな顔をした。
「アンナとは昨日会ったから。な」
「あ、はい」
俺とアンナが目を合わせると、周囲はますます不思議そうに顔を見合わせた。
俺がコップを手に立ち上がろうとすると、部下から声がかかった。
「今日、コーヒーメーカー不調らしいっすよ。上か下でもらって来ないと」
「あ、そうなの」
聞いた途端、いれに行くのが面倒になる。たまった仕事を片付けていればすぐ昼だろうと、俺は椅子に座り直した。
午前も折り返しの時間になった頃、手洗いへ立った俺は、手洗い横の階段を上がって来るアンナを見つけた。両手に一つずつ、なみなみとコーヒーが入ったコップを持ち、慎重に歩いている。
「なんだ、アンナ。誰かに頼まれた?」
声をかけたタイミングが悪かったらしい。アンナは俺の顔を見てはっとするや、最後の一段でワイドパンツの裾を踏んだ。
「あっ」
悲鳴未満の息遣いがアンナから聞こえた。体勢を崩したのを見て取り、俺は慌てて手を差し出す。
彼女の体勢を支えることだけを考えていたので、その手に持ったコーヒーが胸元にかかる。
「あっつ!」
「あぁっ」
俺の声に、アンナがうろたえる。混乱したらしい彼女は、ズボンの裾を整えるより先に、俺の胸元をどうにかしようとしたのだろう。さらにつんのめって、思い切り俺の胸の中に倒れ込んできた。
コップの中のものがかからないようにと、彼女の両腕を外に反らした結果、俺は思い切り彼女の身体を抱き留める形になった。
コーヒーがこぼれ、紙コップが床に落ちる音が足元に聞こえる。
「あっ、ぶねー」
はぁ、と息を吐き出すと、アンナが硬直していることに気づいた。
「びっくりしたね。大丈夫?」
「だ、だいじょぶです、すみませーー」
アンナが一歩後ろに下がったとき、そのヒールが階段を踏み外した。
おいおいおいっ。
慌てて腕を引き、腰を引き寄せる。咄嗟だったのであれこれ考える余裕はなかった。アンナが大きく目を見開き、俺を見上げる。
「っぶね……君、ほんと大丈夫? なんか今日、変だよ」
慎重にアンナをステップから遠ざけて手を離すと、まず胸元の被害状況を確認。
うぁっちゃ。ネクタイにかかってるよ……こりゃもうダメだな。ヨーコさんにもらったやつじゃなくてよかった。シャツもこの位置だとどうかな……すぐ洗えばどうにかなるけど着替えがな……義父のことがあったから、前までは持ち歩いてたけど、今日はさすがに持ってきてない。スーツに飛んでなさそうなのが救いか。
ついで床を見る。2つのコップとこぼれたコーヒー。一つのコップは奇跡的に、そこに置かれたかのように着地している。
さて、モップはどこにあったっけ……
思ったところで、アンナが動きを止めたままなのに気づいた。見やると、やや潤んだ目で俺を見上げている。その頬が少し赤く見えるのは、羞恥のせいか罪悪感のせいか。
「よかったね、怪我しなくて」
「す……すみません」
アンナはうつむき、吐息のような声で謝罪の言葉を口にした。
あー、こういう声、好きなやついるだろうな。
ふと思いつつ、別に、と答える。
マーシーあたり、ワイシャツの換え持ってないかな。ちょっと聞いてみよう。
「えーと。モップどこにあるかな。一緒に探して片付けよう」
「あ、いえ……私一人でやります」
「そう?」
俺が問うと、アンナがこくりとうつむく。心底反省している様子だったので、罪滅ぼしのつもりかと、任せることにした。
「じゃあ、お願いするよ」
「あの……シャツ、クリーニング代出します」
「んー、自分で洗う主義だから」
「ね、ネクタイも……新しいものでも」
「いいよ、どうせ消耗品だし」
アンナはじっと動かない。そんなつもりはなかったが冷たかったかと彼女を見やる。
「誰かに頼まれたの?」
「え?」
「2杯分、持ってたから」
転がった二つのコップを示すと、アンナは目をさまよわせてうつむいた。
なんとなく、泣きそうに見える。
「……チーフの分も、ついでにと、思っただけです」
俺はまばたきして、「あ、そう」と答え、きちんと着地していた方のカップを手にした。残った2口分を飲み干し、もう一つの転がったカップに重ねる。
「ん、美味い。サンキュ」
2つのカップを持って手を挙げると、アンナは困惑と安堵の間のような顔をして俺を見上げた。
さーて、誰かワイシャツ持ってねーかなぁ。
俺は後をアンナに任せ、まずは広報課長のもとへ足を向けた。
彼は気を効かせて、個人的に香典を、会社からは伝報を手配してくれたのだ。
立つ俺に合わせて立ち上がったマーシーは、大変だったなと労うと言った。
「で、ヨーコさんは戻って来るのか?」
呼び名が変わっていて笑いそうになる。マーシーは主義を改めたらしい。俺の気持ちを察したのか、「まあ、確かに失礼だなと思ってな」と肩をすくめた。
「義母も帰っていいと言ってたんですけどね。ああそうですかと放って来れるひとじゃないですから」
「だろうな」
マーシーは苦笑して、俺の肩を叩く。
「ま、もう少しの辛抱かな。無理するなよ」
「少しは充電できましたから、大丈夫です」
笑い返すと、マーシーはふっと笑って軽く俺の肩をたたき、デスクに座った。
俺も部下の一人一人に声をかけながら、不在の間の様子を聞いていく。アンナにはすでに昨日聞いたので簡単に済ませると、周囲が不思議そうな顔をした。
「アンナとは昨日会ったから。な」
「あ、はい」
俺とアンナが目を合わせると、周囲はますます不思議そうに顔を見合わせた。
俺がコップを手に立ち上がろうとすると、部下から声がかかった。
「今日、コーヒーメーカー不調らしいっすよ。上か下でもらって来ないと」
「あ、そうなの」
聞いた途端、いれに行くのが面倒になる。たまった仕事を片付けていればすぐ昼だろうと、俺は椅子に座り直した。
午前も折り返しの時間になった頃、手洗いへ立った俺は、手洗い横の階段を上がって来るアンナを見つけた。両手に一つずつ、なみなみとコーヒーが入ったコップを持ち、慎重に歩いている。
「なんだ、アンナ。誰かに頼まれた?」
声をかけたタイミングが悪かったらしい。アンナは俺の顔を見てはっとするや、最後の一段でワイドパンツの裾を踏んだ。
「あっ」
悲鳴未満の息遣いがアンナから聞こえた。体勢を崩したのを見て取り、俺は慌てて手を差し出す。
彼女の体勢を支えることだけを考えていたので、その手に持ったコーヒーが胸元にかかる。
「あっつ!」
「あぁっ」
俺の声に、アンナがうろたえる。混乱したらしい彼女は、ズボンの裾を整えるより先に、俺の胸元をどうにかしようとしたのだろう。さらにつんのめって、思い切り俺の胸の中に倒れ込んできた。
コップの中のものがかからないようにと、彼女の両腕を外に反らした結果、俺は思い切り彼女の身体を抱き留める形になった。
コーヒーがこぼれ、紙コップが床に落ちる音が足元に聞こえる。
「あっ、ぶねー」
はぁ、と息を吐き出すと、アンナが硬直していることに気づいた。
「びっくりしたね。大丈夫?」
「だ、だいじょぶです、すみませーー」
アンナが一歩後ろに下がったとき、そのヒールが階段を踏み外した。
おいおいおいっ。
慌てて腕を引き、腰を引き寄せる。咄嗟だったのであれこれ考える余裕はなかった。アンナが大きく目を見開き、俺を見上げる。
「っぶね……君、ほんと大丈夫? なんか今日、変だよ」
慎重にアンナをステップから遠ざけて手を離すと、まず胸元の被害状況を確認。
うぁっちゃ。ネクタイにかかってるよ……こりゃもうダメだな。ヨーコさんにもらったやつじゃなくてよかった。シャツもこの位置だとどうかな……すぐ洗えばどうにかなるけど着替えがな……義父のことがあったから、前までは持ち歩いてたけど、今日はさすがに持ってきてない。スーツに飛んでなさそうなのが救いか。
ついで床を見る。2つのコップとこぼれたコーヒー。一つのコップは奇跡的に、そこに置かれたかのように着地している。
さて、モップはどこにあったっけ……
思ったところで、アンナが動きを止めたままなのに気づいた。見やると、やや潤んだ目で俺を見上げている。その頬が少し赤く見えるのは、羞恥のせいか罪悪感のせいか。
「よかったね、怪我しなくて」
「す……すみません」
アンナはうつむき、吐息のような声で謝罪の言葉を口にした。
あー、こういう声、好きなやついるだろうな。
ふと思いつつ、別に、と答える。
マーシーあたり、ワイシャツの換え持ってないかな。ちょっと聞いてみよう。
「えーと。モップどこにあるかな。一緒に探して片付けよう」
「あ、いえ……私一人でやります」
「そう?」
俺が問うと、アンナがこくりとうつむく。心底反省している様子だったので、罪滅ぼしのつもりかと、任せることにした。
「じゃあ、お願いするよ」
「あの……シャツ、クリーニング代出します」
「んー、自分で洗う主義だから」
「ね、ネクタイも……新しいものでも」
「いいよ、どうせ消耗品だし」
アンナはじっと動かない。そんなつもりはなかったが冷たかったかと彼女を見やる。
「誰かに頼まれたの?」
「え?」
「2杯分、持ってたから」
転がった二つのコップを示すと、アンナは目をさまよわせてうつむいた。
なんとなく、泣きそうに見える。
「……チーフの分も、ついでにと、思っただけです」
俺はまばたきして、「あ、そう」と答え、きちんと着地していた方のカップを手にした。残った2口分を飲み干し、もう一つの転がったカップに重ねる。
「ん、美味い。サンキュ」
2つのカップを持って手を挙げると、アンナは困惑と安堵の間のような顔をして俺を見上げた。
さーて、誰かワイシャツ持ってねーかなぁ。
俺は後をアンナに任せ、まずは広報課長のもとへ足を向けた。
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