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(27)風の谷
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紘孝は宮地行きの最終列車に飛び乗り、鮎美のもとへ向かった。
鮎美と暮したい、彼と彼女との子供に日の目を見せてやりたい・・・その一心から彼はどんなに叱責されても、なじられても、そして泣きながらの罵声を浴びせられても、屈しなかった。
たとえそれが、両親から見たら独り善がりの勝手な言い分であろうとも、しかし彼にとっては鮎美を守るための一生懸命の・・・それこそ命懸けの事だった。
とうとう父親が根負けし、「勝手にしろ。おまえはうちの者じゃない」と怒鳴った。
売り言葉に買い言葉で、紘孝は家を飛び出した。
両親を納得させたうえで阿蘇に向かいたかったが、それは叶わなかった。
飛び出して阿蘇に向かったものの、立野で降りたら高森行きのレールバスは最終が出ていってしまった後だった。
彼はためらった末、公衆電話から鮎美に電話をかけた。
彼女は、紘孝にその場にいるようにと言い、電話を切った。
暗い駅前に、冷たい風が勢いよく通り過ぎていた。
(立野は風の谷ぞ)
誰かが言ったセリフが、頭に浮かんできた。
本当かどうかは知らないが、阿蘇の火口原に広がる南郷谷、阿蘇谷のふたつの広い谷を吹き渡った風が立野で合流し、強さを増して熊本の平野へ吹き抜けていくのだという。
震えながら待っていると、一台の軽ワゴンのヘッドランプが彼を照らした。
鮎美と、鈴木さんだった。
紘孝を拾うと、軽ワゴンは高森方面へ勢いよく走りだした。
運転席の鈴木さんと、助手席の鮎美は、無言のままだった。
紘孝も、静かに湧いてくる辛い気持ちを飲み込みながら、シートが折り畳まれたままの後部座席で黙っていた。
・・・
夏に鮎美と泊まった事のあるペンションふう民宿の食堂で、鈴木さん夫婦と、紘孝と鮎美の4人が一つのテーブルに着いた。
鈴木さんは紘孝を迎えに行く道中で鮎美からすべてを聞き出していたらしく、まず、すべての経緯が鈴木さんの口から順に語られ、それに鮎美と紘孝が質問に答える形で話を継いでいった。
初夏、緑の風の中で出会った頃のこと。
梅雨から盛夏にかけて親密になっていった事。
そして、体を交えた時の事。
大雑把であるが二人が歩んできた道をたどっていった。
それから、鈴木さんは厳しい顔をさらに険しくして、紘孝と鮎美を問いただした。
自分たちの置かれている状況・・・高校生であり、社会生活を営むにも未熟で、一人前として認められていない事、特に鮎美にとっては家庭の事情も承知の上で、対策もせずにセックスをしたのか、と。
沈黙の後、紘孝が答えた。
「そんな事、思いもしませんでした・・・」
「だろうな。若か時分は、そん時そん時を生きるのが楽しくて、後先の事ば考えずに、向こう見ずになるもんな」
鈴木さんは、腕組みをしながら頷いた。
鈴木さんの奥さんは、鮎美に訊ねた。
「鮎美ちゃん、それで、赤ちゃんは、どうするの?」
「産みます」
鮎美は即座に、きっぱりと答えた。
すると間髪を入れずに、鈴木さんは言った。
「ばってんが、どうやって暮していくと? 子供ちゅうのはカネがかかるもんよ。カネだけじゃなくて、それ以上に愛情も注いでいかんとならん。それをどうするつもりね」
鮎美は、黙り込んだ。
今度は紘孝が言った。
「バイトでもなんでもして、僕が稼ぎます。好き嫌い言わずに、どんな仕事でもします。鮎美のためだったら、鮎美を守るためだったら、鮎美と一緒に暮らせるんだったら、どんな苦労も構いません」
それは、彼自身の心のうちに固まった、決意だった。
そして彼は、改めて言った。
「そこで、お願いがあります。僕がそれなりに稼げるようになるまで、鮎美だけは、ここに居させてください」
紘孝は、頭を下げた。
しかし、いきなり鈴木さんはテーブルを叩いた。
「馬鹿者! たった今、『鮎美と一緒に暮らす』、そう言ったろうが! あゆさんを守るのは、あんたしか居らんじゃないのか? それなのに、今度は鮎美をここに居させてくれ、だと? その間、あんたはどうするつもだ? 甘えを言うのもたいがいにせい!」
「あなた!」
鈴木さんを、奥さんがたしなめた。
紘孝は、どうすれば良いのか分からないままに、もっと深く頭を下げた。
「すみません。でも、今はそうするより他にないんです。僕は、僕の親を納得させる事ができませんでした。僕はまだ、鮎美を守ってやりたいと思っても、まだまだ非力なんです。このまま生活したら、鮎美を傷付けてしまう事になるんです。もうこれ以上、鮎美を傷付けたくないんです。・・・僕には鮎美はたったひとりのかけがえのない人だから」
「甘っちょろいなぁ」鈴木さんはため息をついた。「それで君は、どうやって生計を立てていくつもりか? 世間は、世間知らずの君たちが簡単に思うほど甘くはないんだが」
鮎美が言った。
「私も、できる限り頑張ります。守ってもらうだけじゃなくて、私も一緒になって生活を守ります」
鈴木さんは、さらに深いため息をついた。
奥さんは、黙ったままだった。
柱に掛かったゼンマイ式の振り子時計が、鈍い鐘の音で1時半を告げた。
夜の時間は静かに流れているようだった。
それを合図にするかのように、鈴木さんは腕組みを解いた。
「まぁ、話はわかった。ふたりとも覚悟はできているようだけん・・・ここで暮すとヨカ。ちょうど来年から農園ば広げようと思うとったけん、それにはどうしても人手が要るけんなぁ」
紘孝は思わぬ提案に、顔を上げて鈴木さんの強面のひげ面を見詰めた。
鈴木さんは、静かに微笑んだ。
「俺もあゆさんの家族にたいがい助けられたもん、今度は俺があゆさんと、その大切な人ば助ける番たいね」
そう言って、奥さんの方を向いた。
「これで、ヨカね?」
「いいですよ。私たちは、初めから鮎美ちゃんを見捨てる事はできないですよ」
奥さんも綺麗な顔に安堵を交えた微笑をたたえて答えた。
初めからそのつもりだったと言うのだろうか。
ともあれ、紘孝と鮎美は、鈴木さんの取り計らいにふたりして頭を下げた。
鮎美と暮したい、彼と彼女との子供に日の目を見せてやりたい・・・その一心から彼はどんなに叱責されても、なじられても、そして泣きながらの罵声を浴びせられても、屈しなかった。
たとえそれが、両親から見たら独り善がりの勝手な言い分であろうとも、しかし彼にとっては鮎美を守るための一生懸命の・・・それこそ命懸けの事だった。
とうとう父親が根負けし、「勝手にしろ。おまえはうちの者じゃない」と怒鳴った。
売り言葉に買い言葉で、紘孝は家を飛び出した。
両親を納得させたうえで阿蘇に向かいたかったが、それは叶わなかった。
飛び出して阿蘇に向かったものの、立野で降りたら高森行きのレールバスは最終が出ていってしまった後だった。
彼はためらった末、公衆電話から鮎美に電話をかけた。
彼女は、紘孝にその場にいるようにと言い、電話を切った。
暗い駅前に、冷たい風が勢いよく通り過ぎていた。
(立野は風の谷ぞ)
誰かが言ったセリフが、頭に浮かんできた。
本当かどうかは知らないが、阿蘇の火口原に広がる南郷谷、阿蘇谷のふたつの広い谷を吹き渡った風が立野で合流し、強さを増して熊本の平野へ吹き抜けていくのだという。
震えながら待っていると、一台の軽ワゴンのヘッドランプが彼を照らした。
鮎美と、鈴木さんだった。
紘孝を拾うと、軽ワゴンは高森方面へ勢いよく走りだした。
運転席の鈴木さんと、助手席の鮎美は、無言のままだった。
紘孝も、静かに湧いてくる辛い気持ちを飲み込みながら、シートが折り畳まれたままの後部座席で黙っていた。
・・・
夏に鮎美と泊まった事のあるペンションふう民宿の食堂で、鈴木さん夫婦と、紘孝と鮎美の4人が一つのテーブルに着いた。
鈴木さんは紘孝を迎えに行く道中で鮎美からすべてを聞き出していたらしく、まず、すべての経緯が鈴木さんの口から順に語られ、それに鮎美と紘孝が質問に答える形で話を継いでいった。
初夏、緑の風の中で出会った頃のこと。
梅雨から盛夏にかけて親密になっていった事。
そして、体を交えた時の事。
大雑把であるが二人が歩んできた道をたどっていった。
それから、鈴木さんは厳しい顔をさらに険しくして、紘孝と鮎美を問いただした。
自分たちの置かれている状況・・・高校生であり、社会生活を営むにも未熟で、一人前として認められていない事、特に鮎美にとっては家庭の事情も承知の上で、対策もせずにセックスをしたのか、と。
沈黙の後、紘孝が答えた。
「そんな事、思いもしませんでした・・・」
「だろうな。若か時分は、そん時そん時を生きるのが楽しくて、後先の事ば考えずに、向こう見ずになるもんな」
鈴木さんは、腕組みをしながら頷いた。
鈴木さんの奥さんは、鮎美に訊ねた。
「鮎美ちゃん、それで、赤ちゃんは、どうするの?」
「産みます」
鮎美は即座に、きっぱりと答えた。
すると間髪を入れずに、鈴木さんは言った。
「ばってんが、どうやって暮していくと? 子供ちゅうのはカネがかかるもんよ。カネだけじゃなくて、それ以上に愛情も注いでいかんとならん。それをどうするつもりね」
鮎美は、黙り込んだ。
今度は紘孝が言った。
「バイトでもなんでもして、僕が稼ぎます。好き嫌い言わずに、どんな仕事でもします。鮎美のためだったら、鮎美を守るためだったら、鮎美と一緒に暮らせるんだったら、どんな苦労も構いません」
それは、彼自身の心のうちに固まった、決意だった。
そして彼は、改めて言った。
「そこで、お願いがあります。僕がそれなりに稼げるようになるまで、鮎美だけは、ここに居させてください」
紘孝は、頭を下げた。
しかし、いきなり鈴木さんはテーブルを叩いた。
「馬鹿者! たった今、『鮎美と一緒に暮らす』、そう言ったろうが! あゆさんを守るのは、あんたしか居らんじゃないのか? それなのに、今度は鮎美をここに居させてくれ、だと? その間、あんたはどうするつもだ? 甘えを言うのもたいがいにせい!」
「あなた!」
鈴木さんを、奥さんがたしなめた。
紘孝は、どうすれば良いのか分からないままに、もっと深く頭を下げた。
「すみません。でも、今はそうするより他にないんです。僕は、僕の親を納得させる事ができませんでした。僕はまだ、鮎美を守ってやりたいと思っても、まだまだ非力なんです。このまま生活したら、鮎美を傷付けてしまう事になるんです。もうこれ以上、鮎美を傷付けたくないんです。・・・僕には鮎美はたったひとりのかけがえのない人だから」
「甘っちょろいなぁ」鈴木さんはため息をついた。「それで君は、どうやって生計を立てていくつもりか? 世間は、世間知らずの君たちが簡単に思うほど甘くはないんだが」
鮎美が言った。
「私も、できる限り頑張ります。守ってもらうだけじゃなくて、私も一緒になって生活を守ります」
鈴木さんは、さらに深いため息をついた。
奥さんは、黙ったままだった。
柱に掛かったゼンマイ式の振り子時計が、鈍い鐘の音で1時半を告げた。
夜の時間は静かに流れているようだった。
それを合図にするかのように、鈴木さんは腕組みを解いた。
「まぁ、話はわかった。ふたりとも覚悟はできているようだけん・・・ここで暮すとヨカ。ちょうど来年から農園ば広げようと思うとったけん、それにはどうしても人手が要るけんなぁ」
紘孝は思わぬ提案に、顔を上げて鈴木さんの強面のひげ面を見詰めた。
鈴木さんは、静かに微笑んだ。
「俺もあゆさんの家族にたいがい助けられたもん、今度は俺があゆさんと、その大切な人ば助ける番たいね」
そう言って、奥さんの方を向いた。
「これで、ヨカね?」
「いいですよ。私たちは、初めから鮎美ちゃんを見捨てる事はできないですよ」
奥さんも綺麗な顔に安堵を交えた微笑をたたえて答えた。
初めからそのつもりだったと言うのだろうか。
ともあれ、紘孝と鮎美は、鈴木さんの取り計らいにふたりして頭を下げた。
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