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第1章
(1)吹きすさぶ風の夜に
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平成4年、1月。
冬至を過ぎ、さらに新しい年が明けてから昼の長さは日一日と伸びてきた。
しかし風はいよいよ冷たく吹きすさみ、本当の春はまだ遠い先のことに思われた。
折しもその日は午前中に低気圧が通過していた。
その名残のちぎれ雲が残照に赤く染まりながら、季節風とともに南へと流れていった。
牧雄は高校からの帰りだった。
街道沿いの住宅地から、だらだら続く緩い坂を上っていた。
10分ほど上ると、なだらかな丘の上に5階建ての鉄筋アパートが16棟並ぶだけの団地に至る。
牧雄の家は、その中にあった。
市の住宅公社が造ったその団地は、少し前までは四方を雑木林に囲まれていた。
街道からの唯一の道も団地で行き止まりとなっていたので、住人とは関係ない車は侵入してこなかった。
隠れ里にも似て、そのような団地のある事さえ忘れ去られているのではないだろうかとさえ思われた。
市街地とも程よい距離で隔てられていたので空気が澄んでいて、夜には星がきれいに見えた。
それが最近になって土地区画整理組合の主導で雑木林を伐り払い、土地を均らして大規模な団地の建設が始まった。
ところが昨年の秋に資金面での問題が発生したとかで、もとからある団地の手前に工事中の荒涼とした造成地が広がったまま放置されている。
牧雄は両側を有刺鉄線や鉄柵に挟まれた吹きさらしの坂道を一人、首をすくめながら上って行った。
造成工事の始まる以前は、昼でも暗い雑木林の中の細道だった。
防犯燈の間隔が長く、見通しも悪く、夜には大人でも気味の悪い道。
それが今では舗装工事の途中ではあるが道幅が広がり、明りも増えた。
そして造成地の中に続く道の向うには公社住宅が、あたかも上着を剥ぎ取られたかのように寒々と並んで見えるようになった。
上り坂の途中で時折彼は立ち止まり、深く息をついた。
いつもならばそのような事はなく、団地まで休まず歩くのだが。
しかしその時は、妙に苦しかった。
彼はその日に限って、朝から胸の重苦しさをどうしようもできないでいた。
彼は胸の重苦しさのさらに奥底に、熱くふつふつと煮えたぎった何かがあるのを感じていた。
それは出口を求めて胸を内側から圧迫している、そのような感じだった。
そしてそれを、強い意思の力で封じ込めるのに精いっぱいだった。
・・・その重苦しさはどこから来るのか。
牧雄は大学受験生。
第一志望の大学の試験まで一月ほどとなっていた。
しかし、受験を控えた事によるストレスといったものとは違った苦しさだった。
もっと深く、心の根源的なところからくる辛い苦しみ、心臓と肺が圧迫されて絞られるような苦しさだった。
黙々と歩いていた牧雄は、ふと顔を上げる。
明かりの灯り始めた公社住宅を見やり、そこで足を止めた。
その時だった。
一人の少女の影が牧雄の胸の内に甦ってきた。
同時に胸の痛みと息苦しさが、刺し込むように、それまでになく烈しく襲ってきた。
そのまま放っておくと、胸の奥底に押し込められているものが爆発し噴出するように思われた。
その少女は牧雄にとっては、思い出してはならない忘れ去ってしまわなければならない存在だった。
本当は彼にとってかけがえのない大切な少女だったのだが、思い出したら彼の心は収拾のつかないまで乱れてしまう事を彼は自覚している。
だからこそ、思い出さないように努めてきたのだ。
それが、不意に、突拍子もなく現れてきた。
牧雄はうろたえた・・・足が停まりそうになった。
脂汗が額に浮かび、息ができなくなった。
目の前が真っ暗になろうとした時、牧雄は突っ走りだした。
全てを振り切ろうと、走った。
無我夢中で走った。
烈しく冷たい一陣の風が真正面からぶつかってきたが、彼は風に抗いながら走っていった。
・・・
風は夜更けになっても強く吹いていた。
牧雄は、眠れないままベッドに横になっていた。
普段ならば、まだ勉強しているはずの時間だった。
勉強しようとしたが、無駄だった。
胸の奥底のものが暴れ、騒ぎ、それに紛れてある少女の影が忍び寄ろうとするのを感じ、全く手に付かなかった。
無理に勉強しても意味がない・・・と自分に言い聞かせ、仕方なく寝ることにしたのだ。
しかし、ベッドに入っても胸の苦しさは収まらず、かえって落着かなくなるばかりだ。
これほどまでに彼を苦しめる、胸の奥底に押し込められたもの・・・それをどうにかしてしまわなければならない。
だが、どうすれば良いのか、全く分からなかった。
外を吹き抜ける風の音は途切れながらもアルミサッシの窓を通して聞こえてきた。
それもひどく神経に障った。
牧雄は耳をふさぎ、体を海老のように丸め、布団を頭からかぶっていた。
そうして眠りを待っていたが、眼は一層冴えてくるのだった。
そんな時だった。
風の音にかき消されながら、ある音がどこか遠くから耳に微かに響いてくるのに気が付き、手を耳から放した。
それは、何か堅いものどうしがぶつかり合うような音だった。
そして、からーん、からからーん、と間隔をおいて聞こえてきた。
乾いた無機的な響きだったが、温かさと懐かしさとがその度に呼び起こされる・・・そんな音。
牧雄の胸の奥底のものは、音に呼応して脈打つ。
心臓の高鳴るのを感じ、彼は布団から跳び起き、窓辺に立った。
カーテンをわずかにめくり、ガラスにびっしりと付いた結露を拭い、外を覗う。
アパートとアパートとの間の、駐車場とわずかばかりの空き地とが水銀灯の白い明りに照らされているのが見えた。
しかし音の出どころについての手がかりとなるようなものは、視野に入らない。
牧雄は窓から離れると急いで着替え、厚い上着を羽織った。
突き動かされるように、気持ちがはやるのを感じた。
朝が早い仕事のためにすでに寝入っている母親を起こさないよう、忍び足で玄関に向かい、気を付けて外に出る。
外は思っていた以上の寒さだった。
身を切るような冷たい風が間断的に襲ってきて、電線が悲鳴にも似た音をたてていた。
両側に建つアパートの窓窓が牧雄を見下ろしていたが、そのほとんどは明りを消して寝静まっている。
水銀灯の明りも、ただただ冷たく、ひと気の全くない駐車場を照らすだけだった。
水銀灯の下に立って、牧雄は耳を澄ませ、気になるその音を聞こうとした。
音は、確かに聞こえてきた。
だが、初めに聞いた時よりは、ほんのわずかの風にもかき消されるほどに小さくなっている。
(待ってくれ)
牧雄は、いまにも消えそうな音の聞こえてくる方角を確かめようと、耳をそばだてながら辺りを見回した。
しかし、程なく音は聞こえなくなってしまった。
牧雄は迷った。
迷った末、当てずっぽうで、ある方角をめざし歩きはじめた。
その先には、団地の西のはずれに造られた小さな公園がある。
公園にたどり着き、塗装も剥げたコンクリートのベンチの前で歩みを止めた。
やはり音は聞こえてこなかった。
どうしたものか、また迷った。
迷いながら、空を仰ぐ。
無数の星が瞬いていた。
西の空、はるかな山の端の上に、六つの星の粒・・・昴も見えた。
牧雄は思わず昴を凝視する。
「あの夜と、同じだ」
胸の奥底で、何かがまた激しく騒いだ。
無意識のうちに、ある名前を呼んだ。
「彰子・・・アキコ」
その途端、胸の奥底のものを堰きとめていた意志の塊が烈しい衝撃とともに砕け、間を置かず、身を爛れさせんばかりの熱を伴った感情が渦を巻き、堰を切ったように迸り出た。
牧雄は、わななき、眼は昴に釘付けにされたまま、どうしようもなくベンチに腰を落とした。
冬至を過ぎ、さらに新しい年が明けてから昼の長さは日一日と伸びてきた。
しかし風はいよいよ冷たく吹きすさみ、本当の春はまだ遠い先のことに思われた。
折しもその日は午前中に低気圧が通過していた。
その名残のちぎれ雲が残照に赤く染まりながら、季節風とともに南へと流れていった。
牧雄は高校からの帰りだった。
街道沿いの住宅地から、だらだら続く緩い坂を上っていた。
10分ほど上ると、なだらかな丘の上に5階建ての鉄筋アパートが16棟並ぶだけの団地に至る。
牧雄の家は、その中にあった。
市の住宅公社が造ったその団地は、少し前までは四方を雑木林に囲まれていた。
街道からの唯一の道も団地で行き止まりとなっていたので、住人とは関係ない車は侵入してこなかった。
隠れ里にも似て、そのような団地のある事さえ忘れ去られているのではないだろうかとさえ思われた。
市街地とも程よい距離で隔てられていたので空気が澄んでいて、夜には星がきれいに見えた。
それが最近になって土地区画整理組合の主導で雑木林を伐り払い、土地を均らして大規模な団地の建設が始まった。
ところが昨年の秋に資金面での問題が発生したとかで、もとからある団地の手前に工事中の荒涼とした造成地が広がったまま放置されている。
牧雄は両側を有刺鉄線や鉄柵に挟まれた吹きさらしの坂道を一人、首をすくめながら上って行った。
造成工事の始まる以前は、昼でも暗い雑木林の中の細道だった。
防犯燈の間隔が長く、見通しも悪く、夜には大人でも気味の悪い道。
それが今では舗装工事の途中ではあるが道幅が広がり、明りも増えた。
そして造成地の中に続く道の向うには公社住宅が、あたかも上着を剥ぎ取られたかのように寒々と並んで見えるようになった。
上り坂の途中で時折彼は立ち止まり、深く息をついた。
いつもならばそのような事はなく、団地まで休まず歩くのだが。
しかしその時は、妙に苦しかった。
彼はその日に限って、朝から胸の重苦しさをどうしようもできないでいた。
彼は胸の重苦しさのさらに奥底に、熱くふつふつと煮えたぎった何かがあるのを感じていた。
それは出口を求めて胸を内側から圧迫している、そのような感じだった。
そしてそれを、強い意思の力で封じ込めるのに精いっぱいだった。
・・・その重苦しさはどこから来るのか。
牧雄は大学受験生。
第一志望の大学の試験まで一月ほどとなっていた。
しかし、受験を控えた事によるストレスといったものとは違った苦しさだった。
もっと深く、心の根源的なところからくる辛い苦しみ、心臓と肺が圧迫されて絞られるような苦しさだった。
黙々と歩いていた牧雄は、ふと顔を上げる。
明かりの灯り始めた公社住宅を見やり、そこで足を止めた。
その時だった。
一人の少女の影が牧雄の胸の内に甦ってきた。
同時に胸の痛みと息苦しさが、刺し込むように、それまでになく烈しく襲ってきた。
そのまま放っておくと、胸の奥底に押し込められているものが爆発し噴出するように思われた。
その少女は牧雄にとっては、思い出してはならない忘れ去ってしまわなければならない存在だった。
本当は彼にとってかけがえのない大切な少女だったのだが、思い出したら彼の心は収拾のつかないまで乱れてしまう事を彼は自覚している。
だからこそ、思い出さないように努めてきたのだ。
それが、不意に、突拍子もなく現れてきた。
牧雄はうろたえた・・・足が停まりそうになった。
脂汗が額に浮かび、息ができなくなった。
目の前が真っ暗になろうとした時、牧雄は突っ走りだした。
全てを振り切ろうと、走った。
無我夢中で走った。
烈しく冷たい一陣の風が真正面からぶつかってきたが、彼は風に抗いながら走っていった。
・・・
風は夜更けになっても強く吹いていた。
牧雄は、眠れないままベッドに横になっていた。
普段ならば、まだ勉強しているはずの時間だった。
勉強しようとしたが、無駄だった。
胸の奥底のものが暴れ、騒ぎ、それに紛れてある少女の影が忍び寄ろうとするのを感じ、全く手に付かなかった。
無理に勉強しても意味がない・・・と自分に言い聞かせ、仕方なく寝ることにしたのだ。
しかし、ベッドに入っても胸の苦しさは収まらず、かえって落着かなくなるばかりだ。
これほどまでに彼を苦しめる、胸の奥底に押し込められたもの・・・それをどうにかしてしまわなければならない。
だが、どうすれば良いのか、全く分からなかった。
外を吹き抜ける風の音は途切れながらもアルミサッシの窓を通して聞こえてきた。
それもひどく神経に障った。
牧雄は耳をふさぎ、体を海老のように丸め、布団を頭からかぶっていた。
そうして眠りを待っていたが、眼は一層冴えてくるのだった。
そんな時だった。
風の音にかき消されながら、ある音がどこか遠くから耳に微かに響いてくるのに気が付き、手を耳から放した。
それは、何か堅いものどうしがぶつかり合うような音だった。
そして、からーん、からからーん、と間隔をおいて聞こえてきた。
乾いた無機的な響きだったが、温かさと懐かしさとがその度に呼び起こされる・・・そんな音。
牧雄の胸の奥底のものは、音に呼応して脈打つ。
心臓の高鳴るのを感じ、彼は布団から跳び起き、窓辺に立った。
カーテンをわずかにめくり、ガラスにびっしりと付いた結露を拭い、外を覗う。
アパートとアパートとの間の、駐車場とわずかばかりの空き地とが水銀灯の白い明りに照らされているのが見えた。
しかし音の出どころについての手がかりとなるようなものは、視野に入らない。
牧雄は窓から離れると急いで着替え、厚い上着を羽織った。
突き動かされるように、気持ちがはやるのを感じた。
朝が早い仕事のためにすでに寝入っている母親を起こさないよう、忍び足で玄関に向かい、気を付けて外に出る。
外は思っていた以上の寒さだった。
身を切るような冷たい風が間断的に襲ってきて、電線が悲鳴にも似た音をたてていた。
両側に建つアパートの窓窓が牧雄を見下ろしていたが、そのほとんどは明りを消して寝静まっている。
水銀灯の明りも、ただただ冷たく、ひと気の全くない駐車場を照らすだけだった。
水銀灯の下に立って、牧雄は耳を澄ませ、気になるその音を聞こうとした。
音は、確かに聞こえてきた。
だが、初めに聞いた時よりは、ほんのわずかの風にもかき消されるほどに小さくなっている。
(待ってくれ)
牧雄は、いまにも消えそうな音の聞こえてくる方角を確かめようと、耳をそばだてながら辺りを見回した。
しかし、程なく音は聞こえなくなってしまった。
牧雄は迷った。
迷った末、当てずっぽうで、ある方角をめざし歩きはじめた。
その先には、団地の西のはずれに造られた小さな公園がある。
公園にたどり着き、塗装も剥げたコンクリートのベンチの前で歩みを止めた。
やはり音は聞こえてこなかった。
どうしたものか、また迷った。
迷いながら、空を仰ぐ。
無数の星が瞬いていた。
西の空、はるかな山の端の上に、六つの星の粒・・・昴も見えた。
牧雄は思わず昴を凝視する。
「あの夜と、同じだ」
胸の奥底で、何かがまた激しく騒いだ。
無意識のうちに、ある名前を呼んだ。
「彰子・・・アキコ」
その途端、胸の奥底のものを堰きとめていた意志の塊が烈しい衝撃とともに砕け、間を置かず、身を爛れさせんばかりの熱を伴った感情が渦を巻き、堰を切ったように迸り出た。
牧雄は、わななき、眼は昴に釘付けにされたまま、どうしようもなくベンチに腰を落とした。
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