羽子板星

まみはらまさゆき

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第3章

(9)虚ろな春(第3章 了)

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牧雄は後になってから、虐めからのサバイバーだと自認するようになった。
それは、ひょっとしたら本当に死んでいたかもしれないから。

山田とその手下たちからの虐めがひとつのピークを迎えていた小学校6年生の頃、牧雄は「死」というものを強く意識していた。
死ねば日々繰り返される虐めから逃れて楽になれるかもしれないという、安易な発想によるものが大きかったと思う。

いや、「安易な発想」というのは暗黒のその時期を抜けたから「安易に」言えるのであって、その当時はそれこそ地獄を生きるような毎日だったというのは胸の内に深く刻みつけられている。
その当時の牧雄を取り巻く世界は急速に広がりつつあったが大人の世界と比べるとまだまだ小さく、その小さい世界の中に占める子供同士の人間関係の比重はどうしても大きくなってしまっていた。

だからその小さな世界の外・・・牧雄にとっては生きている世界の外に脱出すること、すなわち死ぬことが楽になれる唯一の手段のように思われる時期があった。
思春期のはじめを生きていた牧雄の、不安定な心理もそれを増幅させていたかもしれない。

しかし死ねばどうなるのか分からなかったから、不安だった。
それが牧雄が「死」の世界の方へ足を進めるのを、躊躇わせていた。

死んだ後にはどんな世界が待ち受けているのだろうか・・・それを見てきた人の話を直接聞く機会など無いから、見当すらつかなかった。
天国とか地獄って本当にあるのだろうか、あるとすればどんな世界なのか。

いや、天国や地獄よりも、たましいになって生の世界の空間を漂っているのではないか?
だとすれば幽霊の存在とも矛盾しないから、より現実的なのではないか?

牧雄が図書室や学級文庫の本の中で、とりわけ怪談や超常現象を扱った本を読んでいたのはそんな時期だった。
図書館に置いてある学研の「学習」などでも死後の世界などについての特集や怪談読み物が掲載される事があり、牧雄は貪るように読んだ。

そうするうちに、「死の瞬間」というものへの関心も湧いてくるのをどうしようもできなくなった。
死というのはどうしても痛い事、苦しい事とワンセットになって牧雄のイメージとしてはあり、想像するだけで身の毛がよだつ思いがしたのだが。

牧雄の住む団地は雑木林に囲まれている事もあり、夏になると公社住宅の2階や3階くらいまでは蚊がよく上がってきた。
宵の頃、叩きそこねて死なせきらなかったヤブ蚊を、牧雄は虫眼鏡で観察してみたりした。

瀕死のヤブ蚊は脚を弱々しく動かしながら、しかし拡大してみるその顔は悪魔のように見えた。
牧雄はひとしきり眺めるとそのはねをつまんで、蚊取り線香の火から1センチ位の場所に落とした。

次第に火が近付いてくるとヤブ蚊は痛いのか苦しいのか助けを求めるように脚をせわしなく動かし、しかし火が数ミリのところまで迫るとパタリと動かなくなった。
そして、嫌な臭いを上げながら火に焼かれていくのだった。

それを見届けながら、命ってなんだろうと考えたりした。
あんな小さなヤブ蚊でも、苦しみはあるし死ぬのも嫌なのだろうなとぼんやりと思った。

牧雄はふと、幼い時に経験した父方の祖父の葬儀の事を思い出した。
布団に寝かされた祖父は動くことも息をすることもせず、ただ安らかな顔をしていていた。

お葬式には大勢の人がやってきて、神妙な顔をしたり泣いたりしていた。
火葬が終わると祖父の体は消えてしまって、後には白い骨だけが残っていた。

死ぬって、なんだろう・・・命って、なんだろう。
霊というものがあるならば、どこからやってきて生物いきものの体に宿って、そしてどこへ消えていくのだろう。

疑問はどんどん湧いてくるけど、答えが見つからない。
母親に聞いても、昔話から引っ張ってきたような漠然とした答えしか返ってこない。

父親に聞いても、「うるせぇ、そんな事わかるか」と不機嫌そうに言われるだけ。
他の女子と休み時間にコックリさんをやったりする彰子だったらなにかヒントみたいなものは知っているかもしれないと思ったけれど、「彰子の祖父は人殺し」というずっと以前の噂が思い出されて、彰子にはその話題はタブーかもしれないと思い止まったりした。

そういえば、あの噂はほんとうだったんだろうか。
いくら彰子の祖父が粗野な人間だったとしても、人を殺すことなんてあるんだろうか。

いや、そんなはずはない・・・なぜなら牧雄の両親は普通に彰子の祖父と接して、そして会話している。
本当に「人殺し」なら、そんなふうに接することは怖くてできないのではないか?

でも殺したとすれば、どんな相手をどんな方法で殺したのだろうか?
殺された人は、どんな痛みや苦しみを味わいながら死んだのだろうか?

そしてまた牧雄の頭の中は、「死の瞬間」の事でいっぱいになった。
自分はその時、どんな死に方をするんだろう・・・?

生きているからには、いつかは必ず死ぬ。
そう思うと、向こう側の世界へのハードルが少し下がったような気がした。

そして実際に、ベランダの手すり越しに下を覗き込んだりもした。
そこは植栽とアスファルトの地面があるだけだったが、まさに死の淵を覗き込むような感覚だった。

この手すりを乗り越えれば、楽になれる・・・。
そんな誘惑が稀に湧いてくる事すらあった。

けれども、牧雄は乗り越えなかった。
やはり死ぬというのは本能的に怖くて、そしてその恐怖を乗り越えるだけのエネルギーがまだ足りなかった。

もっと追い詰められれば、その恐怖もちっぽけなものに思えて飛び出せたかもしれない。
しかし、牧雄にはまだやりたい事が残っていた。

それはただ単に運が良かっただけかもしれない。
なにかの拍子に牧雄を生の世界に引き留めようとする力が弱まった時に、やはり死の世界へ飛んでいたかもしれない。

けれども本の世界という、牧雄自身が密かに心の中で育んできた小宇宙は大切なものでそれを失いたくなかった。
なにより、牧雄が死んでしまえば母親は悲しむだろうし、疎遠になってしまっている彰子だって悲しむだろうし、あの父親だって悲しむかもしれない。

後に思えば、あのときの牧雄にはまだ拠り所とする物や事がたくさんあった。
それが、死の世界に飛び立とうとする牧雄の足を引っ張って離さなかったのかもしれない。

だから牧雄は、生きている。
その後の人生が苦しみに満ちていても、やはり生きている。

・・・

そんな10年も昔のことに思いを馳せながら、牧雄は坂道の途中で動かなくなってしまった原付を押して上っていた。
本当に、よく晴れた春の午後だった。

道の両側には、昔は造成地だった荒地が広がっていた。
完成すれば全区画南向きの高級住宅街がそこにはあるはずだったが、5年ほども前に工事途中で放置されたままになっていた。

広大な敷地の大部分はひな壇状に並んだ住宅区画も出来上がり、幅広の道路も舗装を待つだけになっていた。
けれどもそのまま放置され、ところによっては人の背丈よりも高く草が生い茂り、灌木の林も形成されつつあった。

もとは平成初期のバブル景気のさなかに、このあたりの大地主でもある山田の実家の建設会社が主導して始めた土地区画整理事業だった。
しかし対象区域の半分あまりを持つ山田一族に対して、残りは小規模な地主がひしめくような土地だった。

土地区画整理組合が組織されて利害調整にあたったが、それは相当に難航したようだ。
その混乱はそのうちに反社勢力の介入も招いてしまい、組合は総代会を重ねるごとに紛糾の度合いを増していった。

そして事業は休止という名の事実上の凍結に至り、後には複数の自殺者さえも出した。
山田の実家の建設会社は倒産し、山田の実家も破産して一家は散り散りになってしまった。

そんな混乱などなかったかのように、残された荒地には春の日は温かく降り注いでいる。
どこかに巣でもあるのか雲雀が空高く滞空し、ピーチクパーチク甲高く鳴いている。

バイクを押すのを止めて見上げた空は、どこまでも高かった。
あれほど子供時代の彼を苦しめ悩ませ死への憧れさえ催させた山田の、その後の悲惨な境遇すらもすべて無かったかのような静かな春の午後だった。

空を見上げながら、牧雄は深いため息を吐いた。
つい小一時間ほど前までラブホテルで同じ時間ときを過ごしていた、三井寛美ひろみとの関係のことが彼の心の奥底から湧いてきた。

おとなになってから再会した寛美は、あの頃と変わらず健気だった。
ギャンブル狂いで借金も重ねていた元夫との間に生まれた一人娘を育てるために、アルバイトを掛け持ちして朝から夜まで働き詰めだった。

そんな彼女だったが、アルバイト先のコンビニで再会した牧雄とは気が合って、それが彼女の「女」的なものを再び覚醒めざめさせたのかもしれない。
はじめは彼女の誘いで、ふたりはすぐに男女の仲になった。

けれども次第に、牧雄が性欲の処理のために彼女を利用するような形になってしまった。
そうして、3年以上の時が経過した。

その間に、牧雄は彼女に「愛」ではないが「情」の気持ちを抱くようになった。
健気な彼女を利用しているという後ろめたさには、深い罪悪感もあった。

彼女の一人娘であるはづきはこんど小学校に上がるがとてもいい子で、牧雄にとても懐いてもいた。
寛美とはづきの幸せを、自分の手で壊したくないという思いもあった。

けれども、「いずれは結婚」というところまで踏み出せない彼なりの事情があった。
それは彼がまだ学生であることもあったが、それよりも彼の母親からふたりの交際を強く反対されていたことが主な原因となっている。

子供の頃からの経緯を知る母親は寛美の境遇に同情はしたが、それが彼の交際相手となると話は変わった。
「同情だけでは結婚はできない」と彼を強く制し、「もし結婚なんてすることになったら、一生うちの敷居はまたがせない」とまで言い切った。

いつまでも彼女を裏切り続け、同時に母親を裏切るような生き方は、彼にとって苦痛だった。
いつかは答えを出さなければならない・・・そう思うと、昼の空の明るさすら虚ろに思えてくる。

雲雀は空高く、鳴き続けていた。

(第3章 了)
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