羽子板星

まみはらまさゆき

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第4章

(1)新しい生活、新しい未来

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なんば駅を出た準急電車は途中で本線から分岐して枝線に入り、そこからは各駅停車となる。
駅ごとに昭和の高度経済成長時代に建設された丘の上のニュータウンの駅に停車し、丘の間の高架を渡って次の駅に向かう。

金曜の昼下がり、電車は空いていた。
線路の両側には自動車専用道が並行し、その沿道に植えられた桜並木が満開となっているのが窓の向こうに見えた。

地方国立大学の大学院を出た牧雄が、大阪に本社を持つ機械メーカーに就職してまる1年。
その日の午後に彼は、有給を取って電車の終点に向かっていた。

前日までは違う路線に乗って、通勤していた。
翌週からは、この路線が彼の新しい通勤経路となるのだ。

彼は、会社が独身寮として借り上げていた集合住宅マンションに住んでいた。
しかしその日を境に独立し、郊外のテラスハウスの住人となる。

しかも、ひとりでではない。
新しくできた、家族とともに住むのだ。

新しい家族・・・それは(旧姓)三井寛美と彼女の一人娘のはづき。
もともとはセックスフレンドから始まった寛美との関係だったが、付き合うほどに深まっていく「情」をどうしようもできなくなってしまったのだ。

最後までふたりの結婚に反対した母親からは、縁を切られてしまった。
父親からの肉体的・精神的暴力に晒されながら彼を守り、そして慈しんできた母親と袂を分かつことは彼にとって身を切られるように辛かった。

しかし彼は、寛美とはづきとの未来を選んだ。
一方で、依然として行方の知れない彰子を想う気持ちも胸の奥底に秘めながら。

地元の街の写真館で、タキシードの牧雄とウェディングドレスの寛美で写真に収まり、それがふたりのせめてもの結婚式の代わりだった。
はづきが寛美に「お母さん、今まで見たより一番きれい」と抱きついたのが、どんな形の結婚式よりも牧雄と寛美のふたりにとっての祝福だった。

会社に結婚の報告をすると、まず直属の上司が驚いた。
それは、すでに子供もいる女性と結婚するという点についてだった。

人事を司る総務部の担当者は、驚きつつも微妙な表情をした。
それは、入社から1年でいきなり妻と子供の2人の扶養家族を持つことになった点についてだったらしい。

しかし諸々の手続きも順調に進み、共に一つの屋根の下で過ごす段取りもいよいよ最終盤に差し掛かった。
翌日の午前中には、関空に寛美とはづきのふたりが到着する。

昼過ぎには、運送会社がふたりの引越荷物を届けに来る。
すでに牧雄の荷物は荷解きが済んでいるし、寛美たちの荷物もたかが知れているから整理もすぐに終わるだろう。

とにかく、彼は一家のあるじとなる。
それを思うとプレッシャーとともに、目の前に現れた新しい未来への期待を感じざるを得なかった。

新しい未来への期待については、寛美も同じことだった。
彼女は複雑な家庭環境を引きずったまま、成人した。

そして彼女も、それまで大切に思ってきた母親を置いてこざるを得なかったのは牧雄と一緒だった。
ただ彼と異なるのは、彼女の母親はふたりとはづきの新しい門出を心から祝福してくれたことだった。

さらに彼女は、ようやく安定した「住処すみか」を手にすることも期待を膨らませる要素のひとつになっていた。
彼女は居所も狭い範囲の中で頻繁に変えざるを得なかったが、そこから抜け出して新しい生活を始めるのだ。

・・・

ただ、寛美が安定した住処を失った最初のきっかけは、小学校の頃に山田たちの手によって家を燃やされた事件だった。
あれは彼女の一家にとってだけではなく、地域のコミュニティにとっても一大事件だった。

その事件まで山田たちのグループは、山田の指示のもとそれぞれの学級で手下のメンバーが日常的に授業を妨害して、特に20代の女性教師が担任のクラスは収拾もつかないほどの崩壊状態となっていた。
しかしメンバーのほとんどが転校していった2学期以降は、どのクラスも平穏を取り戻した。

町内で相次いでいた窃盗や迷惑行為に加え放火ときて、さすがに警察の手が入った。
しかし山田は、無傷だった。

悪行の数々は山田が指示を出してはいたが、直接の実行犯ではなかった。
町の住人も地域の有力者の息子である山田ではなく、山田に指示されて実行した子供たちに非難の目を向けた。

山田もおそらく必死にしらを切り、山田ママもそれを援護しただろう。
色々な大人の事情も絡み合い守られて、山田は2学期以降も普通に登校した。

けれども子供たちの目は冷ややかだった。
グループの忠実な手下たちのいない山田を、もう誰も怖がらなくなった。

9月の終わりに、修学旅行があった。
その間じゅう、山田はひとりぼっちだった。

旅行初日に山田の弁当が行方不明になるという事件が起きた。
山田の弁当は、遠足の時も街なかの料亭に特注で作らせているという噂だった。

その弁当はすぐに、昼食のために立ち寄った自然公園のゴミ箱にぶちまけられているのが発見された。
おそらくかなりの子供たちが、犯人とその行動を見ていたはずだ。

だが、結局犯人は公式には分からずじまいだった。
それだけ多くの子供たちから嫌われていた、山田だった。

いや、教師たちでさえも山田の弁当捜索とその後の犯人探しに消極的だった。
教師たちも学校を混乱の中に陥れた黒幕としての山田に気付いていたし、PTA副会長としてあれこれ学校運営に口を出してくる山田ママへの反感もあったのかもしれない。

山田は完全に四面楚歌の状況に置かれていた。
学校に持ってきた文房具が隠される、教科書やノートに落書きされる、上履きがトイレの便器の中で見つかる、外履きが焼却炉の熱い灰の中から半分溶けた状態で見つかる・・・しかしそれはかつて彼が手下に命じて弱い子供たちに対してやってきた事の、仕返しに過ぎなかった。

自分がしてきた事が返ってきただけだったが、山田と山田ママは納得がいくはずもなかった。
しばしば親子して学校に抗議に出向く事もあったが、大抵は「お話、伺いました」の一言で済まされていたようだ。

明らかに風向きは変わっていた。
その焦りからか、山田ママは山田に対する学習面での締付けを強めていった。

何が何でも有名私立に入れなければならない、入れなければ地元の公立中で息子は辛い目に遭い、自分は地域の中でもっと惨めで辛い思いをせねばならない・・・そのような強迫観念に取り憑かれていたのかもしれない。
まだ小学6年生の山田に午前0時過ぎまで勉強させ、学校にも休み時間や昼休み用の問題集を持たせた。

結構な高額の寄付をして居させてもらっている進学塾とは別に、家庭教師も雇った。
しかし塾での成績は最下位あたりに低迷し、家庭教師も学校のテストの度に「効果なし」としてクビになった。

散々な山田の成績に山田ママが直接制裁を加える事は以前からのことだったが、その頻度も劇的に増えていったようだ。
ほうきで殴られた、花瓶を投げつけられた、晩ごはん抜きだった・・・そんな山田は着ている服こそきれいで立派だったが、山田自身はげっそりとやつれ、目の下にはクマ、服の下には赤や青のあざ

そんな状態で私立の受験なんかできるものかと大人たちは噂し合ったが、しかし山田は県外の超難関校を中心に複数受験した。
一方で県内の私立は、1校しか受験しなかった。

日程が重なるなどの事情もあったが、最大の理由はやはり山田ママのプライドのようだった。
山田ママは子供の成功が自分の成功に等しいと思っているフシがあり、だから山田の兄も県外の超難関私立中に入学させたし、山田もそうするつもり・・・いやそうさせなければならないとも信じていたようだ。

牧雄は、どこか県外の中学に山田が受かればいいと祈りに近い思いでいた。
それはひとえに、山田に目の前から消え去ってほしいという願いからだった。

すっかり惨めに弱りきった山田だったが、牧雄は同情の気持ちは少しも感じなかった。
むしろいい気味と思い、もっと悲惨な目に遭えばいいのにとさえ思っていた。

しかし山田が哀れな立場になるよりは、遠くの中学に合格してくれる方が牧雄にとっては幸せだという事は漠然とだけれど直感的もしくは本能的に分かっていた。
だから山田が受験のために休んでいる間に、学校帰りに神社に寄って山田の合格を祈ったりもした。

しかし・・・牧雄の思い、そして山田ママのもっと強烈な思いも虚しく、山田は全ての試験に落ちてしまった。
そして牧雄にとっては親友とも呼べる大江は対照的に、山田親子の第一志望であり、山田の兄が寮生活している県外の超難関校に合格した。

山田ママは最後の一校の不合格の知らせを受けて、半狂乱になったという噂だった。
そして山田は卒業式まで1日も登校しなかったが、家の中で「せっかん」されていると子供たちは馬鹿にして笑いながら言い合った。

卒業式の日、山田は練習にも参加しなかったから「卒業式呼びかけ」にも一切の台詞が無かった。
全員起立の間にも力尽きてふらふらと椅子に腰を落としたりもしたが、周りの子供たちは無常にもそんな山田を小突いて無理に立たそうとした。

その山田は、血の気のない顔をして痩せこけていた。
寒いのか、悔しいのか、それとも怖いのか、手の先はブルブル震えていた。

来賓席から、PTA副会長の山田ママは山田を鋭い目で見つめ続けていた。
ふとそれを横目で見てしまった牧雄は、その狂気を帯びた空気にゾッとして嫌な汗を背中に感じた。

卒業式の後は山田は学級のお別れの会、山田ママもPTAの会合があったが、ふたりともそれらには顔を出さず学校から逃げるように姿を消した。
山田の机には卒業証書やアルバムなどがぽつんと残され、来るはずもない机の主を待っていたという。

山田は、地域の公立中へ進学する事になった。
おそらくそうなるだろうなと思っていた牧雄だったが、正式にそれを聞いた時は暗澹たる気持ちになった。

大江は本当に県外に行ってしまい、彰子は相変わらず牧雄のことは以前ほどには相手にしてくれない。
そんな牧雄の暗澹たる心の内とは裏腹に、陽の光は暖かく桜がきれいに咲いていた。
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