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第一章 

1.私の人生の分岐点

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「今日もまた熱帯夜になり寝苦しい夜になるでしょう。さて次のニュースです──」

 都心の片隅にあるこのアパートは西日が直接差し込むのでエアコンの冷房を強に設定していても効きが悪い。

 蒸し暑い日中の時間帯ということもあり、どこかの部屋の住人が窓を開けてテレビを見ているようだ。お天気お姉さんの明るい声を聞いて元気をもらいたいところだが、今はそれどころではない。

「息が……ゔ、できな……」

 バブリーなお洋服を召された女性が、先程から私の首をきっちりホールドして離さない。落ち着かせるために女性の背中を叩くが、もはや慰めているのかタップをして降伏しているのか分からない。
 遠くなる意識の中で私は自分の不運を嘆いていた……。



「また、何かありましたら、お越しくださいね」

 どうにか熱い抱擁から解放された私は無事女性を送り出した。一気に疲労感が押し寄せる。重く分厚いアパートのドアが酸欠状態の身体にはより重く感じる。ドアが閉まると十畳ほどしかない部屋は先程の客の甘い香水の香りが立ち込めているようだ。

 立て付けの悪い窓を強引に開けて羽織っていた布を脱ぎ捨てた。深呼吸を繰り返すとようやく落ち着きを取り戻した。

 私は山田 晶やまだ あきら、二十三歳。苗字通りいたって平凡な女だ。黒いレースがあしらわれたローブで目の周辺以外を黒の布で覆っており、いかにも怪しい風貌だが私の仕事は怪しくてナンボの仕事なのだ……。

 そもそも元々この仕事をしていたわけではない。ローブを脱ぐと晶はゾンビの如く冷気を求めて扇風機を抱きしめに行く。

 百五十五センチと小柄で髪も茶髪のショートヘアで年齢よりも若く見られる事が多い。素顔は色白で奥二重のすっきりした顔立ちをしているが、今は仕事用に目元にくっきりとアイメイクを施しているためややきつめの印象を与えている。
 瞳の色が琥珀色で日本人離れしているが純日本人だ。この見た目もエキゾチックな演出に一役買っているのだろう。



 事の始まりは一ヶ月程前に遡る──レジ打ちのバイトに行こうといつものアーケードを抜けようとしたら見知らぬ白髪頭の婆さんに声を掛けられてしまった。

「ほぅ、お姉さん、不幸の渦があんたの周りに立ち込めているようだ。どれ……私が手を貸そうじゃないか……」

 手に持っていた占い用らしい水晶を私の方へと振りかざした。

──やられる!

 咄嗟に右に避けると婆さんはよろよろとまだ開店前の店のシャッターへとぶつかる。 一瞬変な間が二人を包む。

「……あの、大丈夫──」

「ふん、なかなかやるじゃないか……さすが選ばれし者……身のこなしも優秀って訳かい……」

 完全に中二病こじらしたな、婆さん。

「あ、どこもかしこも大丈夫そうですね、じゃ……」

 身の危険を察知しすぐさま逃げようとすると婆さんは私の手提げカバンを掴み、綱引き状態になる。

「ちょっと! 離してください!」

「ええい、この馬鹿力め、敬老の日があるこの日本に生まれたのを忘れたかい!」

「そんな握力して、なにが高齢者よ!」

 白髪頭の婆さんと擦った揉んだの争いの末、力尽くでカバンを取り返し、逃げるようにその場を離れた。走りながら婆さんが私に向けて何かを叫んでいる。

「ちょいと! あんたを助けてやりたいんだ」

「あんたは特別な存在さ、オンリーワンなんだよ」

「いいかい、自分を信じれば道は開けるんだ! 」

 正直こんな状況じゃなければ涙が出るほどうれしい言葉だが、アーケードにいた人たちが私達を取り囲み野次馬魂を最大限に発揮している今のタイミングでは感動の一欠片も感じられないのが非常に残念だ。 

「ごめんなさい! 急いでるの!」

 ともかく晶は顔を隠してその場を後にした。知り合いがいないことを祈るしかなかった。


 その日は夕方からあいにくの雨だった。最近ゲリラ豪雨が続きその間どうしても客足が途絶えがちになる。雨音で店内の音楽も掻き消されてしまう。

 今のうちに買い物袋の補充をしようとレジに背を向けて屈んでいるとレジ台越しから店長に声を掛けられた。

「山田さん、ついでに花の包装用紙も渡してくれる? 」

「あ、はい。分かりました。えっと……確かここに……」

 屈んで棚の奥を覗き込む。影になり薄暗くて見えにくい。

『仏花もいいけど、いいかげんビールじゃなくて日本酒供えてくれねぇかな』

「店長、日本酒飲めるようになったんですか? ビール派だったのに」

『しかも昨日から発泡酒だ。ビールでもないしな。ついてねぇな……コイツに言ってやってくれ』

「昨日から発泡酒じゃ物足りないですね──あ、あった」

 立ち上がり包装用紙を手渡そうとしたが、なぜか店長はまっすぐこちらを見たまま受け取ろうとしない。顔色が真っ青でどうも様子がおかしい。

「──山田さん……。君は一体誰と話してるの? 」

 この店で私の事を《晶ちゃん》と呼んでいたのは昨年亡くなった会長だけだった。さっきは気づかなかったけれど、あの声は会長の話し方だったことに気づく。ふと真横に人の気配を感じた。ゆっくりと振り返ると死んだはずの会長がいつもの調子で手を挙げて笑っていた。

『よ! 晶ちゃん! 元気だったか?』




 あれから私を取り巻く環境は一変してしまった……。
 あの日から私は幽霊が見えて、尚且つ話せるようになってしまったようだ。

 しかも幽霊たちはまるで生きているかのような姿で見た目では生きている人と区別がつかなかった。そのため仕事中に誤って話しかけてしまったり、幽霊相手に目的の商品棚へ誘導したり……。さすがに店長だけではなく同僚も私の様子に気味悪がっている様子で、とうとう長年勤めてきたスーパーの仕事を今日クビになってしまった。

 急に無職になってしまったショックもあるが、それよりもこの霊感のほうが大問題だった。

 霊と人と見分けがつかないようじゃこの先どんな仕事をしてもまた気味悪がれてすぐにクビになってしまう……。これからどうやって暮らしていけばいいんだろうか……。

 辺りがすっかり暗くなった頃ようやく我が家へと到着した。

 目の前にある古ぼけたアパートを見上げた。ポツンと一つだけある外灯がアパートの外壁を照らしている。私の唯一の財産と言えるものがこの《メゾン・クリスタル》だ。

 亡くなった両親が一人娘だった私のために残してくれたものだった。そして今、ここの二階に住みながら空いた部屋を貸している。
しかし近所にはキレイで安いアパートが建つようになりすっかりこのアパートを借りる人も減ってしまった。先月最期の苦学生がこのアパートを去った……。

 開閉の度に軋むドアを開け、そのままベッドへと身を投げる。枕で顔を押し付けながら手足でバタバタとマットに打ちつけているとインターホンが鳴った。

 うちを訪ねてくる人なんてせいぜい勧誘か詐欺か……いわゆるドアを開けてろくな事がないと言うことだ。居留守を決め込むことにして来客が立ち去るのを身を潜めて待つことにした。

 ん……? おかしいな……。

 しばらく様子を見ていたが、階段を降りる足音が聞こえない。まだ諦めずにドアの前に居座っているのかもしれない。晶は覗き窓を見るためにそっと千鳥足で歩き出すと誰もいないはずの玄関の下駄箱の側に人影が見えた。

「ぎゃーーーー!!」

 驚きのあまり後ろに尻餅をつき寝室へと逃げ込んだ。恐怖で腰が抜けてしまい思うように動けない。

 その人影が自分の方へと近づくのが視界に入り、慌ててそこにあったクッションを投げつけて抵抗する。

『ちょいと! あんたを助けに来たんだ! あたしだよ! 覚えてないかい?』

 粋な江戸っ子みたいなこの話し方に聞き覚えがある。恐る恐る振り返るとあの日会った白髪頭の婆さんが笑って晶の顔を覗き込んでいた。

「あなたあの時の…………中二病婆さん!!」

『なんだい、中二病婆さんって……人を病人扱いしないでくれよ』

「家まで押し掛けるなんてどういうつもりですか?! お金なんて全然ないし、今日仕事クビになったし、内臓も丈夫じゃないから何も売れないから私なんて金づるにもならないですよ!」

『何言ってるんだい。あんたを助けにきたっていっているのに頭がずいぶん悪い子だね。』

 中二病婆さんは口をへの時に曲げて呆れた様子でこちらを見ている。

「はぁ……っていうかどうやって部屋に入ったんです? 鍵は……」

『あぁ、そんなの簡単さ。ほれ』

 突然握り拳にハァっと息を吐き温め、中二病婆さんは晶のみぞおちを殴った。来るはずの衝撃が来ず、晶が恐る恐る目を開けると……中二病婆さんの腕がお腹に刺さっているのが見えた。

「うっ……ん、痛く、ない?」

『ほら、鍵なんていらないよ。あたしゃ死んでいるんだからね。れっきとしたお化けさあ』

 中二病婆さんは晶の体から腕を引っこ抜き、ケラケラと得意気に笑った。深く刻まれたシワがくしゃりと真ん中に集まった顔を呆然と見つめることしかできなかった。
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