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第一章 

38.ケーキ

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 メゾンは無事なのか?

 慌てて階段を上ると店の看板は片付けられているのに店の明かりは付いたままになっている。嫌な予感がして拳人が勢いよくドアを開け放つ。

「きゃ!」

 座ったままの晶が真っ青な顔をしてこちらを見る。ひどく怯えているようで震える手を抑えるように強く握りしめている。拳人である事が分かるとほっとしたように笑顔を作るが見るからに痛々しい。

「大丈夫か? どこもケガはないか?」

 拳人の剣幕に驚いた表情を見せる。大きく頷くと拳人は安心したのか額に拳を当てて大きく息を吸う。

「ごめん、片付け中に最後のお客さんが来たんだけど……怪談話をして帰っちゃって。怖いなぁって思ってたらトモがいきなりドアを開けるんだもん……腰抜かしちゃって」

「……本当か?」

「う、うん……」

 拳人は溜息をつくと突然晶の体を抱え込み持ち上げた。お姫様抱っこというものを二十三年の人生で親以外初めてされた。

「わわわ……」
「じっとしてろ──」

 突然感じた拳人の体温に心臓が跳ね上がる。当の本人は慣れているのか、何でもない事らしく平然と隣の住まいへと運ばれる。ソファーに座らせると拳人は店の鍵を閉めるために店へと戻って行った。

 拳人は照明を消していると自分の手の違和感に気づいた。晶を抱きかかえた時の柔らかさが手に残っていることを知り赤面する。手に残る感触を消し去るように頭を掻く。

 おいおい……思春期の男子じゃあるまいし……。

 震えるメゾンを見て居た堪れなくて咄嗟に抱きかかえてしまった。メゾンは何もなかったと言ったが本当のことではないのは拳人にも分かっていた。
 震えて立てなくなるほどの思いをしたのだから何もない事はないだろう。 俺に心配かけまいと誤魔化したに違いない。

──ご存じない? 先生の男は……こちら側の人間ですよ

 太一の言葉を思い出し拳人は胸が痛む。
 メゾンは恋人がヤクザの世界にいるせいで、今までも危ない目に合ってきているはずだ。

 拳人は見たこともない男に苛立ちを覚える。自分の女を危険な目に合わせるほど汚い仕事をしているのかと思うとメゾンがヤクザを毛嫌いする気持ちも理解できた。

 船越組に会ったということは──俺がヤクザだと知ってしまったか……? いや、あいつの態度からしてそれはないだろう。俺とメゾンが面識があるとは思っていなかったはずだ。

 拳人は店を出ようとすると入口のコルクボードに貼られた一枚の名刺に目が留まる。それは太一の名刺だった。
 拳人はそのまま名刺を自分の胸ポケットへと放り込むと晶の待つ部屋へと戻っていった。


「んま! うーんまい……」

 晶は瞳をキラキラと輝やかせている。こんなにも喜んでもらえるとは想定外で思わず拳人はニヤける。餌付けされる雛のように大きな口で頬張るメゾンを見ていると先ほどの出来事が嘘のようだ。

 綺麗にケーキを掬うとレースの隙間から器用に口へと運ぶ。

「メゾン、いいかげんその布……」

「ローブ? 絶対イヤよ。がっかりするの分かってんのに……」

 相変わらずローブを脱ぐ脱がないの話になるが最後は拳人が折れるのは決まっている。

「あ、そうだ。はい、あーんして?」

「…………」

 振り向くと晶がフォークをこちらを向けている。手元には小さくケーキが乗せられている。どうやら例の恥ずかしいシュチュエーションをしろと言われているようだ。

「ん? ほら……あーん」

 当の本人は何とも思ってないようで当たり前のように拳人が口を開けるのを待っている。意識されていないのだから平然と出来るのだが、これは拳人にとってはかなりハードルが高い。

(食べたい、恥ずかしい、食べたい、恥ずかしい──)

 拳人は見えない汗をダラダラとかきながら何も出来ずにいる。痺れを切らした晶が拳人の顎を掴み顔を自分に寄せると無理やり口の中にケーキを押し込む。

「わ……!? むぐ……」

「美味しい?」

 至近距離にある晶の瞳に拳人の思考回路が停止する。晶は拳人がフリーズしていることに気づく……銀縁眼鏡の中の瞳が揺らいでいる。

「……あ──」

 晶は自分が拳人の顎を掴んだままなことに気付き勢いよく離れる。

「わぁ! ごめん!」

「いや、うん……」

 二人の顔がユデダコのようになっている。お互い自分の事に必死で相手がどんな表情をしているかまで見る余裕がない。

 拳人は眼鏡を外し丁寧に拭き始めた。晶はそのまま一心不乱に残りのケーキを食べ始めた──顔を赤らめた二人の様子を台所から見つめる人影があった。

『……あれで本当にくっついてないんですよね?』

『超奥手同士だからな』

 マルと銀角が残念そうに笑う。

『組長、お疲れ様です』

 向こうの壁からタケが顔を覗かせる。

『組長のおっしゃってた通り、接触がありました。外でボンにも遭遇し、探りを入れるような動きがありました。ただ──』

 銀角が吸っていた葉巻を指で消す。

『船越組の組長のそばに……田崎の野郎が付いてました』

『……田崎が、船越のそばに……』

 田崎は船越組の人間だった。若林組にとってそして銀角にとっても忘れられない男だった。

『アイツ見てびびっちまって、すみません。俺──』

『気にするな、晶ちゃんは無事だ……すまなかったな』

 タケは頭を下げるとそのまま何も言わず姿を消した。マルも慌てて追う。
 
 田崎はナイフを愛用しており少しずつ追い詰め切り刻むやり方を好んでいた。返り血を浴びながら微笑むあの男は狂っていた。

 面倒臭いことになりそうだ……拳人、じいちゃんを許してくれな……。

 笑う拳人と晶の姿を、銀角はただ切なそうに見つめていた。


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