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第一章
96.海へ
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小鉄はあれから元気がなかった……体が痛いのかと聞いても曖昧な返事しかしなかった。何か、俺に隠し事があるようだが小鉄は口を割らなかった。
小鉄の打ち身の痣が薄れてきた頃、若から遠出の仕事を任された。来年に向けて小鉄を同伴するように言われた。小鉄はあの事件以来隣の部屋で寝ていた。離れて眠ったのは久しぶりだった。
この時期は毎年恒例の慰安旅行先に挨拶回りをする。
組の男たちだけではない。多くの飲食店から不動産、オーナーとして関わっている従業員だけでもかなりの人数だ。民宿と近くの旅館に毎年お世話になっている。
天候も良く午前中から車を走らせたおかげで思ったより早く仕事を済ませることができた。小鉄が海を見たいと言い出したので最寄りの海水浴場へと向かっていた。
「海だ! すごいきれい」
到着とともに車から飛び出した小鉄は待ちきれないのか走りながら靴を脱ぎ裸足になっていく。その背中をヤスは笑いながら見守った。
「ケガするぞ、足元を見ろ」
時季外れの砂浜はもっと人気がなく寂しいのかと思っていたが、思いのほか家族連れやカップルの姿を見かける。
懐かしいな──海、か……。
いつのまにか小鉄が波打ち際で屈んで何かをしている。きっと貝でも見つけたのだろう。
「……ねぇ! 山作るからトンネル作ろうよ」
「しょうがねぇな……」
渋々靴を脱ぎ、窮屈なスーツを脱ぐ。シャツの襟元のボタンを少し緩めると服の中に潮風が入り、一気に身体が軽くなる。
大きな山を作り終えた小鉄は山を順調に掘り進めていく。その無邪気な顔を見てヤスは昔を思い出していた。指先に向こう側の振動を感じる。指先が絡み合うと小鉄が歓喜の声を上げる。
「今回は上手くいった!」
嬉しそうに微笑む小鉄を眩しそうにヤスは見つめていた。
砂浜を歩きながら小鉄は流れ着いた白い貝殻を拾う。気付けばビニール袋にいっぱいになっていた。いつのまにか日も暮れ砂浜には二人きりになっていた。
「もう貝が入りきらなくなっちゃった、見て……」
小鉄は息を飲む。ヤスが打ちつける波を見て静かに涙を流していた。小鉄が息を呑み立ち尽くすとヤスが小鉄を見て小さく頷いた。
「佳奈──」
「…………分かってたの?」
小鉄に憑依した佳奈が悲しげに笑った。
「分かってる……俺を、置いていくんだろう?」
ヤスは佳奈だと気付いていた。そして、思い出を紡ごうとする悲しい横顔に別れを悟った。ヤスは小鉄の腕を取ると手前に引き寄せる。佳奈はヤスを見上げると潮風で荒れた前髪を直した。
「……康隆、歩こうか」
「あぁ」
二人は手を繋ぎ歩き始めた。愛し合っていた懐かしい記憶が甦る。佳奈は先日襲った事を正直に告白した。ヤスは驚かなかった。薄らとそうかもしれないと思っていた。
「連れて行こうとして、ごめんね」
「なら、連れていけばいい。佳奈、お前を一人にしたくない……俺はお前を──」
佳奈は首を横に振るとヤスの手を離し、一人歩き始める。寂しくなった手をズボンにねじ込むとヤスも後を追う。二人の距離が開いていく……ヤスは間合いを詰めてはいけない気がしていた。ただ、なんとなくそう思っていた。
佳奈は振り返ると長い髪を掻き上げるような動作をした。小鉄の髪は短いが、長年の癖だろう。ヤスはその癖を見て目を細める。確かにそこに佳奈がいる──。
「あなたが愛しているのは私じゃないの。私はもう過去なのにあなたがそう思い込んでいるだけ」
ヤスが眉間にしわを寄せる。
「違う、他の誰にも心を渡していない。ずっと、お前だけだと──」
「誰も愛さないで欲しいとは言ってない!」
佳奈が苦しげな表情を見せる。自分自身を抱きしめる。腕を強く握った手が微かに震えている。
「誰よりも人を愛すること、愛されることに飢えているのに……初めて会った時も、今もそう……私のせいよ」
ヤスが拳を握りしめて俯いている。佳奈が近付くとヤスの手の甲に触れた……自然と握る力が緩む──。
佳奈が自身の頰へとその手を運ぶとヤスの瞳が揺れた。手のひらに感じる佳奈の頰の温もりに心が痛くなる。これは佳奈の温もりじゃない、小鉄だ。佳奈の温もりじゃない──。
「もう、逝くわ。貝殻も拾えたし、これを墓に供えてくれる?」
新居の玄関に飾る貝殻を拾うためにあの日バスに乗ったのだと佳奈は言った。たくさん拾って帰ってきたときに驚かそうと計画していた。
「佳奈……愛していた、本当に」
「うん、私も愛していたわ……ありがとう。もうちゃんと、この子を、小鉄くんを愛してあげて……」
二人はそっと唇を合わせる。
触れるだけの口付けは温かくて、ヤスの何かがゆっくりと溶け出していく。目を開けると白い光が佳奈の体から放たれた。
最後に見た佳奈は心からの笑顔だった。優しい表情にヤスも微笑み返した。
今、佳奈が逝った──。
悲しい気持ちや胸の痛みも一緒に持って行ってくれたようにヤスの心は落ち着いていた。いつのまにか目の前の小鉄も空を見上げていた。
「……兄貴……大丈夫? 黙ってて、ごめん──佳奈さんがありがとうって、笑ってたよ」
「あぁ、悪かったな……これで、良かったんだ。……帰るぞ」
「え、もう? 俺、まだ海に入ってない!」
ヤスは車に向かって歩き出した。肩を落とししょんぼりと後を追う小鉄を見てヤスは微笑んだ。
◇
「若……」
その晩拳人は珍しく縁側で涼んでいた。足元を見ると線香が数本焚かれていた。
「逝ってしまいましたね」
「俺たちが逝かせた、と言った方が正しいがな」
晶は線香に手を合わせると夜空を見上げた。星空に向かって手で四角を作り覗いた。よく佳奈はこうして夜空を見上げていた。
佳奈さん、どうか安らかに眠ってね──。
「……若のおかげで佳奈さんが眠れました。色々と、ありがとうございました」
晶は拳人に挨拶をするとそのまま裏口に向かった。晶は突然足を止め、拳人の元へと戻る。
「……俺はまだ成仏せん。俺はしつこいんだ。銀角さんからの言伝です……では」
晶が姿を消してから言葉を理解した拳人は線香を見て微笑んだ。煌めく星々が綺麗な夜空だった。
小鉄の打ち身の痣が薄れてきた頃、若から遠出の仕事を任された。来年に向けて小鉄を同伴するように言われた。小鉄はあの事件以来隣の部屋で寝ていた。離れて眠ったのは久しぶりだった。
この時期は毎年恒例の慰安旅行先に挨拶回りをする。
組の男たちだけではない。多くの飲食店から不動産、オーナーとして関わっている従業員だけでもかなりの人数だ。民宿と近くの旅館に毎年お世話になっている。
天候も良く午前中から車を走らせたおかげで思ったより早く仕事を済ませることができた。小鉄が海を見たいと言い出したので最寄りの海水浴場へと向かっていた。
「海だ! すごいきれい」
到着とともに車から飛び出した小鉄は待ちきれないのか走りながら靴を脱ぎ裸足になっていく。その背中をヤスは笑いながら見守った。
「ケガするぞ、足元を見ろ」
時季外れの砂浜はもっと人気がなく寂しいのかと思っていたが、思いのほか家族連れやカップルの姿を見かける。
懐かしいな──海、か……。
いつのまにか小鉄が波打ち際で屈んで何かをしている。きっと貝でも見つけたのだろう。
「……ねぇ! 山作るからトンネル作ろうよ」
「しょうがねぇな……」
渋々靴を脱ぎ、窮屈なスーツを脱ぐ。シャツの襟元のボタンを少し緩めると服の中に潮風が入り、一気に身体が軽くなる。
大きな山を作り終えた小鉄は山を順調に掘り進めていく。その無邪気な顔を見てヤスは昔を思い出していた。指先に向こう側の振動を感じる。指先が絡み合うと小鉄が歓喜の声を上げる。
「今回は上手くいった!」
嬉しそうに微笑む小鉄を眩しそうにヤスは見つめていた。
砂浜を歩きながら小鉄は流れ着いた白い貝殻を拾う。気付けばビニール袋にいっぱいになっていた。いつのまにか日も暮れ砂浜には二人きりになっていた。
「もう貝が入りきらなくなっちゃった、見て……」
小鉄は息を飲む。ヤスが打ちつける波を見て静かに涙を流していた。小鉄が息を呑み立ち尽くすとヤスが小鉄を見て小さく頷いた。
「佳奈──」
「…………分かってたの?」
小鉄に憑依した佳奈が悲しげに笑った。
「分かってる……俺を、置いていくんだろう?」
ヤスは佳奈だと気付いていた。そして、思い出を紡ごうとする悲しい横顔に別れを悟った。ヤスは小鉄の腕を取ると手前に引き寄せる。佳奈はヤスを見上げると潮風で荒れた前髪を直した。
「……康隆、歩こうか」
「あぁ」
二人は手を繋ぎ歩き始めた。愛し合っていた懐かしい記憶が甦る。佳奈は先日襲った事を正直に告白した。ヤスは驚かなかった。薄らとそうかもしれないと思っていた。
「連れて行こうとして、ごめんね」
「なら、連れていけばいい。佳奈、お前を一人にしたくない……俺はお前を──」
佳奈は首を横に振るとヤスの手を離し、一人歩き始める。寂しくなった手をズボンにねじ込むとヤスも後を追う。二人の距離が開いていく……ヤスは間合いを詰めてはいけない気がしていた。ただ、なんとなくそう思っていた。
佳奈は振り返ると長い髪を掻き上げるような動作をした。小鉄の髪は短いが、長年の癖だろう。ヤスはその癖を見て目を細める。確かにそこに佳奈がいる──。
「あなたが愛しているのは私じゃないの。私はもう過去なのにあなたがそう思い込んでいるだけ」
ヤスが眉間にしわを寄せる。
「違う、他の誰にも心を渡していない。ずっと、お前だけだと──」
「誰も愛さないで欲しいとは言ってない!」
佳奈が苦しげな表情を見せる。自分自身を抱きしめる。腕を強く握った手が微かに震えている。
「誰よりも人を愛すること、愛されることに飢えているのに……初めて会った時も、今もそう……私のせいよ」
ヤスが拳を握りしめて俯いている。佳奈が近付くとヤスの手の甲に触れた……自然と握る力が緩む──。
佳奈が自身の頰へとその手を運ぶとヤスの瞳が揺れた。手のひらに感じる佳奈の頰の温もりに心が痛くなる。これは佳奈の温もりじゃない、小鉄だ。佳奈の温もりじゃない──。
「もう、逝くわ。貝殻も拾えたし、これを墓に供えてくれる?」
新居の玄関に飾る貝殻を拾うためにあの日バスに乗ったのだと佳奈は言った。たくさん拾って帰ってきたときに驚かそうと計画していた。
「佳奈……愛していた、本当に」
「うん、私も愛していたわ……ありがとう。もうちゃんと、この子を、小鉄くんを愛してあげて……」
二人はそっと唇を合わせる。
触れるだけの口付けは温かくて、ヤスの何かがゆっくりと溶け出していく。目を開けると白い光が佳奈の体から放たれた。
最後に見た佳奈は心からの笑顔だった。優しい表情にヤスも微笑み返した。
今、佳奈が逝った──。
悲しい気持ちや胸の痛みも一緒に持って行ってくれたようにヤスの心は落ち着いていた。いつのまにか目の前の小鉄も空を見上げていた。
「……兄貴……大丈夫? 黙ってて、ごめん──佳奈さんがありがとうって、笑ってたよ」
「あぁ、悪かったな……これで、良かったんだ。……帰るぞ」
「え、もう? 俺、まだ海に入ってない!」
ヤスは車に向かって歩き出した。肩を落とししょんぼりと後を追う小鉄を見てヤスは微笑んだ。
◇
「若……」
その晩拳人は珍しく縁側で涼んでいた。足元を見ると線香が数本焚かれていた。
「逝ってしまいましたね」
「俺たちが逝かせた、と言った方が正しいがな」
晶は線香に手を合わせると夜空を見上げた。星空に向かって手で四角を作り覗いた。よく佳奈はこうして夜空を見上げていた。
佳奈さん、どうか安らかに眠ってね──。
「……若のおかげで佳奈さんが眠れました。色々と、ありがとうございました」
晶は拳人に挨拶をするとそのまま裏口に向かった。晶は突然足を止め、拳人の元へと戻る。
「……俺はまだ成仏せん。俺はしつこいんだ。銀角さんからの言伝です……では」
晶が姿を消してから言葉を理解した拳人は線香を見て微笑んだ。煌めく星々が綺麗な夜空だった。
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