売り言葉に買い言葉

菅井群青

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16.愛の花

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「ちょっと行ってきます」

「あ、はいはい。行ってらっしゃい、モコモコの彼氏によろしく」 

 風香は春子に声を掛けるといつものように資材庫に行く前にガレージへと立ち寄る。白い社用車やトラックが駐車している一角に可愛らしい赤い屋根の家がある。ここに風香の彼氏が住んでいる。風香の足音と手に持ったビニール袋の音に反応したのか中からこげ茶の雑種犬が出てきた。つぶらな瞳をしたその犬はうちの会社で飼っている犬だ。その犬の餌やりは風香の担当だ。もふもふの尻尾を全力で振り風香のことを歓迎している。屈んで体を撫でてやると天に向け腹を見せる。

「森くん、お待たせ。いい子にしてた?」

 子犬の頃に建設現場に捨てられていた森くんは持ち前の人懐っこさで我が社の一員となった。森くんを抱きしめながら風香は首の絆創膏に手を当てる。
 

 

 昨晩風呂場から上がって洗面台の鏡に映った自分の姿に仰天した。唇が赤く熟れたように赤かった……そして……鎖骨の上に赤い擦り傷のようなものがついていた。鏡に映るそれを凝視し風香は息を呑んだ。

 これって、まさか……キスマークってやつなんじゃ……。

 思わず隠すように掌でそれを覆った。貴弘が首筋にキスした時に残したものだろう。それと同時に蕩けそうな貴弘の声を思い出し風香は叫び声を上げそうになった。風香は頬を押さえて壁に頭を擦り付けた。恥ずかしくてどうしようもない。かと言って、キスマークつけたでしょというのもその時のことを掘り返すようで出来ない。付けないで欲しいと言ってしまえば次回を期待してしまっているようでそれも違う。風香は部屋に戻ると絆創膏でそれを隠した。風香は貴弘の気持ちがわからなかった。あれは、揶揄っていたのか……それとも本気だったのか……。

「喧嘩ばっかりだから……好かれているって事……ないわよね?」

 風香の初恋は貴弘だ。もちろんあれから何度も恋をした。貴弘のことなんて記憶の片隅にもなかった。毎日の生活で思い出す事もなかったのに同棲を始めて風香は幼い頃に抱いていた淡い恋心を思い出していた。そして、貴弘にとってはただの冗談かもしれないキスも風香には特別なものに感じていた。付き合った元彼のキスとは違う心地よさに風香は戸惑っていた。貴弘のキスは、乱暴で、求められている気がして身体中がゾクゾクした。風香はあれほどの情熱的なキスははじめてだった。

「遊び人だから上手いだけだろうな……。ふん、何よ……。森くんごめんね、浮気して」

 自分のせいで怪我をさせてしまった事を思い出して黙り込む。あの時、助けてくれなかったら頭から落ちて大怪我していたはずだ。昔、貴弘はぶっきらぼうだけどやさしい男の子だった。いつだったか、転倒して膝をすりむいて泣く私の手を繋いで家に連れて帰ってくれた事もあった。

 風香は高鳴る胸を押さえた。この胸の高鳴りは、幼い頃のものなのか……それとも今の貴弘を思ってのものなのか風香には分からなかった。森くんのご飯をやり終えると誰かがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。営業部所属の澤くんだ。爽やかでどこか中性的で話しやすい後輩だ。

「お疲れ様です。渡辺さんも癒されに来たんですか?」

「お疲れ様、うん。もう今から帰るところ。あ、そういえばもうすぐ忘年会だね」

「今年も運転手役ですよ。ま、どうせ飲めないからいいですけど」

 澤も森くんを可愛がってくれる職員の一人だ。風香は澤が森くんと似ているなぁと思いながらふにゃりとした澤の笑顔を見ていた。今年も多くの酔っ払いが澤くんの運転によって暖かい家へと帰っていくことになるだろう。業界的に我が社は酒豪が多い。そして飲む事を生きがいにしている人間も多い。特に現場の人間から冷えたビールを奪うものならストライキの嵐だろう。風香は澤に別れを告げると仕事に戻った。

 デスクに戻ると携帯電話にメールが届いていた。貴弘からだった。どうやら今晩は飲み会があるらしい。すぐに【分かった。飲み過ぎに気をつけて】とだけ打ち込むと返信した。その様子を後ろから春子は見ていた。まるで◯◯は見たのように楽しげな表情で声を掛けてきた。

「風香ちゃーん、ふふふ……さては、男? 例の遊び人かな?」

「ち、違いますよ……さ、仕事仕事!」

 春子に背を向けると風香は気合をいれて電話の受話器を取った。




 その日は久々のお一人様晩ご飯だ。適当におかずを作り食べ始めて風香は部屋を見渡した。いつもよりも部屋が広く、そして寂しく感じた。貴弘がいないだけで晩ご飯の美味しさも半減してしまったようだ。食べ終わると素早く片付けをして貴弘の帰りを待った。一人でソファーに座ってのんびりしているとふと、貴弘はアルコールを飲んで大丈夫なのかと気になってきた。

「あ……まさか痛み止めの薬を飲んでから酒を飲んでないでしょうね……」

 携帯電話を手に取り調べてみると極力避けた方がいいと書いてあった。心配になり貴弘にメールを送ってみるが既読にならない。風香が駅まで迎えに行こうかと悩んでいるとインターホンが鳴った。風香は覗き穴を覗き、慌てて玄関のドアを開けると貴弘がスーツ姿の男性に支えられて立っていた。横には背の低い女性が一人貴弘のカバンを抱えていた。風香の姿をとらえると驚いたような顔をしていた。男性は風香を見てにこりと微笑んだ。

「今晩は、すみません……夜分遅くに」

「あ、いえ……あ、ごめんなさい……部屋まで運んでもらっちゃっていいですか? 私運べなくて……」

 風香は慌てて玄関の自分の靴を端に寄せると靴を脱ぐスペースを作る。有川は「もうちょっとだぞ……」と貴弘に声をかけながらベッドへと運んでいく。貴弘は足元がおぼつかないものの意識はあるようだ。小さな声で有川に礼を言った。


 風香は貴弘の部屋の戸を閉めると二人に頭を下げた。

「ありがとうございました。すみません……熱が出やすい事本人も分かってなかったみたいで……」

「いえいえ……、あ、俺有川っていいます。高畑の同僚で仲良くさせてもらってます。君は……幼馴染みの風香ちゃん、かな?」

 風香は有川が自分の名前を知っている事に驚いた。会社で自分の話題が出ている事が意外だった……でも何となく嬉しかった。風香は改めて自己紹介をした。速水は風香が貴弘の幼馴染みであり同棲していることを知ると声を出して驚いていた。すかさず恋愛関係でないことを伝えたが二人が風香の言葉をどう取ったのかは分からなかった。

「彼の荷物、ここに置いておきますね……」

 有川のそばに立っていた速水は持っていた貴弘のカバンを台所の椅子に置くと部屋をぐるりと見渡して風香ににっこりと微笑んだ。速水の笑みには少し怖さを感じる……なぜか少し怒っているように感じた。視線が痛くて風香はさり気なく視線を逸らした。

 えーっと、なんだろう。なんかめちゃくちゃ見られている気がするんだけど……。

「あー、じゃ、帰るね! また会おうね。高畑に明日寝坊しないように言っといてね。よろしく」

 戸惑う風香を察した有川は速水の腕を取ると豪快に笑って手を振った。仁王立ちしていた速水はそのまま有川に引き摺られる形で部屋を出て行った。ようやく呼吸がしやすくなり風香は大きく息を吐いた……。風香はコップに水を入れて貴弘の元へ向かった。スーツのまま横たわる貴弘の頬は驚くほど熱かった。酒のせいだけじゃない、きっと熱が出ている。濡れたタオルで額を冷やしてやると気持ちよさそうに貴弘が目を開けた。

「貴弘、上着脱げる? 大丈夫?」

「大丈夫だ……ちょっと、引っ張ってくんないか……」

 貴弘の体を起こすの手伝ってやると風香は傷めた肩を気遣いながら上着を脱がしていく。水を飲ませると貴弘は再び横になった。風香は額に濡れたお絞りを置いてやると貴弘がぼんやりとした目で風香を見つめた。風香が気まずくなり部屋から出て行こうとすると貴弘は呼び止めた。

「風香……」

「何よ……、寝なさい。明日ちゃんと早く起こしてあげるから。た、ただし! 風呂は自分一人で入りなさい! いいわね!?」

 風香は貴弘を指差して言い切る。その姿は勇しく、幼い頃に喧嘩した姿と変わらなかった。思わず懐かしくて貴弘は微笑む。風香は笑われている事が面白くなく頬を膨らませて睨み付ける。

「分かった。ごめんな、ありがとう」

「……え、あ──うん」

 いつもと違い嫌味を言うことも、嫌な顔をすることもないただじっと自分を見つめる貴弘に風香は拍子抜けをしてしまう。てっきり言い返してくるものだと思っていた。「お前のせいで傷めたんだ」とか「冷たい人間だな」とか言うと思っていたのにベッドに横たわる貴弘は昔おたふく風邪にかかった時のように大人しい。
 風香は台所へ戻ると水を張った洗面器を持ち部屋へと戻ってきた。額の上のお絞りを水に浸して冷やし直すと黙ってベッドに腰かけた。貴弘の乱れた髪を手で解いてやると頰に手を当てた。

「寝なよ……付いててあげるから。おやすみ……」

「あぁ、おやすみ」

 貴弘は穏やかな表情を浮かべると静かに眠りについた。風香はその寝顔をしばらくの間見つめていた。

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