売り言葉に買い言葉

菅井群青

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30.究極の選択

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 遡ること数日前……。風香はビルの最上階の社長室から呼び出しを受けた。こんなこと今までに無かった。緊張しながら社長室のドアをノックするとえびす顔の社長がにこやかに迎え入れてくれた。

「おうおう、君が渡辺さんやね、呼び出してごめんやで」

「あ、いえ……」

 会社の社長は生粋の関西人らしい。東京生活も随分と長いがなまりは一切取れていない。もちろん入社数年の風香はこうして面と向かって会話するのも初めてだ。机の前の高級牛革のソファーに座るように言われおずおずと腰を掛けた。風香は緊張して背中に定規を入れられたように固まっている。社長は風香の前に座ると風香の様子に豪快に笑い声を上げた。

「大丈夫や。悪い知らせとちゃうで……ただ、ちょっと相談があってな……」

「そ、相談ですか?」

「せや。……渡辺さん……自分、森くんと一緒に住まへんか?」

「……え?」

 社長の唐突の申し出に風香は固まった。森くんはこの会社のアイドルだ。癒しだ。なぜ一緒に住む話が出るのか分からなかった。社長は禿げた頭を撫でながら「急でごめんやで……」と眉を落とした。

 どうやらビルの森くんの小屋があるところに今度新しく搬送用のトラックが止まることになった。その為森くんの居住スペースの確保が難しくなった。これを機に誰かに引き取ってもらおうかと言う話になった。そこで、最も森くんが懐いている風香に白羽の矢が立ったということだ。

「ちょうど年末になるやろ? 会社も長期休みやしな……森くんを置いておくわけにもいかんやろ」

「た、確かに……」

 森くんがここへ来て数ヶ月だ。盆休みも会社は動いていたので誰かが常にいた。流石に年末は帰省もありビル自体閉鎖される。風香もその事をうっかり忘れていた。社長が腕を組み唸り声を上げる。

「どうや? 渡辺さんさえ良かったらやけどな。もしあかんかったら埼玉におる知り合いんところが番犬に欲しい言うてんねんけどな」

「さい、たま──そんな遠くに……」

 もう二度と森くんに会えなくなる……風香は引き取れるのなら引き取りたいと思った。この駐車場で通りすがりの社員や出入りしていた関係者に尾を全力で振るほど人懐っこい。皆に頭を撫でられるのをじっと待っている森くんを見て、いつも家に連れて帰って一緒に眠りたいと思っていた。子犬の頃からずっと可愛がってきた……森くんともう会えないなんて……。そんなの嫌だ。でも──引き取るとしたら……。

 社長は悩んでいる風香の反応を見て思い出したように太腿を叩き立ち上がった。引き出しから名刺を取り出すと風香に手渡した。社長はもし風香が引き取ってくれるなら引っ越しにかかる費用をポケットマネーで出すと言ってくれた。社長自身も森くんを引き取りたかったが飼っている猫の気性が荒く家族の反対に合ったらしい。

「森くんは小型犬に近い大きさやし……探せばペット可の住まいも見つかるやろ。一人暮らしやろ?」

「あ……いや、その……」

「ああ、彼氏も一緒に引っ越せればええけどな……じゃ、決まったら返事を頼むね」

「はい、では……失礼します」

 風香は社長室を出ると溜息をついた……。そのまま森くんに会いたくなって一階に降りたらまさかの澤に告白をされてさらに悩みが増えた風香だった。




 駅の改札を抜けたところに賃貸のフリーペーパーを見つける。壁際のベンチに腰掛けると何頁か捲ってみる……確かにペット可の物件はあるがなかなかの高額だ。主要な駅や駅からの移動時間が数分のところはとてもじゃないが家賃だけで生きていくのに手一杯だ。
 風香は現実から目を背けるようにフリーペーパーを閉じると項垂れた。どうしてこんなにも高いんだ……。貴弘ぐらい給料が安定している企業ならいいが自分のような平凡な事務員には一人暮らしどころかペット可物件など夢のまた夢だ。そして、経済的な問題の他にもっと大きな事がある。

 貴弘との同棲生活が終わってしまうという事だ。

 貴弘と離れたくなかった。家事や家賃の事じゃない……貴弘と過ごす時間は思ったより楽しかった。喧嘩することもあったし、なぜかキスしたり幼馴染みらしくない出来事も多くあった。でも、気まずいことがあっても、喧嘩した次の日でも、私たちは一緒に食卓を囲んだ。携帯電話の番号も知らない、会話もしなかった期間を取り戻せたような数ヶ月だった。社長が言ってくれたように貴弘がこれまで通り一緒に住んでくれればいいが……絶対にそれはあり得ない。貴弘は犬が苦手だ……貴弘と住み続けながら森くんと住む事は出来ない。

 家賃が安くなるから一緒に住んで……って笑いながら言えば住んでくれるかな。犬嫌いだから……絶対嫌がるよね……。

 風香は速水の事を考えた。貴弘はああ言っているけど……近いうちに出て行かなきゃいけないのは間違いない。あくまで自分は居候の身だ。風香はフリーペーパーを丸めるとカバンに押し込んだ。

 マンションへの帰り道……街灯もついていない真っ暗な小道を歩いていた。かろうじて見えるアスファルトの白い白線を追いながら貴弘から通学するのを嫌がられた時のことを思い出していた。
 足元のヒールを眺めているとあの日の自分の足元が見えた気がした。あの日……真白な靴下に白地に淡いピンクのラインが入ったスニーカーを履き、私は一人下校していた。前日に貴弘に言われた言葉を思い出して落ち込んでいた。赤いランドセルがやけに重く感じた。

『一緒居たり、登下校する意味ある? もういい年だしやめようぜ』

 風香は悔しくて悲しくて貴弘と一緒に下校しない理由を自ら作った。図書館で一冊本を読んで帰るようにしていた……。貴弘に捨てられたようで、見放されたようで不甲斐ない自分が嫌になった。あの頃の自分とさほど変わっていない。今でも貴弘に出て行ってくれと言われる前に自ら出ていく事を考えていた。

 あー、意気地なし。また逃げ腰だ。あの時言いたい事も言えずに後悔したじゃないの……。

 マンションに到着すると風香は何世帯もあるマンションの窓から漏れる光を見た。この窓の一つ一つに家庭があり愛がある。私たちの部屋の明かりは他の人からどう見えているんだろう。

 私と貴弘の間には……愛、生まれないか。腐れ縁は、腐ってる縁なんだもんね。でも……子供の頃みたいに、諦めたくない。

「好きだから、貴弘とも一緒に住みたいって言えばいいのかな……」

 あれから風香は情報誌を見たり賃貸情報をインターネットで見た。帰り道に不動産屋に飛び込んでみたりもした。その甲斐もあり風香はなんとか森くんサイズの犬でもOKな物件を探し当てた。

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