売り言葉に買い言葉

菅井群青

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39.恋

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 いつものように貴弘は会社のデスクに座り仕事をしていた。眠たそうに瞼を擦りながらデータ表の格子状の中の数字を見るが、何度見直してみてもぼやけて見えてしまう。椅子の背もたれに倒れると天井を見上げた。無機質な白い天井と等間隔に設置された蛍光灯の光が眩しく感じて手で顔を覆い隠す。しばらくして手を除けると目の前に有川の顔があった。驚くなんてものじゃない、呼吸が止まりそうだった。

「ぬぉ! な、何やってんだ!」
「あ、おはよ」

 互いの唇が触れ合うぐらいの距離に有川の顔があり貴弘は椅子から滑り降りるようにして椅子から離れた。有川の胸ぐらを掴みかかりたい衝動に駆られたが職場なのでグッと堪えて我慢する。威圧感を出しながら有川を至近距離で睨んで凄む。有川は悪びれもなくその視線をかわして隣の自分のデスクに座る。その動作に一切の無駄やよどみがない事に腹が立つ。

「毎晩熱い夜を過ごすようになったから大変だねぇ、へへっ」
「過ごしてない。段ボールに囲まれてるんだぞ」

 揶揄う有川を無視して机の上にあったファイルを引き出しに戻す。
 風香と貴弘は新居に引っ越す準備に追われていた。年末までに引っ越しをすることになり貴弘と風香は睡眠時間を削り引っ越し作業に追われていた。有川は椅子をスライドして貴弘に近付くと小声で話しかける。向かいに座る同僚の耳に入らないように配慮したらしいが、さっきの揶揄う言葉の時にそういう気遣いをしてくれればいいのにと思う。だが、有川はそういう男だ。その男と一緒にいるということはそういう事だ。

「マジ? 今日クリスマスじゃん……まさか、ロマンティックゼロか? うっわ……」
「……黙れ」

 正直なところ……貴弘も今日ぐらいは段ボールの箱に囲まれたくないとは思う。だが、今朝風香にクリスマスの予定を聞くと新居の庭の草むしりをすると即答した。森くんにダニが付くのを防ぎたいらしい。数日前……風香と結ばれた後、風香は俺が近付くと緊張している。気のせいかとも思ったが事あるごとに恋人らしいことをしようとするのを避けている。恥ずかしがっているようにも見えない。テレビを見ている時や食器を洗っている時に風香の視線を感じるが振り返ると風香は明後日の方角を向いている……。ただ、新居に引っ越す事自体は嬉しそうだし、嫌われているとも思えない──謎だ。

 俺とのセックスを、後悔しているのか……がっかりしたか。イマイチだったということか……考えても答えが出ない。

 貴弘は今晩風香に思い切って尋ねる事にした。
 とりあえず今晩は聖なる夜だ……ケーキ屋に寄りショートケーキを買って帰ろう。

 貴弘は携帯電話を取り出した。ケーキを買って帰る事と、草むしりが終わったら二人でクリスマスを祝いたいと風香にメールした。


 
 再び仕事を再開した貴弘を横目に有川はデスクを立った。寒い日はココアに限る。自動販売機に近づくと先客がいた。

「あ……」
「おーっす、お、速水さんもココア?」

 速水は自動販売機のボタンを押し、取り出し口からココアの缶を取り出した。速水は寒がりなのだろう、肩から赤のマフラーを掛けていた。有川も続けてココアを買うと愛おしそうに掌で包んだ。速水は有川の可愛らしい仕草にこっそり微笑んだ。

「んで、どうですか? 最近。傷口は──」
「んー、そうね。そりゃ好きでしょ」

 速水は悩む事なく……隠す事なく貴弘への想いを口にした。潔い速水に有川は含み笑いをするとココアを一口飲んだ。壁に寄りかかると有川はじっと速水を見つめた。速水の横顔は凛々しかった。見た目は大人しそうなのに武勇伝を聞く限り速水は心が強いことがわかる。有川はその強さが羨ましかった。居酒屋で落ち込んでいた速水はもうそこにはいなかった。

「あの二人、付き合ったんだってさ……」
「当然でしょうね。分かってたし。いいの」

 有川は少し躊躇しながらも速水に貴弘の恋が成就したことを知らせた。速水も有川の横に立つと壁に寄り掛かった。二人は温かいココアを音を立てて飲んだ。少し沈黙が続く。しばらくすると有川が口を開いた。

「……叶わない恋を最初からしなくなったら、どんな世界なんだろうな。速水は、幸せと思う?」

「うーん、つまんないんじゃないかしらね? 決まりきってるなんて。……それに、失恋してもいい恋はいい恋でしょ」

 有川は速水を見る。真っ直ぐ前を見たままそう答える速水はやはり速水だった。有川はココアを飲み切るとごみ箱に空き缶を捨てた。その横顔は微笑んでいた。

「またおでん付き合うからー、いつでも連絡してね」
「ちょっと、また大根を奢らせる気?」

 有川が手を振り立ち去ると速水はココアの缶を地球儀を回すように一周した。裏に書かれたカロリー表示を見て速水は一瞬嫌そうな顔をした。速水は缶を捨てると足取り軽くデスクへと戻って行った。
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