忙しい男

菅井群青

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泣く背中

静かだ 遼side

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『ごめん、遼……ちょっと残業になっちゃった』

「あぁ、そうか、なら待っておくよ」

 遼は電話を切ると、作ったおかずにラップをかける。遼が作れる料理はだいたい決まっている。ぶつ切りしてフライパンに放り込むシンプルな料理ばかりだ。そんな料理でも紗英は喜んで食べてくれる。

 紗英の部屋にこうして一人で待つことが多くなった。広い、そして静かだ。自分の部屋ならこうも孤独を感じることもない。

 紗英の香りもするし、いつも紗英と一緒に過ごしているはずのこの部屋が別の部屋に感じる。

 先週も料理を作って待っていたが、結局紗英が帰ってきたのは日が変わる前だった。最近の不景気の煽りを受け、顧客相談や節税相談で事務作業をする時間が足りなくなっていると言っていた。

 遼はベッドに腰掛けるとそのままうつ伏せに寝転ぶ。鼻から息を吸い、目一杯紗英の香りを吸う……間違いない。紗英の部屋だ。紗英がいる。

 遼はそのままシーツを撫でると気持ちよくなってきてそのまま夢の中へと落ちていった。

 紗英、もうすぐ帰ってくるか?
 疲れてるか?
 大丈夫か?
 無理するな。

 帰ってきたら紗英は疲れ切っているに違いない。少しでも癒してあげなければいけない。

 夢の中で誰かがそっと頭を撫でている感覚がした。優しい春風のようだ。目が覚めるとベッドに腰掛けた紗英がこちらを見下ろしていた。スーツ姿のままで申し訳なさそうな顔をしている。

「ごめんね、遼、待たせちゃって……」

「あぁ、いいよ。寝てたし。仕事大丈夫?」

 紗英は肩をすくめるとそのまま服を脱ぎ出した。その姿を黙って見ていたが遼はその細い腰を後ろから抱きしめた。

「え、ちょっと、遼どうしたの?」

「ちょっと、このままで……あぁ、やっとの紗英だ」

 紗英がいる。ここにいて触れられる。こうして体温を感じる。

 遼はよく夢で紗英に会っていた。夢では紗英は近づくと消えてしまう。夢の中の紗英は……温かくも何ともない。

 無視されることもある。

 俺に気づかず歩き続けることもある。

 抱きしめるとラムネのように溶けてしまうこともある。

 よく分からないが、それが夢の中の紗英だ……。

 紗英はプッと吹き出して笑った。

「本物って何よ、こんな人間がこの世に二人もいないわよ」

 紗英が遼の方へ振り返ると頭を抱えて抱きしめた。遼は目を瞑り幸せを噛みしめる。

「ごめんね、遅くなって……ご飯一緒に食べよう?」

「あぁ、そうだな。今日は特製野菜炒めだ。豚バラ入りだぞ」

「あら、嬉しい!」

 紗英は着替えると電子レンジで温めなおした野菜炒めを頬張った。幸せそうな顔に遼は安堵する。

 遼も野菜炒めを頬張ると少ない豚バラをめぐって紗英と攻防を繰り広げる。

「……遼、ちょっと取りすぎじゃない?」

「いや、俺の方が体大きいし──ちょっと待て紗英、お前そのキャベツの下に隠しているな?」

 二人の賑やかな声が部屋に響き渡った。
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