財閥の犬と遊びましょう

菅井群青

文字の大きさ
21 / 131

21.恋だった

しおりを挟む
 雫は暫く近くのベンチに座り一人考え事をしていた。淳が待っている……そろそろ行かなければならない。でも、怖い。淳の最後の姿が雫の胸を締め付ける。

 大丈夫……。大丈夫よ。一言追い出されてムカついたって言ってやればいい。裏切り者にはもう会いたくないって言えばいい。そうよ……出来るわよね、あの誠大さまに文句を言えるぐらいだもの。

 カフェに近付くと雫は高鳴る胸を何度か叩いた。期待している訳じゃない……ただ、話をして言いたい事を言いたいだけだ。そして、長袖をもらいたいだけ……それだけだ。

 待ち合わせの店のガラス戸を引くと深みのあるベルの音が店内に響いた。ベルの音にいつもの席に座っていた淳がドアの方を振り返った。雫を見てほっとしたような表情をしていた。優しかった頃の淳を思い出して胸が痛くなった。あの晩の淳が嘘のようだ……汚いものを見るような目でドアを閉める淳の最後の表情を思い出していた。

「来てくれて、ありがとうな」

「あ、うん」

 雫は席に座るとコーヒーを注文した。一気に緊張が増す……。雫は淳に見えないようにテーブルの下で何度も指を組み直した。淳の手が視界に入る……あかぎれで荒れた指が痛々しい。確かに淳の手のはずなのに……別人のようだ。沈黙が二人を包んでいた。淳は唇を固く結んでいたがゆっくりと口を開いた。

「元気……だったか?」

「元気だよ……今住み込みの仕事をしているの」

 雫は少し微笑んでテーブルの上のアイスコーヒーを一口飲んだ。コーヒーの味は分からなかった。周りには何組か客がいて時折笑い声が聞こえてきた……正直良かった。二人には一緒に笑い合える話題などない。雫は淳が話し始めるのを待った。淳はじっと雫を見つめた。

「雫……あのさ、戻ってきてくれないか?」

 雫は耳を疑った……自分を突き放したはずの淳がどうしてこんなことを言うのか分からなかった。不思議とよりを戻したいという気持ちは微塵もなかった。愛情はもう跡形も無くなっていた。雫は拳を握り締める。

「何言ってんの……戻らない。また前みたいに戻る訳ないじゃないの。絶対、嫌」

 雫の静かな声に淳は黙った。決意に満ちた雫の瞳に息を呑むと立ち上がり雫の肩を掴んだ。その力があまりにも強くて雫の顔が歪む。

「戻ってきて……仕事を、してくれ、頼む。雫が居なくなって取引先からクレームが出ているんだ。前みたいに汚れが取れていないって──頼む、雫……俺の会社のために戻ってきてくれ、頼む! なっ? お前もあの仕事好きだったろう? お前のためにもなる。前みたいに俺と一緒に仕事しよう──」

 雫の瞳から涙が流れ落ちた。
 ショックだった、淳が私をまるで物のように思っている。かつての恋人を見るような目ではない。来なければよかった、余計に傷が深くなるのが分かった。

 利用価値が高かった? 真面目でバカだからまた戻ってくれると思ってた? この人は、本当に私を好きだと言って抱きしめてくれた淳なの? 
 いつから? 最初から、利用されていただけだったの? 愛されていると思っていたのに……そうじゃなかった……。淳にとって、私は、私は……。

 やっと見つけたのだと思っていた。淳のそばが自分の居場所だと……。

 雫の涙を気にも留めずに淳は雫を説得し続けている。雫は涙を流しながらそれを聞いていた。声が出なかった。いろんな感情が心の中を巡っていたのに。何も言えなかった。雫は震えが止まらなかった……。


 誰か、誰か──助けて……私を……消して。



 ダンッ!

 目の前の淳が突然視界から消えた。まるで手品のように轟音と共に横へと吹っ飛んだ。雫がぼんやりとした頭で見上げると怒りで呼吸の荒れた誠大が立っていた──さっきの音は誠大が淳を蹴り上げた音だった。
 ネクタイを乱暴に外して右手の甲にぐるぐると巻き付けた。床に転んだ淳を憎しみのこもった瞳で睨みつけている。ボクサーのような仕草で今にも淳に殴りかかりそうだ。

「せ、誠大さ、ま──っ、っく……」

 雫はより一層涙が止まらなくなる。なぜ誠大がここにいるのか、どうして淳を蹴り上げたのか、そんな事を考える余裕はない。誠大はしゃくり上げるように泣き続ける雫を見てより一層不機嫌そうに拳を握り締める。奥歯を噛みしめると唖然としている他の客たちを見渡した。

「郡司──店を閉めろ」
「はい」

 郡司が盆を抱えたまま立ち尽くすマスターのそばに駆け寄る。何かを耳打ちするとすぐにマスターは固まっている客に声を掛けて店から出て行くよう説得しはじめた。郡司はその客たちに小さく折り畳まれた懐紙を手渡していく。客たちは懐紙に包まれた中身を確認すると頰を赤らめてほくほく顔で出て行った。
 最後にマスターが店を出て行くと郡司がドアの鍵を閉めてオープンのフダをひっくり返しクローズにした。その音が店内に響くと淳が体を震わせる。雫と誠大を交互に指差して顔を真っ青に染めていく。

「な、なんだよ! こいつらは誰だ! し、雫、お前が雇ったのか!?」

「違──そ、そうじゃ……」

 郡司が雫の隣に座ると震える肩を支えてくれた……それだけで雫の心は落ち着いてきた。郡司の手は震えていた。それに気付いて雫は郡司を見上げる。郡司は申し訳なさそうに胸元からハンカチを取り出し雫に手渡した。

「雫さま……申し訳ございません。黙って見守るつもりでしたが……我が主人がキレてしまいまして……」

 雫が誠大を見ると未だに淳から目を離していなかった……。まるで狼が唸っているようだ。全身から怒気が染み出していた。

「アンタはとんでもないクズ野郎だな。そして経営者としても最悪だ。従業員一人に頼るのも、尻軽女にうつつを抜かして社員教育を怠ったせいだと思わないのか。あんな現場を見られた恋人に、よくそんな事を言えるな」

「く……っ、お前には関係ないだろう。なんだ? 雫の新しい男か?」

「そうだ」

「な──なんだと?」

「そうだと言った。俺は雫の──男だ」

 誠大はそう言い切ると襟元を緩めた。


しおりを挟む
感想 20

あなたにおすすめの小説

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」 母に紹介され、なにかの間違いだと思った。 だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。 それだけでもかなりな不安案件なのに。 私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。 「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」 なーんて義父になる人が言い出して。 結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。 前途多難な同居生活。 相変わらず専務はなに考えているかわからない。 ……かと思えば。 「兄妹ならするだろ、これくらい」 当たり前のように落とされる、額へのキス。 いったい、どうなってんのー!? 三ツ森涼夏  24歳 大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務 背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。 小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。 たまにその頑張りが空回りすることも? 恋愛、苦手というより、嫌い。 淋しい、をちゃんと言えずにきた人。 × 八雲仁 30歳 大手菓子メーカー『おろち製菓』専務 背が高く、眼鏡のイケメン。 ただし、いつも無表情。 集中すると周りが見えなくなる。 そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。 小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。 ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!? ***** 千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』 ***** 表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101

【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!

satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。 働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。 早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。 そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。 大丈夫なのかなぁ?

【完結】モブのメイドが腹黒公爵様に捕まりました

ベル
恋愛
皆さまお久しぶりです。メイドAです。 名前をつけられもしなかった私が主人公になるなんて誰が思ったでしょうか。 ええ。私は今非常に困惑しております。 私はザーグ公爵家に仕えるメイド。そして奥様のソフィア様のもと、楽しく時に生温かい微笑みを浮かべながら日々仕事に励んでおり、平和な生活を送らせていただいておりました。 ...あの腹黒が現れるまでは。 『無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない』のサイドストーリーです。 個人的に好きだった二人を今回は主役にしてみました。

【完結】溺愛予告~御曹司の告白躱します~

蓮美ちま
恋愛
モテる彼氏はいらない。 嫉妬に身を焦がす恋愛はこりごり。 だから、仲の良い同期のままでいたい。 そう思っているのに。 今までと違う甘い視線で見つめられて、 “女”扱いしてるって私に気付かせようとしてる気がする。 全部ぜんぶ、勘違いだったらいいのに。 「勘違いじゃないから」 告白したい御曹司と 告白されたくない小ボケ女子 ラブバトル開始

ハイスペックでヤバい同期

衣更月
恋愛
イケメン御曹司が子会社に入社してきた。

【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―

七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。 彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』 実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。 ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。 口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。 「また来る」 そう言い残して去った彼。 しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。 「俺専属の嬢になって欲しい」 ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。 突然の取引提案に戸惑う優美。 しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。 恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。 立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。

処理中です...