財閥の犬と遊びましょう

菅井群青

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56.心

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「あ……ガキどもめ……五人も抱えられるかってんだ。あー、腰怠い……」

 木戸は施設から帰宅した。無理が祟ったのか腰から臀部にかけての痛みに苦しんでいた。部屋に戻ってベッドに横になると携帯電話を確認する。誠大の記事を見て高笑いすると木戸はその写真を保存した。我が主人の新たな一面を見れた記念品だ。

 誰かが階段を登ってくる音がする。木戸は体を起こすとドアへと向かった。来客がドアをノックする前に木戸はドアを開けた。予想どおり美智が拳を握って固まっている。木戸は驚いた猫のような顔の美智を見て吹き出した。腰が痛いのを忘れられた。

「待ってたぜ……お疲れさん」
「お、おお。お疲れ様」

 木戸に向かうように椅子に座ると木戸がテーブルに見取り図を広げた。数日後に控えた舞踏会の護衛の件で美智を呼んでいた。誠大の通るルートや利用するであろう手洗い、もしもの時の為に部屋を一室確保している事を確認した。美智はそれを頭に叩き込むと木戸に気になっていた部分を聞く。

「天洋さまは車かな?……まさか宿泊?」

「どうだろうな……宿泊リストには名前がない。もしもの時には天洋さま、真守さまの車の発信器を確認しろ。別の護衛が常に監視する予定だから……護衛中通信を切るなよ? ただし……お前は無理をするな、俺が付いてる。雫ちゃんの事だけ考えてろ」

「分かった」

 美智は早くも緊張しているようで大きく深呼吸をした。木戸は見取り図を箱に入れると意外そうな顔をした。

「お前でも緊張すんだな……もっと大きな舞台で羽ばたいていただろうが」

「あんなの、ただバイク走らせただけじゃん。今回は、守るべきものが……大きいから」

 美智は雫の笑顔を守りたいと思った。気を遣わせまいと笑顔を絶やさない雫は自分よりも弱い存在のはずなのに大きく見えた。天洋に制裁を食らわせたいが雫が悲しむ顔を見たくはなかった。話が終わると美智は立ち上がりドアの方へと歩き出した。見送ろうと木戸が立ち上がると美智が訝しげな表情で木戸の動作を観察した。

「はぁ……何やってんだか。ねぇ、ベッドに行くわよ」

「は? べ、ベッド?」

 木戸の返事を聞かずに美智は狭いシングルベッドの毛布を引っぺがすと床に置いた。マットレスを掌で叩くと顎でしゃくった。

「慣れてるから、楽にしてあげるわよ」

「……え。いや、俺……溜まってねぇし。そもそも女のくせに恥ずかしげもなく性処理なんか──ッテェ」

 美智が全力で木戸の頭を叩く。かなり大きな音が部屋に響いた。木戸が恨めしそうに後頭部をさすりながら睨む。

「何言ってんの? 殺されたい? 腰、痛いんでしょ……死んだ父さんの腰をよくマッサージしてあげてたから、任せなよ」

 美智は木戸を無理やりベッドにうつ伏せにすると馬乗りになった。掌で背骨を上から下に押していく。木戸か服越しに感じる美智の太腿の柔らかさや手の温もりに心拍数が跳ね上がった。そんな中美智は黙々と全体重をかけて木戸の硬くなった腰の筋肉を押す。
 背中の筋肉が発達しているので背骨の両脇にある筋肉が盛り上がって押しにくい……死んだ父親を思い出して美智は瞼を閉じた。

「すまんな」

「いいわよ。仕事のパートナーがへっぴり腰だなんてダサすぎだし」

 美智の楽しそうな声が聞こえて木戸も微笑んだ。美智の指が傷んだ筋肉の繊維を捉えた。木戸は息を吐き痛みを耐える。

「ああ、そこだ、そこ……」

「ここ……あぁ、硬いわね」

 硬い箇所を攻めると木戸の苦しむような艶かしい声が漏れる。美智はなんだか変な気持ちになってきた。こんな風に男の体に跨っている。しかもベッドの上で……。冷静になってみると恥ずかしい事をしているように思えて美智の手が止まる。木戸は気まずい空気を読み声を掛けた。

「も、いい……大分良くなった。サンキュな」

 木戸が体を起こしベッドの上で胡座を掻くと美智と目が合った。金縛りにあったように二人は見つめ合ったまま動けない。ベッドの上で二人きりな事をまざまざと実感した。

 美智の揺らぐ瞳から目が離せない。木戸が美智に誘われるように前のめりになると古いベッドの軋む音が部屋に響いた。思いの外大きな音に二人は覚醒した。弾かれるように二人が距離を取る。

「っ……いや、なんだ。とりあえずよろしく頼む」

「え、あ……はい。じゃ……」

 美智が慌ててベッドから降りると木戸の部屋を出て行った。足音を響かせながら階段を駆け下りた。その顔は風呂上がりのように真っ赤だった。犬舎の檻の前を通りすぎるがジャックや他の犬たちを振り返る余裕もない。犬舎を出るとようやく酸素が吸えた。夜の冷たい空気が火照った体を落ち着かせてくれる。

「なんで、手出されなくてショック受けてんのよ……バカ」


 ◇


「くそ……忌々しい。ああ! くそっ!」

 天洋が会社の社長室に置いてあったステンレスのゴミ箱を蹴り上げた。社長室と言っても天洋はこの部屋を使うことは少ない。天洋は東郷グループのホテル部門の責任者だ。東京だけではなく日本の大都市に幾つもの三つ星ホテルを持つ。一年の三分の一は視察で全国を飛び回っているので主人の留守が多いこの部屋は、簡素で物も最低限にしか置かれていない。もちろんゴミ箱を蹴り上げても大したゴミも散乱しない。

「誠大のやつ……よくも俺に恥かかせたな」

 天洋は荒れていた。社長室のドアのそばにある秘書のデスクまでその声は届いていた。秘書たちは自分たちにとばっちりがくる事を恐れて必死にパソコンに向かっていた。神石もその一人だ。いつ自分の名前が呼ばれるのかという恐怖で脂汗が出ている。いや、もしかするとメタボな体のせいかもしれない。


 晩餐会の朝、天洋が屋敷からの帰り道に大通りで信号待ちしているとひどく視線を感じた。隣の車線に停車した運転手がチラチラと見ていた。さらに後部座席の子供が指を指し笑う様子が見えた。居心地が悪くなり顔を背けると逆隣の車線に停車中の軽自動車の中年女性も頬を赤らめて手を振ってきた。

 一体何なんだ? 知り合いでもなさそうだ……。まてよ? なんで後ろに停った車の男まで笑っているんだ?

 ルームミラーを見て天洋は何か恐ろしい事が起きている気がした。急いで横道に逸れるとコンビニの駐車場に停車した。車を降りてみるとトランク部分にジャストマリッジのステッカーと吸盤タイプのプラスチック製の缶と花束が脇を固めていた。天洋は慌ててそれを引きちぎった。怒りで体が震えた。天洋の乗っていた高級車は一晩で随分と恥ずかしくカスタムされたようだ。新婚ホヤホヤ仕様の愛車を見て天洋は腸が煮え繰り返りそうだった。


 ご機嫌な新婚カップルがする飾り付けなんかしやがって……。こんな事をするのは一人しかいない……誠大だ。

 天洋は昔誠大が鬱陶しくて木の枝で頭を叩いたことがあった。その仕返しに誠大に落とし穴に嵌められた事を思い出す。あの頃から誠大のそばには郡司がいた……仕返しに仕方なく手を貸していた郡司はいつも不安そうだった。

「誠大のやつ……春日雫の件で嫌がらせしてんのか……」

 誠大がこんな手の込んだ事をするとも思えない……アイツなら後先考えずに二千万円以上する高級車を傷付けそうだけど……まさか郡司が? いや、郡司が東郷の人間にあんな事をするなんてあり得ない……あいつは忠実だ。

 天洋はそのまさかが起こったとは微塵も思わなかった。郡司のだ。

 天洋が椅子に腰掛けるとくるりと一回転した。受話器を手に持つと神石を呼び出した。すぐに神石が社長室に入ってきたがその顔色は土気色でまるで死人のようだ。この数時間でストレスで黄疸が出ているのかも知れない。

「興信所から結果が届いたか?」

「あ……手元にございます──こちらです」

 神石の手から報告書を受け取ると無言で手を振り部屋から追い出した。神石はひどい扱いを受けたのにもかかわらずホッとした顔をした。てっきり苛々をぶつけられると思っていた神石は、無傷で部屋を出られた事を神に感謝しているようだ。

 天洋が興信所から届いた書類に目を通し溜息をついた。それは雫の調査結果だった。清掃の仕事を辞めた後の足取りを依頼していた。

 約一ヶ月前から東郷の屋敷で勤務。
 メイド宿舎ではなく屋敷内にて生活。
 詳細は不明だが、東郷誠大と行動を共にする。

 あの屋敷は特に情報の守りが厚い。ここまで調べられただけでも大した物だ。一般的な宿舎ではなく部屋を与えられてると言うことは何かメイドだけではなく別の役割があるようだ。

『雫さま!』

 あの日、確かに郡司がそう呼んでいた……。誠大の野郎の……恋人か? まさか……あの誠大に限ってそれはない。女を毛嫌いしているはずだ。だが、あの誠大がパートナーを連れ立って公式の場に現れる事は今まで一度もなかった。もし、あいつが本気なら……面倒だ。

 天洋はあの日水仙の部屋を蹴破って乗り込んだ誠大を思い出した。天洋を殴り雫を抱きしめて安堵の表情を浮かべた誠大は男の顔をしていた。

 誠大は……怒りで拳が震えていた。全力で俺を殴った……まさか、本当に春日雫の事を?

「春日雫……」
 
 天洋はそっと唇に触れた。まだあの時の傷が癒えていない。あの日の口付けが夢ではなかったと知り得る唯一の痕だ。そっと撫でると天洋は切げな表情で横たわったままのゴミ箱を見た。




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