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72.『秋霖』に響く歌声⑦
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廊下でエミリオと別れ、教室へ向かう時のことだった。授業の始まりが近いからか、各教室に学生たちが集まり賑やかさが廊下まで伝わる。
「私も昔学校に少しだけ通ってたけど、殿下たちみたいなお友達がいたら違ったのかな~」
カバンを手にしながら伸びをしながら、エリーチェが言った。
「……学校には通ってなかったんじゃ?」
「空気が合わなくてすぐに行かなくなったの。勉強だってつまらなかったし、やりたいことやってもすぐに怒られたりしてさー。話の合う子も少ないし、男女で分かれて交流することも制限されたり――。それは別にいっか」
過去を羅列していたが、それを打ち切りふわりとした笑顔が向けられた。
「そうやって暇してたから、カナタに言われて聖都に行ったのはきっかけだけど、クリスに会わなかったらここにも来れなかっただろうし、こっちでも話の合う友達が出来た訳だから嬉しいんだ~」
姉たちのことを指しているかと思ったが、話の流れ的に自分のことを指しているのだろう。ご機嫌に揺らされる頭がこちらを見ていた。
「一緒にご飯して、楽しくお話したらもう友達かなって。――はっ、もしかしてまだ心に距離がある感じだった? 友達と名乗るの早かったら正直に言ってね!」
返事を待たず、慌てて選択権を譲ろうとするエリーチェだったが、彼女の自由さと気安さがクリスに近いものを感じた。適度なこの緩さが悪くない。
「そう思ってもらえて光栄だ。よろしく頼む、エリーチェ」
「えへへ、こちらこそよろしくねディアス様」
「いまさらだが、敬称はつけなくても構わない――」
「ごめん、それはムリ。学園の秩序を乱す訳にはいかないから」
今までの和やかな空気から一転、エリーチェが手で静止しながらぴしゃりと断ってきた。
「名を呼ぶだけでそんなことはないと思うが……」
「こういうのはタイミングってものがあると思うんだ。今は分からないだろうけど、そういうものだと思ってしばらく我慢してもらえないかな……!」
聖国の教えなのだろうか。さらりとした言葉とは違い、ずいぶんと苦しい表情で言うものだから頷くしかなかった。
「タイミングはそちらに任せよう。俺は気にしないから」
「うん、ありがとう……。――ねねっ、話は変わるんだけど舞踏会ってどんな感じなの? コレット様と参加されるんだよね」
すでに次の興味に気が移ったらしく、今の苦々しい空気からあっという間に元のふわりとした好奇心いっぱいの彼女に戻っていく。
切り替えの早い者は今まで見たことがない訳ではないが、損得勘定のない話題だけに、気を遣われているという印象もなく、フラットに接してくれているのが伝わった。
「そうだな――、学園で行われるものは基本的に社交界に出た際の練習だ。会で使われる曲も毎回事前に決められていて、二、三時間程で終わる」
長いものであれば日中から始まり、夜を跨ぎ次の日の出を見るまで行われることもあるが、正式なものも含め多いのは日暮から夜半過ぎまでだろう。それに比べればここで行われるものは短すぎるくらいだ。
『舞踏会』という名だが、実際はダンスを披露し合うというよりも交流がメインだ。――参加者と代わる代わる情報を交換し、交流を深め新たな人脈を得たり、徒党を組み新たな計画を立てる者がいたりと、参加者と組み合わせの分だけ舞踏会という機会には様々な可能性が秘められている。存在意義も行うべき理由も理解しているが、意欲的に参加したいと思えた試しが正直ない。
貴族以上の階級であれば、その年に十五になる者が参加できる社交界デビューの舞踏会が、毎年初夏に王城で執り行われる。王への謁見が許される貴重な機会であり、ひとりの貴人として認められる時でもあった。
昨年はディアスも同い年であるコレットと参加したが、あまりの長さと終わらぬ人との交流に疲れたという記憶が、いまだにこびりついている。
熱心に他人に興味を持ち続けられる熱意とは一体なんなのか、一年以上ここで参加していてもよく分からない。学園のこと、この国のこと、個人的なことに流行りの話など人々の話を聞き続けたが、交流する者たちの誰もが華美に装飾された『舞踏会』という熱に浮かされているようにしか見えなかった。
立場上、王城に戻れば否が応でも舞踏会に出なければならないことは多い。そんな時は姉や兄たちと隙を見てこっそり抜け出しては、使いに呼ばれるまで息抜きしていることが多かったりする。――この時ばかりは侍従たちもあまり味方になってくれないので、こっそり抜け出すのは至難の業だが、子どもの頃から変わらない姉兄たちとの関係のようで少し楽しい時間でもあった。
「へぇ~、聞いてた話と全然違うんだね。いろんな人とお話しできるなんて楽しそ~」
「そう思えるのは向いているんだろう。話し好きな者も多いから、いろんな人と交流するといいんじゃないか」
「うんっ、そうしてみる! ――あとアズたちがディアス様とフィーを競わせようって言ってたんだけどよくあることなの? なにか競技でもするの?」
きらりとエリーチェの目が期待に輝いた。眩しい眼差しだが、一体何の話か分からない。
「……何か聞いてるか?」
「いいえ、特には……?」
一歩後ろを歩くアイベルも困惑していた。
「何か、アストリッド様が企画されているのでしょうか? 意趣を凝らした催しはたまにありますが、予定では今回はスタンダードな会だったと記憶していましたが……」
「じゃあ別の話だったのかな? ま、どんな会でもお試しで経験できるのはいいよね。……あと実はおめかし出来るのもちょっと楽しみだったりするんだ。こっちのドレスって丈夫そうだよね」
「ドレスを丈夫と形容する人は初めてだが――、そんな頑丈な作りだったろうか」
あまりにも当たり前に存在するだけに、考えたこともない着眼点に苦笑した。聖国のファッションに詳しいわけではないが、砂漠が近いから薄手のものが多いのだろうか。
迎賓館で会ったときに見た姿は確かに、こちらのドレスに比べれば落ち着いたデザインだった覚えがある。
「コルセットとか、パニエとか服の下に装備するものが多いところ。――あれって護身用だったりするの?」
「……聖国では護身用に何か仕込むのが普通なのか?」
エリーチェの思考に、武器を十本近く仕込んでいる人物を思い出した。今更だが、身につけるにしても明らかに数が多いのではないだろうか。どういう状況を想定しているのか。まさか本当にただの錘なのだろうか。
「どちらかといえばマイナーかな? でも私も仕込み武器を持ってるんだ~」
「……まさかナイフを?」
「あ、フィーに見せてもらったの? 服の下にホルスターつけてるから、いろんなところにいつも何か持ってるんだよね~。あれはできないけど、私のはもっと軽いよ。――ほらコレ」
得意げな顔で、ポケットから手のひらサイズのコンパクトを取り出し、蓋を開けた。中には紙が入っていたのだが、フィフスが使っていた精霊術の札とは違い、薄紅色の花の形をした紙が重ねて入っている。近くに差し出されると、ふわりと花の香りが漂った。
「……紙香か?」
「いい香りでしょー。ここからなんと、長柄武器が出て来ちゃいます。面白くない?」
「想像つかないな」
大きさもさることながら、小物や本に挟んで使うような紙香の一種に見える。そこから、武器が出てくるなどと誰が想像出来るだろう。
魔術の込められた武器でも、サイズが変わるなんてものは滅多に聞かない。もしかしたら携行品として改良を加えたものが存在するのかもしれないが、あまり普及はしてないのではないだろうか。
そういえばと、魔剣を見たがっていたクリスのことを思い出した。――王城には武器庫や宝物庫があり、各地で作られた名だたる武器が納められている。過去の遺物や魔術具なども含めば、相当の数だろう。普段使用されるような普及品から、危険なもの、伝承や伝説の元になった品などもあるが、そのほとんどは攻撃性の高いものだ。封じられていたり、今は力を失いただの骨董品になっているものなどもある。
幼い頃、父に連れられて見せてもらったこともあるが、なぜこんなものを作ったのかと頭を捻るような品もあった。過去の王族が気に入ったものから戦果になったもの、遺品や先の子孫たちに受け継ぎたい品々だという話も聞くが、当時とは違う価値観になっているため、理解できないのも仕方ないだろう。
だが最近できた二人の友人ならば、あの骨董品に充分楽しみを見出せるのではないだろうか。
そんなことを考えていれば目的地に到着し、階段教室の前方にコレットとリタの姿が見えた。
「おはようございまーす」
まだ元気が有り余っている同行者が、視界に入ったリタとコレットに声を掛け二人の元に駆け寄った。遅れていとこと留学生たちの元へ行けば、コレットがためらいがちに声をかけてきた。
「……彼は、一緒じゃなかったの?」
「フィフスか? 彼は朝まで活動していて、すれ違いになった。……少なくとも午前は授業に出られないそうだ」
「そうなんだ……」
授業に使うものをアイベルが並べていると、一日が始まる知らせが鳴り響く。
出会った頃に比べれば、クリスの周りにはずっと多くの人がいるだろう。友人たちに多くの配下、――慕う人を遠ざけても、側に居る人の数はここでもずっと多い。
だけどこの教室で同じ時を過ごせないことが、誰とも違う存在なのだと、鐘の音までもが伝えているように思えた。
仮初であっても学生としての時間を過ごすことも出来ず、大事にしている人と離れることを選び、明るい時間に休んでいる。――秘められた任を請け負っているという理由や、今置かれている状況を抜きにしても寂しいものに感じる。
教師が教卓につけば授業が始まり、学生たちが一斉に教師の話に耳を傾けた。
雨で締め切られた教室では、ひとりの声しか響かない。
この状況が、ひとりで本を読んでいた小さな友人の姿を思い起こさせた。
◆◆◆◆◆
『明日、ディアスさんのお父さまがこちらに来られるそうです』
夕食の準備がもうすぐで整う頃、ハルトに呼ばれ屋上庭園まで連れられればそう言われた。
初めて来た場所だっただけに興味を惹かれたが、急な話にハルトを見上げる。
『久しぶりにディアスさんにお会い出来ることを、楽しみにされていましたよ。……ずっとお寂しくはなかったですか?』
隣にしゃがみ、目線を合わせた銀縁の眼鏡の奥の青い目が、言葉よりもずっと寂しそうな色に見えた。
『……クリスがいたから、へいき』
池にかかる小さな橋と、色とりどりの花々が月明かりと満天の星に照らされて光っているようだった。遮るものもないことから夜空から吹く風は強く、慈悲のない冷たさが身に染みた。
ハルトが身に着けていた外衣をディアスに掛けた。吹き荒ぶ冷たい風から守るように、じんわりと暖かくなる。
『お父さまとお会いするのは、こわいですか?』
問う声に返事が出来ずにいれば、外衣ごと抱きかかえハルトが立った。――大人の背が足されると、夜空以外にも見たこともない建物が四方に広がり、月の見える方向に黒い海が一面に広がっているのが見えた。
だが波音もせず水面も動かないことから、海が固まってしまっているようにも見え、こわくて不思議な光景にハルトの服を掴んだ。
『何があっても僕はディアスさんの味方です。こわいことがあれば僕に任せて下さい。――ディアスさんのお父さまやオクタヴィアさんとは違いますが、ここでは僕もすごい人なんですよ』
すぐ近くにある青い目がいつもの笑顔に戻れば、少しだけ不安が消えるようだった。
『だから大丈夫です。明日はお父さまを驚かせてあげましょうね』
いつもみたいににこにこと笑いながら悪戯を提案するハルトに、また少しだけ明日はどうなるのか楽しみになった。
◆◆◆◆◆
午前、最後の授業での出来事だった。
後方の扉が唐突に開かれた。誰かが教室へ入る音と気配がし、複数の足音と金属音が部屋に響いた。
講義中だった教師の声も止まるが、そのまま手を止め固まってしまったことから皆の注目が後方に集まる。
待ち人が来たのかと不思議に思いながら振り返れば、
「僕らに構わず続けてくれるかな。ただ見学してるだけだから、どうぞお気になさらず~」
ただのヴァイスだった。
襟足の長いブロンドを後ろでひとつ結びにし、ブラウンのシャドーチェック生地のスーツを着ていた。普段より比較的大人しいデザインのスーツだが、間違いようのないくらいアレはヴァイスだ。軽薄な声が彼以外の何者でもないことを証明している。
葡萄酒色の瞳が教室中の生徒たちへにこやかな笑みを送っており、目が合えばウィンクされた。
だがそこにいたのは彼だけではない。
高さのあるヒールでヴァイスと同じ背丈ほどになった女性のほか、数十人程の兵士たちが並んでいた。物々しい状況に、教師が反応出来ずにいたのも仕方がないだろう。
女性は上品なベージュ色のパンツスーツに、大きな黒いサングラスで目元を隠している。ウェーブのかかった長い黒髪を無造作におろしており、視察しに来たように見えた。
何者か分からないが護衛しているのだろう。ヴァイスの腕に手を置き、周囲の兵士も二人を囲うように並んで立っていた。
立場ある者だと分かるが、兵士たちの鎧からピオニールに駐在している兵とは違う。――――記憶にあるデザインに一体どこの所属かと思い出そうするも、形容し難い何かが引っ掛かる。座りの悪い気持ちと緊張感が教室に満ちていった。
観察していると女性が気さくに手を振り、ここにいる者たちへとアピールしていた。黒いサングラスが女性の視線を隠しているものの、どうやらこちらに向かって手を振っているような気もする。そして口元の悠然とした笑みの形になんだか見覚えが――。
ごほんと教師が咳払いをしたため、意識を授業へと戻した。
教師も中断された授業を再開しようと、硬くなりながらも先ほどの続きを話はじめたため、気が散っていた学生たちもまばらながらも元に戻っていった。
「ねぇねぇ、あの人誰かな? 学長先生?」
「違うと思うが……」
隣に座るエリーチェの質問が飛んでくるが、ここは学長という存在はない。各部門ごとの責任者と連携を取りながらヴァイスと叔父であるヨアヒムを中心に学園は運営されている。
そういう意味では、新任の教師を案内しているという可能性の方があり得そうだ。――――だが、なにか得も言われぬ違和感があり、気のせいか先ほどから視線を感じる。
「……ねぇ、並んでるのユスティツィアの兵士よね?」
反対側に座るコレットの指摘に、教室に混じる居心地の悪さの正体に近付いた。――あれがユスティツィアの兵士であれば、スーツの女性は王城から来た関係者であり、あの態度から確実に知り合いだろう。
あのような軽装をする人物に心当たりはないが、口元の笑みの形が馴染み深いものだった――。
スッと思案することをディアスは辞めた。ヴァイスがいるだけでも面倒なのに、あのエスコートのされ方から二人は親しい間柄だ。
ヴァイスの知り合いで自分を知っているとなれば、思い浮かべるべき人物はかなり狭まる。――恐らく厄介なことのひとつやふたつは起こるだろう。
それに、授業が終われば嫌でも答えは分かるだろう。彼女が何者でどうしてここにいるのか、答えの出ない推察をしたところで時間の無駄だ。
極力新たな闖入者たちのことを意識から遠ざけ、授業に集中することにした。
午前の終わりを告げる鐘が鳴り、妙な緊張感が支配していた授業が終わった。周囲の者が少しでも早く退散しようと慌ただしくしているが、兵士たちが教室の中央に進み出てしまい一部通路を塞いでしまう。
退出していいのかどうか教師すら動けなくなってしまったが、ヴァイスが方々に「お疲れさま」と声をかけたことで彼らは自由を許され、足早にこの教室を後にして行った。
ユスティツィアの兵士に立ちはだかれ、アイベルたちもこちらに近付くことが出来ないが、誰だか分かっているようで大人しく後方で控えていた。
兵士が壁を作るよう立ち並び、ヴァイスにエスコートされながらサングラスの女性がこちらへとやってきた。
「久しいな――、息災にしていたか」
黒いレンズで顔を隠しているが、聞き覚えのある声に誰だかすぐに分かってしまった。席を立ち、二人の前に立てばこの状況を楽しんでいるらしいヴァイスと目が合い、苦いもが広がりついため息が漏れた。
「――ご無沙汰しています」
「お久しぶりです、伯母様」
コレットもすぐに誰だか気付いたようで立ち上がり膝折礼をした。
ただならぬ空気に押されながら、エリーチェとリタも慌てて立ち上がりこちらに倣い礼をする。
「……どうして学園に?」
「先ほどヴァイスも言っただろう、授業の見学だ。――アストリッドとエミリオの様子も見てきたから、お前のところに来たという訳だ」
すでに姉弟のところも見てきたという言葉に、二人の元にもこのノリで現れたということか。
この人もピオニールの卒業生でありながら、父ほど話を聞かないが、負けず劣らず自由にしていたのかもしれない。奔放な登場に頭が痛くなる。
「そなたらが聖国の留学生か? なかなかやるではないかディアス」
「……何がですか」
「お前はそういうことに興味がないのではと憂えていたのだ。女子を侍らせていて安心したぞ」
「侍らせていませんよ、母上……。彼女たちに失礼です」
何も通さない黒いレンズでも隠しきれないほど、上機嫌な母親に呆れるしかなかった。
普段はドレス姿でいることが多いこの人は、クローディーヌ・フェリクス・アルブレヒト。――――ディアスの継母であり、アストリッドとエミリオの実母だ。
幼少の頃から親が違えども気にせず大事にしてくれているが、日頃から刺激を求めがちなので対応に困るときがある。
この格好はお忍びのつもりなのだろうか。物々しい警備と自重する気のない言動が、周囲の者を恐れ慄かせているのだが、気付いてないのだろうか。
「ふぇ!? まさか……、王妃様ってこと……?」
「あぁ、そうだ。私はクローディーヌ。聖国よりいらした御令嬢方、ラウルスへよくぞいらした」
二人に手を差し伸べ握手を求めると、緊張でぎこちなく応じていた。どちらも硬い表情が見えるが、エリーチェは嬉しそうだった。一方リタは母を直視できないようで、顔を伏せたまま緊張で震える声を上げた。
「あ、の――、大変お言葉ですが、私たちは侍らされていませんので……!」
「そんなに強く否定せずとも良いではないか……」
二人のやりとりに居た堪れない。すまないと声を掛けるものの、謝ったところでリタの緊張が解ける訳でもなく、リタをさらに動転させてしまう結果となり倍謝られた。
「あはは、聖国の女性は慎ましい方が多いからねぇ。恥ずかしがってしまっただけさ」
「なるほど。確かに我々の知り合いもそうであったな。まぁ良い。ディアス、伴をしてくれ」
「何も良くはないのですが……」
呆れながらも母に腕を差し出した。久方振りに会う軽装姿の母は、サングラスを外せば、姉弟と同じように快活で愛嬌のある黒い瞳がこちらを見上げていた。
「また背が伸びたか? 男前が増したのではないか。なぁ、コレット」
急に話題を振られ返事に困り、しどろもどろになりながら俯いてしまった。ご機嫌な母に巻き込まれてしまったいとこに憐憫の情が湧く。さっさと早くこの場を後にすべきだろう。
「皆が困っているので、この辺でご容赦いただけますか。……どちらまで行かれるので」
「もちろん我らが女王陛下の元へだ。友人が来ていると聞いた。――お前も来てくれるだろ?」
ウィンクする母は、ティアラを迎えに来たついでに自分たちの様子を見に来てくれたらしい。
ヴァイスとも違うこの困った振る舞いだけがなければ、唐突な母の到来を受け入れられたかもしれないが、こういう人なので仕方がない。
「そのあと一緒に食事にしよう。留学生諸君も一緒に来てくれるだろう? ここに来てからの話しや、聖国のことなどぜひ聞かせてくれないだろうか」
「きっと、今頃義姉さんも女王様に内緒で来てたこと、こってり絞られているだろうからね~。助けるのに協力して欲しいんだ」
ティアラが来ていることは、既に伝えてある。ヴァイスの言葉の意味が分かったようで、リタが特に恐々と頷いた。
気安く言ってくれるがあの祖母から助けるというのは、少々難易度の高い要求ではないだろうか。
『フィフス』を紹介された時と同じ言葉と、今の状況を鑑みて返事に窮する。
「案ずることはない。母も子どもたちの前で延々と人をいじめる性格ではない。お前たちがいればすぐに解放してくれるだろう。アズとエミリオ、ヨアヒムにレティシアと全員が揃うし良い機会だ。遠方より集った客人とで食卓を囲おうじゃないか」
母が事もなく言うので、仕方なく皆で祖母のいるピオニール城へ向かうこととなる。
顔を隠すことをやめた母の姿に、すれ違う人々が何者かと気付けば皆が端に寄り道が広がる。
分かれる人ごみの中から、昼を回っても現れなかった人を探すも、どこにもなかった。
「私も昔学校に少しだけ通ってたけど、殿下たちみたいなお友達がいたら違ったのかな~」
カバンを手にしながら伸びをしながら、エリーチェが言った。
「……学校には通ってなかったんじゃ?」
「空気が合わなくてすぐに行かなくなったの。勉強だってつまらなかったし、やりたいことやってもすぐに怒られたりしてさー。話の合う子も少ないし、男女で分かれて交流することも制限されたり――。それは別にいっか」
過去を羅列していたが、それを打ち切りふわりとした笑顔が向けられた。
「そうやって暇してたから、カナタに言われて聖都に行ったのはきっかけだけど、クリスに会わなかったらここにも来れなかっただろうし、こっちでも話の合う友達が出来た訳だから嬉しいんだ~」
姉たちのことを指しているかと思ったが、話の流れ的に自分のことを指しているのだろう。ご機嫌に揺らされる頭がこちらを見ていた。
「一緒にご飯して、楽しくお話したらもう友達かなって。――はっ、もしかしてまだ心に距離がある感じだった? 友達と名乗るの早かったら正直に言ってね!」
返事を待たず、慌てて選択権を譲ろうとするエリーチェだったが、彼女の自由さと気安さがクリスに近いものを感じた。適度なこの緩さが悪くない。
「そう思ってもらえて光栄だ。よろしく頼む、エリーチェ」
「えへへ、こちらこそよろしくねディアス様」
「いまさらだが、敬称はつけなくても構わない――」
「ごめん、それはムリ。学園の秩序を乱す訳にはいかないから」
今までの和やかな空気から一転、エリーチェが手で静止しながらぴしゃりと断ってきた。
「名を呼ぶだけでそんなことはないと思うが……」
「こういうのはタイミングってものがあると思うんだ。今は分からないだろうけど、そういうものだと思ってしばらく我慢してもらえないかな……!」
聖国の教えなのだろうか。さらりとした言葉とは違い、ずいぶんと苦しい表情で言うものだから頷くしかなかった。
「タイミングはそちらに任せよう。俺は気にしないから」
「うん、ありがとう……。――ねねっ、話は変わるんだけど舞踏会ってどんな感じなの? コレット様と参加されるんだよね」
すでに次の興味に気が移ったらしく、今の苦々しい空気からあっという間に元のふわりとした好奇心いっぱいの彼女に戻っていく。
切り替えの早い者は今まで見たことがない訳ではないが、損得勘定のない話題だけに、気を遣われているという印象もなく、フラットに接してくれているのが伝わった。
「そうだな――、学園で行われるものは基本的に社交界に出た際の練習だ。会で使われる曲も毎回事前に決められていて、二、三時間程で終わる」
長いものであれば日中から始まり、夜を跨ぎ次の日の出を見るまで行われることもあるが、正式なものも含め多いのは日暮から夜半過ぎまでだろう。それに比べればここで行われるものは短すぎるくらいだ。
『舞踏会』という名だが、実際はダンスを披露し合うというよりも交流がメインだ。――参加者と代わる代わる情報を交換し、交流を深め新たな人脈を得たり、徒党を組み新たな計画を立てる者がいたりと、参加者と組み合わせの分だけ舞踏会という機会には様々な可能性が秘められている。存在意義も行うべき理由も理解しているが、意欲的に参加したいと思えた試しが正直ない。
貴族以上の階級であれば、その年に十五になる者が参加できる社交界デビューの舞踏会が、毎年初夏に王城で執り行われる。王への謁見が許される貴重な機会であり、ひとりの貴人として認められる時でもあった。
昨年はディアスも同い年であるコレットと参加したが、あまりの長さと終わらぬ人との交流に疲れたという記憶が、いまだにこびりついている。
熱心に他人に興味を持ち続けられる熱意とは一体なんなのか、一年以上ここで参加していてもよく分からない。学園のこと、この国のこと、個人的なことに流行りの話など人々の話を聞き続けたが、交流する者たちの誰もが華美に装飾された『舞踏会』という熱に浮かされているようにしか見えなかった。
立場上、王城に戻れば否が応でも舞踏会に出なければならないことは多い。そんな時は姉や兄たちと隙を見てこっそり抜け出しては、使いに呼ばれるまで息抜きしていることが多かったりする。――この時ばかりは侍従たちもあまり味方になってくれないので、こっそり抜け出すのは至難の業だが、子どもの頃から変わらない姉兄たちとの関係のようで少し楽しい時間でもあった。
「へぇ~、聞いてた話と全然違うんだね。いろんな人とお話しできるなんて楽しそ~」
「そう思えるのは向いているんだろう。話し好きな者も多いから、いろんな人と交流するといいんじゃないか」
「うんっ、そうしてみる! ――あとアズたちがディアス様とフィーを競わせようって言ってたんだけどよくあることなの? なにか競技でもするの?」
きらりとエリーチェの目が期待に輝いた。眩しい眼差しだが、一体何の話か分からない。
「……何か聞いてるか?」
「いいえ、特には……?」
一歩後ろを歩くアイベルも困惑していた。
「何か、アストリッド様が企画されているのでしょうか? 意趣を凝らした催しはたまにありますが、予定では今回はスタンダードな会だったと記憶していましたが……」
「じゃあ別の話だったのかな? ま、どんな会でもお試しで経験できるのはいいよね。……あと実はおめかし出来るのもちょっと楽しみだったりするんだ。こっちのドレスって丈夫そうだよね」
「ドレスを丈夫と形容する人は初めてだが――、そんな頑丈な作りだったろうか」
あまりにも当たり前に存在するだけに、考えたこともない着眼点に苦笑した。聖国のファッションに詳しいわけではないが、砂漠が近いから薄手のものが多いのだろうか。
迎賓館で会ったときに見た姿は確かに、こちらのドレスに比べれば落ち着いたデザインだった覚えがある。
「コルセットとか、パニエとか服の下に装備するものが多いところ。――あれって護身用だったりするの?」
「……聖国では護身用に何か仕込むのが普通なのか?」
エリーチェの思考に、武器を十本近く仕込んでいる人物を思い出した。今更だが、身につけるにしても明らかに数が多いのではないだろうか。どういう状況を想定しているのか。まさか本当にただの錘なのだろうか。
「どちらかといえばマイナーかな? でも私も仕込み武器を持ってるんだ~」
「……まさかナイフを?」
「あ、フィーに見せてもらったの? 服の下にホルスターつけてるから、いろんなところにいつも何か持ってるんだよね~。あれはできないけど、私のはもっと軽いよ。――ほらコレ」
得意げな顔で、ポケットから手のひらサイズのコンパクトを取り出し、蓋を開けた。中には紙が入っていたのだが、フィフスが使っていた精霊術の札とは違い、薄紅色の花の形をした紙が重ねて入っている。近くに差し出されると、ふわりと花の香りが漂った。
「……紙香か?」
「いい香りでしょー。ここからなんと、長柄武器が出て来ちゃいます。面白くない?」
「想像つかないな」
大きさもさることながら、小物や本に挟んで使うような紙香の一種に見える。そこから、武器が出てくるなどと誰が想像出来るだろう。
魔術の込められた武器でも、サイズが変わるなんてものは滅多に聞かない。もしかしたら携行品として改良を加えたものが存在するのかもしれないが、あまり普及はしてないのではないだろうか。
そういえばと、魔剣を見たがっていたクリスのことを思い出した。――王城には武器庫や宝物庫があり、各地で作られた名だたる武器が納められている。過去の遺物や魔術具なども含めば、相当の数だろう。普段使用されるような普及品から、危険なもの、伝承や伝説の元になった品などもあるが、そのほとんどは攻撃性の高いものだ。封じられていたり、今は力を失いただの骨董品になっているものなどもある。
幼い頃、父に連れられて見せてもらったこともあるが、なぜこんなものを作ったのかと頭を捻るような品もあった。過去の王族が気に入ったものから戦果になったもの、遺品や先の子孫たちに受け継ぎたい品々だという話も聞くが、当時とは違う価値観になっているため、理解できないのも仕方ないだろう。
だが最近できた二人の友人ならば、あの骨董品に充分楽しみを見出せるのではないだろうか。
そんなことを考えていれば目的地に到着し、階段教室の前方にコレットとリタの姿が見えた。
「おはようございまーす」
まだ元気が有り余っている同行者が、視界に入ったリタとコレットに声を掛け二人の元に駆け寄った。遅れていとこと留学生たちの元へ行けば、コレットがためらいがちに声をかけてきた。
「……彼は、一緒じゃなかったの?」
「フィフスか? 彼は朝まで活動していて、すれ違いになった。……少なくとも午前は授業に出られないそうだ」
「そうなんだ……」
授業に使うものをアイベルが並べていると、一日が始まる知らせが鳴り響く。
出会った頃に比べれば、クリスの周りにはずっと多くの人がいるだろう。友人たちに多くの配下、――慕う人を遠ざけても、側に居る人の数はここでもずっと多い。
だけどこの教室で同じ時を過ごせないことが、誰とも違う存在なのだと、鐘の音までもが伝えているように思えた。
仮初であっても学生としての時間を過ごすことも出来ず、大事にしている人と離れることを選び、明るい時間に休んでいる。――秘められた任を請け負っているという理由や、今置かれている状況を抜きにしても寂しいものに感じる。
教師が教卓につけば授業が始まり、学生たちが一斉に教師の話に耳を傾けた。
雨で締め切られた教室では、ひとりの声しか響かない。
この状況が、ひとりで本を読んでいた小さな友人の姿を思い起こさせた。
◆◆◆◆◆
『明日、ディアスさんのお父さまがこちらに来られるそうです』
夕食の準備がもうすぐで整う頃、ハルトに呼ばれ屋上庭園まで連れられればそう言われた。
初めて来た場所だっただけに興味を惹かれたが、急な話にハルトを見上げる。
『久しぶりにディアスさんにお会い出来ることを、楽しみにされていましたよ。……ずっとお寂しくはなかったですか?』
隣にしゃがみ、目線を合わせた銀縁の眼鏡の奥の青い目が、言葉よりもずっと寂しそうな色に見えた。
『……クリスがいたから、へいき』
池にかかる小さな橋と、色とりどりの花々が月明かりと満天の星に照らされて光っているようだった。遮るものもないことから夜空から吹く風は強く、慈悲のない冷たさが身に染みた。
ハルトが身に着けていた外衣をディアスに掛けた。吹き荒ぶ冷たい風から守るように、じんわりと暖かくなる。
『お父さまとお会いするのは、こわいですか?』
問う声に返事が出来ずにいれば、外衣ごと抱きかかえハルトが立った。――大人の背が足されると、夜空以外にも見たこともない建物が四方に広がり、月の見える方向に黒い海が一面に広がっているのが見えた。
だが波音もせず水面も動かないことから、海が固まってしまっているようにも見え、こわくて不思議な光景にハルトの服を掴んだ。
『何があっても僕はディアスさんの味方です。こわいことがあれば僕に任せて下さい。――ディアスさんのお父さまやオクタヴィアさんとは違いますが、ここでは僕もすごい人なんですよ』
すぐ近くにある青い目がいつもの笑顔に戻れば、少しだけ不安が消えるようだった。
『だから大丈夫です。明日はお父さまを驚かせてあげましょうね』
いつもみたいににこにこと笑いながら悪戯を提案するハルトに、また少しだけ明日はどうなるのか楽しみになった。
◆◆◆◆◆
午前、最後の授業での出来事だった。
後方の扉が唐突に開かれた。誰かが教室へ入る音と気配がし、複数の足音と金属音が部屋に響いた。
講義中だった教師の声も止まるが、そのまま手を止め固まってしまったことから皆の注目が後方に集まる。
待ち人が来たのかと不思議に思いながら振り返れば、
「僕らに構わず続けてくれるかな。ただ見学してるだけだから、どうぞお気になさらず~」
ただのヴァイスだった。
襟足の長いブロンドを後ろでひとつ結びにし、ブラウンのシャドーチェック生地のスーツを着ていた。普段より比較的大人しいデザインのスーツだが、間違いようのないくらいアレはヴァイスだ。軽薄な声が彼以外の何者でもないことを証明している。
葡萄酒色の瞳が教室中の生徒たちへにこやかな笑みを送っており、目が合えばウィンクされた。
だがそこにいたのは彼だけではない。
高さのあるヒールでヴァイスと同じ背丈ほどになった女性のほか、数十人程の兵士たちが並んでいた。物々しい状況に、教師が反応出来ずにいたのも仕方がないだろう。
女性は上品なベージュ色のパンツスーツに、大きな黒いサングラスで目元を隠している。ウェーブのかかった長い黒髪を無造作におろしており、視察しに来たように見えた。
何者か分からないが護衛しているのだろう。ヴァイスの腕に手を置き、周囲の兵士も二人を囲うように並んで立っていた。
立場ある者だと分かるが、兵士たちの鎧からピオニールに駐在している兵とは違う。――――記憶にあるデザインに一体どこの所属かと思い出そうするも、形容し難い何かが引っ掛かる。座りの悪い気持ちと緊張感が教室に満ちていった。
観察していると女性が気さくに手を振り、ここにいる者たちへとアピールしていた。黒いサングラスが女性の視線を隠しているものの、どうやらこちらに向かって手を振っているような気もする。そして口元の悠然とした笑みの形になんだか見覚えが――。
ごほんと教師が咳払いをしたため、意識を授業へと戻した。
教師も中断された授業を再開しようと、硬くなりながらも先ほどの続きを話はじめたため、気が散っていた学生たちもまばらながらも元に戻っていった。
「ねぇねぇ、あの人誰かな? 学長先生?」
「違うと思うが……」
隣に座るエリーチェの質問が飛んでくるが、ここは学長という存在はない。各部門ごとの責任者と連携を取りながらヴァイスと叔父であるヨアヒムを中心に学園は運営されている。
そういう意味では、新任の教師を案内しているという可能性の方があり得そうだ。――――だが、なにか得も言われぬ違和感があり、気のせいか先ほどから視線を感じる。
「……ねぇ、並んでるのユスティツィアの兵士よね?」
反対側に座るコレットの指摘に、教室に混じる居心地の悪さの正体に近付いた。――あれがユスティツィアの兵士であれば、スーツの女性は王城から来た関係者であり、あの態度から確実に知り合いだろう。
あのような軽装をする人物に心当たりはないが、口元の笑みの形が馴染み深いものだった――。
スッと思案することをディアスは辞めた。ヴァイスがいるだけでも面倒なのに、あのエスコートのされ方から二人は親しい間柄だ。
ヴァイスの知り合いで自分を知っているとなれば、思い浮かべるべき人物はかなり狭まる。――恐らく厄介なことのひとつやふたつは起こるだろう。
それに、授業が終われば嫌でも答えは分かるだろう。彼女が何者でどうしてここにいるのか、答えの出ない推察をしたところで時間の無駄だ。
極力新たな闖入者たちのことを意識から遠ざけ、授業に集中することにした。
午前の終わりを告げる鐘が鳴り、妙な緊張感が支配していた授業が終わった。周囲の者が少しでも早く退散しようと慌ただしくしているが、兵士たちが教室の中央に進み出てしまい一部通路を塞いでしまう。
退出していいのかどうか教師すら動けなくなってしまったが、ヴァイスが方々に「お疲れさま」と声をかけたことで彼らは自由を許され、足早にこの教室を後にして行った。
ユスティツィアの兵士に立ちはだかれ、アイベルたちもこちらに近付くことが出来ないが、誰だか分かっているようで大人しく後方で控えていた。
兵士が壁を作るよう立ち並び、ヴァイスにエスコートされながらサングラスの女性がこちらへとやってきた。
「久しいな――、息災にしていたか」
黒いレンズで顔を隠しているが、聞き覚えのある声に誰だかすぐに分かってしまった。席を立ち、二人の前に立てばこの状況を楽しんでいるらしいヴァイスと目が合い、苦いもが広がりついため息が漏れた。
「――ご無沙汰しています」
「お久しぶりです、伯母様」
コレットもすぐに誰だか気付いたようで立ち上がり膝折礼をした。
ただならぬ空気に押されながら、エリーチェとリタも慌てて立ち上がりこちらに倣い礼をする。
「……どうして学園に?」
「先ほどヴァイスも言っただろう、授業の見学だ。――アストリッドとエミリオの様子も見てきたから、お前のところに来たという訳だ」
すでに姉弟のところも見てきたという言葉に、二人の元にもこのノリで現れたということか。
この人もピオニールの卒業生でありながら、父ほど話を聞かないが、負けず劣らず自由にしていたのかもしれない。奔放な登場に頭が痛くなる。
「そなたらが聖国の留学生か? なかなかやるではないかディアス」
「……何がですか」
「お前はそういうことに興味がないのではと憂えていたのだ。女子を侍らせていて安心したぞ」
「侍らせていませんよ、母上……。彼女たちに失礼です」
何も通さない黒いレンズでも隠しきれないほど、上機嫌な母親に呆れるしかなかった。
普段はドレス姿でいることが多いこの人は、クローディーヌ・フェリクス・アルブレヒト。――――ディアスの継母であり、アストリッドとエミリオの実母だ。
幼少の頃から親が違えども気にせず大事にしてくれているが、日頃から刺激を求めがちなので対応に困るときがある。
この格好はお忍びのつもりなのだろうか。物々しい警備と自重する気のない言動が、周囲の者を恐れ慄かせているのだが、気付いてないのだろうか。
「ふぇ!? まさか……、王妃様ってこと……?」
「あぁ、そうだ。私はクローディーヌ。聖国よりいらした御令嬢方、ラウルスへよくぞいらした」
二人に手を差し伸べ握手を求めると、緊張でぎこちなく応じていた。どちらも硬い表情が見えるが、エリーチェは嬉しそうだった。一方リタは母を直視できないようで、顔を伏せたまま緊張で震える声を上げた。
「あ、の――、大変お言葉ですが、私たちは侍らされていませんので……!」
「そんなに強く否定せずとも良いではないか……」
二人のやりとりに居た堪れない。すまないと声を掛けるものの、謝ったところでリタの緊張が解ける訳でもなく、リタをさらに動転させてしまう結果となり倍謝られた。
「あはは、聖国の女性は慎ましい方が多いからねぇ。恥ずかしがってしまっただけさ」
「なるほど。確かに我々の知り合いもそうであったな。まぁ良い。ディアス、伴をしてくれ」
「何も良くはないのですが……」
呆れながらも母に腕を差し出した。久方振りに会う軽装姿の母は、サングラスを外せば、姉弟と同じように快活で愛嬌のある黒い瞳がこちらを見上げていた。
「また背が伸びたか? 男前が増したのではないか。なぁ、コレット」
急に話題を振られ返事に困り、しどろもどろになりながら俯いてしまった。ご機嫌な母に巻き込まれてしまったいとこに憐憫の情が湧く。さっさと早くこの場を後にすべきだろう。
「皆が困っているので、この辺でご容赦いただけますか。……どちらまで行かれるので」
「もちろん我らが女王陛下の元へだ。友人が来ていると聞いた。――お前も来てくれるだろ?」
ウィンクする母は、ティアラを迎えに来たついでに自分たちの様子を見に来てくれたらしい。
ヴァイスとも違うこの困った振る舞いだけがなければ、唐突な母の到来を受け入れられたかもしれないが、こういう人なので仕方がない。
「そのあと一緒に食事にしよう。留学生諸君も一緒に来てくれるだろう? ここに来てからの話しや、聖国のことなどぜひ聞かせてくれないだろうか」
「きっと、今頃義姉さんも女王様に内緒で来てたこと、こってり絞られているだろうからね~。助けるのに協力して欲しいんだ」
ティアラが来ていることは、既に伝えてある。ヴァイスの言葉の意味が分かったようで、リタが特に恐々と頷いた。
気安く言ってくれるがあの祖母から助けるというのは、少々難易度の高い要求ではないだろうか。
『フィフス』を紹介された時と同じ言葉と、今の状況を鑑みて返事に窮する。
「案ずることはない。母も子どもたちの前で延々と人をいじめる性格ではない。お前たちがいればすぐに解放してくれるだろう。アズとエミリオ、ヨアヒムにレティシアと全員が揃うし良い機会だ。遠方より集った客人とで食卓を囲おうじゃないか」
母が事もなく言うので、仕方なく皆で祖母のいるピオニール城へ向かうこととなる。
顔を隠すことをやめた母の姿に、すれ違う人々が何者かと気付けば皆が端に寄り道が広がる。
分かれる人ごみの中から、昼を回っても現れなかった人を探すも、どこにもなかった。
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