扇屋あやかし活劇

桜こう

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十章

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 ましろとはちみつを伴い、夢一が約束の場所に辿り着いた頃には、西の空に日が傾きはじめていた。
 着いた所は、水路の多い江戸でも一番の豊富な水量と景観の美しさで知られる、大川の河川敷。その川べりの船着場に、まるで仁王のような形相で周囲に睨みを利かせる我聞がもんがいた。
「遅くなりました、叔父上」
「来たか、夢坊。先方も今しがた着いたところだ」
 我聞はそう言って、船着場に停泊している一艘の屋形船に視線を送る。
松原まつばら江西こうさい仔弐阿弥しにあみを知る最後の人物……か」
「仔弐阿弥の実の娘を抜きにすれば、ですが」
 夢一もまた、射光を受けて佇む船を見つめた。
「すずめちゃんは……来れねえ、か」
 心配顔の我聞に、夢一は「いいえ」と、首を横に振る。
「腹ごしらえが済んだら飛んできますよ」
 たぶん……いや、きっと。
「腹ごしらえ?」
 首をかしげた我聞に夢一は「それより」と、屋形船へ目配せをする。
「様子はどうです?」
「事情は話し、てめえの命が狙われていることも伝えた。なのに取り乱したところはまったくない。こっちが戸惑うくらいに落ち着き払ってるぜ」
 松原江西は江戸八丁堀で薬種屋やくしゅやを営んでいると、我聞は話した。矢鱈屋やたらや勘之助かんのすけ高処たかどころ一蔵いちぞうと同様に十数年ほど前までは上総かずさに居を構え、仔弐阿弥とも面識があったと先程我聞に語ったという。
「三人は仔弐阿弥の……」
 我聞は「ああ」と首肯した。
「うしろ盾だよ」
 十数年前、無名の貧乏絵師だった仔弐阿弥の霊験に目をつけた三人は、援助を申し出るとともに仔弐阿弥に霊扇を描くことを勧めた。
「元々素養のあった仔弐阿弥は、己に眠っていた霊験に目覚め、またたく間に霊扇絵師として裏の界隈で名を馳せた。まあ、その意味では江西たちの見る目はたしかだったってことだな」
 我聞は複雑そうな表情で言う。
「ともあれ、矢鱈屋勘之助、高処一蔵、そして松原江西の三人がいなかったら、霊扇絵師仔弐阿弥は生まれなかったってわけだ」
 そう、霊扇絵師仔弐阿弥は生まれ、同時に仔弐阿弥の苦悩は深まっていった。霊扇絵師として名を高めれば高めるほど、純粋な絵師として表舞台への道は閉ざされていく。
 夢一が独り言のように呟く。
「強大な力はすべてを惑わせる。それが金の卵だと勘違いする。見せ掛けに騙され、誰も卵を割ってたしかめねえから、中身は知らないうちに腐っていく」
 その言葉は静寂の雲となって、その場に沈黙の雨を降らせていく。心がひやりと濡れそぼる。
 誰もが口をつぐんだまま、大川のせせらぎだけが夕空の下で流れていった。
「――行こうか」
 その沈黙を断ち切ったのは我聞だった。
「江西から昔話でも聞こうぜ」
「そうですね」
 夢一は頷いた。
「猿と猿回しが現れるまで」
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