扇屋あやかし活劇

桜こう

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十章

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「なんて野郎だ」
 真夏だというのに吐く息が白い。夢一たちを乗せた屋形船は、その氷の大河の真ん中で、分厚い氷の層によって咥えこまれていた。
氷申こおりざる”は? ……にせ仔弐阿弥しにあみはどこだ!?
 闇と氷の景色に目を凝らす夢一に、我聞のがなり声が飛んだ。
「危ねえ! 夢!」
 振り返ると、その視界の端で銀の刃が光った。
「!」
 飛び退くのが早かったのか、それともその刃の狙いがはなから夢一の体ではなかったのか、江西の抜き放った短刀は夢一の胸元を掠め、着物の袂を鮮やかに切り裂いた。その拍子に仕込んでおいた数本の扇子がばらばらと床に散らばっていく。
「ちっ」
 拾い上げようと咄嗟に手を伸ばしかけた夢一の鼻先に、江西の短刀が突きつけられる。夢一は喉の奥で唸ると身動きを止めた。
 江西が青白い顔でにやりと笑う。
「扇子があってこその扇士。なければ翼のもがれた鳥のごときもの。そんな鳥が生きられると思うかね?」
 ぎらつく切っ先を当てつけられては、夢一はもちろん、我聞たちも迂闊には動けない。夢一は苦々しく呟いた。
「てめえ、松原江西じゃねえな」
 江西は嘲笑し「だとすればどうする?」と、床に落ちた扇子をその足で踏みつけた。
「扇子のないおぬしになにができよう」
 夢一の顔先に短刀を突きつけたまま、扇子を足蹴にしていく江西。骨を折られ、地紙を破られ、無残に壊されていく扇子になすすべもないまま、夢一は口を開いた。
「てめえは、ひとでもねえ」
「だから訊ねておる――……だとすればどうするのかと?」
「むろん、あるべき姿に戻ってもらうぜ」
 不審げに眉をひそめた江西に、夢一はにやりと笑った。
「出でよ――”いばらからめ手”」
「なにを――!」
 不意に江西の足元から黒い現出煙が立ち上った。ぎょっとして視線を落とした江西の顔色が変わる。
 江西が足蹴にした扇子の一本が、その衝撃のためにたがが外れて歪み、半分ほどもその扇面が露わになっていた。そこから溢れ出た煙は瞬く間に黒い塊となると、江西を呑み込み、それから四方に弾けた。
「ぐぬっ……」
 煙が散じると江西の全身には荊の蔓が幾重にも巻きつき、その体にぎりぎりと棘を食い込ませていた。身体の自由を奪われ、倒れこんだ江西に夢一がゆっくりと手をかざす。
「助かったぜ。てめえが俺の大事な扇子を踏みつけてくれたおかげでよ」
 恨めしげに睨みつけてくる江西に、夢一が告げた。
「終わりしはてへ──魔思還消」
 江西の体から黒煙が吹き出し、全身を包み込むやいなや音を立てて破裂した。
「江西の野郎、魔思だったのか?」
 舞い落ちてきた二本の扇子を手に取った夢一に、我聞が問う。夢一の手に握られた扇子の一方には棘の付いた薔薇の花が、そしてもう一方の扇子には――。
「松原江西が描かれています」
 その扇面には、今しがたまで目の前にいた松原江西が、異常なまでの緻密な筆致で描かれていた。
「てことは……本物の江西は?」
 夢一が無言で首を横に振る。おそらくすでにこの世にいないだろう。
「ちくしょうっ、好き勝手やりやがって」
 苛立った我聞が、屋形船の座敷の支柱を拳で打ち叩いた時だった。
 船全体が再び激しく揺れた。何事かと誰もが息を呑んだ矢先、屋形船は轟音とともに崩壊した。
 目の前でひしゃげ、折られ、崩れていく座敷に背を向け、夢一は咄嗟にましろとはちみつを腕に抱えると、そのまま船の外へ転がり出た。氷の川面に倒れこみ、背中を打ち付ける冷たさに顔をしかめながら叫んだ。
「叔父上!」
 屋形船は巨大な氷柱に押し潰されていた。径が屋形船の横幅ほどもある氷柱は、しゅうしゅうと冷気を昇らせながら、逃げ遅れた我聞と船頭がいるはずの屋形船を、跡形もなく木屑へと変えていた。
「旦那様……我聞親分さんは……」
 ましろが悲愴な表情で、口元を両手で覆う。
「旦那様……我聞のおっちゃん、どこなんだ? どこに行ったんだ?」
 はちみつが不安そうに周囲をきょろきょろと見回す。
 夢一はなにも答えることができなかった。口元をきつく結んだまま、氷の大川の上流の暗闇へ視線を向けた。
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