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蛇が蠢く聖沢の中で
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春の暖かな太陽の光を受け、花を散らした桜はのびのびと枝を伸ばしている。心地よい風がそっと通り過ぎ、淡い黄色のタンポポを揺らした。
しかし、にはそんな春の恩恵を感じられる状態になかった。顔を斜め上に向け、花粉症の目を少し大きく開き、ポカンとしている。
涙は、少し前の事を思い出し、後悔していた。
春休みのある日、涙は昼間から布団に入っていた。どうも動く気力がないのだ。起きようにも体が重い。眠気が波のように次々と襲ってくる。そして、夜まで寝てしまうのだ。
いつもこんな調子で生活していた。もうすぐ中学二年だというのに、なんてだらしがないのだろう。
「まさか、新学期が始まってもこの生活を続けるつもり?」
母親の声を布団越しに聞いた涙は、情のこもらない声で応えた。
「あたしの自由だよ。生活も何もかも」
それに、学校好きじゃないし。そう付け加えそうになったが、それはそっと心にしまった。親に余計な詮索をされたくなかったから。
涙の学校嫌いは、幼い頃からだった。どうも、人間が苦手なのだ。涙の髪は、生まれつき緑がかった黒色をしている。毎年担任には、
染めたのではないのか、と聞かれる。周りの生徒からも、あからさまに嫌な視線を向けられる。それが我慢ならないのだ。それが原因で、教室では孤高を貫き、良心をもって接してきた生徒にも警戒の目をくれてやった。邪な心をもって接してきた生徒には、凍るような冷たい視線と軽蔑の意をくれてやった。とまあ、こんなにも心を閉ざしてしまうのも無理はないが、ほぼ毎日を睡眠に捧げる日常には、さすがに母親の方も危機感を感じていた。
「そうだ、良い方法があるじゃない!」
しばらくうんうんと唸った末、不意に母親が叫んだ。
「何? 何の方法?」
涙は布団を少しだけ押しのけて、母親の表情を伺った。
「我ながらグッドアイディアね、ふふふ」
怪しげな笑い声をあげる母親に、涙の背筋に寒気が走った。「何だっていうのさ」
母親は少し間を開けた。充分に涙の不安をあおって、衝撃の一言を放った。
「涙を修行に出す!」
涙は少しの間沈黙すると、再び布団の中に潜り込んだ。現実逃避だ。潜り込んで布団の端を押さえた。母親が布団をはがそうとしているのだ。
(負けるものか!)涙は手に力を込めて、さらに防御態勢を整えた。しかし、しばらく経った後、母親の勝利に終わった。
「そんなに怯える必要はないわよ、涙。私だって修行の日々を乗り越えたんだから」
「修行って、何の修行? まさか職人とかになれっての?」
涙は枕を握りしめながら強い口調で訊いた。
「まあ、行ってからのお楽しみ」
そして、地図と荷物を半ば強引に持たされ、
電車に乗せられ、そこからは独りで地図を握りしめてここまで来たのだ。
しかし、目的地は想像を絶するものだった。
巨大な洋館が建っているのだ。それも、森の中に。涙は、小学校の修学旅行で見た、国会議事堂を思い出した。あれの五倍ほど大きい。
それから、学校が一つ入りそうなくらい大きい庭があり、色取り取りの花が咲いている。
涙はもう一度地図を見た。もしかしたら、道を間違えたのかもしれない。しかし、地図はこの場所が目的地だと語っていた。
「こんなへんぴな場所にこんな館を建てる人って、一体どんな人よ」涙はため息交じりに呟いた。そしてすぐに、思い直した。よくよく考えれば、春休みはあと十日たらずで終わる。すぐに帰れるわけだ。
涙は重い足を動かして、門の前に立った。
門には、「蒼樹原」と書いてある。家主の名前だろうか。
「お邪魔しまーす」
そっと門を開けて、おそるおそる足を踏み入れる。よく見ると、門にも細かい装飾が施されている。一体、いくらしたのだろう。
門と館はかなり離れていて、石畳の道がのびていた。その両脇には、石灯篭が幾つも並んでいた。しかも、石灯篭の一つ一つがぴっかぴかに磨かれていた。
庭に目を向けると、見たこともないような花が沢山咲いていた。涙は、その一つに吸い寄せられるように近づいた。
「これ、知ってる。ハエトリグサだ」
ハエトリグサは、食虫植物の一つで、二枚の葉がまるで口のように重なっていて、その口の中に入った虫を溶かして食べてしまう悪魔のような植物だ。
涙の母親は、趣味で沢山の花を育てている。数年前、ハエトリグサもそれに加わった。涙は、その時のことを思い出していた。
『お母さん、これ何?』
『ハエトリグサよ』
『ふーん。変な名前』
『涙ちゃん、小指を中に入れてみて』
『うん。…………うわ、口が閉じた!』
『こうやってね、虫を食べてくれるのよ』
『へぇ~』
しかし、あの時見たハエトリグサよりも、このハエトリグサの方が大きい。その口は、涙を飲み込んでしまいそうなくらいに大きい。ついでに、口の中が妙に紅いような気がする。葉の先についているギザギザの棘も、毒々しい紫色をしている。
「まさか、ねぇ」まさか、人食い植物? そんな疑問が、頭によぎった。そっと手をのばして、口の中を触ろうとした。
――刹那、右肩に鋭い衝撃をくらい、左に無様に吹っ飛んだ。
「なんてことするんだい!」
続けて怒声が聞こえる。涙は右肩をさすりながら、声の主を見上げた。
その女性は、緑色の和服風のゆったりとした服を着て、両手を腰に当て、真っ黒の瞳で睨むように涙を見ていた。そして、肩までだらんとのびた髪は、緑がかった黒色をしていた。
その事に少し驚きつつ、涙は声の主を睨み付けて怒鳴った。
「痛いじゃん、肩が外れたらどうするのさ!」
声の主は、怒気をはらんだ声で言い返した。
「私がお前を突き飛ばしてなかったら、お前はハエトリグサに食われてたじゃないか。感謝される覚えならあるけど、罵られる覚えはないよっ!」
涙は、ハエトリグサ方を振り返った。確かに、食べられそうな雰囲気を醸し出しているが、本当に人を食べるのか、疑わしい。
「ハエトリグサが人を食べるなんて、聞いたことないよ」
そう言って、声の主を再度見た。声の主は、何も言わずに足下の細長い草を摘み取った。そして、それをハエトリグサの口へ放った。
すると、小さなツバメが素速く降りてきて、
草を取ろうとハエトリグサの口へ入った。その瞬間、ハエトリグサの口がパクリと閉じた。
しばらくはツバメが暴れて羽ばたく音が聞こえたが、次第に何も聞こえなくなった。
「お前もこうなりたいかい?」
声の主の問いかけに、涙はふるふると首を横に振った。「いや、死にたくはないよ」
涙の言葉を満足そうに聞いた声の主は、ふと思い出したように訊いた。「で、お前は誰?」
「あたしは涙だよ。母さんに言われてほぼ強制的に修行させられる十三歳の哀れな人間」
涙の意味不明の自己紹介を聞き、声の主は頷いた。
「そのことなら聞いてるよ。私の名は蒼樹原香妖だ。ここら辺の森と山と町の一部の支配者だよ」
涙は、驚いたように目を見開いた。
「私有地多いね」涙の言葉に、香妖はは少し眉をひそめた。
「母親からは何も聞いてないのかい?」
「うん。母さんも修行をしたってのは聞いたけど」
そして、涙は首をかしげた。
「まてよ? 母さんは一体何歳の時に修行をしたの?」
「あの子が十二歳の時だよ」
「そうなると、あなたの年齢がおかしいことになる。外見から判断すると、あなたは二十五歳くらいだよね。でも、母さんが今四十近くだから、二十八年は経ってるわけだ。でも計算が合わないね」
涙は香妖を見た。「計算が合わないんだけど」
香妖は、涙を冷たく見下すと、「合うわけ無いよ」と言った。
「なんでさ」
「私を人間の理で計ろうとするんじゃないよ。私はもう、向こうの時間で一千二百年は生きてきたんだから」
涙は疑わしそうな目を香妖に向けた。
「それ本当? あり得ないよね」
「あり得ないことじゃないよ。私は人間とは違うんだから」
「じゃあ、何だっていうのさ!」
「妖怪だよ」
「妖怪?」涙は必死で考えた。しかし、よく分からない。大体、妖怪って何だ?
そんな涙を見た香妖は、そっと声をかけた。
「今は理解しなくてもいいよ。とりあえず、家の中へ入りな」
館に入ると、まず、広場のようになっていて、正面には大きな階段があった。涙はきょろきょろと辺りを見渡していると、ぱたぱたと誰かが駆けてきた。
「あれ、香妖様、外にいらっしゃったのですか。だったら買い物を頼んどけばよかった。ちょうど洗濯洗剤が切らしてましてね」
涙は、そのおしゃべりな女の子をそっと観察した。歳は、多分涙よりも少し上くらい。オレンジに近い赤の髪を長く伸ばしていて、灰色の服を着ている。目は、炎のような赤色だ。
女の子は、涙の存在にようやく気付いた。
「おや、お客様ですか。もう、香妖様。お客様が来るのなら、前もって知らせて下さいよ。今、お菓子とか切らしてるんですよ」
「客じゃないよ。修行しにきたんだよ、この子は」
香妖が少々呆れ気味に言うと、女の子は目を見開いた。
「おお、そうでしたか。私はこの舘のたった一人の使用人です。いや~実は二人だけって、すごく寂しかったんですよ。賑やかになりそうですね。私は古篭火です」
「お前がいるだけで、充分賑やかだよ」香妖はそう言うと、涙の方を振り返った。
「お前も名前を教えておやり」
涙は促されるまま古篭火の前に立った。
「あたしは涙。十三歳だよ」
そして、少しためらった後、訊いた。
「何歳?」
「私ですか。涙ちゃんよりも年上ですよ。二百歳です。あでも、正確には二百歳よりも少し上ですけど、ちょっとその辺は細かすぎてわかんなくなったので、数えるのをやめちゃったんです」
涙はちらりと香妖を見た。確か、香妖の年齢は千二百歳。そして、古篭火は二百。何かの冗談だろうか。どうもあり得ない年数を生きているらしい。そして、先ほど香妖が言った、「妖怪」という言葉を思い出した。
「古篭火、あなたも妖怪なんだね」
充分考えた末、涙は疑問を口にした。古篭火は笑みを絶やさず、紅い瞳を輝かせた。
「そうです、その通りですよ! さすが涙ちゃんです。よく分かりました。私、見た目が人間そっくりでして、全然妖怪って気付いてもらえないんですよね~。いや、ホントに残念ですよ。だって香妖様に仕えてる妖怪なんて、私をのぞいたら数名しかいないんですよ? そんな私を妖怪ってわかってくれないなんて」
「ちょっとお黙りよ、古篭火」
古篭火の熱弁を、香妖が遮った。涙は、最初の内はちゃんと聞いていたが、後の方になると個人的な悩みが混じり始めたのを悟ってだんだんめんどくさくなり、結局は半分以上聞いていなかった。
香妖はため息をつきながら、「話が長い」と文句を言った。
「そうですか~? 話してる側から言うと、あまり時間は経ってませんよ」
頬を膨らませる古篭火に、香妖はさらに深いため息をつきながら「とっとと涙を案内しな。洗剤だっけ? それは私が買っとくから」と言い、出て行ってしまった。
「ありゃりゃ、呆れさせちゃいましたね。何が悪かったのでしょうねぇ涙ちゃん」
「いや、長話がめんどくさかったんじゃないかな。あたしはそう思うよ」
心ここにあらず、といった様子で、涙は応えた。しかし、古篭火は納得のいかないような顔をして、首をかしげた。「そこまで長話はしてないですけどねぇ。いや、絶対にしてませんよ。だって、人間の寿命を八十年とすると、私が話してる時間なんてたかがしれてるじゃないですか。それに、日本の歴史を二千年とすると、さらにたかがしれてるじゃないですか。そして、マンモスが生きていた時代を遡るとすると、もっともっとたかがしれてるじゃないですか。もうちょっと言っちゃうと、地球の刻んできた歴史を考慮すると、そこまで長くないじゃないですか。あれ、涙ちゃん、聞いてます? 涙ちゃん?」
古篭火の話を長々と聞いていた涙は、魂の抜けた様な顔をしていた。話を聞く、ということは、こんなにも疲れる事だったのか、と、改めて実感し、そっとため息をついた。
「古篭火、あなたの主張は分かったよ。よく考えつくよね」そして、古篭火の顔をじっと見つめた。「なにか、忘れてない?」
「ん~? そういえば、香妖様に何か指示を出されたような気がしなくもない。え~と、あ、屋敷の案内か~! 思い出しました!」
古篭火は涙の手をとり、正面の階段を駆け上がった。そして、階段のすぐそばにあった部屋の扉を勢い良く開けた。その部屋は、大量の本棚があり、本がぎっしりと敷き詰められていた。
「ここは書庫みたいなとこです。図書館みたいでしょう?」
「うん。でも、すごいほこりかぶってない?」
涙は一冊の本を手に取った。うっすらと白いほこりがついている。
「ええ。あまり使われてないですからね」古篭火が顔をしかめながら言った。「私、ほこりっぽいところは嫌なんです。早く出ましょう」
涙は頷いて、古篭火に続いて部屋から出た。
次に向かった部屋は、大きなテーブルと幾つもの椅子が並べられていた。古篭火によると、ここで食事を取るらしい。
「こんなに大きな食卓を二人で使うって、寂しくない」
涙は素朴な疑問を口にしたが、それが運の尽きであった。
「寂しいか、ですって? いや、やっぱり二人は寂しいですけどね。でも、香妖様は妖怪の支配者の一人であられるお方、そりゃぁ力も強くて個性も強い部下がいらっしゃいます。ああ、もちろん私もその一人、明かりつけ係の古篭火でございます。え、たいした役じゃないですって? 何をおっしゃいますか、涙ちゃん。香妖様の部下は私を含めて三人。あれ、間違えました。四人です。そう、四人。その中の一人ですよ?」
涙はまた魂が抜けた様な顔をしていた。あの長話を全て聞いた。のだ。だが、涙は重要な語句を聞き漏らしてはいなかった。
「古篭火、香妖様ってのはさ、妖怪の中では偉い人なんだね」涙は元の血の通った顔で古篭火に話しかけた。口元は少し緩んでいる。
「ええ。日本には幾らかの妖怪の支配者がいます。その一人が香妖様なのです」
古篭火が自慢げに応えた。それを聞いた涙は、さらなる疑問を口にした。
「日本にはって言ったよね。じゃあ、世界にもいるんだね。その、妖怪が」
「もちろんです。呼び名は各地で違いますがね。まあ、有名なのは吸血鬼、ですかねぇ」
涙は疑問の核心に迫った。
「じゃあさ、妖怪ってのはなんなの?」
古篭火は少し考えながら答えた。
「ん~、まあ、現代風に言えば、お化け、ですかね。あ、人間とはまた別の種族です。私たち妖怪は、ちょっと特別な事ができるんです」
「特別な事?」涙は首をかしげた。「それって、どんな事?」
「じゃあ、私が実演して見せましょう」
古篭火の目が怪しく光った。まるで炎の様に、紅く燃え上がる。
「いきますよー!」
そう叫ぶと同時に、古篭火は両手を前に出し、手のひらを上に向けた。そして―涙の目の前には、赤々と燃える炎があった。どうやら、古篭火の手のひらから出ているようだ。
「どう、なってるの?」
ぽかんと口を開けたまま、涙は呟いた。
「うふふ、どうです? 私の力は? 古篭火っていうのはですね、灯篭の付喪神なんですよね。だから、炎とか普通に操れます」
古篭火の説明を受けてもなお、涙はぽかんと炎を見ていた。
「あ、舘に燃え移ると危ないので、もうそろそろ消しますね」
炎は古篭火が言い終わるほんの少し前に静かに消えた。涙は目の前の事を理解しようとしたが、少しもできなかった。今まで積み上げてきた常識が、バラバラと崩れていくのを感じた。
「今さっき」涙はポツリポツリと話し始めた。「今さっき、あたしの目の前には火が燃えていた。そして、なんの動作もしていないのに、消えた。これって、どういうことなの?」
一言一言を絞り出すように告げる。
「涙ちゃん、人間の感性なんて、早く捨ててしまってください。人間にとっては、正しい物はたった一つ。それ以外は間違いなんです。でも、私達は違います。私達の考え方は、全てが正しいんです。ここで火がひとりでに燃えようと、この舘が燃えていても、決して錯覚なんかではないんです。香妖様に言われたでしょう? 私達を人間の理で縛ってはいけない、と」
涙は背筋に寒気を覚えた。人知を超える、とは、このことだったのか。人間の常識が通用しない者達が、錯覚でもでもなく、自分の目の前に顕現している。そう思うと、妙に心臓の鼓動が早くなったような気がした。
「あれ、驚かせちゃいました?」
古篭火が心配そうに涙の顔をのぞき込んだ。
「うん、ちょっとね、頭ん中整理したいんだけど。この舘にはあたしの部屋はないの?」
「ありますよ。こっちです」
古篭火に案内されたのは、小さな部屋。南の窓からは日の光が刺すように注ぎ込んでいる。窓際のベッドには灰色の布団がかけてある。勉強机もあって、椅子が少し高い。本棚には辞書のように分厚い本が詰め込まれている。あと、観賞用の植物―あれは多分、サボテン―が置かれている。だれが置いたのだろう。
「じゃあ、落ち着くまで休んでてください。夕飯のときに呼びに来ますね」
「うん。じゃああたしは少し寝るね」
布団に潜り込むと、扉を閉める音が聞こえた。古篭火が出て行ったのだろう。
(ああ、とんでもない事になったな)
涙は布団の中でじっと考えた。
(母さんもここに来たんだよね。何しに来たんだろ)
しかし、普段の習慣のせいか、疲れが出たせいか、知らぬ間に眠りについていた。
古篭火が涙の部屋を出てしばらくすると、香妖が帰ってきた。
「古篭火、あの子はどうしてる?」
買ってきた洗剤を棚にしまいながら、香妖は古篭火に話しかけた。
「ええ、少し炎を見せてあげたら、疲れちゃったみたいで、頭の中を整理したいと言って布団の中に入っています」
「すっかり人間社会に毒されてるねぇ」
香妖は困ったように言うと、眉をひそめた。
「もうそろそろ跡継ぎを作らないと怒られるってのにさ」
そして、深い深いため息をつく。
「あの子もダメかねぇ、古篭火」
「さあ、まだわかりませんよ?」
そう言いながらも古篭火は、不安そうな顔をしていた。
「で、妖怪に適性があるかどうか、だれが試験をするんです?」
「ああ、いつもやってくれてるのは用事で手が放せないそうだよ。だから、今回ばかりはやむを得ない。あいつに任せるよ」
「ああ、あのお方ですね」
香妖は少し不安げな顔をしたが、それを誤魔化すように、無理に笑った。
「まあ、いくらあいつでも、身をわきまえるだろう」
涙はどこまでも続くような草原に立っていた。三六〇度どこを見渡しても、ただ草が生い茂っているだけである。
「なんでこんなとこにさぁ」
愚痴を吐き出すようにボソリと呟いた。不意に顔を上げると、誰かが立っていた。
「あ、香妖様!」
見知った姿を見つけて心が躍った。香妖は涙に気付いていないのか、涙に背を向けていた。
涙は香妖に向かって一歩を踏み出した。
一瞬。ほんの一瞬。香妖の姿が揺らいで見えた。
「え? 気のせい?」
首をかしげながら、もう一歩、さらにもう一歩と近づいてゆく。そして、涙は確信した。
(あたしが近づけば近づくほど、香妖様は消えてしまっているんだ)
それでも、歩みを止めようとは思わなかった。
どうしても、香妖の元へ行きたかった。
「待って、消えないで!」
段々薄れて、もう霞ほどになってしまった香妖に向かって思い切り叫んだ。すると、香妖は漸く気付いたらしく、ゆっくりと振り返った。
「香妖様ッ!」
もう、すぐそばに来ている。涙は思い切り手を伸ばした。香妖も涙に向けて手を伸ばした。
しかし、指が少し触れた瞬間、香妖は消えてしまった。
「そんな。こんなわけわかんない所で一人にしないでよ!」
苛立ち紛れに叫んだ涙は、天を睨んだ。憎たらしいほどに太陽が輝いている。
刹那、声が降ってきた。
「―てくださ―」
「はぁ? 何?」
「起きて! 起きてくださーい!」
「起きてったらもう、涙ちゃん! ご飯です。冷めちゃいますよぅ!」
古篭火は、布団の中の涙に必死に話しかけていた。
「あああもう! なんで目を開けないんですかー! だから昼寝は良くないんです! だって、そのまんま次の朝まで起きそうもないじゃないですか! ねえ、起きて! 起きてください! お! き! て!」
布団ごしに涙を揺さぶりながら必死に話しかける。
「もしかして、死―」
「死んでないよっ!」
突然、涙は飛び起きた。髪にはくるくると寝癖がついている。
「で、何? 今何時?」
「お夕飯です。香妖様が待ってますよ。香妖様って、待つのがすごい苦手だからすごい怒ってると思います。いや、絶対イライラしてます」
古篭火がにこやかに言った。「お説教がないことを祈りましょう」
「いつまで寝てるんだい、このねぼすけが!」
古篭火の言ったとおり、香妖はイライラしていた。頬杖をつきながら涙を睨み付ける。
「しょうがないじゃん、疲れてたんだから」
少しふてくされながら涙は答えた。
「まあ、とりあえず食べましょうよ。冷めちゃいます」
古篭火が箸を手にとりながら、顔をつきあわせる二人を見た。「じゃ、お先にいただきます」そして味噌汁に手をつけた。
涙は食卓に並んだ料理を見た。ほかほかと湯気を立てる雑穀米にわかめとねぎと油揚げの味噌汁、ごぼうや人参や里芋、蒟蒻などの煮物が目に映る。聞けばこれらは、全て香妖が作ったらしい。
「いただきます」
涙は料理に箸をつけ、黙々と食べ始めた。ふくれ面のまま料理に少し感動した。香妖様ったら、こんな荒々しい性格の癖して、驚くほど繊細な料理が作れるのか! そう思うと、睡眠を咎められたことへの怒りも少しだけ和らいだ。
「ねえ、香妖様」そして、率直な疑問をぶつけたい衝動に駆られた。
「なんだい?」
「あなたは何者なの? 妖怪の偉い人なんだよね」
香妖は少し考えた。「何者って聞かれてもね、私は私としか言いようがないよ」
「そういうことを聞いてるんじゃない!」
涙ははやる気持ちを落ち着かせ、最大の疑問を述べた。
「どうしてあたしの母さんはあなたの元へ修行に行ったの? そして私も。それに、あたしのこの髪の色、両親共々真っ黒なのに、なんであたしだけ緑っぽいの? 突然変異って説明されてきて、ずっと信じてきた。でも、今は違う。あなたが何かしら関係してるんじゃないの? どうなの?」
責め立てるような口調で、一気にまくし立てた。香妖は真っ黒な目を細め、冷めた声で言った。
「私が関係してるだって? そんなわけないじゃないか。大体、私がどう関わろうって言うのさ? それこそ、あり得ない話だよ」
しかし涙は、それでも考えを改めなかった。気付けば、拳をギュッと握りしめ、熱を帯びていた。そっと開くと、手のひらには爪の痕がある。涙は顔を少し突き出して、不安な心を自信ありげな声で覆い隠しながら、香妖に向かって言った。
「あなたがそう考えるとは思えないよ。だって、人間の理と一緒にするなっていったのは、他でもない、あなたなんだよ。真実を語ってよ。ありえない話でもいいから」
香妖と古篭火が目配せし合い、二人とも笑い始めた。それはもう、可笑しそうに。
「ちょっと、ねぇ、どういうことなのさ!?」
一人だけ置いて行かれた涙は声を荒げた。
「ああ、悪かったね。お前の言うとおりだよ、涙。お前の髪の色も、ここに来た理由も、全て私のせいだ」
香妖と古篭火はまた顔を見合わせると、くくくっと笑った。そして、涙に答えをくれてやった。
「お前は私の遠い親戚なんだよ。まあ、私が生まれてから何世紀も経っているわけだから、繋がりは微々たるものだけどね」
「へえ、そうなんだ」涙は驚きと動揺を隠しながら、なんでもない、ただの日常的な会話のように振る舞った。ここに来てから、驚いてばっかりだ。少しの事で目を丸くしてばかりの何も分からない人間とは、思われたくなかった。だが、そんな涙の心情でさえも、香妖は読み取っていた。
「あんまり強がるんじゃないよ。ここではお前は無知のひよこみたいなものなんだから」
それを聞いた涙は、少しムッとしたが、すぐにその通りだと思い直した。今の自分は知らない事だらけ。強がりはやめよう。少なくとも、今は。
「で、あたしに何の修行をしろって言うの?」
涙が首をかしげながら聞いた。
「まあ、一言にまとめれば、私の跡継ぎになってもらいたいわけだ。妖怪の素質があればの話だけど」
今回も驚きを隠せない涙に、古篭火が一言加えた。「本当はもっと複雑な問題ですけどね」
涙は考え込みながら口を開いた。
「それって、あたしに妖怪になれっていってるの?」
「そのとおりだよ。素質があれば」
香妖は涙をまっすぐ見つめながら言った。
「お前が跡を継いでくれさえすれば、私は引退できるんだ。とりあえずお前がここに滞在している間に、なにかしらの事件がおこる。妖怪がらみの、ね。その時にうまく対処できりゃ、晴れて妖怪の仲間入りだよ。対処できなければ人間のままだけどね」
涙はあまり深く考えずに聞いてみた。
「妖怪になりたくなかったら、どうするの?」
それを聞いた香妖は、鼻で笑った。
「まさかそんな事を言われるとはね。お前は古篭火の火を見たんだろ? で、恐れしか抱かなかったと?」
「いや、できたら良いなぁとは思ったけど」
「ならそれでいい。少しでも憧れやら好奇心があれば、この試験は受けてもらうよ。尤も、お前が妖怪を嫌悪し、見たくもないと言うのであれば別だけどね」
「まさか! そんな事ないよ! 受けるよ、その、試験、だっけ? 絶対受かってやるから。バカにできないくらいいい成績で!」
自信満々に言い放った涙を呆れた目で見ながら、香妖はボソリと言った。「この試験は落ちるか受かるかの二択しかないから、良い成績も悪い成績もないけどねぇ」
しかし、その呟きも涙には聞こえていなかった様で、涙は策士のように考えを巡らせていた。
その夜、涙は布団にくるまれてすやすやと眠っていた。いや、外見は穏やかに眠っているように見えるが、夢の中の涙は取り乱していた。
涙は、真っ暗闇の中で佇んでいた。三百六十度どこを見渡しても、ただひたすら黒い空間が広がっていた。光のない世界の真ん中で、涙の不安は募るばかりだ。
「何なの? 誰かいないの?」
涙は苛々と叫んだ。すると、思わぬ返事があった。しかし、それは声ではなく、ポツリポツリと光り出した赤い発光体だった。丁度ビー玉ぐらいの大きさの、ぼんやりとした光に導かれ、涙はそれに近づいた。
不意に、涙は止まった。何かが聞こえる。ずるっずるっと、何かを引きずるような音。それが四方八方から聞こえ、不協和音のように辺りに響いた。
「う、うるさい、やめてよ!」涙の懇願に近い叫びを無視して、尚も音は止まない。それどころか、段々と大きくなっている。
涙の背筋に寒気が走った。たった今、涙の髪に暖かい空気が触れた。その瞬間、涙は悟った。ここに何か、巨大なものがいる! あたしを殺そうと狙っている!
「早く、目を覚まさなければ!」
涙は意識を取り戻そうと、必死になった。といっても、暴れるわけでも、わめくわけでもない。意識を夢から閉め出すのだ。
その時、ふわりと体が浮かび上がるような感覚がした。上を見ると、一筋の小さな光が見えた。光に向かって思い切り手を伸ばし、蠢くものから逃れようとした。涙は、先ほど自分の立っていた所を見た。その瞬間、怖気がわき上がってきた。そこには、黒くぬめぬめと鈍く光る、巨大な蛇の群れが犇めいていた。
その目は真っ赤で、それがあの赤い発光体の正体だと気付いた。そしてその中心には、黒い髪を耳までだらんと垂らした男性が立っていた。感情のこもらない紅い目を涙に向けると、嘲るような笑みを浮かべた。そして、整った顔に馬鹿にするような表情を浮かべ、言った。
「次は逃げられないぞ」
涙は肩ではあはあと息をしながら、布団を強く握りしめていた。初めて、命の危機を感じた。夢とはいえ、涙の心に恐れを抱かせたのは確かだ。涙は額に浮かんだ汗を拭った。
そして、あの男性の恐ろしい笑みを思い出し、布団の中に潜り込んだ。早く忘れてしまおう、そう自分に言い聞かせ、きつく目を閉じた。
しかし、なかなか眠れなかったのである。一~二時間は布団の中にいたが、終には布団を抜け出て、窓から庭を眺めた。実に奇妙な植物が並んでいる。あの巨大なハエトリグサや、それに引けを取らないほどの巨体を持つ真っ赤なバラ、なんだか毒々しい色合いのダリア、真っ青なユリ、季節外れの向日葵は金色だった。見た事もないような、不思議な植物達。これらの世話も、香妖がしているらしい。古篭火が香妖の正体を教えてくれた。たしか、「花妖」という妖怪らしい。自然を司る、精霊のようなものらしい。尤も、香妖には精霊のような可愛らしさはないけれど。「香妖」という名前は、種族が「花妖」だったからそう名付けられたそうだ。そんな香妖が育てているだけあって、普通では育ちそうにないものものびのびと育っている。そして、試験にさえ受かれば、自分も花妖になるのだと思うと、心が踊った。妖怪なんてすてきじゃないか! 人間なんかよりも、よっぽどいい! 涙は妖怪に憧れをよせながら、庭をじっと眺めていた。
「お・き・て・くださーい!!!」
耳元で誰かが叫んでいる。いや、気のせいかな? 涙は布団に深く潜った。
「だ~か~ら~! 起きろっていってるんですよぅ! 何で起きないんですかぁ!」
あれ、気のせいじゃない? いや、でもまだ眠いし、寝よう。涙は布団を頭からかぶり、声を遮断した。
「もうっ! 涙ちゃん! 起きないと燃やしますよ!」
その悲痛な叫びに、涙の頭は段々はっきりしてきた。この声は、古篭火だ。そして、今は朝だ。前のように古篭火が起こしに来たのだ。
「やあ古篭火、おはよう!」布団をのけながら、涙は先ほどまで寝ぼけていた事を誤魔化そうと、わざと明るく振る舞った。
「涙ちゃん、さっき寝ぼけてましたよね、起きてますか? まだ寝ぼけてたりしませんよね」
「何を言っているのさ。 あたしは大丈夫だよ」
古篭火はいぶかしげな目で涙を見た後、「香妖様が呼んでます」と言った。涙は短く返事をすると、香妖のいる部屋へと駆けていった。
「遅かったね」涙が香妖の部屋の扉を開けると、香妖はそう声をかけた。涙は気まずそうに一瞬目をそらすと、ボソボソと言い訳を呟いた。「寝起きは誰だって寝ぼけるよ」
香妖は呆れ顔で深い深いため息をついた。―まったく、この人ときたらさぁ。涙はある事に気付いた。香妖は頻繁にため息をついている。もしため息一回につき幸せが一グラム逃げるとしたら、この人は何グラムの幸せを野に放っているのだろうか。涙はそんな事を考えていた。
「さて、今日私と古篭火は用があって出かける」
「留守番していればいいんだね?」涙は漸くみから解放されつつある瞼と脳を精一杯活用させながら言った。
「いいや、ここはは時折鬼がやってくるから留守番なんて任せられないよ。取って食われるからね」
淡々と言い放つ香妖に、涙の背筋は震えた。鬼だって? 取って食われるだって? ここはそんなに恐ろしいところなのか!
「まあそんな理由で、今日一日は知り合いの所に預ける」
それを聞いた涙は、不満の意を示した。
「えー、ここに来たばっかりだってのに?」
「そうだよ。別にいいだろ」
香妖は涙の不満をサラリと受け流すと、時計を見た。黒く縁取りされた八角形の時計は、七時を指していた。
「さて、もうそろそろ行かなくては」
香妖は気怠そうに立ち上がった。
「で、あたしはどこに行けばいいわけ?」涙の問いに、香妖は実に面倒くさそうに応えた。
「兎の森」
見渡すかぎり、緑一色の深い森。いや、緑一色というのは、正しくない。厳密に言えば、
深緑から黄緑まで、多様な「緑」に彩られている。そんな森の中で、涙はポツンと立っていた。先ほど、香妖に置いて行かれたのだ。薄情者め、こんなところで何をどうしろというのだ! そう、これはまるで、母親に森に置いてけぼりにされる童話の姫のようではないか!
「まあ、あたしは姫様ってガラじゃないけどさ」ぶつぶつと小言を漏らしながら、ここ、兎の森を彷徨い歩く。日は出ているはずだが、木々に遮られて光が入ってこない。そして、じめじめしているから、地面も苔のカーペットで覆われていて、大変滑りやすい。苔の他にもキノコがそこら中で傘を差している。そのくせ、兎は一匹もいない。何が「兎の森」だ! 名が体を表さない最も良い例じゃないか!
がさっ――――背後で草木を揺らす音がした。涙はすぐさま振り向き、そして、この森の名を漸く理解した。草を揺らした犯人は、兎だった。兎、なんだけど…………。犯人は、人の形をしていた。濃い茶色の髪に、白い肌、真っ白の衣をまとっていて、目は赤。そして、真っ白な兎の耳を垂らしている。兎…………の、妖怪だ。
兎は慌てた様子で木の後ろに隠れようとしたが、地に張られた木の根に躓き、転んだ拍子に木の後ろに最初から隠れていた兎を押しだし、驚いたもう一匹の兎が跳び上がり、別の木の仲間に体当たりし…………次々と兎が出てきた。その数約二〇匹。
「なに、やってるの…………?」口からごく自然な感想が漏れる。このドジな兎たちは魔王でも見るような目で涙を見上げた。涙目で祈りを唱える少年兎、嗚咽を漏らす少女兎、誰かは年上の兎にしがみつき、また別の誰かは顔を覆って震えている。
「ねえ、何であたしが悪者みたいになってるの? あたし、何もしてないからね?」
しかし、涙もなんだか後ろめたくなってきた。何もしていないけど。
「なんか、ごめん」そう言いかけたとき、理性的な声が木々にこだました。
「ちょっとちょっと、どうしたのー?」
一番年上であろう少年兎が駆けてきた。少年は仲間達、そして涙を見ると、納得したように頷いた。
「ああー、なるほど、はいはい、わかったよ」
少年兎は涙の方を向くと、「香妖様のお弟子さんだよね」と言った。
「いや、厳密にはまだだけど、まあそうだね」
涙は兎少年を素速く観察した。焦げ茶色の髪はくるくるしていて、けっこう長め。他の兎たちと同様、白い衣をまとっていて、目も同様に赤。耳も真っ白の兎耳の垂れ耳。ほとんど他の兎と同じである。ただ違うのは、目に理性が宿っている事。ようするに、落ち着き払っていることだ。
「君のことは聞いてるよ。香妖様が家を空けるんだろ。おれは太一。兎たちの頭領の跡継ぎだよ。後を継ぐのはずっと後だろうけどさ」太一は兎たちをなだめて落ち着かせながら言った。「君は?」
「あたしは涙。『なみだ』って書いて『るい』って読むの」
軽く自己紹介をして、兎たちを見た。まだ震えている。「なんでそんなに怖がるの?」
その問いに太一が答えた。「こいつらはさ、森の外にまだ出た事がないんだ。だからさ、兎じゃない君を見て驚いたんだよ。まだ若いからね」
涙は太一を見た。見た目は涙と同じくらいの歳に見える。でも、きっと香妖や古篭火同様百歳越えだろう。そのことを太一に訊いてみると、とんでもない、と首を横に振られた。
「おれはまだ七十年くらいしか生きてないよ、百年なんてまだまだだよ」
涙は思った。(七十でも充分長生きだよ、十三のあたしに比べたらさぁ)
その後涙は、太一と兎たちに連れられて森を歩いていた。森の中はやはりじめっとしていて、太陽の光もなかなか入ってこない。こんなところで暮らしている兎たちは、どう思って生活しているのだろう。あたしだったら定期的に日光浴に行かないとどうかしそうだわ。涙はそう思いながら苔を踏みしめて歩いた。兎たちも次第に涙への警戒を緩め、古くからの友であるように話しかけてきた。
「涙は森を歩くのはニガテなの?」幼げな兎少女が訊ねた。
「うん。あたしの家は都会にあるから、森とか山は近くにないんだ」
すると、兎少年は目を丸くした。「ええっ! 森が近くにないだって? 生きていけるの?」
太一が呆れながら言った。「森の外には森の恩恵なしで生きてる妖は沢山いるよ」そして、自慢げに付け加えた。「ま、森の暮らしに勝るものなんてないけどねっ!」
その言葉に兎たちは同意の言葉を口々に言い、実に楽しそうに笑った。涙もつられて笑い、(この調子なら、ここでの一日も楽しそう!)と思った。
しばらく歩いていると、不意に太一が足を止めた。涙は怪訝そうな顔をしながら太一を見て言った。「どうしたの? 何かあった?」
他の兎たちも不安そうに太一を見ながら疑問の言葉を口々に述べた。
「しっ! 静かに」太一は口に人差し指を当て、兎たちを黙らせると、「よーく耳を澄ましてみて」と言った。涙はそれに従ったが、別に変わったこともない。ただ風が木々を抜けるひゅーひゅーという音しか聞こえない。しかし、太一は真っ白の両耳を両手で持ち上げ、人間には聞き取れない些細な音も聞き取っていた。そして一言、短く述べた。
「逃げるよ」
涙と太一、そして約20人の兎たちは、森の中を走り回っていた。その理由を涙は知らない。ただ、太一の短い一言と真剣な目に従っただけだ。兎たちも太一と同様、何かを感じたらしいが、何があったかを訊ねても、震えながら首を横に振るばかりで話にならない。
太一も太一で何も話さない。ただただ走れとしか言わない。
「どうなってるのさ! 説明して!」
先ほどからこう叫んでいるが、答えが返ってこない。そして気付いた。兎たちも何がなんだかわからないのだ。ただ、太一が――自分達のリーダーが――何かを恐れている、それだけで恐怖の対象なのだ。でも、あたしは…………。
「太一、あたし、見てくるよ」
「はぁ! 何言ってるの? 危ないよ、逃げなきゃだよ!」
「何から? あたしには何がどう危ないのか分からないよ。じゃ、行ってくる」
そう言うと涙は、踵を返して来た道を戻り始めた。端から見たら、愚行かもしれない。いや、自分でもバカだと思う。でも、恐れているものもわからないのに逃げ回るなんて、なんだかそっちの方が愚行のように思えた。
「ちょっと待てよ」
太一がそう言いながら涙の前に立った。太一は一瞬不安そうな顔をしたが、強い意志を持った目で涙をまっすぐ見た。「おれも行くよ」
涙は首を横に振った。本当は嬉しかったし、来て欲しいとも思った。でも、太一は恐れている。内心、死んでも行きたくないって思っていると思う。というか、足がガクガク震えているし、さっき声も震えていた。こんなに嫌がっている兎少年を連れて行きたいとは思わない。
「太一、大丈夫。ちょっと見てくるだけだから」
尚も何か言いたそうな表情の太一を無理に笑ってなだめると、独りで歩き出した。
が、こんなに恐ろしい事になっているとは思わなかった。
涙は奇妙な音を聞いた。何かを削るような、――そうだ、鰹節を削るような――音が空から降ってくる。周りを見渡しても木と苔と石と砂利くらいしかない。涙は首をかしげた。何の音だろう。音源の方に目を向けた。そして、体中に怖気が走った。目に映ったのは、木々よりも大きな大蛇が鎌首をもたげているところだった。それも、普通の大蛇じゃない。頭と尾が八つあった。そう、まるでこれは…………。
「八岐大蛇」
その答えを、涙は自然と口に出していた。日本人なら誰でも知っているであろう日本神話の怪物。本来なら、絶対にいるはずのない化け物。この世に存在してはいけない幻想。涙の頭に、言葉がよぎった。
『人間の理で計るんじゃないよ』
香妖の言葉だ。有り得ないほど長い年月を過ごした香妖の。そして、涙は思った。もうすでに人間の理なんて、通用しないと。いるはずがないとか、妖なんている証拠がないとか、そんな次元じゃない。目の前にいるのだ。
「だから太一はあんなに怯えていたのか」
独りで納得すると、八岐大蛇に背を向けた。あたしは関係ない。ただ、そこにいるだけの蛇だ。
「それで、本当にいいの?」
後ろから声が聞こえた。女性の声だ。少し低めの、落ち着いた声。涙はすぐさま振り向いた。さっき自分のいたところには、二十歳くらいの女性が立っていた。百七十センチはあるであろう長身に黄色の着物、肩まで伸ばした茶髪は風もないのに揺れている。耳にはピアスをしていて、花びらのような形をした紅いリボンのついた金色の輪っかという、ちょっと珍しいデザインだった。だがそれらより目を引いたのは、彼女の耳の上から斜め上に突き出した、真っ黒の角だった。まさかこいつは…………「鬼?」
鬼はゆっくりと頷いた。「そう、鬼だよ」
涙はとっさに身構えた。香妖の話を思い出したからだ。取って食われるかもしれない。
「あ、あたしは食べてもおいしくないからね」
そう言いながら後ずさった。冷や汗が首筋を伝う。しかし、この鬼は予想に反して安全な鬼だった。
「安心しなよ。私は人食いじゃない。だいたい、人間なんて骨っぽそうで食えたもんじゃないと思うがね。まあそれより、見ただろ、八岐大蛇。あれをほっとくと、兎たちが食われるよ。いいの?」
鬼の言葉に、涙の思考は一瞬止まった。兎が食われる? まぁあの大きさの蛇なら有り得なくもないけど…………。
「でも、あたしにどうしろって言うの?」
「良いものをあげよう」
鬼は懐から竹の筒を取り出して、涙に渡した。受け取った涙は、竹の筒を四方八方から眺め、振ってみた。ちゃぷちゃぷと水の動く音がする。中に何か入っているようだ。
「何、これ」
「薬酒だよ。知らないの?」
「知らない」
「まったく、最近のは何一つ知りもしない。その名のとおり、酒だよ」鬼は呆れた声で言った。涙は一瞬ぽかんとして、「これを飲めっての?」と訊いた。
「まさか。こいつはかなり強い酒だから、お前みたいな娘っ子なんて簡単に酔い死んじまうよ。八岐大蛇の倒し方、知らないのかい?」
涙は必死で思い出した。日本神話では確か、クシナダヒメが生贄にされそうになって、スサノオノミコトが助けた。その時、お酒を用意して、八つの頭を全て酔わせて、片っ端から頭を斬って退治したんだったよね。
「じゃあ、これで八岐大蛇を酔わせろっていうの? ちょっと量的に足りなくない?」
涙の疑問に、鬼は涼しげに答えた。「この薬酒は鬼が鍛えた特別製さ。水に含ませると、その水も酒になる。いやぁいいね、幾らでも酒が飲める」
鬼はそう言うと、太陽と真逆の方向を指さした。「この向きに真っ直ぐ進みな。広い沢があるよ。そこにこいつをまくんだ。そうすれば、八つの頭を全て酔わせるくらいの量の酒が得られるよ」
涙はその方向を見てから、鬼に礼を言おうと振り返った。しかし、そこに鬼の姿はなかった。慌てて周囲を見渡したが、鬼どころか兎一匹いない。さっきのことは夢だったのだろうか。それでも、竹筒は涙の手の中にあるし、八岐大蛇は相変わらず森をのしのしと歩いているようだ。
「夢、じゃない。みんな…………」涙は呆然と呟いたが、それを振り払うように早歩きで沢に向かって進んだ。
低きを求めて流れる水。森に唯一、木が茂っていない地には、ごつごつとした岩が敷き詰められている。水はその間を縫って下へと流れる。竹筒を傾けて薬酒を沢に流していた涙は、段々と大きくなる地響きに震えた。八岐大蛇が近づいてきている。涙はそれがわかって気を引き締めた。ええと、お酒で八つの頭をみんな酔わせるんだよね。酔わせて…………あれ、酔わせたらどうするんだろう。ちょうどいい剣があればいいんだけど…………いやいや、剣なんて使ったことないし、第一そんなものありそうもないし、どうしよう。じっと考えている間にも、地響きは大きくなる一方。沢にたどり着くまで、そうかからないだろう。涙は考えるのをやめて、木々の影に隠れた。今は八岐大蛇を酔わせるのが先決だ。次のことは後に考えよう。
少しの間待っていると、それは大きな松の木の後ろから姿を現した。
灰色のごつごつした鱗に覆われた皮。
鋭い歯の間からチラチラと覗く赤い舌。
血のように赤黒い目。
なんて醜悪でおぞましい姿だ! 涙は心底逃げたくなった。逃げて記憶に蓋をしたい。でも…………。
「それで、本当にいいの?」
あの鬼の言葉が蘇る。自分を戦うように促したのは、この言葉だ。もし、あたしが八岐大蛇を止めなければ、兎たちが危ない。最初はギスギスしていた兎たちも、もうすっかり打ち解けた。それに太一。
「おれも行くよ」
恐怖を覆い隠して――声も足も震えていたけどね――そう申し出てくれた太一。きっと太一なら、このままじゃぁ引き下がっちゃいないと思う。きっと。
「よぅし」
思いは決めた。逃げない。決して。
「さぁて、あいつはどうなってる? ちゃんと酔っ払ってるんでしょうね!」
わざと声に出しながら、八岐大蛇を確認した。
八岐大蛇は、八つの頭全部を沢に突っ込んでいた。あれじゃ隙だらけだ。
「ここまでは百点ね。…………次、どうしよう」
試しに近づいてみたが、八岐大蛇は特に気にしてもいない様子だった。涙は八岐大蛇の尾の一つに飛びついて、よじ登った。もしかしたら、尾っぽから出てきたという草薙の剣がまだあるかもしれない。スサノオノミコトは本当は剣を持って行っていないのかもしれない。
涙はとりあえず、背中にたどり着いた。そこからの景色は、ちょうど学校の二階から校庭を見下ろしたような感じだった。
「ないねぇ草薙の剣」
そういいながらゆっくりと頭側に移動していた涙だが、左手首に何かが当たったのに気付き、それをみてみた。
「ええー、なんじゃこりゃぁ!?」
それは、草薙の剣と呼ぶにはなんだか貧相で味気のないナイフだった。すでに使い込まれているのか、所々さびがうかがえる。
「これが、草薙の…………」まさか! そんなはずはない! 絶対ない! 涙はナイフを握りしめ、絶望的な気分でそう思った。そして、苛立ちをナイフに込め、すぐ下の鱗をベリッと剥がした。
(あれ、意外と簡単に剥がれるな)
涙は薄笑いを浮かべ、ナイフを薬酒に浸した。そして、それを八岐大蛇に突き刺した。
(体内の水をお酒に変えてしまえば、こっちの勝ちじゃない?)
そう思った刹那、涙の体は宙を舞った。数秒後、地面に叩き付けられた。
「いったいなぁもう…………」消え入りそうな声でぶつぶつと文句をたれている涙を尻目に、八岐大蛇は暴れ出した。八つの尾が周りの木々をなぎ倒し、八つの頭は千切れた大木をかみ砕いた。
「あれ、もしかして、まずいことしちゃったのかな?」
冷や汗が頬を伝った。でも、いつもみたいに目を背けたりはしなかった。我ながらあの案はよかったと思う。失敗しないと思う。というか、成功して欲しい。
しばらくすると八岐大蛇は、まるでおもちゃの電池が切れたようにパタッと倒れ、ピクリとも動かなくなった。
「やっぱり、成功?」
にやりと笑みを浮かべながら、涙は八岐大蛇に近づいた。八岐大蛇の全ての目は閉じられている。動く気配はない。全く。
「勝った?」口から問いが漏れ出す。勝利とはあっけないものだ。とても苦労したような気がするが、終わってしまえば虚空のように記憶にない。
「終わった?」
しかし、まだ勝敗は決まっていなかった。なぜかって? それは、涙の問いに応えが返ってきたから。
「まだ、終わってはいないな」
とっさに声の主を振り返った涙は八岐大蛇の鱗に叩き付けられた。左手の袖をみると、錆びてもいない、壊れてもいない見た目新品のナイフが貫通していて、鱗に深々と刺さっていた。
「あ、危ないじゃん!」叫ぶ涙は、怖気で震え上がった。目の前には、涙の知る人物がいた。だらんと垂れた黒髪、狂気に燃えた紅い瞳、妙に整った顔、そして、耳の上から斜め横に張り出した黒い角。それは鬼のものとは違って、暗闇の中にいるような不安を沸き起こらせた。そして、この声。
(あの蛇の夢の奴だぁ)
たしかにこの人物は、夢に出てきた男性その人だった。
「我が名は夜刀神。この沢の祟り神だ。」
ご丁寧に自己紹介までしてくれたところ悪いが、涙の耳にはほとんど届いていなかった。涙の頭の中は、この危機をいかにして脱するかでいっぱいだった。右手に力を込め、ナイフの柄を握って、力一杯引き抜こうとした。しかし、抜ける気配はない。それどころか、ぐらつく様子もない。
(こんどこそ、負けるッ!)
でも、ここで足掻くのをやめてしまうのは、どうも気が済まない。最後の最期まで、抵抗してやろう。涙は錆びたナイフを夜刀神に投げつけた。夜刀神はそれをはたき落とすと、今度は頭のすぐ上にナイフを刺した。
(遊ばれてる。わざと外してるんだ)
そのことになんだかムカついてきた。
「殺すならひと思いにやってしまえばいいのにさ!」思わず口から言葉がもれた。夜刀神は顔の両側にナイフを一本ずつ投げた。一本、軌道が逸れて涙から少し離れた所に刺さった。
「殺せ、か……。俺は確かめているだけだ」
「何を、さ……」
「お前が食えそうな者かどうかを」
「はぁ? 食べる?」そう言ってから涙は気がついた。角が生えている妖怪。人を食べようとする妖怪。「もしかして、鬼?」
「違うな。言っただろう? 俺は夜刀神だ」
「違う人なのか……」
なんとか声を絞り出して話しているが、涙は恐怖でどうかしそうになっていた。食べられるかもしれない。ここで死ぬかもしれない。居心地の悪い八岐大蛇の鱗の感触と底知れない恐怖で、頭が真っ白になっていた。
気がついたら、夜刀神がすぐ目の前まで来ていた。頬に冷たい手が触れる。
「……痩せているし、骨っぽそうだし、あまりおいしくなさそうだが……食えないことはなさそうだな」
(いや、あたし本当に食べられるの?)
涙は首を横に振って叫んだ。
「嫌だ! 絶対においしくないよ? お腹壊すよ? 絶対に後悔するよ?」
「適当に味付けすれば食べられるだろう」
夜刀神の袖から、一匹の蛇が顔を覗かせた。黒くて、ぬめぬめと光っていて、真っ赤な目をしている。蛇は涙の腕に巻きつくと、腕から肩へ、そして首へと進んだ。
「何、するのよ。取ってよ」
涙の懇願を無視し、夜刀神は蛇の頭にそっと触れた。蛇は大きく口を開けて、涙の首筋へとその牙をおろした。
「っ!」
ピリッとした痛みを首筋に感じ、涙は小さく叫んだ。そして、体が痺れていくのを感じた。手足も動かせず、全身の力が抜けて、立つこともできなくなった。夜刀神は涙と八岐大蛇を固定していたナイフを引き抜くと、倒れている涙を抱き上げた。そして沢の中へと入っていく。
(あたし……食べられて死ぬの……?)
冷たい水の中で、涙のまぶたはゆっくりと閉ざされた。
水が滴る音がする。水が流れる音がする。肌寒い風が吹き抜けて、その不快感で涙は目を覚ました。
(ここはどこ……?)
見渡すと、湿った岩肌が見える。相変わらず両袖にはナイフが貫通していて、後ろの岩肌と涙をしっかりと固定していた。ここは洞窟のような場所だった。ただ、どこもかしこも湿っていて、水が垂れている。足元には水溜まりがあり、涙の靴を濡らしていた。そして嫌なことに、壁や天井、床、そして涙のそばにも、蛇が蠢いていた。皆一様に黒く、赤い目をしている。
(うわぁ、気持ち悪い)
涙は顔をしかめながら、足に巻きつく蛇を踏んづけた。蛇は怒って足に噛みつこうとしたが、涙はそうする前に蹴り飛ばし、なんとか足から外した。
「ちょっと蛇たち、あたしに触らないで! というか、あいつはどこにいるのよ!」
涙は蛇を相手に喚き、罵った。死ぬことへの恐怖を怒りに変えて、片っ端から蛇を踏んづける。時々反撃されて噛まれたが、もうどうだっていい。毒があろうがなんだろうが、どうせ死ぬんだ。それならここの蛇たちも道連れにしてやる!
「無様だな」
蛇と格闘していると、ムカつく声が響いてきた。洞窟の奥から、あいつが歩いてくる。
「無様で何が悪い! どうせ死ぬのなら、好き勝手暴れたっていいでしょ? とっとと食べればいいじゃん!」
吐き捨てるように叫ぶ涙に、夜刀神はナイフを投げつけた。ナイフは涙の頬を掠めて岩肌に刺さった。頬に鋭い痛みが貫き、生温かいものが走るのを感じた。
「痛いじゃん! 殺すなら一撃で仕留めてよ!」
「死の間際だが、威勢だけは一級品だな」
夜刀神は涙の頬に触れ、そっと離した。その指には血が滴っている。夜刀神はそれをペロリとなめると、嫌そうな顔をした。
「不味い。鉄分が足りてないんじゃないか? この不健康者め。どうせ好き嫌いばかりしているんだろう」
「わ、悪い? ていうか、食べる側がわがまま言わないでよ!」
「その事だが……気が変わった」
夜刀神はナイフを涙の首にぴったりと当てて、顔を近づけた。腹が立つほどに整った顔立ちを改めて感じて、涙は一瞬ドキリとした。
「このまま俺が妖怪にしてやろうか?」
「はぁ?」
夜刀神からの突然の提案に、涙は間の抜けた声を出した。
「お前はおそらく、そこそこの実力を持つ妖怪になれる。この俺が鍛えてやる。そして、最終的にはこの地の支配者を殺してこの土地を乗っとるんだ」
涙はしばらく夜刀神の考えを飲み込めていなかったが、ようやくその意味に気づいて震えた。
「支配者を殺すって、香妖様を? あの人多分相当に強いよ? 多分無理だよ?」
「香妖自体はそこまで強くはない。単純な力比べなら俺の方が強い。あいつの部下たちさえ抑えられれば、勝てない相手ではない」
夜刀神はナイフを持つ手に力を込めた。涙はそれを感じて体を強張らせた。
「さあ、選べ。妖怪となって俺に従うか、ここで俺に食べられるか」
なるほど。涙は理解した。この人に服従すれば、とりあえずあたしは生きていられる。ついでに妖怪にもなれる。この誘いを断れば、首に押し当てられたナイフがあたしの首をはねる。なるほどなるほど。なるほど、ね……。
なるほどじゃないよ! どうすればいいのよ! 涙は究極の選択を迫られ、頭がどうかしそうになった。言うことを聞いておけば、とりあえずは生きていられるがこいつのことだ。涙に兎たちの虐殺を命じるかもしれない。古篭火も殺させるかもしれない。どうする。どうするあたし? 涙は混乱する頭をなんとか働かせて、一つの答えをひねり出した。そっと夜刀神に言う。
「考える時間が欲しい」
「……無理だな。今決めろ。あと三分で決められなかったら、お前を食う」
「ええ? ちょっと、それはひどいって!」
真剣に考えた答えが一瞬ではねのけられて、涙は少しムカついた。しかも制限時間までつけられた。あと三分。あと三分であたしの運命が決まる。
(まだだ。まだ、時間はある。もっと考えろあたし!)
涙は目を閉じた。視界に余計なものが映ると、まともに考えられなくなるからだ。今、どれくらい時間がたっただろうか? あと何分? 何秒? タイムオーバー? 焦る気持ちを抑えて、必死で考える。いや、最初から答えは決まっていた。ただ、それを認めるのが嫌で、認めなくてすむ理由を探していたんだ。でも、もういい。もう迷わない。自分の答えを信じる。
涙はようやく目を開けた。視界に数匹の蛇とあいつの顔が入る。
「決まったようだな。あと三十秒ほどあるが、まだ考えるか?」
「いや、大丈夫。あたし……」
涙はなるべく声が震えないように、喉に力を込めた。
「あたし、妖怪になる。あんたに従う」
どうしても、生きたい。生き延びたい。死にたくない。これから自分がどうなるかだなんて、わからない。でも、生きていたい。
「いい判断だ」
そう言うと夜刀神はナイフを首から離し、両袖のナイフを抜いた。体に巻き付いていた蛇たちも涙から離れ、ようやく自由になった。
涙は腕を伸ばしたり曲げたりして、感覚を取り戻した。ずっと動かせなかったせいか、痺れている。
「じっとしてろ」
夜刀神は涙の額に手を伸ばした。
「えーと、何するの?」
「お前に俺の血を送り込む。そうすることで、お前は内側から妖怪・夜刀神に作り変えられる」
「え、待って? 夜刀神っていうのは妖怪の種族の名前で、あんたの名前は別にあるの?」
「いいから黙ってろ」
刹那、夜刀神の指が深紅に染まった。驚いていると、涙は額に痛みを感じた。その痛みが段々と強くなる。
「あの、痛いんだけど?」
「当然だ。今お前の細胞が作り変わってるんだよ」
「そうなんだ……て、痛い! 痛いって! 止めて! 耐えられない!」
「耐えろ」
「無理だって! もう限界! あたし倒れるね!」
「この……わがまま娘が……」
夜刀神はもう片方の手で涙を支えた。涙はその手に体重をかけ、息を整えた。そして、右手を懐に突っ込んだ。
「……?」
夜刀神は一瞬困惑した表情を見せた。涙はニヤリと笑い、右手を引き抜いて腕を振った。
「な……!」
夜刀神は顔に水のようなものがかかるのを感じ、あわてて目を閉じた。そして両腕を涙から離す。
涙は右手に竹筒を握りしめながら、左手で額を抑えて言った。
「それは鬼の鍛えたお酒。水分をお酒に変えるんだよ。しかもすごく強いんだって。目は守ったみたいだけど、幾らか口に入ったでしょ」
夜刀神は手で口をぬぐい、膝をついた。真っ赤な目が突き刺すような視線を涙に送る。
「両手を使えなくした時点で、あたしの勝ち。油断したね」
夜刀神は整った顔を悔しそうに歪めた。
「一応聞いときたいんだけど、あんたの本当の名前は何て言うの?」
「…………言う必要あるか?」
夜刀神は頭を押さえながら、苦しそうにうめいた。多分、酔いと戦っているのだろう。
「言えないの? まだお酒、残ってるんだけど」
「…………真露、だ」
「まつゆねぇ。まああたしの勝ちってことで……で……どうすればいいの?」
涙は困ってしまった。夜刀神・真露を倒したはいいが、この洞窟はどうやって出ればいいのだろうか? 涙が額を押さえながら考えていると、不意に夜刀神が右手を上げた。
(え?)
すると、周りで蠢いていた蛇たちが一斉に涙に飛びかかり、涙の体を縛り上げた。
「わわっ! 何するのよ!」
「詰めが甘い。俺がその程度の酒で動けなくなるわけないだろ」
そう言うと真露は立ち上がり、涙の前に立った。
(今度こそ……死ぬ!)
「お前の敗因は、相手の力量を見誤ったことだ。だが作戦自体は悪くはなかった。……よって、合格だ」
それを聞いた涙は、ポカンとした。
「は? ごうかく…………?」
「聞いていないのか? 香妖様に弟子入りするんじゃないのか?」
それでも涙は黙ったままでいると、夜刀神は考え込み始めた。
「待てよ? まさかお前、関係無い人間だとか言わないよな。まさか、まさか、な……おい待て。本当に人違いなのか? じゃあ俺はもう一度八岐大蛇を叩き起こして試験も初めからやり直しか? また太一たちに指示を出すのか? まさか……」
涙は思い出した。香妖は言っていたではないか。香妖の元で妖の修行を受けるには、試験に受かる必要があると。ということは、じゃあ…………!
「受かったー!!!」涙は突然叫んだ。額がまだ痛むことも、夜刀神が悩みに悩んでいることも忘れ、蛇を振り払って飛び上がって喜んだ。
「な、何だいきなり」夜刀神が呟いた瞬間、怒声が洞窟を揺るがした。
「夜刀神―!!!!!!」
洞窟を抜け出る際、真露は自分が香妖の部下の一人で、香妖に刃向かうつもりはないことを語った。そして、真露によって変えられた涙の細胞は、香妖の力で元に戻ることも知った。涙は疲れはてていたので、真露に寄りかかるようにして歩いた。
洞窟の中から出た涙と真露は、泥だらけで汚れていた。洞窟から出る際、真露は涙に念押しした。「人前では俺の名を呼ぶな。夜刀神と呼べ」「ええ? 何でさ?」「俺は自分が認めていない者には名前を知られたくないんだよ」「じゃああたしは認められたってこと?」「……多少は」洞窟は沢の水中にあり、沢を抜けた先の新鮮な森の空気が涙を癒してくれた。
しかし涙は憂鬱な気分だった。何故なら、香妖と古篭火がやってきて、夜刀神へのお説教がくどくどと始まったからだ。
「大体何で八岐大蛇なんて使ったんだい!」
「そうですよぉ! 涙ちゃんはまだそこらの人間とたいして変わらないんですよ!」
「その上に、死にたくなけりゃ自分に従えって、何どさくさ紛れに自分の手下を増やそうとしてるんだい!」
「でもその娘っ子はやって見せましたし、結果的に良かったんじゃないですか?」
「バカ言ってんじゃないよ! ほとんど落とすための試験じゃないか!」
「ホント何やってるんですか! バカですか? バカなのですか?」
「お前に試験を頼んだ私がバカだったよ!」
「ええ。俺も愚策だったと思います」
こんな感じに延々と続くのだ。長ったらしいといったらありゃしない。待っている側の気持ちにもなってほしい。
「さて、説教は明日に持ち越しにして、次の話をしようか」
「もう説教なしで良いじゃないですか」
「うるさいね夜刀神! さあ涙。どうする?」
「どうするって?」
「私の元で妖怪としての修行を受けるか、人間として生きるか。さあ、どっちにする?」
涙は思いを巡らせた。「それって、選べるの?」
「当然だよ」
「それ以外の選択肢は?」
「あるといえばある。夜刀神の弟子というのは…………」
「却下」
涙は真剣に考えた。ここまで真剣になったことは、洞窟以来だ。あの窮地を潜り抜けてきたあたし。そんなあたしは……。
「あたしは…………」
声を絞り出した。言い争いをしていた古篭火と夜刀神が動きを止める。
「あたしは答えを出す前に太一の様子を見に行った方が良いと思う」
至極真っ当な正論を言った瞬間、草を揺らす音がした。その方を見ると、背の高い草の間をすり抜けて駆けてくる太一の姿が見えた。
「涙―! おれなら大丈夫さ!」
満面の笑顔で登場した太一は、自慢げに続けた。「えへへっ! おれはね、ここにいる夜刀様の部下の一人なんだぜ!」
「そんなことよりも太一、他の兎たちはいいのか? まだ騒いで泣き叫んでたぞ?」夜刀神の鋭い指摘に、太一は顔を青くした。「え、本当? うわーまずい。まずいぞ」そして、懐をごそごそやって、白い布を涙に手渡した。
「はい、これ、合格祝い。広げてみて」
言われたとおり、涙は布を広げた。それは、兎の垂れ耳がついた白いフードだった。
「何これ」
「これはね、つけると一時的に兎になれるんだ。おれらみたいな、ね。すっごく速く走れるし、耳も良くなるから使ってみなよ。じゃあねっ!」
颯爽と走り去っていった太一の背に向け、香妖はボソリと呟いた。「あれがお前の部下かい、夜刀神。随分そそっかしいものだね」
「ええ。兎ですから」
涙は太一に手を振ると、妖怪たちを振り返って叫ぶように言った。
「決めた。やっぱりあたし、妖怪になる。こんな経験したままで元の生活になんて、戻れやしない」それに、妖怪って、なんだか素敵だしさ。心の中でそう付け加えると、香妖の袖を引っ張り、「おなか減って倒れそうだよ。早く帰ろう」と急かした。
「子供ってのはそそっかしいものだね。太一を抱える夜刀神の気持ちがわかるような気がするよ」呆れ気味な香妖も、ほんのちょっとだけ、笑っているように見えた。ほんのちょっとだけど。
「そうですねぇ、今からご飯を作るとなると結構かかりますし、香妖様も疲れてらっしゃいますでしょう?」古篭火が意味ありげに香妖を見た。
「そうだね。夜刀神。説教は勘弁してやろう。夕飯は全てお前に任せるよ」
「な、なんて横暴」
「ああ、夜刀神、あたしの合格祝いって事で、豪勢にしちゃっていいよ!」
「涙貴様…………お前まで俺の苦労を増やすつもりか…………!」
「じゃぁ、頑張ってくださいねー」
落胆する夜刀神を尻目に、女性陣三人は楽しげに歩き始めた。珍しく、森に太陽の仄紅い光が注いでいた。
しかし、にはそんな春の恩恵を感じられる状態になかった。顔を斜め上に向け、花粉症の目を少し大きく開き、ポカンとしている。
涙は、少し前の事を思い出し、後悔していた。
春休みのある日、涙は昼間から布団に入っていた。どうも動く気力がないのだ。起きようにも体が重い。眠気が波のように次々と襲ってくる。そして、夜まで寝てしまうのだ。
いつもこんな調子で生活していた。もうすぐ中学二年だというのに、なんてだらしがないのだろう。
「まさか、新学期が始まってもこの生活を続けるつもり?」
母親の声を布団越しに聞いた涙は、情のこもらない声で応えた。
「あたしの自由だよ。生活も何もかも」
それに、学校好きじゃないし。そう付け加えそうになったが、それはそっと心にしまった。親に余計な詮索をされたくなかったから。
涙の学校嫌いは、幼い頃からだった。どうも、人間が苦手なのだ。涙の髪は、生まれつき緑がかった黒色をしている。毎年担任には、
染めたのではないのか、と聞かれる。周りの生徒からも、あからさまに嫌な視線を向けられる。それが我慢ならないのだ。それが原因で、教室では孤高を貫き、良心をもって接してきた生徒にも警戒の目をくれてやった。邪な心をもって接してきた生徒には、凍るような冷たい視線と軽蔑の意をくれてやった。とまあ、こんなにも心を閉ざしてしまうのも無理はないが、ほぼ毎日を睡眠に捧げる日常には、さすがに母親の方も危機感を感じていた。
「そうだ、良い方法があるじゃない!」
しばらくうんうんと唸った末、不意に母親が叫んだ。
「何? 何の方法?」
涙は布団を少しだけ押しのけて、母親の表情を伺った。
「我ながらグッドアイディアね、ふふふ」
怪しげな笑い声をあげる母親に、涙の背筋に寒気が走った。「何だっていうのさ」
母親は少し間を開けた。充分に涙の不安をあおって、衝撃の一言を放った。
「涙を修行に出す!」
涙は少しの間沈黙すると、再び布団の中に潜り込んだ。現実逃避だ。潜り込んで布団の端を押さえた。母親が布団をはがそうとしているのだ。
(負けるものか!)涙は手に力を込めて、さらに防御態勢を整えた。しかし、しばらく経った後、母親の勝利に終わった。
「そんなに怯える必要はないわよ、涙。私だって修行の日々を乗り越えたんだから」
「修行って、何の修行? まさか職人とかになれっての?」
涙は枕を握りしめながら強い口調で訊いた。
「まあ、行ってからのお楽しみ」
そして、地図と荷物を半ば強引に持たされ、
電車に乗せられ、そこからは独りで地図を握りしめてここまで来たのだ。
しかし、目的地は想像を絶するものだった。
巨大な洋館が建っているのだ。それも、森の中に。涙は、小学校の修学旅行で見た、国会議事堂を思い出した。あれの五倍ほど大きい。
それから、学校が一つ入りそうなくらい大きい庭があり、色取り取りの花が咲いている。
涙はもう一度地図を見た。もしかしたら、道を間違えたのかもしれない。しかし、地図はこの場所が目的地だと語っていた。
「こんなへんぴな場所にこんな館を建てる人って、一体どんな人よ」涙はため息交じりに呟いた。そしてすぐに、思い直した。よくよく考えれば、春休みはあと十日たらずで終わる。すぐに帰れるわけだ。
涙は重い足を動かして、門の前に立った。
門には、「蒼樹原」と書いてある。家主の名前だろうか。
「お邪魔しまーす」
そっと門を開けて、おそるおそる足を踏み入れる。よく見ると、門にも細かい装飾が施されている。一体、いくらしたのだろう。
門と館はかなり離れていて、石畳の道がのびていた。その両脇には、石灯篭が幾つも並んでいた。しかも、石灯篭の一つ一つがぴっかぴかに磨かれていた。
庭に目を向けると、見たこともないような花が沢山咲いていた。涙は、その一つに吸い寄せられるように近づいた。
「これ、知ってる。ハエトリグサだ」
ハエトリグサは、食虫植物の一つで、二枚の葉がまるで口のように重なっていて、その口の中に入った虫を溶かして食べてしまう悪魔のような植物だ。
涙の母親は、趣味で沢山の花を育てている。数年前、ハエトリグサもそれに加わった。涙は、その時のことを思い出していた。
『お母さん、これ何?』
『ハエトリグサよ』
『ふーん。変な名前』
『涙ちゃん、小指を中に入れてみて』
『うん。…………うわ、口が閉じた!』
『こうやってね、虫を食べてくれるのよ』
『へぇ~』
しかし、あの時見たハエトリグサよりも、このハエトリグサの方が大きい。その口は、涙を飲み込んでしまいそうなくらいに大きい。ついでに、口の中が妙に紅いような気がする。葉の先についているギザギザの棘も、毒々しい紫色をしている。
「まさか、ねぇ」まさか、人食い植物? そんな疑問が、頭によぎった。そっと手をのばして、口の中を触ろうとした。
――刹那、右肩に鋭い衝撃をくらい、左に無様に吹っ飛んだ。
「なんてことするんだい!」
続けて怒声が聞こえる。涙は右肩をさすりながら、声の主を見上げた。
その女性は、緑色の和服風のゆったりとした服を着て、両手を腰に当て、真っ黒の瞳で睨むように涙を見ていた。そして、肩までだらんとのびた髪は、緑がかった黒色をしていた。
その事に少し驚きつつ、涙は声の主を睨み付けて怒鳴った。
「痛いじゃん、肩が外れたらどうするのさ!」
声の主は、怒気をはらんだ声で言い返した。
「私がお前を突き飛ばしてなかったら、お前はハエトリグサに食われてたじゃないか。感謝される覚えならあるけど、罵られる覚えはないよっ!」
涙は、ハエトリグサ方を振り返った。確かに、食べられそうな雰囲気を醸し出しているが、本当に人を食べるのか、疑わしい。
「ハエトリグサが人を食べるなんて、聞いたことないよ」
そう言って、声の主を再度見た。声の主は、何も言わずに足下の細長い草を摘み取った。そして、それをハエトリグサの口へ放った。
すると、小さなツバメが素速く降りてきて、
草を取ろうとハエトリグサの口へ入った。その瞬間、ハエトリグサの口がパクリと閉じた。
しばらくはツバメが暴れて羽ばたく音が聞こえたが、次第に何も聞こえなくなった。
「お前もこうなりたいかい?」
声の主の問いかけに、涙はふるふると首を横に振った。「いや、死にたくはないよ」
涙の言葉を満足そうに聞いた声の主は、ふと思い出したように訊いた。「で、お前は誰?」
「あたしは涙だよ。母さんに言われてほぼ強制的に修行させられる十三歳の哀れな人間」
涙の意味不明の自己紹介を聞き、声の主は頷いた。
「そのことなら聞いてるよ。私の名は蒼樹原香妖だ。ここら辺の森と山と町の一部の支配者だよ」
涙は、驚いたように目を見開いた。
「私有地多いね」涙の言葉に、香妖はは少し眉をひそめた。
「母親からは何も聞いてないのかい?」
「うん。母さんも修行をしたってのは聞いたけど」
そして、涙は首をかしげた。
「まてよ? 母さんは一体何歳の時に修行をしたの?」
「あの子が十二歳の時だよ」
「そうなると、あなたの年齢がおかしいことになる。外見から判断すると、あなたは二十五歳くらいだよね。でも、母さんが今四十近くだから、二十八年は経ってるわけだ。でも計算が合わないね」
涙は香妖を見た。「計算が合わないんだけど」
香妖は、涙を冷たく見下すと、「合うわけ無いよ」と言った。
「なんでさ」
「私を人間の理で計ろうとするんじゃないよ。私はもう、向こうの時間で一千二百年は生きてきたんだから」
涙は疑わしそうな目を香妖に向けた。
「それ本当? あり得ないよね」
「あり得ないことじゃないよ。私は人間とは違うんだから」
「じゃあ、何だっていうのさ!」
「妖怪だよ」
「妖怪?」涙は必死で考えた。しかし、よく分からない。大体、妖怪って何だ?
そんな涙を見た香妖は、そっと声をかけた。
「今は理解しなくてもいいよ。とりあえず、家の中へ入りな」
館に入ると、まず、広場のようになっていて、正面には大きな階段があった。涙はきょろきょろと辺りを見渡していると、ぱたぱたと誰かが駆けてきた。
「あれ、香妖様、外にいらっしゃったのですか。だったら買い物を頼んどけばよかった。ちょうど洗濯洗剤が切らしてましてね」
涙は、そのおしゃべりな女の子をそっと観察した。歳は、多分涙よりも少し上くらい。オレンジに近い赤の髪を長く伸ばしていて、灰色の服を着ている。目は、炎のような赤色だ。
女の子は、涙の存在にようやく気付いた。
「おや、お客様ですか。もう、香妖様。お客様が来るのなら、前もって知らせて下さいよ。今、お菓子とか切らしてるんですよ」
「客じゃないよ。修行しにきたんだよ、この子は」
香妖が少々呆れ気味に言うと、女の子は目を見開いた。
「おお、そうでしたか。私はこの舘のたった一人の使用人です。いや~実は二人だけって、すごく寂しかったんですよ。賑やかになりそうですね。私は古篭火です」
「お前がいるだけで、充分賑やかだよ」香妖はそう言うと、涙の方を振り返った。
「お前も名前を教えておやり」
涙は促されるまま古篭火の前に立った。
「あたしは涙。十三歳だよ」
そして、少しためらった後、訊いた。
「何歳?」
「私ですか。涙ちゃんよりも年上ですよ。二百歳です。あでも、正確には二百歳よりも少し上ですけど、ちょっとその辺は細かすぎてわかんなくなったので、数えるのをやめちゃったんです」
涙はちらりと香妖を見た。確か、香妖の年齢は千二百歳。そして、古篭火は二百。何かの冗談だろうか。どうもあり得ない年数を生きているらしい。そして、先ほど香妖が言った、「妖怪」という言葉を思い出した。
「古篭火、あなたも妖怪なんだね」
充分考えた末、涙は疑問を口にした。古篭火は笑みを絶やさず、紅い瞳を輝かせた。
「そうです、その通りですよ! さすが涙ちゃんです。よく分かりました。私、見た目が人間そっくりでして、全然妖怪って気付いてもらえないんですよね~。いや、ホントに残念ですよ。だって香妖様に仕えてる妖怪なんて、私をのぞいたら数名しかいないんですよ? そんな私を妖怪ってわかってくれないなんて」
「ちょっとお黙りよ、古篭火」
古篭火の熱弁を、香妖が遮った。涙は、最初の内はちゃんと聞いていたが、後の方になると個人的な悩みが混じり始めたのを悟ってだんだんめんどくさくなり、結局は半分以上聞いていなかった。
香妖はため息をつきながら、「話が長い」と文句を言った。
「そうですか~? 話してる側から言うと、あまり時間は経ってませんよ」
頬を膨らませる古篭火に、香妖はさらに深いため息をつきながら「とっとと涙を案内しな。洗剤だっけ? それは私が買っとくから」と言い、出て行ってしまった。
「ありゃりゃ、呆れさせちゃいましたね。何が悪かったのでしょうねぇ涙ちゃん」
「いや、長話がめんどくさかったんじゃないかな。あたしはそう思うよ」
心ここにあらず、といった様子で、涙は応えた。しかし、古篭火は納得のいかないような顔をして、首をかしげた。「そこまで長話はしてないですけどねぇ。いや、絶対にしてませんよ。だって、人間の寿命を八十年とすると、私が話してる時間なんてたかがしれてるじゃないですか。それに、日本の歴史を二千年とすると、さらにたかがしれてるじゃないですか。そして、マンモスが生きていた時代を遡るとすると、もっともっとたかがしれてるじゃないですか。もうちょっと言っちゃうと、地球の刻んできた歴史を考慮すると、そこまで長くないじゃないですか。あれ、涙ちゃん、聞いてます? 涙ちゃん?」
古篭火の話を長々と聞いていた涙は、魂の抜けた様な顔をしていた。話を聞く、ということは、こんなにも疲れる事だったのか、と、改めて実感し、そっとため息をついた。
「古篭火、あなたの主張は分かったよ。よく考えつくよね」そして、古篭火の顔をじっと見つめた。「なにか、忘れてない?」
「ん~? そういえば、香妖様に何か指示を出されたような気がしなくもない。え~と、あ、屋敷の案内か~! 思い出しました!」
古篭火は涙の手をとり、正面の階段を駆け上がった。そして、階段のすぐそばにあった部屋の扉を勢い良く開けた。その部屋は、大量の本棚があり、本がぎっしりと敷き詰められていた。
「ここは書庫みたいなとこです。図書館みたいでしょう?」
「うん。でも、すごいほこりかぶってない?」
涙は一冊の本を手に取った。うっすらと白いほこりがついている。
「ええ。あまり使われてないですからね」古篭火が顔をしかめながら言った。「私、ほこりっぽいところは嫌なんです。早く出ましょう」
涙は頷いて、古篭火に続いて部屋から出た。
次に向かった部屋は、大きなテーブルと幾つもの椅子が並べられていた。古篭火によると、ここで食事を取るらしい。
「こんなに大きな食卓を二人で使うって、寂しくない」
涙は素朴な疑問を口にしたが、それが運の尽きであった。
「寂しいか、ですって? いや、やっぱり二人は寂しいですけどね。でも、香妖様は妖怪の支配者の一人であられるお方、そりゃぁ力も強くて個性も強い部下がいらっしゃいます。ああ、もちろん私もその一人、明かりつけ係の古篭火でございます。え、たいした役じゃないですって? 何をおっしゃいますか、涙ちゃん。香妖様の部下は私を含めて三人。あれ、間違えました。四人です。そう、四人。その中の一人ですよ?」
涙はまた魂が抜けた様な顔をしていた。あの長話を全て聞いた。のだ。だが、涙は重要な語句を聞き漏らしてはいなかった。
「古篭火、香妖様ってのはさ、妖怪の中では偉い人なんだね」涙は元の血の通った顔で古篭火に話しかけた。口元は少し緩んでいる。
「ええ。日本には幾らかの妖怪の支配者がいます。その一人が香妖様なのです」
古篭火が自慢げに応えた。それを聞いた涙は、さらなる疑問を口にした。
「日本にはって言ったよね。じゃあ、世界にもいるんだね。その、妖怪が」
「もちろんです。呼び名は各地で違いますがね。まあ、有名なのは吸血鬼、ですかねぇ」
涙は疑問の核心に迫った。
「じゃあさ、妖怪ってのはなんなの?」
古篭火は少し考えながら答えた。
「ん~、まあ、現代風に言えば、お化け、ですかね。あ、人間とはまた別の種族です。私たち妖怪は、ちょっと特別な事ができるんです」
「特別な事?」涙は首をかしげた。「それって、どんな事?」
「じゃあ、私が実演して見せましょう」
古篭火の目が怪しく光った。まるで炎の様に、紅く燃え上がる。
「いきますよー!」
そう叫ぶと同時に、古篭火は両手を前に出し、手のひらを上に向けた。そして―涙の目の前には、赤々と燃える炎があった。どうやら、古篭火の手のひらから出ているようだ。
「どう、なってるの?」
ぽかんと口を開けたまま、涙は呟いた。
「うふふ、どうです? 私の力は? 古篭火っていうのはですね、灯篭の付喪神なんですよね。だから、炎とか普通に操れます」
古篭火の説明を受けてもなお、涙はぽかんと炎を見ていた。
「あ、舘に燃え移ると危ないので、もうそろそろ消しますね」
炎は古篭火が言い終わるほんの少し前に静かに消えた。涙は目の前の事を理解しようとしたが、少しもできなかった。今まで積み上げてきた常識が、バラバラと崩れていくのを感じた。
「今さっき」涙はポツリポツリと話し始めた。「今さっき、あたしの目の前には火が燃えていた。そして、なんの動作もしていないのに、消えた。これって、どういうことなの?」
一言一言を絞り出すように告げる。
「涙ちゃん、人間の感性なんて、早く捨ててしまってください。人間にとっては、正しい物はたった一つ。それ以外は間違いなんです。でも、私達は違います。私達の考え方は、全てが正しいんです。ここで火がひとりでに燃えようと、この舘が燃えていても、決して錯覚なんかではないんです。香妖様に言われたでしょう? 私達を人間の理で縛ってはいけない、と」
涙は背筋に寒気を覚えた。人知を超える、とは、このことだったのか。人間の常識が通用しない者達が、錯覚でもでもなく、自分の目の前に顕現している。そう思うと、妙に心臓の鼓動が早くなったような気がした。
「あれ、驚かせちゃいました?」
古篭火が心配そうに涙の顔をのぞき込んだ。
「うん、ちょっとね、頭ん中整理したいんだけど。この舘にはあたしの部屋はないの?」
「ありますよ。こっちです」
古篭火に案内されたのは、小さな部屋。南の窓からは日の光が刺すように注ぎ込んでいる。窓際のベッドには灰色の布団がかけてある。勉強机もあって、椅子が少し高い。本棚には辞書のように分厚い本が詰め込まれている。あと、観賞用の植物―あれは多分、サボテン―が置かれている。だれが置いたのだろう。
「じゃあ、落ち着くまで休んでてください。夕飯のときに呼びに来ますね」
「うん。じゃああたしは少し寝るね」
布団に潜り込むと、扉を閉める音が聞こえた。古篭火が出て行ったのだろう。
(ああ、とんでもない事になったな)
涙は布団の中でじっと考えた。
(母さんもここに来たんだよね。何しに来たんだろ)
しかし、普段の習慣のせいか、疲れが出たせいか、知らぬ間に眠りについていた。
古篭火が涙の部屋を出てしばらくすると、香妖が帰ってきた。
「古篭火、あの子はどうしてる?」
買ってきた洗剤を棚にしまいながら、香妖は古篭火に話しかけた。
「ええ、少し炎を見せてあげたら、疲れちゃったみたいで、頭の中を整理したいと言って布団の中に入っています」
「すっかり人間社会に毒されてるねぇ」
香妖は困ったように言うと、眉をひそめた。
「もうそろそろ跡継ぎを作らないと怒られるってのにさ」
そして、深い深いため息をつく。
「あの子もダメかねぇ、古篭火」
「さあ、まだわかりませんよ?」
そう言いながらも古篭火は、不安そうな顔をしていた。
「で、妖怪に適性があるかどうか、だれが試験をするんです?」
「ああ、いつもやってくれてるのは用事で手が放せないそうだよ。だから、今回ばかりはやむを得ない。あいつに任せるよ」
「ああ、あのお方ですね」
香妖は少し不安げな顔をしたが、それを誤魔化すように、無理に笑った。
「まあ、いくらあいつでも、身をわきまえるだろう」
涙はどこまでも続くような草原に立っていた。三六〇度どこを見渡しても、ただ草が生い茂っているだけである。
「なんでこんなとこにさぁ」
愚痴を吐き出すようにボソリと呟いた。不意に顔を上げると、誰かが立っていた。
「あ、香妖様!」
見知った姿を見つけて心が躍った。香妖は涙に気付いていないのか、涙に背を向けていた。
涙は香妖に向かって一歩を踏み出した。
一瞬。ほんの一瞬。香妖の姿が揺らいで見えた。
「え? 気のせい?」
首をかしげながら、もう一歩、さらにもう一歩と近づいてゆく。そして、涙は確信した。
(あたしが近づけば近づくほど、香妖様は消えてしまっているんだ)
それでも、歩みを止めようとは思わなかった。
どうしても、香妖の元へ行きたかった。
「待って、消えないで!」
段々薄れて、もう霞ほどになってしまった香妖に向かって思い切り叫んだ。すると、香妖は漸く気付いたらしく、ゆっくりと振り返った。
「香妖様ッ!」
もう、すぐそばに来ている。涙は思い切り手を伸ばした。香妖も涙に向けて手を伸ばした。
しかし、指が少し触れた瞬間、香妖は消えてしまった。
「そんな。こんなわけわかんない所で一人にしないでよ!」
苛立ち紛れに叫んだ涙は、天を睨んだ。憎たらしいほどに太陽が輝いている。
刹那、声が降ってきた。
「―てくださ―」
「はぁ? 何?」
「起きて! 起きてくださーい!」
「起きてったらもう、涙ちゃん! ご飯です。冷めちゃいますよぅ!」
古篭火は、布団の中の涙に必死に話しかけていた。
「あああもう! なんで目を開けないんですかー! だから昼寝は良くないんです! だって、そのまんま次の朝まで起きそうもないじゃないですか! ねえ、起きて! 起きてください! お! き! て!」
布団ごしに涙を揺さぶりながら必死に話しかける。
「もしかして、死―」
「死んでないよっ!」
突然、涙は飛び起きた。髪にはくるくると寝癖がついている。
「で、何? 今何時?」
「お夕飯です。香妖様が待ってますよ。香妖様って、待つのがすごい苦手だからすごい怒ってると思います。いや、絶対イライラしてます」
古篭火がにこやかに言った。「お説教がないことを祈りましょう」
「いつまで寝てるんだい、このねぼすけが!」
古篭火の言ったとおり、香妖はイライラしていた。頬杖をつきながら涙を睨み付ける。
「しょうがないじゃん、疲れてたんだから」
少しふてくされながら涙は答えた。
「まあ、とりあえず食べましょうよ。冷めちゃいます」
古篭火が箸を手にとりながら、顔をつきあわせる二人を見た。「じゃ、お先にいただきます」そして味噌汁に手をつけた。
涙は食卓に並んだ料理を見た。ほかほかと湯気を立てる雑穀米にわかめとねぎと油揚げの味噌汁、ごぼうや人参や里芋、蒟蒻などの煮物が目に映る。聞けばこれらは、全て香妖が作ったらしい。
「いただきます」
涙は料理に箸をつけ、黙々と食べ始めた。ふくれ面のまま料理に少し感動した。香妖様ったら、こんな荒々しい性格の癖して、驚くほど繊細な料理が作れるのか! そう思うと、睡眠を咎められたことへの怒りも少しだけ和らいだ。
「ねえ、香妖様」そして、率直な疑問をぶつけたい衝動に駆られた。
「なんだい?」
「あなたは何者なの? 妖怪の偉い人なんだよね」
香妖は少し考えた。「何者って聞かれてもね、私は私としか言いようがないよ」
「そういうことを聞いてるんじゃない!」
涙ははやる気持ちを落ち着かせ、最大の疑問を述べた。
「どうしてあたしの母さんはあなたの元へ修行に行ったの? そして私も。それに、あたしのこの髪の色、両親共々真っ黒なのに、なんであたしだけ緑っぽいの? 突然変異って説明されてきて、ずっと信じてきた。でも、今は違う。あなたが何かしら関係してるんじゃないの? どうなの?」
責め立てるような口調で、一気にまくし立てた。香妖は真っ黒な目を細め、冷めた声で言った。
「私が関係してるだって? そんなわけないじゃないか。大体、私がどう関わろうって言うのさ? それこそ、あり得ない話だよ」
しかし涙は、それでも考えを改めなかった。気付けば、拳をギュッと握りしめ、熱を帯びていた。そっと開くと、手のひらには爪の痕がある。涙は顔を少し突き出して、不安な心を自信ありげな声で覆い隠しながら、香妖に向かって言った。
「あなたがそう考えるとは思えないよ。だって、人間の理と一緒にするなっていったのは、他でもない、あなたなんだよ。真実を語ってよ。ありえない話でもいいから」
香妖と古篭火が目配せし合い、二人とも笑い始めた。それはもう、可笑しそうに。
「ちょっと、ねぇ、どういうことなのさ!?」
一人だけ置いて行かれた涙は声を荒げた。
「ああ、悪かったね。お前の言うとおりだよ、涙。お前の髪の色も、ここに来た理由も、全て私のせいだ」
香妖と古篭火はまた顔を見合わせると、くくくっと笑った。そして、涙に答えをくれてやった。
「お前は私の遠い親戚なんだよ。まあ、私が生まれてから何世紀も経っているわけだから、繋がりは微々たるものだけどね」
「へえ、そうなんだ」涙は驚きと動揺を隠しながら、なんでもない、ただの日常的な会話のように振る舞った。ここに来てから、驚いてばっかりだ。少しの事で目を丸くしてばかりの何も分からない人間とは、思われたくなかった。だが、そんな涙の心情でさえも、香妖は読み取っていた。
「あんまり強がるんじゃないよ。ここではお前は無知のひよこみたいなものなんだから」
それを聞いた涙は、少しムッとしたが、すぐにその通りだと思い直した。今の自分は知らない事だらけ。強がりはやめよう。少なくとも、今は。
「で、あたしに何の修行をしろって言うの?」
涙が首をかしげながら聞いた。
「まあ、一言にまとめれば、私の跡継ぎになってもらいたいわけだ。妖怪の素質があればの話だけど」
今回も驚きを隠せない涙に、古篭火が一言加えた。「本当はもっと複雑な問題ですけどね」
涙は考え込みながら口を開いた。
「それって、あたしに妖怪になれっていってるの?」
「そのとおりだよ。素質があれば」
香妖は涙をまっすぐ見つめながら言った。
「お前が跡を継いでくれさえすれば、私は引退できるんだ。とりあえずお前がここに滞在している間に、なにかしらの事件がおこる。妖怪がらみの、ね。その時にうまく対処できりゃ、晴れて妖怪の仲間入りだよ。対処できなければ人間のままだけどね」
涙はあまり深く考えずに聞いてみた。
「妖怪になりたくなかったら、どうするの?」
それを聞いた香妖は、鼻で笑った。
「まさかそんな事を言われるとはね。お前は古篭火の火を見たんだろ? で、恐れしか抱かなかったと?」
「いや、できたら良いなぁとは思ったけど」
「ならそれでいい。少しでも憧れやら好奇心があれば、この試験は受けてもらうよ。尤も、お前が妖怪を嫌悪し、見たくもないと言うのであれば別だけどね」
「まさか! そんな事ないよ! 受けるよ、その、試験、だっけ? 絶対受かってやるから。バカにできないくらいいい成績で!」
自信満々に言い放った涙を呆れた目で見ながら、香妖はボソリと言った。「この試験は落ちるか受かるかの二択しかないから、良い成績も悪い成績もないけどねぇ」
しかし、その呟きも涙には聞こえていなかった様で、涙は策士のように考えを巡らせていた。
その夜、涙は布団にくるまれてすやすやと眠っていた。いや、外見は穏やかに眠っているように見えるが、夢の中の涙は取り乱していた。
涙は、真っ暗闇の中で佇んでいた。三百六十度どこを見渡しても、ただひたすら黒い空間が広がっていた。光のない世界の真ん中で、涙の不安は募るばかりだ。
「何なの? 誰かいないの?」
涙は苛々と叫んだ。すると、思わぬ返事があった。しかし、それは声ではなく、ポツリポツリと光り出した赤い発光体だった。丁度ビー玉ぐらいの大きさの、ぼんやりとした光に導かれ、涙はそれに近づいた。
不意に、涙は止まった。何かが聞こえる。ずるっずるっと、何かを引きずるような音。それが四方八方から聞こえ、不協和音のように辺りに響いた。
「う、うるさい、やめてよ!」涙の懇願に近い叫びを無視して、尚も音は止まない。それどころか、段々と大きくなっている。
涙の背筋に寒気が走った。たった今、涙の髪に暖かい空気が触れた。その瞬間、涙は悟った。ここに何か、巨大なものがいる! あたしを殺そうと狙っている!
「早く、目を覚まさなければ!」
涙は意識を取り戻そうと、必死になった。といっても、暴れるわけでも、わめくわけでもない。意識を夢から閉め出すのだ。
その時、ふわりと体が浮かび上がるような感覚がした。上を見ると、一筋の小さな光が見えた。光に向かって思い切り手を伸ばし、蠢くものから逃れようとした。涙は、先ほど自分の立っていた所を見た。その瞬間、怖気がわき上がってきた。そこには、黒くぬめぬめと鈍く光る、巨大な蛇の群れが犇めいていた。
その目は真っ赤で、それがあの赤い発光体の正体だと気付いた。そしてその中心には、黒い髪を耳までだらんと垂らした男性が立っていた。感情のこもらない紅い目を涙に向けると、嘲るような笑みを浮かべた。そして、整った顔に馬鹿にするような表情を浮かべ、言った。
「次は逃げられないぞ」
涙は肩ではあはあと息をしながら、布団を強く握りしめていた。初めて、命の危機を感じた。夢とはいえ、涙の心に恐れを抱かせたのは確かだ。涙は額に浮かんだ汗を拭った。
そして、あの男性の恐ろしい笑みを思い出し、布団の中に潜り込んだ。早く忘れてしまおう、そう自分に言い聞かせ、きつく目を閉じた。
しかし、なかなか眠れなかったのである。一~二時間は布団の中にいたが、終には布団を抜け出て、窓から庭を眺めた。実に奇妙な植物が並んでいる。あの巨大なハエトリグサや、それに引けを取らないほどの巨体を持つ真っ赤なバラ、なんだか毒々しい色合いのダリア、真っ青なユリ、季節外れの向日葵は金色だった。見た事もないような、不思議な植物達。これらの世話も、香妖がしているらしい。古篭火が香妖の正体を教えてくれた。たしか、「花妖」という妖怪らしい。自然を司る、精霊のようなものらしい。尤も、香妖には精霊のような可愛らしさはないけれど。「香妖」という名前は、種族が「花妖」だったからそう名付けられたそうだ。そんな香妖が育てているだけあって、普通では育ちそうにないものものびのびと育っている。そして、試験にさえ受かれば、自分も花妖になるのだと思うと、心が踊った。妖怪なんてすてきじゃないか! 人間なんかよりも、よっぽどいい! 涙は妖怪に憧れをよせながら、庭をじっと眺めていた。
「お・き・て・くださーい!!!」
耳元で誰かが叫んでいる。いや、気のせいかな? 涙は布団に深く潜った。
「だ~か~ら~! 起きろっていってるんですよぅ! 何で起きないんですかぁ!」
あれ、気のせいじゃない? いや、でもまだ眠いし、寝よう。涙は布団を頭からかぶり、声を遮断した。
「もうっ! 涙ちゃん! 起きないと燃やしますよ!」
その悲痛な叫びに、涙の頭は段々はっきりしてきた。この声は、古篭火だ。そして、今は朝だ。前のように古篭火が起こしに来たのだ。
「やあ古篭火、おはよう!」布団をのけながら、涙は先ほどまで寝ぼけていた事を誤魔化そうと、わざと明るく振る舞った。
「涙ちゃん、さっき寝ぼけてましたよね、起きてますか? まだ寝ぼけてたりしませんよね」
「何を言っているのさ。 あたしは大丈夫だよ」
古篭火はいぶかしげな目で涙を見た後、「香妖様が呼んでます」と言った。涙は短く返事をすると、香妖のいる部屋へと駆けていった。
「遅かったね」涙が香妖の部屋の扉を開けると、香妖はそう声をかけた。涙は気まずそうに一瞬目をそらすと、ボソボソと言い訳を呟いた。「寝起きは誰だって寝ぼけるよ」
香妖は呆れ顔で深い深いため息をついた。―まったく、この人ときたらさぁ。涙はある事に気付いた。香妖は頻繁にため息をついている。もしため息一回につき幸せが一グラム逃げるとしたら、この人は何グラムの幸せを野に放っているのだろうか。涙はそんな事を考えていた。
「さて、今日私と古篭火は用があって出かける」
「留守番していればいいんだね?」涙は漸くみから解放されつつある瞼と脳を精一杯活用させながら言った。
「いいや、ここはは時折鬼がやってくるから留守番なんて任せられないよ。取って食われるからね」
淡々と言い放つ香妖に、涙の背筋は震えた。鬼だって? 取って食われるだって? ここはそんなに恐ろしいところなのか!
「まあそんな理由で、今日一日は知り合いの所に預ける」
それを聞いた涙は、不満の意を示した。
「えー、ここに来たばっかりだってのに?」
「そうだよ。別にいいだろ」
香妖は涙の不満をサラリと受け流すと、時計を見た。黒く縁取りされた八角形の時計は、七時を指していた。
「さて、もうそろそろ行かなくては」
香妖は気怠そうに立ち上がった。
「で、あたしはどこに行けばいいわけ?」涙の問いに、香妖は実に面倒くさそうに応えた。
「兎の森」
見渡すかぎり、緑一色の深い森。いや、緑一色というのは、正しくない。厳密に言えば、
深緑から黄緑まで、多様な「緑」に彩られている。そんな森の中で、涙はポツンと立っていた。先ほど、香妖に置いて行かれたのだ。薄情者め、こんなところで何をどうしろというのだ! そう、これはまるで、母親に森に置いてけぼりにされる童話の姫のようではないか!
「まあ、あたしは姫様ってガラじゃないけどさ」ぶつぶつと小言を漏らしながら、ここ、兎の森を彷徨い歩く。日は出ているはずだが、木々に遮られて光が入ってこない。そして、じめじめしているから、地面も苔のカーペットで覆われていて、大変滑りやすい。苔の他にもキノコがそこら中で傘を差している。そのくせ、兎は一匹もいない。何が「兎の森」だ! 名が体を表さない最も良い例じゃないか!
がさっ――――背後で草木を揺らす音がした。涙はすぐさま振り向き、そして、この森の名を漸く理解した。草を揺らした犯人は、兎だった。兎、なんだけど…………。犯人は、人の形をしていた。濃い茶色の髪に、白い肌、真っ白の衣をまとっていて、目は赤。そして、真っ白な兎の耳を垂らしている。兎…………の、妖怪だ。
兎は慌てた様子で木の後ろに隠れようとしたが、地に張られた木の根に躓き、転んだ拍子に木の後ろに最初から隠れていた兎を押しだし、驚いたもう一匹の兎が跳び上がり、別の木の仲間に体当たりし…………次々と兎が出てきた。その数約二〇匹。
「なに、やってるの…………?」口からごく自然な感想が漏れる。このドジな兎たちは魔王でも見るような目で涙を見上げた。涙目で祈りを唱える少年兎、嗚咽を漏らす少女兎、誰かは年上の兎にしがみつき、また別の誰かは顔を覆って震えている。
「ねえ、何であたしが悪者みたいになってるの? あたし、何もしてないからね?」
しかし、涙もなんだか後ろめたくなってきた。何もしていないけど。
「なんか、ごめん」そう言いかけたとき、理性的な声が木々にこだました。
「ちょっとちょっと、どうしたのー?」
一番年上であろう少年兎が駆けてきた。少年は仲間達、そして涙を見ると、納得したように頷いた。
「ああー、なるほど、はいはい、わかったよ」
少年兎は涙の方を向くと、「香妖様のお弟子さんだよね」と言った。
「いや、厳密にはまだだけど、まあそうだね」
涙は兎少年を素速く観察した。焦げ茶色の髪はくるくるしていて、けっこう長め。他の兎たちと同様、白い衣をまとっていて、目も同様に赤。耳も真っ白の兎耳の垂れ耳。ほとんど他の兎と同じである。ただ違うのは、目に理性が宿っている事。ようするに、落ち着き払っていることだ。
「君のことは聞いてるよ。香妖様が家を空けるんだろ。おれは太一。兎たちの頭領の跡継ぎだよ。後を継ぐのはずっと後だろうけどさ」太一は兎たちをなだめて落ち着かせながら言った。「君は?」
「あたしは涙。『なみだ』って書いて『るい』って読むの」
軽く自己紹介をして、兎たちを見た。まだ震えている。「なんでそんなに怖がるの?」
その問いに太一が答えた。「こいつらはさ、森の外にまだ出た事がないんだ。だからさ、兎じゃない君を見て驚いたんだよ。まだ若いからね」
涙は太一を見た。見た目は涙と同じくらいの歳に見える。でも、きっと香妖や古篭火同様百歳越えだろう。そのことを太一に訊いてみると、とんでもない、と首を横に振られた。
「おれはまだ七十年くらいしか生きてないよ、百年なんてまだまだだよ」
涙は思った。(七十でも充分長生きだよ、十三のあたしに比べたらさぁ)
その後涙は、太一と兎たちに連れられて森を歩いていた。森の中はやはりじめっとしていて、太陽の光もなかなか入ってこない。こんなところで暮らしている兎たちは、どう思って生活しているのだろう。あたしだったら定期的に日光浴に行かないとどうかしそうだわ。涙はそう思いながら苔を踏みしめて歩いた。兎たちも次第に涙への警戒を緩め、古くからの友であるように話しかけてきた。
「涙は森を歩くのはニガテなの?」幼げな兎少女が訊ねた。
「うん。あたしの家は都会にあるから、森とか山は近くにないんだ」
すると、兎少年は目を丸くした。「ええっ! 森が近くにないだって? 生きていけるの?」
太一が呆れながら言った。「森の外には森の恩恵なしで生きてる妖は沢山いるよ」そして、自慢げに付け加えた。「ま、森の暮らしに勝るものなんてないけどねっ!」
その言葉に兎たちは同意の言葉を口々に言い、実に楽しそうに笑った。涙もつられて笑い、(この調子なら、ここでの一日も楽しそう!)と思った。
しばらく歩いていると、不意に太一が足を止めた。涙は怪訝そうな顔をしながら太一を見て言った。「どうしたの? 何かあった?」
他の兎たちも不安そうに太一を見ながら疑問の言葉を口々に述べた。
「しっ! 静かに」太一は口に人差し指を当て、兎たちを黙らせると、「よーく耳を澄ましてみて」と言った。涙はそれに従ったが、別に変わったこともない。ただ風が木々を抜けるひゅーひゅーという音しか聞こえない。しかし、太一は真っ白の両耳を両手で持ち上げ、人間には聞き取れない些細な音も聞き取っていた。そして一言、短く述べた。
「逃げるよ」
涙と太一、そして約20人の兎たちは、森の中を走り回っていた。その理由を涙は知らない。ただ、太一の短い一言と真剣な目に従っただけだ。兎たちも太一と同様、何かを感じたらしいが、何があったかを訊ねても、震えながら首を横に振るばかりで話にならない。
太一も太一で何も話さない。ただただ走れとしか言わない。
「どうなってるのさ! 説明して!」
先ほどからこう叫んでいるが、答えが返ってこない。そして気付いた。兎たちも何がなんだかわからないのだ。ただ、太一が――自分達のリーダーが――何かを恐れている、それだけで恐怖の対象なのだ。でも、あたしは…………。
「太一、あたし、見てくるよ」
「はぁ! 何言ってるの? 危ないよ、逃げなきゃだよ!」
「何から? あたしには何がどう危ないのか分からないよ。じゃ、行ってくる」
そう言うと涙は、踵を返して来た道を戻り始めた。端から見たら、愚行かもしれない。いや、自分でもバカだと思う。でも、恐れているものもわからないのに逃げ回るなんて、なんだかそっちの方が愚行のように思えた。
「ちょっと待てよ」
太一がそう言いながら涙の前に立った。太一は一瞬不安そうな顔をしたが、強い意志を持った目で涙をまっすぐ見た。「おれも行くよ」
涙は首を横に振った。本当は嬉しかったし、来て欲しいとも思った。でも、太一は恐れている。内心、死んでも行きたくないって思っていると思う。というか、足がガクガク震えているし、さっき声も震えていた。こんなに嫌がっている兎少年を連れて行きたいとは思わない。
「太一、大丈夫。ちょっと見てくるだけだから」
尚も何か言いたそうな表情の太一を無理に笑ってなだめると、独りで歩き出した。
が、こんなに恐ろしい事になっているとは思わなかった。
涙は奇妙な音を聞いた。何かを削るような、――そうだ、鰹節を削るような――音が空から降ってくる。周りを見渡しても木と苔と石と砂利くらいしかない。涙は首をかしげた。何の音だろう。音源の方に目を向けた。そして、体中に怖気が走った。目に映ったのは、木々よりも大きな大蛇が鎌首をもたげているところだった。それも、普通の大蛇じゃない。頭と尾が八つあった。そう、まるでこれは…………。
「八岐大蛇」
その答えを、涙は自然と口に出していた。日本人なら誰でも知っているであろう日本神話の怪物。本来なら、絶対にいるはずのない化け物。この世に存在してはいけない幻想。涙の頭に、言葉がよぎった。
『人間の理で計るんじゃないよ』
香妖の言葉だ。有り得ないほど長い年月を過ごした香妖の。そして、涙は思った。もうすでに人間の理なんて、通用しないと。いるはずがないとか、妖なんている証拠がないとか、そんな次元じゃない。目の前にいるのだ。
「だから太一はあんなに怯えていたのか」
独りで納得すると、八岐大蛇に背を向けた。あたしは関係ない。ただ、そこにいるだけの蛇だ。
「それで、本当にいいの?」
後ろから声が聞こえた。女性の声だ。少し低めの、落ち着いた声。涙はすぐさま振り向いた。さっき自分のいたところには、二十歳くらいの女性が立っていた。百七十センチはあるであろう長身に黄色の着物、肩まで伸ばした茶髪は風もないのに揺れている。耳にはピアスをしていて、花びらのような形をした紅いリボンのついた金色の輪っかという、ちょっと珍しいデザインだった。だがそれらより目を引いたのは、彼女の耳の上から斜め上に突き出した、真っ黒の角だった。まさかこいつは…………「鬼?」
鬼はゆっくりと頷いた。「そう、鬼だよ」
涙はとっさに身構えた。香妖の話を思い出したからだ。取って食われるかもしれない。
「あ、あたしは食べてもおいしくないからね」
そう言いながら後ずさった。冷や汗が首筋を伝う。しかし、この鬼は予想に反して安全な鬼だった。
「安心しなよ。私は人食いじゃない。だいたい、人間なんて骨っぽそうで食えたもんじゃないと思うがね。まあそれより、見ただろ、八岐大蛇。あれをほっとくと、兎たちが食われるよ。いいの?」
鬼の言葉に、涙の思考は一瞬止まった。兎が食われる? まぁあの大きさの蛇なら有り得なくもないけど…………。
「でも、あたしにどうしろって言うの?」
「良いものをあげよう」
鬼は懐から竹の筒を取り出して、涙に渡した。受け取った涙は、竹の筒を四方八方から眺め、振ってみた。ちゃぷちゃぷと水の動く音がする。中に何か入っているようだ。
「何、これ」
「薬酒だよ。知らないの?」
「知らない」
「まったく、最近のは何一つ知りもしない。その名のとおり、酒だよ」鬼は呆れた声で言った。涙は一瞬ぽかんとして、「これを飲めっての?」と訊いた。
「まさか。こいつはかなり強い酒だから、お前みたいな娘っ子なんて簡単に酔い死んじまうよ。八岐大蛇の倒し方、知らないのかい?」
涙は必死で思い出した。日本神話では確か、クシナダヒメが生贄にされそうになって、スサノオノミコトが助けた。その時、お酒を用意して、八つの頭を全て酔わせて、片っ端から頭を斬って退治したんだったよね。
「じゃあ、これで八岐大蛇を酔わせろっていうの? ちょっと量的に足りなくない?」
涙の疑問に、鬼は涼しげに答えた。「この薬酒は鬼が鍛えた特別製さ。水に含ませると、その水も酒になる。いやぁいいね、幾らでも酒が飲める」
鬼はそう言うと、太陽と真逆の方向を指さした。「この向きに真っ直ぐ進みな。広い沢があるよ。そこにこいつをまくんだ。そうすれば、八つの頭を全て酔わせるくらいの量の酒が得られるよ」
涙はその方向を見てから、鬼に礼を言おうと振り返った。しかし、そこに鬼の姿はなかった。慌てて周囲を見渡したが、鬼どころか兎一匹いない。さっきのことは夢だったのだろうか。それでも、竹筒は涙の手の中にあるし、八岐大蛇は相変わらず森をのしのしと歩いているようだ。
「夢、じゃない。みんな…………」涙は呆然と呟いたが、それを振り払うように早歩きで沢に向かって進んだ。
低きを求めて流れる水。森に唯一、木が茂っていない地には、ごつごつとした岩が敷き詰められている。水はその間を縫って下へと流れる。竹筒を傾けて薬酒を沢に流していた涙は、段々と大きくなる地響きに震えた。八岐大蛇が近づいてきている。涙はそれがわかって気を引き締めた。ええと、お酒で八つの頭をみんな酔わせるんだよね。酔わせて…………あれ、酔わせたらどうするんだろう。ちょうどいい剣があればいいんだけど…………いやいや、剣なんて使ったことないし、第一そんなものありそうもないし、どうしよう。じっと考えている間にも、地響きは大きくなる一方。沢にたどり着くまで、そうかからないだろう。涙は考えるのをやめて、木々の影に隠れた。今は八岐大蛇を酔わせるのが先決だ。次のことは後に考えよう。
少しの間待っていると、それは大きな松の木の後ろから姿を現した。
灰色のごつごつした鱗に覆われた皮。
鋭い歯の間からチラチラと覗く赤い舌。
血のように赤黒い目。
なんて醜悪でおぞましい姿だ! 涙は心底逃げたくなった。逃げて記憶に蓋をしたい。でも…………。
「それで、本当にいいの?」
あの鬼の言葉が蘇る。自分を戦うように促したのは、この言葉だ。もし、あたしが八岐大蛇を止めなければ、兎たちが危ない。最初はギスギスしていた兎たちも、もうすっかり打ち解けた。それに太一。
「おれも行くよ」
恐怖を覆い隠して――声も足も震えていたけどね――そう申し出てくれた太一。きっと太一なら、このままじゃぁ引き下がっちゃいないと思う。きっと。
「よぅし」
思いは決めた。逃げない。決して。
「さぁて、あいつはどうなってる? ちゃんと酔っ払ってるんでしょうね!」
わざと声に出しながら、八岐大蛇を確認した。
八岐大蛇は、八つの頭全部を沢に突っ込んでいた。あれじゃ隙だらけだ。
「ここまでは百点ね。…………次、どうしよう」
試しに近づいてみたが、八岐大蛇は特に気にしてもいない様子だった。涙は八岐大蛇の尾の一つに飛びついて、よじ登った。もしかしたら、尾っぽから出てきたという草薙の剣がまだあるかもしれない。スサノオノミコトは本当は剣を持って行っていないのかもしれない。
涙はとりあえず、背中にたどり着いた。そこからの景色は、ちょうど学校の二階から校庭を見下ろしたような感じだった。
「ないねぇ草薙の剣」
そういいながらゆっくりと頭側に移動していた涙だが、左手首に何かが当たったのに気付き、それをみてみた。
「ええー、なんじゃこりゃぁ!?」
それは、草薙の剣と呼ぶにはなんだか貧相で味気のないナイフだった。すでに使い込まれているのか、所々さびがうかがえる。
「これが、草薙の…………」まさか! そんなはずはない! 絶対ない! 涙はナイフを握りしめ、絶望的な気分でそう思った。そして、苛立ちをナイフに込め、すぐ下の鱗をベリッと剥がした。
(あれ、意外と簡単に剥がれるな)
涙は薄笑いを浮かべ、ナイフを薬酒に浸した。そして、それを八岐大蛇に突き刺した。
(体内の水をお酒に変えてしまえば、こっちの勝ちじゃない?)
そう思った刹那、涙の体は宙を舞った。数秒後、地面に叩き付けられた。
「いったいなぁもう…………」消え入りそうな声でぶつぶつと文句をたれている涙を尻目に、八岐大蛇は暴れ出した。八つの尾が周りの木々をなぎ倒し、八つの頭は千切れた大木をかみ砕いた。
「あれ、もしかして、まずいことしちゃったのかな?」
冷や汗が頬を伝った。でも、いつもみたいに目を背けたりはしなかった。我ながらあの案はよかったと思う。失敗しないと思う。というか、成功して欲しい。
しばらくすると八岐大蛇は、まるでおもちゃの電池が切れたようにパタッと倒れ、ピクリとも動かなくなった。
「やっぱり、成功?」
にやりと笑みを浮かべながら、涙は八岐大蛇に近づいた。八岐大蛇の全ての目は閉じられている。動く気配はない。全く。
「勝った?」口から問いが漏れ出す。勝利とはあっけないものだ。とても苦労したような気がするが、終わってしまえば虚空のように記憶にない。
「終わった?」
しかし、まだ勝敗は決まっていなかった。なぜかって? それは、涙の問いに応えが返ってきたから。
「まだ、終わってはいないな」
とっさに声の主を振り返った涙は八岐大蛇の鱗に叩き付けられた。左手の袖をみると、錆びてもいない、壊れてもいない見た目新品のナイフが貫通していて、鱗に深々と刺さっていた。
「あ、危ないじゃん!」叫ぶ涙は、怖気で震え上がった。目の前には、涙の知る人物がいた。だらんと垂れた黒髪、狂気に燃えた紅い瞳、妙に整った顔、そして、耳の上から斜め横に張り出した黒い角。それは鬼のものとは違って、暗闇の中にいるような不安を沸き起こらせた。そして、この声。
(あの蛇の夢の奴だぁ)
たしかにこの人物は、夢に出てきた男性その人だった。
「我が名は夜刀神。この沢の祟り神だ。」
ご丁寧に自己紹介までしてくれたところ悪いが、涙の耳にはほとんど届いていなかった。涙の頭の中は、この危機をいかにして脱するかでいっぱいだった。右手に力を込め、ナイフの柄を握って、力一杯引き抜こうとした。しかし、抜ける気配はない。それどころか、ぐらつく様子もない。
(こんどこそ、負けるッ!)
でも、ここで足掻くのをやめてしまうのは、どうも気が済まない。最後の最期まで、抵抗してやろう。涙は錆びたナイフを夜刀神に投げつけた。夜刀神はそれをはたき落とすと、今度は頭のすぐ上にナイフを刺した。
(遊ばれてる。わざと外してるんだ)
そのことになんだかムカついてきた。
「殺すならひと思いにやってしまえばいいのにさ!」思わず口から言葉がもれた。夜刀神は顔の両側にナイフを一本ずつ投げた。一本、軌道が逸れて涙から少し離れた所に刺さった。
「殺せ、か……。俺は確かめているだけだ」
「何を、さ……」
「お前が食えそうな者かどうかを」
「はぁ? 食べる?」そう言ってから涙は気がついた。角が生えている妖怪。人を食べようとする妖怪。「もしかして、鬼?」
「違うな。言っただろう? 俺は夜刀神だ」
「違う人なのか……」
なんとか声を絞り出して話しているが、涙は恐怖でどうかしそうになっていた。食べられるかもしれない。ここで死ぬかもしれない。居心地の悪い八岐大蛇の鱗の感触と底知れない恐怖で、頭が真っ白になっていた。
気がついたら、夜刀神がすぐ目の前まで来ていた。頬に冷たい手が触れる。
「……痩せているし、骨っぽそうだし、あまりおいしくなさそうだが……食えないことはなさそうだな」
(いや、あたし本当に食べられるの?)
涙は首を横に振って叫んだ。
「嫌だ! 絶対においしくないよ? お腹壊すよ? 絶対に後悔するよ?」
「適当に味付けすれば食べられるだろう」
夜刀神の袖から、一匹の蛇が顔を覗かせた。黒くて、ぬめぬめと光っていて、真っ赤な目をしている。蛇は涙の腕に巻きつくと、腕から肩へ、そして首へと進んだ。
「何、するのよ。取ってよ」
涙の懇願を無視し、夜刀神は蛇の頭にそっと触れた。蛇は大きく口を開けて、涙の首筋へとその牙をおろした。
「っ!」
ピリッとした痛みを首筋に感じ、涙は小さく叫んだ。そして、体が痺れていくのを感じた。手足も動かせず、全身の力が抜けて、立つこともできなくなった。夜刀神は涙と八岐大蛇を固定していたナイフを引き抜くと、倒れている涙を抱き上げた。そして沢の中へと入っていく。
(あたし……食べられて死ぬの……?)
冷たい水の中で、涙のまぶたはゆっくりと閉ざされた。
水が滴る音がする。水が流れる音がする。肌寒い風が吹き抜けて、その不快感で涙は目を覚ました。
(ここはどこ……?)
見渡すと、湿った岩肌が見える。相変わらず両袖にはナイフが貫通していて、後ろの岩肌と涙をしっかりと固定していた。ここは洞窟のような場所だった。ただ、どこもかしこも湿っていて、水が垂れている。足元には水溜まりがあり、涙の靴を濡らしていた。そして嫌なことに、壁や天井、床、そして涙のそばにも、蛇が蠢いていた。皆一様に黒く、赤い目をしている。
(うわぁ、気持ち悪い)
涙は顔をしかめながら、足に巻きつく蛇を踏んづけた。蛇は怒って足に噛みつこうとしたが、涙はそうする前に蹴り飛ばし、なんとか足から外した。
「ちょっと蛇たち、あたしに触らないで! というか、あいつはどこにいるのよ!」
涙は蛇を相手に喚き、罵った。死ぬことへの恐怖を怒りに変えて、片っ端から蛇を踏んづける。時々反撃されて噛まれたが、もうどうだっていい。毒があろうがなんだろうが、どうせ死ぬんだ。それならここの蛇たちも道連れにしてやる!
「無様だな」
蛇と格闘していると、ムカつく声が響いてきた。洞窟の奥から、あいつが歩いてくる。
「無様で何が悪い! どうせ死ぬのなら、好き勝手暴れたっていいでしょ? とっとと食べればいいじゃん!」
吐き捨てるように叫ぶ涙に、夜刀神はナイフを投げつけた。ナイフは涙の頬を掠めて岩肌に刺さった。頬に鋭い痛みが貫き、生温かいものが走るのを感じた。
「痛いじゃん! 殺すなら一撃で仕留めてよ!」
「死の間際だが、威勢だけは一級品だな」
夜刀神は涙の頬に触れ、そっと離した。その指には血が滴っている。夜刀神はそれをペロリとなめると、嫌そうな顔をした。
「不味い。鉄分が足りてないんじゃないか? この不健康者め。どうせ好き嫌いばかりしているんだろう」
「わ、悪い? ていうか、食べる側がわがまま言わないでよ!」
「その事だが……気が変わった」
夜刀神はナイフを涙の首にぴったりと当てて、顔を近づけた。腹が立つほどに整った顔立ちを改めて感じて、涙は一瞬ドキリとした。
「このまま俺が妖怪にしてやろうか?」
「はぁ?」
夜刀神からの突然の提案に、涙は間の抜けた声を出した。
「お前はおそらく、そこそこの実力を持つ妖怪になれる。この俺が鍛えてやる。そして、最終的にはこの地の支配者を殺してこの土地を乗っとるんだ」
涙はしばらく夜刀神の考えを飲み込めていなかったが、ようやくその意味に気づいて震えた。
「支配者を殺すって、香妖様を? あの人多分相当に強いよ? 多分無理だよ?」
「香妖自体はそこまで強くはない。単純な力比べなら俺の方が強い。あいつの部下たちさえ抑えられれば、勝てない相手ではない」
夜刀神はナイフを持つ手に力を込めた。涙はそれを感じて体を強張らせた。
「さあ、選べ。妖怪となって俺に従うか、ここで俺に食べられるか」
なるほど。涙は理解した。この人に服従すれば、とりあえずあたしは生きていられる。ついでに妖怪にもなれる。この誘いを断れば、首に押し当てられたナイフがあたしの首をはねる。なるほどなるほど。なるほど、ね……。
なるほどじゃないよ! どうすればいいのよ! 涙は究極の選択を迫られ、頭がどうかしそうになった。言うことを聞いておけば、とりあえずは生きていられるがこいつのことだ。涙に兎たちの虐殺を命じるかもしれない。古篭火も殺させるかもしれない。どうする。どうするあたし? 涙は混乱する頭をなんとか働かせて、一つの答えをひねり出した。そっと夜刀神に言う。
「考える時間が欲しい」
「……無理だな。今決めろ。あと三分で決められなかったら、お前を食う」
「ええ? ちょっと、それはひどいって!」
真剣に考えた答えが一瞬ではねのけられて、涙は少しムカついた。しかも制限時間までつけられた。あと三分。あと三分であたしの運命が決まる。
(まだだ。まだ、時間はある。もっと考えろあたし!)
涙は目を閉じた。視界に余計なものが映ると、まともに考えられなくなるからだ。今、どれくらい時間がたっただろうか? あと何分? 何秒? タイムオーバー? 焦る気持ちを抑えて、必死で考える。いや、最初から答えは決まっていた。ただ、それを認めるのが嫌で、認めなくてすむ理由を探していたんだ。でも、もういい。もう迷わない。自分の答えを信じる。
涙はようやく目を開けた。視界に数匹の蛇とあいつの顔が入る。
「決まったようだな。あと三十秒ほどあるが、まだ考えるか?」
「いや、大丈夫。あたし……」
涙はなるべく声が震えないように、喉に力を込めた。
「あたし、妖怪になる。あんたに従う」
どうしても、生きたい。生き延びたい。死にたくない。これから自分がどうなるかだなんて、わからない。でも、生きていたい。
「いい判断だ」
そう言うと夜刀神はナイフを首から離し、両袖のナイフを抜いた。体に巻き付いていた蛇たちも涙から離れ、ようやく自由になった。
涙は腕を伸ばしたり曲げたりして、感覚を取り戻した。ずっと動かせなかったせいか、痺れている。
「じっとしてろ」
夜刀神は涙の額に手を伸ばした。
「えーと、何するの?」
「お前に俺の血を送り込む。そうすることで、お前は内側から妖怪・夜刀神に作り変えられる」
「え、待って? 夜刀神っていうのは妖怪の種族の名前で、あんたの名前は別にあるの?」
「いいから黙ってろ」
刹那、夜刀神の指が深紅に染まった。驚いていると、涙は額に痛みを感じた。その痛みが段々と強くなる。
「あの、痛いんだけど?」
「当然だ。今お前の細胞が作り変わってるんだよ」
「そうなんだ……て、痛い! 痛いって! 止めて! 耐えられない!」
「耐えろ」
「無理だって! もう限界! あたし倒れるね!」
「この……わがまま娘が……」
夜刀神はもう片方の手で涙を支えた。涙はその手に体重をかけ、息を整えた。そして、右手を懐に突っ込んだ。
「……?」
夜刀神は一瞬困惑した表情を見せた。涙はニヤリと笑い、右手を引き抜いて腕を振った。
「な……!」
夜刀神は顔に水のようなものがかかるのを感じ、あわてて目を閉じた。そして両腕を涙から離す。
涙は右手に竹筒を握りしめながら、左手で額を抑えて言った。
「それは鬼の鍛えたお酒。水分をお酒に変えるんだよ。しかもすごく強いんだって。目は守ったみたいだけど、幾らか口に入ったでしょ」
夜刀神は手で口をぬぐい、膝をついた。真っ赤な目が突き刺すような視線を涙に送る。
「両手を使えなくした時点で、あたしの勝ち。油断したね」
夜刀神は整った顔を悔しそうに歪めた。
「一応聞いときたいんだけど、あんたの本当の名前は何て言うの?」
「…………言う必要あるか?」
夜刀神は頭を押さえながら、苦しそうにうめいた。多分、酔いと戦っているのだろう。
「言えないの? まだお酒、残ってるんだけど」
「…………真露、だ」
「まつゆねぇ。まああたしの勝ちってことで……で……どうすればいいの?」
涙は困ってしまった。夜刀神・真露を倒したはいいが、この洞窟はどうやって出ればいいのだろうか? 涙が額を押さえながら考えていると、不意に夜刀神が右手を上げた。
(え?)
すると、周りで蠢いていた蛇たちが一斉に涙に飛びかかり、涙の体を縛り上げた。
「わわっ! 何するのよ!」
「詰めが甘い。俺がその程度の酒で動けなくなるわけないだろ」
そう言うと真露は立ち上がり、涙の前に立った。
(今度こそ……死ぬ!)
「お前の敗因は、相手の力量を見誤ったことだ。だが作戦自体は悪くはなかった。……よって、合格だ」
それを聞いた涙は、ポカンとした。
「は? ごうかく…………?」
「聞いていないのか? 香妖様に弟子入りするんじゃないのか?」
それでも涙は黙ったままでいると、夜刀神は考え込み始めた。
「待てよ? まさかお前、関係無い人間だとか言わないよな。まさか、まさか、な……おい待て。本当に人違いなのか? じゃあ俺はもう一度八岐大蛇を叩き起こして試験も初めからやり直しか? また太一たちに指示を出すのか? まさか……」
涙は思い出した。香妖は言っていたではないか。香妖の元で妖の修行を受けるには、試験に受かる必要があると。ということは、じゃあ…………!
「受かったー!!!」涙は突然叫んだ。額がまだ痛むことも、夜刀神が悩みに悩んでいることも忘れ、蛇を振り払って飛び上がって喜んだ。
「な、何だいきなり」夜刀神が呟いた瞬間、怒声が洞窟を揺るがした。
「夜刀神―!!!!!!」
洞窟を抜け出る際、真露は自分が香妖の部下の一人で、香妖に刃向かうつもりはないことを語った。そして、真露によって変えられた涙の細胞は、香妖の力で元に戻ることも知った。涙は疲れはてていたので、真露に寄りかかるようにして歩いた。
洞窟の中から出た涙と真露は、泥だらけで汚れていた。洞窟から出る際、真露は涙に念押しした。「人前では俺の名を呼ぶな。夜刀神と呼べ」「ええ? 何でさ?」「俺は自分が認めていない者には名前を知られたくないんだよ」「じゃああたしは認められたってこと?」「……多少は」洞窟は沢の水中にあり、沢を抜けた先の新鮮な森の空気が涙を癒してくれた。
しかし涙は憂鬱な気分だった。何故なら、香妖と古篭火がやってきて、夜刀神へのお説教がくどくどと始まったからだ。
「大体何で八岐大蛇なんて使ったんだい!」
「そうですよぉ! 涙ちゃんはまだそこらの人間とたいして変わらないんですよ!」
「その上に、死にたくなけりゃ自分に従えって、何どさくさ紛れに自分の手下を増やそうとしてるんだい!」
「でもその娘っ子はやって見せましたし、結果的に良かったんじゃないですか?」
「バカ言ってんじゃないよ! ほとんど落とすための試験じゃないか!」
「ホント何やってるんですか! バカですか? バカなのですか?」
「お前に試験を頼んだ私がバカだったよ!」
「ええ。俺も愚策だったと思います」
こんな感じに延々と続くのだ。長ったらしいといったらありゃしない。待っている側の気持ちにもなってほしい。
「さて、説教は明日に持ち越しにして、次の話をしようか」
「もう説教なしで良いじゃないですか」
「うるさいね夜刀神! さあ涙。どうする?」
「どうするって?」
「私の元で妖怪としての修行を受けるか、人間として生きるか。さあ、どっちにする?」
涙は思いを巡らせた。「それって、選べるの?」
「当然だよ」
「それ以外の選択肢は?」
「あるといえばある。夜刀神の弟子というのは…………」
「却下」
涙は真剣に考えた。ここまで真剣になったことは、洞窟以来だ。あの窮地を潜り抜けてきたあたし。そんなあたしは……。
「あたしは…………」
声を絞り出した。言い争いをしていた古篭火と夜刀神が動きを止める。
「あたしは答えを出す前に太一の様子を見に行った方が良いと思う」
至極真っ当な正論を言った瞬間、草を揺らす音がした。その方を見ると、背の高い草の間をすり抜けて駆けてくる太一の姿が見えた。
「涙―! おれなら大丈夫さ!」
満面の笑顔で登場した太一は、自慢げに続けた。「えへへっ! おれはね、ここにいる夜刀様の部下の一人なんだぜ!」
「そんなことよりも太一、他の兎たちはいいのか? まだ騒いで泣き叫んでたぞ?」夜刀神の鋭い指摘に、太一は顔を青くした。「え、本当? うわーまずい。まずいぞ」そして、懐をごそごそやって、白い布を涙に手渡した。
「はい、これ、合格祝い。広げてみて」
言われたとおり、涙は布を広げた。それは、兎の垂れ耳がついた白いフードだった。
「何これ」
「これはね、つけると一時的に兎になれるんだ。おれらみたいな、ね。すっごく速く走れるし、耳も良くなるから使ってみなよ。じゃあねっ!」
颯爽と走り去っていった太一の背に向け、香妖はボソリと呟いた。「あれがお前の部下かい、夜刀神。随分そそっかしいものだね」
「ええ。兎ですから」
涙は太一に手を振ると、妖怪たちを振り返って叫ぶように言った。
「決めた。やっぱりあたし、妖怪になる。こんな経験したままで元の生活になんて、戻れやしない」それに、妖怪って、なんだか素敵だしさ。心の中でそう付け加えると、香妖の袖を引っ張り、「おなか減って倒れそうだよ。早く帰ろう」と急かした。
「子供ってのはそそっかしいものだね。太一を抱える夜刀神の気持ちがわかるような気がするよ」呆れ気味な香妖も、ほんのちょっとだけ、笑っているように見えた。ほんのちょっとだけど。
「そうですねぇ、今からご飯を作るとなると結構かかりますし、香妖様も疲れてらっしゃいますでしょう?」古篭火が意味ありげに香妖を見た。
「そうだね。夜刀神。説教は勘弁してやろう。夕飯は全てお前に任せるよ」
「な、なんて横暴」
「ああ、夜刀神、あたしの合格祝いって事で、豪勢にしちゃっていいよ!」
「涙貴様…………お前まで俺の苦労を増やすつもりか…………!」
「じゃぁ、頑張ってくださいねー」
落胆する夜刀神を尻目に、女性陣三人は楽しげに歩き始めた。珍しく、森に太陽の仄紅い光が注いでいた。
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