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第31話 天の産声

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「おかしい。地図が誤っているのではないか!?」

 聖女の捕縛のために上陸した貴族が困惑したのは、激変した自然環境でした。

「なぜ草が生えているのだ!砂漠ではないのか!」

 川の中から地形を伺おうにも、人の背丈よりも高い葦のような植物が一面に繁茂して先を見通すことができません。
 現地で恨みをかったため、そもそも水先案内人を雇う必要があるとの忠告を受けることもできなかったため、座礁の怖れがあるため上陸地点を探すことも難しいのです。

「とにかく何とかしろ!」

 貴族の命令で上陸用の小舟を下ろし、鎌や鉈で舟の上から葦の河原を懸命に兵士達が切り開きながら上陸地点を探しますが、忌々しいことにその葦がもの凄く丈夫で切れにくいのです。

「おまけに、この虫だ!何とかしろ!」

 澱んだ水辺に一面の草原となると、大量に虫が発生するのは自然の摂理です。
 そうした虫達は水鳥の餌となり生態系を豊かにするものですが、小さな虫達にはまた別の生存戦略を持っているものをいます。

「くそっ!虫に刺された!」

「俺もだ!忌々しい!」

「虻か!?」

 小さな虫の中には、大きな動物から吸血を通して栄養を得ることで産卵期に備える者達もいます。吸血を性とする彼らからすれば、大きくて栄養が行き渡っているくせに皮膚が薄い動物が大勢で来ることなど、一生に一回の食べ放題の宴席です。
 それこそ、黒雲のようになって虫達が兵士達に襲いかかります。

「く、くそっ!引き返せ!」

「痒い!無理だ!戻れ!」

 王国の兵士達が持つ王国小銃も虫の大軍には全く効果がありません。
 兵士達は体中に虫さされのあとをつけて、這々の体で軍船へと引き返してきます。

「何だ貴様等!たかが虫に怯むとは王国兵士の名折れではないか!」

 貴族はなじりますが、顔中を虫に刺された跡だらけの兵士達の顔を見るのは気分が悪いので、珍しく一括しただけで兵士達を解放しました。

「全く・・・見ているだけで、こちらも痒くなりそうだ」

 この分では軍船で大きく遡上して短距離の行軍で神殿へたどり着く当初の行軍計画の実施は難しくなりそうでした。

「忌々しいが、いったん港町付近まで戻った上で上陸可能な地点を探し、そこから陸路を行かざるを得ないか。時間はかかることになるが・・・」

 と貴族は決断したのです。

 ◇  ◇  ◇  ◇

 陸路でも神殿への道は困難の連続でした。

 植生が変化していたのは川辺だけではありません。
 むしろ乾いた陸上の方こそ、大きく変化していたのです。

「獣道さえないとは・・・」

 最初の困難は道がないことでした。
 普通、人が住んでいる土地であれば人が通う跡が道になります。
 竜車が通れば轍が残ります。

 ですが、神殿への道は一面の背の高い草原となっており、そもそもの道が判別できなくなっていたのです。

「地図は当てになりませんが、天測と磁石で方角はわかります」

 さすが海を征した王国の兵士です。
 中には星の位置と磁石だけで自軍の位置を正確に計測できる技能を持った兵士もいます。

「よし。では問題なく道を開いていけるな」

「ご命令とあれば!」

 そして腰以上の高さに伸びた草といえども、100人以上の屈強な男達が先頭を交代でつとめれば切り開くことは難しくありません。
 水上とは異なり羽虫に悩まされることも少なく、兵士達は行軍速度こそ大幅に落ちたものの、まっすぐに神殿への道を開いて行ったのです。

 順調な行軍に問題が起きたのは、日が沈んでからでした。

「雨だと!?」

 あれほどに晴れていた空へ見る見るうちに雲がかかり、日が沈むと同時にさあさあと雨が降り始めたのです。

「ああ、ありがたい」

「暑さに火照った体に沁みる」

「水の補給ができる」

 昼間の行軍で暑さに参っていた兵士達は、にわかに降り出した雨に、水筒を掲げ、少しでも水を得ようと外套や帽子で受けようとする者までいました。

「恵みの雨だ」

 もう何ヶ月も雨が降らない王国から遠征してきた兵士達には、久しぶりの雨が天からの祝福にも思えたのです。

「しかし・・・この雨はいつまで降るんだ?」

「こんなに強く降らなくてもいいんだが・・・」

「まさか一晩中降り続くなんてことないよな!?」

 ですが、その感謝の言葉も一晩中雨が降り続いて兵士達の体をすっかり冷やしてしまう段になると、一変して呪いの罵詈雑言へとなったのです。

「寒い・・・」

「すっかり体が冷えちまった」

「雨で全く眠れやしねえ」

 なかでも症状が激しい者達がいました。
 先日の上陸作戦で水辺の虫に体中が刺された者達です。

 その兵士達の目が充血して赤くなり、息が腐ったように熱くなっていること、行軍する足がフラツいていること、便に血が混じっていることも、雨を呪う貴族も他の兵士達は知る由もなかったのです。

 ◇  ◇  ◇  ◇

 カチ・・・カチ・・・

 はじめ、歯車の動く音はあたしの聞き間違いかと思いました。
 それぐらいかすかな音だったのです。

 カチ・・・カチカチカチカチカチカチカチカチ

 しかし、それは瞬く間に押し寄せる波のように連続した音となり、

 ガチン!

 と一際大きな音がして、中央の大きな計算機の柱の歯車が一斉に回り始めたのです。

「中央階差機関 ガ 稼働 シマシタ」

 声に驚いて振り返れば、土地神様もあれほど滑らかに行っていた泥炭の作業を止めて中央の柱を見つめています。

「聖女様、土地神様のおっしゃっていることわかります?」

「わかりませんが、たぶん古代都市の機能に関係しているものでしょう。ほら、中央の柱がせり上あがっていきますよ」

「・・・すごい」

 何千何万、ひょっとしたら何億という数の歯車で構成された中央の柱が、その歯車を一斉に動作させながら、ぐんぐんと上へ上へと、まるでワイン絞り器のようにせり上がっていくのです。

「ぜんぜん柱が減りませんね」

 中央の柱が上へ上へとせり上がっていくのに、歯車の柱の根本は一向に回転する歯車のままです。まるで根本から永遠に歯車の柱がせり出しているかのようです。

「リリア、ひょっとすると、この神殿の地下空洞も全体の構造からするとほんの地上部分の一部なのかもしれませんね。ひょっとすると、この大きな空洞の何倍も大きな空洞が地下に埋まっていて、そこもまた歯車で埋め尽くされているのかもしれません」

 これだけ大きな空洞なのに、そのまた地下があるなんて!
 聖女様の言うことを疑うつもりはありませんが、庶民のあたしにはまるで想像もつかない話です。
 まるで神話の世界に間違って迷い込んでしまったような気分で上っていく柱を眺めていたのです。

「あの柱、どこまで上っていくんでしょう。神殿を突き抜けちゃいませんか?」

「そうですね。たぶんもう神殿よりも高く伸びているでしょう。あ、止まりましたね」

 空洞全体に響くカチカチという音は止まりませんが、中央の柱が伸びていくのは止まったように見えます。

「良かった。天国まで伸びたらどうしようかと思いました」

「それは難しいでしょう。天はずっとずっと高いですから」

 まるで天の高さを知っているようなことを聖女様はおっしゃるのです。

「それにしても、柱を高く伸ばしてどうするつもりなのでしょう?」

「わかりません。が、ひょっとすると、そもそも柱が高いことが古代都市にとっては当たり前のことだったのかもしれません。要するに狭い地下で縮こまっていたのが、背伸びしているのです」

「そんな例えでいいんでしょうか・・・」

 まるで古代都市を人間のように例える聖女様の感性にはときどきついて行けなくなります。

 そのとき、天頂方向からまるで天上の角笛のような甲高く力強い音が聞こえた気がしたのです。

「ほら、喜びの声をあげていますよ」

 聖女様は、なぜか悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべたのです。
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