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第一話 望まぬ還俗
揺れる蝋燭の灯りが、今が夜であることを示していた。
赤いカーペットの上を、静々と花嫁が歩く。
花嫁は夜闇を思わせる黒いヴェールに、顔を覆い隠されている。後ろに伸びる長髪は、同じく夜闇のように黒い。ドレスもまた同じように黒く、黒で統一されたその姿は花嫁衣裳というよりも、喪服に近かった。
ヴェールの合間から垣間見える鼻梁は高く、背筋は真っ直ぐに伸びている。一見たおやかそうな細身の花嫁は、その歩き姿だけで意志の強さを見る者に感じさせた。
花嫁の名はリュシアン・ドゥ・ファルギエール。ドゥ・ファルギエール家は、大公の位を戴く貴族の大家だ。
ここは教会ではない。ドゥ・ファルギエール邸の一室であった。リュシアンは、結婚式を執り行うにしては狭すぎる部屋を縦断していく。両脇に居並ぶ参列者はごく少数で、窓は厚いカーテンに覆われている。
外に漏れてはならない、秘密の結婚式だった。
リュシアンはわずかに顎を上げ、ヴェールの間から金色の瞳で前方を睨みつけた。
愛しい人への眼差しというよりは、まるで対戦相手を威嚇する剣闘士のような挑戦的な視線の先には、今宵契りを交わす相手がいる。
「エドゥアール……」
リュシアンは怨嗟のように、口の中で呟いた。
リュシアンと同じく漆黒の正装に身を包む花婿は、短い銀髪を上げた長身の美しい男だった。リュシアンの視線を、銀青色の瞳で受け止めている。
通称白銀殿下と呼ばれる彼は、この王国の王太子であった。
白銀の名に相応しい、眉目秀麗な見目。けれども見つめ返す視線はどこまでも冷たくて、指先が冷えていくようだった。口元は真一文字に引き結ばれており、口角は少しも上がる気配を見せない。冷酷な男だから白銀殿下などと呼ばれているに違いない、とリュシアンは感じた。
リュシアンはエドゥアールから視線を外すと、彼の隣に立った。
花婿と花嫁の前に立つのは、聖職者ではない。ドゥ・ファルギエール家の長でリュシアンの父である、ドゥ・ファルギエール大公その人であった。この契りは、聖職者にすら秘されている。
リュシアンの父は読み上げる――契約文を。
「エドゥアール=デューデジレ・ドゥ・ルーニエとリュシアン・ドゥ・ファルギエールは、契約結婚を締結する。リュシアン・ドゥ・ファルギエールは、エドゥアール=デューデジレ・ドゥ・ルーニエに対し、アルファの赤子を提供する。赤子の提供に際し……」
契約の期限や、守秘義務について等々、延々と読み上げられる。
白ではなく黒に彩られたこの結婚は、契約であった。
隠匿された結婚式から遡ること、一月前。
「さあみんな、今日のお昼ご飯だぞー」
「わーい!」
リュシアンは太陽のような開放的な笑顔を子供たちに向けながら、椀にスープを注いでいた。
十数人の子供たちに、パンとスープを渡していく。パンとスープを受け取った子供たちは、着席していく。
「こら、食前の祈りがまだだろ!」
一足先にパンに食らいつこうとした子供を、リュシアンは目ざとく叱った。その子は、悪戯っぽく舌を出してパンから手を離した。
「この聖ルルデ修道院付き孤児院のメンバーであるからには、食前の祈りを欠かすことは許さないぞ!」
リュシアンは快活な笑みを浮かべながらも、子供たちを窘めた。
「はーい」
子供たちは返事をしながら、両手を胸の前で組む。
リュシアンも着席すると、両手を組んで目を閉じた。
「神よ、感謝します。今日もパンとスープをわたしたちにお与えくださって、ありがとうございます。わたしたちが飢えないように、満たしてくださっていることに感謝します。食べ物を作ってくださった、農家の方々にも感謝します。また、こうして修道院にいられること、かわいい子供たちに出会えたことにも感謝します。この食事を食べる全ての子供たちの健康が守られることを、祈ります。主の御名において祈ります」
リュシアンは静かな声で、心からの祈りを口にした。
「祈ります」
子供たちが口々に復唱した。
「やったー、メシだー!」
お祈りが終わるなり、子供たちははしゃいでパンとスープに口をつけ始めた。リュシアンはその光景を微笑ましく思いながら、自分もまたパンを割ってスープに浸して食べた。
硬いパンは、スープに浸さなければ歯を立てるのも難しい。だがリュシアンは、そんな食事を何より美味しく感じていた。実家にいた頃は柔らかく甘いパンを食べられていたが、味など感じられなかった。
子供たちと共にする騒がしい食卓こそが、リュシアンにとっての幸福だった。
ふと、リュシアンは子供たちの中に浮かない顔をしている者がいることに気がついた。この孤児院に入れられたばかりの、新入りの子だ。
リュシアンは自分のパンとスープを載せたトレーを持つと立ち上がり、その子の側にトレーを置いて椅子に腰かけた。
「どうしたのかな?」
そっと声をかけた。
その子はパンを手にしたまま、ぐっと涙を堪えているように見えた。
「ぼく……オメガだから、捨てられたんだ」
ぽとりと、水滴がテーブルの上に落ちた。その子の言葉に、リュシアンはぎゅっと心臓が締め付けられるのを感じた。
「ぼくがオメガだってわかった途端、き、汚いからって……!」
堰を切ったように、ぼたぼたと涙が溢れ出してきた。
リュシアンは、泣いている子の背中に手を置き、そっと撫でた。
「残念だけど、この国ではオメガは差別されている」
リュシアンは口を開いた。
人間には第二の性がある。アルファ、ベータ、オメガ。そのうちオメガは、発情期が来るとフェロモンでアルファを誘うという特性から忌み嫌われていた。
だから、オメガだからと捨てられる子は少なくない。この聖ルルデ修道院に併設された孤児院に収容される子の中にも、そういう出自の子が何人かいた。
「オメガだとわかるなり、その人がどんな性格で、どんなことをしてきたかなんてことは無視されて、偏見の目を向けられる。オメガを、同じ人間だとは思っていないんだ」
己の心の古傷をなぞるように、語りかける。
「そんなこと、間違っているのにな」
「間違ってるの……?」
泣いていた子は、リュシアンを見上げた。
「そう、間違っているよ。オメガも人間だし、自分の意思を持っているんだ。オメガを差別する人々の言うことを、信じてはいけないよ」
リュシアンは、力強く笑った。
「実を言うとな、俺もオメガだから親にこの修道院に入れられたんだ」
オメガを毛嫌いしている父、ドゥ・ファルギエール大公はリュシアンを疎んで修道院送りにした。それによって、リュシアンは貴族としての地位も生活も失った。
「えっ?」
リュシアンが明かした過去に、子供は涙で潤んだ目を丸くさせた。
「でも俺は、この修道院に来られたことを感謝している」
リュシアンは孤児院の子供たちから学んだ「俺」という一人称を、好んで使っていた。「俺」と言うと、本当の自分でいられる気がした。
「だって修道院長はオメガへの偏見を持っていないし、ヒート抑制剤も用意してくれる。俺はここに来てから、人に愛されることと人を愛することを学んだんだ。君も、ここにいれば幸せになれるさ」
修道院に来てからの日々を思い返し、晴れ晴れとした笑みを浮かべた。
ヒート抑制剤があれば忌まわしいヒートが来ることもなく、貞淑と清貧を守って暮らせる。
貧しさなんて、少しも気にならない。豪華な食事や煌びやかな服飾品よりも、疎まれも蔑まれもしない日々の方がずっと大事だ。老いて死ぬまで、修道士としてずっとこの楽園で暮らすのだと、リュシアンは望んでいた。
「幸せになれるの……?」
「ああ、なれるさ!」
修道院で寝起きし、孤児院の子供たちの世話をする日々をずっと送れるのだと、信じて疑わなかった。
「そーいえばさ、お客さん来てたよ!」
手早く食事を終えた他の子が、話しかけてくる。
「お客さん?」
「うん、知らない人! 院長と話しに来たんだって!」
「へー、そうなんだ」
見知らぬ来客。子供たちから聞いたときには、気にも留めていなかった。その来客が、自分の運命を変えるのだとも知らずに。
昼食後、リュシアンは修道院長に呼ばれたので、彼の部屋へと向かった。
修道院長は、品のよい顔立ちをした痩身の好々爺だ。リュシアンの大好きな修道院長は、苦悶に顔を歪めていた。顔色を見ただけで、悪い報せがあるのだと予想できた。
だが報せの内容は、リュシアンの予想を軽々と超えてきた。
「落ち着いて聞いてほしいのですが……あなたは還俗することになりました」
「え……?」
還俗とは、修道院を出て貴族に戻ることだ。
言葉の意味はわかっても、どういうことだか理解できなかった。
父によって修道院に入れられたのだから、父の許可がなければ還俗することはできない。一体どうして今更、還俗などさせるのか。貴族界になど、戻りたくないのに。
「還俗した後は、さるアルファの御仁と結婚することになるそうです」
修道院長は、悔しそうに俯いた。
結婚するのだと聞いた途端、父の道具扱いされているのだと悟った。事情はわからないが、自分が結婚することによって父の得になることがあるのだろう。
修道院に入れて、自由になれたと思っていたのに。仮初の自由だったのだ。築いてきた自尊心が、崩れていく。
しょせん自分は父の道具でしかないのだ。
「あなたが……オメガが自由に生きられる日が来ればいいのですが……」
修道院長の痛切に歪んだ表情が、滲んでおぼろげになっていった……。
リュシアンに与えられた時間は、荷物をまとめるためのたった数日間だけだった。
出発の日は、雪が降っていた。晩冬らしいおぼろげな雪の欠片が、ちらちらと灰色の空から舞い落ちてきていた。
孤児院の子供たちには、結婚のために修道院を出ることになったと伝えた。子供たちは、口々におめでとうとか、幸せになってねと言ってくれた。
ただ新入りのあの子だけが、浮かない顔をしていた。
あの子はおずおずとリュシアンに近寄ると、見上げて呟いた。
「修道院にいたら、幸せになれるって言っていたのに……」
どうやら自分が言ったことを、しっかりと覚えていてくれたらしい。修道院を出たら、不幸になってしまうのではないかと心配してくれているのだ。
正直、リュシアンも同じ恐怖を抱えていた。だがそんなことはおくびにも出さずに、にっと力強く笑った。
「大丈夫、俺はどこでだって幸せになれるさ」
そうだ、幸せにならなければならないのだ。笑いかけながら、気がついた。
今では自分が愛される資格があって、自分がアルファやベータと同じ人間であると知っている。修道院で過ごした記憶を無駄にしないためにも、幸せにならなければならない。
リュシアンは固く心に決めた。
「リュシアン」
修道院長が進み出てきて、声をかけてくる。
「これをあなたに贈ります」
修道院長は、掌に収まるほどのとても小さな革袋を差し出した。革袋には、首からかけられる長さの紐がついている。
「これは……?」
革袋を受け取ると、硬い感触を感じた。革袋を開けて中を開けてみると、極小の硝子瓶が入っていた。硝子瓶の中には、いくつかの丸薬が入っている。
「抑制剤です。取り上げられぬよう、隠し持っていなさい」
修道院長が囁いた。
抑制剤はヒートをコントロールする、オメガにとって命の次に大切なものだ。父に見つかれば、取り上げられる可能性はある。
「院長……! ありがとうございます!」
リュシアンは涙ぐみながら、革袋を首から提げて服の下に隠した。この礼は、決して忘れない。
赤いカーペットの上を、静々と花嫁が歩く。
花嫁は夜闇を思わせる黒いヴェールに、顔を覆い隠されている。後ろに伸びる長髪は、同じく夜闇のように黒い。ドレスもまた同じように黒く、黒で統一されたその姿は花嫁衣裳というよりも、喪服に近かった。
ヴェールの合間から垣間見える鼻梁は高く、背筋は真っ直ぐに伸びている。一見たおやかそうな細身の花嫁は、その歩き姿だけで意志の強さを見る者に感じさせた。
花嫁の名はリュシアン・ドゥ・ファルギエール。ドゥ・ファルギエール家は、大公の位を戴く貴族の大家だ。
ここは教会ではない。ドゥ・ファルギエール邸の一室であった。リュシアンは、結婚式を執り行うにしては狭すぎる部屋を縦断していく。両脇に居並ぶ参列者はごく少数で、窓は厚いカーテンに覆われている。
外に漏れてはならない、秘密の結婚式だった。
リュシアンはわずかに顎を上げ、ヴェールの間から金色の瞳で前方を睨みつけた。
愛しい人への眼差しというよりは、まるで対戦相手を威嚇する剣闘士のような挑戦的な視線の先には、今宵契りを交わす相手がいる。
「エドゥアール……」
リュシアンは怨嗟のように、口の中で呟いた。
リュシアンと同じく漆黒の正装に身を包む花婿は、短い銀髪を上げた長身の美しい男だった。リュシアンの視線を、銀青色の瞳で受け止めている。
通称白銀殿下と呼ばれる彼は、この王国の王太子であった。
白銀の名に相応しい、眉目秀麗な見目。けれども見つめ返す視線はどこまでも冷たくて、指先が冷えていくようだった。口元は真一文字に引き結ばれており、口角は少しも上がる気配を見せない。冷酷な男だから白銀殿下などと呼ばれているに違いない、とリュシアンは感じた。
リュシアンはエドゥアールから視線を外すと、彼の隣に立った。
花婿と花嫁の前に立つのは、聖職者ではない。ドゥ・ファルギエール家の長でリュシアンの父である、ドゥ・ファルギエール大公その人であった。この契りは、聖職者にすら秘されている。
リュシアンの父は読み上げる――契約文を。
「エドゥアール=デューデジレ・ドゥ・ルーニエとリュシアン・ドゥ・ファルギエールは、契約結婚を締結する。リュシアン・ドゥ・ファルギエールは、エドゥアール=デューデジレ・ドゥ・ルーニエに対し、アルファの赤子を提供する。赤子の提供に際し……」
契約の期限や、守秘義務について等々、延々と読み上げられる。
白ではなく黒に彩られたこの結婚は、契約であった。
隠匿された結婚式から遡ること、一月前。
「さあみんな、今日のお昼ご飯だぞー」
「わーい!」
リュシアンは太陽のような開放的な笑顔を子供たちに向けながら、椀にスープを注いでいた。
十数人の子供たちに、パンとスープを渡していく。パンとスープを受け取った子供たちは、着席していく。
「こら、食前の祈りがまだだろ!」
一足先にパンに食らいつこうとした子供を、リュシアンは目ざとく叱った。その子は、悪戯っぽく舌を出してパンから手を離した。
「この聖ルルデ修道院付き孤児院のメンバーであるからには、食前の祈りを欠かすことは許さないぞ!」
リュシアンは快活な笑みを浮かべながらも、子供たちを窘めた。
「はーい」
子供たちは返事をしながら、両手を胸の前で組む。
リュシアンも着席すると、両手を組んで目を閉じた。
「神よ、感謝します。今日もパンとスープをわたしたちにお与えくださって、ありがとうございます。わたしたちが飢えないように、満たしてくださっていることに感謝します。食べ物を作ってくださった、農家の方々にも感謝します。また、こうして修道院にいられること、かわいい子供たちに出会えたことにも感謝します。この食事を食べる全ての子供たちの健康が守られることを、祈ります。主の御名において祈ります」
リュシアンは静かな声で、心からの祈りを口にした。
「祈ります」
子供たちが口々に復唱した。
「やったー、メシだー!」
お祈りが終わるなり、子供たちははしゃいでパンとスープに口をつけ始めた。リュシアンはその光景を微笑ましく思いながら、自分もまたパンを割ってスープに浸して食べた。
硬いパンは、スープに浸さなければ歯を立てるのも難しい。だがリュシアンは、そんな食事を何より美味しく感じていた。実家にいた頃は柔らかく甘いパンを食べられていたが、味など感じられなかった。
子供たちと共にする騒がしい食卓こそが、リュシアンにとっての幸福だった。
ふと、リュシアンは子供たちの中に浮かない顔をしている者がいることに気がついた。この孤児院に入れられたばかりの、新入りの子だ。
リュシアンは自分のパンとスープを載せたトレーを持つと立ち上がり、その子の側にトレーを置いて椅子に腰かけた。
「どうしたのかな?」
そっと声をかけた。
その子はパンを手にしたまま、ぐっと涙を堪えているように見えた。
「ぼく……オメガだから、捨てられたんだ」
ぽとりと、水滴がテーブルの上に落ちた。その子の言葉に、リュシアンはぎゅっと心臓が締め付けられるのを感じた。
「ぼくがオメガだってわかった途端、き、汚いからって……!」
堰を切ったように、ぼたぼたと涙が溢れ出してきた。
リュシアンは、泣いている子の背中に手を置き、そっと撫でた。
「残念だけど、この国ではオメガは差別されている」
リュシアンは口を開いた。
人間には第二の性がある。アルファ、ベータ、オメガ。そのうちオメガは、発情期が来るとフェロモンでアルファを誘うという特性から忌み嫌われていた。
だから、オメガだからと捨てられる子は少なくない。この聖ルルデ修道院に併設された孤児院に収容される子の中にも、そういう出自の子が何人かいた。
「オメガだとわかるなり、その人がどんな性格で、どんなことをしてきたかなんてことは無視されて、偏見の目を向けられる。オメガを、同じ人間だとは思っていないんだ」
己の心の古傷をなぞるように、語りかける。
「そんなこと、間違っているのにな」
「間違ってるの……?」
泣いていた子は、リュシアンを見上げた。
「そう、間違っているよ。オメガも人間だし、自分の意思を持っているんだ。オメガを差別する人々の言うことを、信じてはいけないよ」
リュシアンは、力強く笑った。
「実を言うとな、俺もオメガだから親にこの修道院に入れられたんだ」
オメガを毛嫌いしている父、ドゥ・ファルギエール大公はリュシアンを疎んで修道院送りにした。それによって、リュシアンは貴族としての地位も生活も失った。
「えっ?」
リュシアンが明かした過去に、子供は涙で潤んだ目を丸くさせた。
「でも俺は、この修道院に来られたことを感謝している」
リュシアンは孤児院の子供たちから学んだ「俺」という一人称を、好んで使っていた。「俺」と言うと、本当の自分でいられる気がした。
「だって修道院長はオメガへの偏見を持っていないし、ヒート抑制剤も用意してくれる。俺はここに来てから、人に愛されることと人を愛することを学んだんだ。君も、ここにいれば幸せになれるさ」
修道院に来てからの日々を思い返し、晴れ晴れとした笑みを浮かべた。
ヒート抑制剤があれば忌まわしいヒートが来ることもなく、貞淑と清貧を守って暮らせる。
貧しさなんて、少しも気にならない。豪華な食事や煌びやかな服飾品よりも、疎まれも蔑まれもしない日々の方がずっと大事だ。老いて死ぬまで、修道士としてずっとこの楽園で暮らすのだと、リュシアンは望んでいた。
「幸せになれるの……?」
「ああ、なれるさ!」
修道院で寝起きし、孤児院の子供たちの世話をする日々をずっと送れるのだと、信じて疑わなかった。
「そーいえばさ、お客さん来てたよ!」
手早く食事を終えた他の子が、話しかけてくる。
「お客さん?」
「うん、知らない人! 院長と話しに来たんだって!」
「へー、そうなんだ」
見知らぬ来客。子供たちから聞いたときには、気にも留めていなかった。その来客が、自分の運命を変えるのだとも知らずに。
昼食後、リュシアンは修道院長に呼ばれたので、彼の部屋へと向かった。
修道院長は、品のよい顔立ちをした痩身の好々爺だ。リュシアンの大好きな修道院長は、苦悶に顔を歪めていた。顔色を見ただけで、悪い報せがあるのだと予想できた。
だが報せの内容は、リュシアンの予想を軽々と超えてきた。
「落ち着いて聞いてほしいのですが……あなたは還俗することになりました」
「え……?」
還俗とは、修道院を出て貴族に戻ることだ。
言葉の意味はわかっても、どういうことだか理解できなかった。
父によって修道院に入れられたのだから、父の許可がなければ還俗することはできない。一体どうして今更、還俗などさせるのか。貴族界になど、戻りたくないのに。
「還俗した後は、さるアルファの御仁と結婚することになるそうです」
修道院長は、悔しそうに俯いた。
結婚するのだと聞いた途端、父の道具扱いされているのだと悟った。事情はわからないが、自分が結婚することによって父の得になることがあるのだろう。
修道院に入れて、自由になれたと思っていたのに。仮初の自由だったのだ。築いてきた自尊心が、崩れていく。
しょせん自分は父の道具でしかないのだ。
「あなたが……オメガが自由に生きられる日が来ればいいのですが……」
修道院長の痛切に歪んだ表情が、滲んでおぼろげになっていった……。
リュシアンに与えられた時間は、荷物をまとめるためのたった数日間だけだった。
出発の日は、雪が降っていた。晩冬らしいおぼろげな雪の欠片が、ちらちらと灰色の空から舞い落ちてきていた。
孤児院の子供たちには、結婚のために修道院を出ることになったと伝えた。子供たちは、口々におめでとうとか、幸せになってねと言ってくれた。
ただ新入りのあの子だけが、浮かない顔をしていた。
あの子はおずおずとリュシアンに近寄ると、見上げて呟いた。
「修道院にいたら、幸せになれるって言っていたのに……」
どうやら自分が言ったことを、しっかりと覚えていてくれたらしい。修道院を出たら、不幸になってしまうのではないかと心配してくれているのだ。
正直、リュシアンも同じ恐怖を抱えていた。だがそんなことはおくびにも出さずに、にっと力強く笑った。
「大丈夫、俺はどこでだって幸せになれるさ」
そうだ、幸せにならなければならないのだ。笑いかけながら、気がついた。
今では自分が愛される資格があって、自分がアルファやベータと同じ人間であると知っている。修道院で過ごした記憶を無駄にしないためにも、幸せにならなければならない。
リュシアンは固く心に決めた。
「リュシアン」
修道院長が進み出てきて、声をかけてくる。
「これをあなたに贈ります」
修道院長は、掌に収まるほどのとても小さな革袋を差し出した。革袋には、首からかけられる長さの紐がついている。
「これは……?」
革袋を受け取ると、硬い感触を感じた。革袋を開けて中を開けてみると、極小の硝子瓶が入っていた。硝子瓶の中には、いくつかの丸薬が入っている。
「抑制剤です。取り上げられぬよう、隠し持っていなさい」
修道院長が囁いた。
抑制剤はヒートをコントロールする、オメガにとって命の次に大切なものだ。父に見つかれば、取り上げられる可能性はある。
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誰にも愛されなかった男が、異世界で「本当の自分」を知り、運命の番と出会う——
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