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第八話 ケーキの味
開かない窓から見える景色は、すっかり春のものになっていた。黒く汚い残雪は陽の光によって自然に融け、中庭に植わっていた木は、咲いた紫色の花によってライラックであったことが判明した。
「すみません、今まで隠していたんですが……俺は抑制剤を持ってきているんです」
朝食を取った後、リュシアンは侍女たち全員に打ち明けた。抑制剤の入った小瓶を見せ、告白した。
エドゥアールに対して「俺」という一人称を使ってしまっているのに、侍女たちに畏まるのも今更だと思えたので、「わたし」を使うのはやめることにした。
「それは、殿下はご存知なのですか?」
「はい、知っています」
エマの問いに答える。
「これからは、食後に抑制剤を摂ろうと思います。皆さんに余計な心配をかけたくないので、正直にお伝えすることにしました」
「殿下からの許可が出ているのであれば、わたくしどもから言うことは特に何もございません。では、お薬を飲むためのお水をお持ちしましょう」
侍女たちが散っていく中、シャルロットだけがもじもじとその場に留まっていた。
目が合い、意を決したように彼女は口を開く。
「あの……お薬のこと、勝手に殿下に話してしまって申し訳ありません!」
頭を下げながらの謝罪に、リュシアンは目を丸くした。
「わたくし、リュシアン様のことが心配で心配で……自分が罰を受けてもいいと思って、殿下にお話ししたのです! だからあの、どうか遠慮なくわたくしに罰をくれてやってください!」
傍目からわかるほど、シャルロットは震えていた。そんな覚悟で、自分のために動いてくれていたなんて。
「顔を上げてください、シャルロットさん。俺があなたを罰したりなんか、するはずがありません。むしろ俺の方こそ、嘘をついてしまって申し訳なく思っているんです。おあいこですね」
「リュシアン様、なんて寛大な……!」
シャルロットは、感動に目を潤ませていた。
それから、爆弾発言をした。
「リュシアン様の優しさに報いるためにも、殿下とリュシアン様の仲を全力で応援させていただきますね!」
「はい?」
思わず聞き返してしまった。
「先触れもなしにいきなり離宮を訪れたりして嫌な人、とわたくし失礼ながら殿下に対して思ってしまっていたのです。リュシアン様が病なのではないかと相談したときも、実は駄目元でした」
シャルロットが正直に告白する。
「けれども、相談の後殿下はすぐに動いてくださったのです! きちんとご病気でないかどうかリュシアン様に確認してくださって、それをわたくしに伝えてくださったのです。きっと殿下も、リュシアン様のことがご心配だったのですよ! 思えば抜き打ちだのなんだのというのも、リュシアン様に会いに来たくなってしまった照れ隠しだったのかもしれませんね」
目を輝かせるシャルロットは、妄想を逞しくさせていた。エドゥアールが本当は誘発剤の存在を疑っていたのだと知ったら、どんなにがっかりするだろうか。
シャルロットは、なおも驚くようなことを言い募る。
「それにリュシアン様も、殿下のことを少なからず想っていらっしゃるのでしょう?」
「なぜそう思うんです?」
は? と言いたくなるのを堪えて、なんとか普通に返事した。
「だって昨晩、裁縫道具を持ってくるよう頼まれたではないですか! 想い人の身につけるものに刺繍をするのは、すべての女性とオメガの夢でしょう!」
勝手に変な夢を押しつけられても困る、とリュシアンは眉根に皺を寄せた。
想い人の装飾品には刺繍を施すもの、なんて習わしがあるとは初耳だ。エドゥアールが妙な勘違いをしていないといいのだがと考えてから、昨晩の彼には意識している素振りがなかったことを思い出して、胸を撫で下ろす。彼はむしろリュシアンがわざわざボタン付けをすることを、意外に思っていたのだ。
「殿下のボタンが外れかけていたので、つけ直してさしあげただけですよ」
「うふふ、そういうことにしてさしあげましょう」
シャルロットは、悪戯っぽく笑って去っていった。
やれやれ、シャルロットは恋愛ものの芝居を観すぎているようだ。
自分とエドゥアールは、そんな関係ではない。エドゥアールは、自分がドゥ・ファルギエール家の人間であることが気に食わないようだし。
自分が父の実の子であると認めた瞬間の残念そうな彼の顔を思い出し、ちくりと胸が痛むのを感じた。
毎日ケーキを焼くのは、流石に贅沢に過ぎる。だから、バターケーキを焼くのは二、三日に一回と決めた。
ケーキを焼いた日には、焼き立てのケーキを楽しむ。食べなかったケーキは氷室に保管しておいて、翌日に冷えてしっとりとしたケーキを楽しむのだ。
今日はケーキがなくなったので、ケーキを焼く日だった。
「リュシアン様、もちろん殿下にもケーキを差し上げますよね?」
オーブンの前でわくわくとケーキが焼き上がるのを、待っていたときだった。シャルロットが目を輝かせて尋ねてきた。
「え? ええと……一切れくらいは、まあ」
きらきらと眩しい目の輝きを前に、まさか「あげない」とは言えず、曖昧に頷く。
「ならば今晩は夫婦の間に直行する前に、お茶会になさるのですね? 睡眠を妨げないお茶を用意しておきませんとね」
エマが素早く同意し、あれよあれよという間にエドゥアールとお茶会をすることになってしまったのだった。
夜、夫婦の間ではなく貴人の間に通されたエドゥアールは戸惑っていた。さもありなん。
ティーテーブルについたエドゥアールとリュシアンの前に、お茶とケーキが給仕される。
「リュシアン様がお作りになられたケーキでございます」
給仕の際にシャルロットが余計なことを言い添えて、部屋を出て行った。
「君が作ったケーキなのか。なぜ突然?」
エドゥアールに問われ、耳が熱くなる。これでは、彼の気を引きたいみたいではないか。
「別に。作ったから、分けてやってもいいと思っただけだよ」
リュシアンは、ぷいとそっぽを向いた。
「そうか……」
彼はフォークを手にすると、フォークでケーキの一部を一口分に切り分けた。それを刺すと口に運……ばずに目の高さまで掲げて、ケーキをじっと観察している。
表情だけで、警戒しているのだとわかった。
リュシアンは胸が痛むのを感じた。
「俺が大公の息子じゃなくて赤の他人だったら、食べてくれていたか?」
思わず胸の痛みがそのまま表に出た、悲しい笑みを浮かべてしまっていた。
彼がぽかんと口を開ける。
二人の間に、沈黙が落ちる。
妙な空気になってしまった。誤魔化そうと、無理やりに明るい声を出したその時だった。
「なーんてな、俺が先に毒見をするから……」
「いや、毒見は不要だ」
ぱくりと、彼がケーキを口に含んだ。そのままゆっくりと味わう。
そしてふっと顔を綻ばせた。
「……美味しいな」
なぜだか顔が熱い。無性に泣きたい気分だ。
彼は信じてくれたのだ。
「私は、何を怯えていたのだろうな。こんなに優しい味なのに」
エドゥアールはふっと自嘲の笑みを浮かべた。
「そ、そうか」
優しい味だなんて、ただのバターケーキなのに。王太子なのだから、これより豪華なケーキなんていくらでも食べているだろう。
照れから、視線を逸らした。
「私の目は曇っていたようだ」
彼はフォークを置くと、まっすぐにリュシアンを見据えた。
「ドゥ・ファルギエール大公の悪辣さは、王家でも有名なのだ。彼の周りには、常に黒い噂が付きまとっている。明らかにいくつかの陰謀の黒幕なのだが、証拠を掴めず好きにさせてしまっている」
彼は語り出した。
「君が私の契約婚の相手に決まったときも、大公が何か企んでいるに違いないと思ったのだ。君は企みのために送り込まれてきたのだと……」
説明を受けて、理解した。彼が敵意を向けてきたのは、父の手先だと思ったからだったのだ。
話によれば、父はいろいろとあくどいことをしてきたようだ。疑われても仕方がないだろう。
「ケーキ一つで、疑いが晴れたっていうのか?」
ケーキを食べてくれて嬉しいのに、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「そうではない。『赤の他人なのではないか?』と尋ねたときには、心の奥底では君が何かを企むような人ではないとわかっていたのだ。けれども、信じる勇気が出なかった」
それから、彼は頭を下げた。
「申し訳なかった。私は君に、いろいろと酷いことを言ってしまった」
「な、王太子が簡単に何度も頭を下げるんじゃない! それもオメガに!」
これで頭を下げてくるのは、二度目だ。調子が狂う。
顔を上げたエドゥアールは、真剣そのものの表情で言った。
「相手がオメガかどうかなど、一切関係がない。オメガ相手であれば、頭を下げなくていいなどということはない」
オメガに対しての差別意識があったわけではないのだ。彼は、自分がオメガだからと偏見の目で見ていたわけではなかった。
鼻の頭がつんと痛くなって、目の前が潤んでいく。堪えようと思ったのに、意志に反して涙の粒が勝手に零れ落ちた。
「リュシアン? すまない、私の言葉が何か気に障ってしまっただろうか?」
「ち、違う……そうじゃなくて、今まで、オメガだから疎まれているんだと、思っていたから……」
落ちてくる涙の粒の数に比例するように、呼吸が乱れていく。突如として還俗させられて、契約婚させられて、契約婚した相手が辛辣で。自分で思っていた以上に、現状に傷ついていたようだ。
今まで感じていた苦しみを全て身体の外に排出するかのように、止め処もなく涙が溢れた。
「リュシアン……」
ガタリと音を立てて、彼が立ち上がった。
「私は君をそこまで苦しめてしまっていたのだな」
すぐ傍まで来た彼が、そっと手を伸ばす。彼の指が優しく涙を拭った。
「申し訳ない。悔やんでも悔やみ切れない。過去に戻って自分の発言を取り消せるならば、取り消したいくらいだ。オメガだから君のことが疎ましいだなんて、そんなことは決してない。ただ、私が臆病だっただけなのだ」
彼は懐からハンカチを取り出すと、涙を拭きとり始めた。拭き取られる端から、次から次へと涙が溢れ出ていく。
まるで子供になってしまったような気分だ。孤児院の子供が泣いたとき、こんな風に涙を拭ってあげたのを思い出す。
「べ、別に安心したから涙が出てきただけで……辛かったわけじゃない」
涙声で強がった。
「わかった。せめて泣き止むまで、傍にいさせてくれ」
彼の手が、リュシアンの背中を軽くさする。
優しい手の感触を感じながら、涙が枯れるまで泣き続けた。
「すみません、今まで隠していたんですが……俺は抑制剤を持ってきているんです」
朝食を取った後、リュシアンは侍女たち全員に打ち明けた。抑制剤の入った小瓶を見せ、告白した。
エドゥアールに対して「俺」という一人称を使ってしまっているのに、侍女たちに畏まるのも今更だと思えたので、「わたし」を使うのはやめることにした。
「それは、殿下はご存知なのですか?」
「はい、知っています」
エマの問いに答える。
「これからは、食後に抑制剤を摂ろうと思います。皆さんに余計な心配をかけたくないので、正直にお伝えすることにしました」
「殿下からの許可が出ているのであれば、わたくしどもから言うことは特に何もございません。では、お薬を飲むためのお水をお持ちしましょう」
侍女たちが散っていく中、シャルロットだけがもじもじとその場に留まっていた。
目が合い、意を決したように彼女は口を開く。
「あの……お薬のこと、勝手に殿下に話してしまって申し訳ありません!」
頭を下げながらの謝罪に、リュシアンは目を丸くした。
「わたくし、リュシアン様のことが心配で心配で……自分が罰を受けてもいいと思って、殿下にお話ししたのです! だからあの、どうか遠慮なくわたくしに罰をくれてやってください!」
傍目からわかるほど、シャルロットは震えていた。そんな覚悟で、自分のために動いてくれていたなんて。
「顔を上げてください、シャルロットさん。俺があなたを罰したりなんか、するはずがありません。むしろ俺の方こそ、嘘をついてしまって申し訳なく思っているんです。おあいこですね」
「リュシアン様、なんて寛大な……!」
シャルロットは、感動に目を潤ませていた。
それから、爆弾発言をした。
「リュシアン様の優しさに報いるためにも、殿下とリュシアン様の仲を全力で応援させていただきますね!」
「はい?」
思わず聞き返してしまった。
「先触れもなしにいきなり離宮を訪れたりして嫌な人、とわたくし失礼ながら殿下に対して思ってしまっていたのです。リュシアン様が病なのではないかと相談したときも、実は駄目元でした」
シャルロットが正直に告白する。
「けれども、相談の後殿下はすぐに動いてくださったのです! きちんとご病気でないかどうかリュシアン様に確認してくださって、それをわたくしに伝えてくださったのです。きっと殿下も、リュシアン様のことがご心配だったのですよ! 思えば抜き打ちだのなんだのというのも、リュシアン様に会いに来たくなってしまった照れ隠しだったのかもしれませんね」
目を輝かせるシャルロットは、妄想を逞しくさせていた。エドゥアールが本当は誘発剤の存在を疑っていたのだと知ったら、どんなにがっかりするだろうか。
シャルロットは、なおも驚くようなことを言い募る。
「それにリュシアン様も、殿下のことを少なからず想っていらっしゃるのでしょう?」
「なぜそう思うんです?」
は? と言いたくなるのを堪えて、なんとか普通に返事した。
「だって昨晩、裁縫道具を持ってくるよう頼まれたではないですか! 想い人の身につけるものに刺繍をするのは、すべての女性とオメガの夢でしょう!」
勝手に変な夢を押しつけられても困る、とリュシアンは眉根に皺を寄せた。
想い人の装飾品には刺繍を施すもの、なんて習わしがあるとは初耳だ。エドゥアールが妙な勘違いをしていないといいのだがと考えてから、昨晩の彼には意識している素振りがなかったことを思い出して、胸を撫で下ろす。彼はむしろリュシアンがわざわざボタン付けをすることを、意外に思っていたのだ。
「殿下のボタンが外れかけていたので、つけ直してさしあげただけですよ」
「うふふ、そういうことにしてさしあげましょう」
シャルロットは、悪戯っぽく笑って去っていった。
やれやれ、シャルロットは恋愛ものの芝居を観すぎているようだ。
自分とエドゥアールは、そんな関係ではない。エドゥアールは、自分がドゥ・ファルギエール家の人間であることが気に食わないようだし。
自分が父の実の子であると認めた瞬間の残念そうな彼の顔を思い出し、ちくりと胸が痛むのを感じた。
毎日ケーキを焼くのは、流石に贅沢に過ぎる。だから、バターケーキを焼くのは二、三日に一回と決めた。
ケーキを焼いた日には、焼き立てのケーキを楽しむ。食べなかったケーキは氷室に保管しておいて、翌日に冷えてしっとりとしたケーキを楽しむのだ。
今日はケーキがなくなったので、ケーキを焼く日だった。
「リュシアン様、もちろん殿下にもケーキを差し上げますよね?」
オーブンの前でわくわくとケーキが焼き上がるのを、待っていたときだった。シャルロットが目を輝かせて尋ねてきた。
「え? ええと……一切れくらいは、まあ」
きらきらと眩しい目の輝きを前に、まさか「あげない」とは言えず、曖昧に頷く。
「ならば今晩は夫婦の間に直行する前に、お茶会になさるのですね? 睡眠を妨げないお茶を用意しておきませんとね」
エマが素早く同意し、あれよあれよという間にエドゥアールとお茶会をすることになってしまったのだった。
夜、夫婦の間ではなく貴人の間に通されたエドゥアールは戸惑っていた。さもありなん。
ティーテーブルについたエドゥアールとリュシアンの前に、お茶とケーキが給仕される。
「リュシアン様がお作りになられたケーキでございます」
給仕の際にシャルロットが余計なことを言い添えて、部屋を出て行った。
「君が作ったケーキなのか。なぜ突然?」
エドゥアールに問われ、耳が熱くなる。これでは、彼の気を引きたいみたいではないか。
「別に。作ったから、分けてやってもいいと思っただけだよ」
リュシアンは、ぷいとそっぽを向いた。
「そうか……」
彼はフォークを手にすると、フォークでケーキの一部を一口分に切り分けた。それを刺すと口に運……ばずに目の高さまで掲げて、ケーキをじっと観察している。
表情だけで、警戒しているのだとわかった。
リュシアンは胸が痛むのを感じた。
「俺が大公の息子じゃなくて赤の他人だったら、食べてくれていたか?」
思わず胸の痛みがそのまま表に出た、悲しい笑みを浮かべてしまっていた。
彼がぽかんと口を開ける。
二人の間に、沈黙が落ちる。
妙な空気になってしまった。誤魔化そうと、無理やりに明るい声を出したその時だった。
「なーんてな、俺が先に毒見をするから……」
「いや、毒見は不要だ」
ぱくりと、彼がケーキを口に含んだ。そのままゆっくりと味わう。
そしてふっと顔を綻ばせた。
「……美味しいな」
なぜだか顔が熱い。無性に泣きたい気分だ。
彼は信じてくれたのだ。
「私は、何を怯えていたのだろうな。こんなに優しい味なのに」
エドゥアールはふっと自嘲の笑みを浮かべた。
「そ、そうか」
優しい味だなんて、ただのバターケーキなのに。王太子なのだから、これより豪華なケーキなんていくらでも食べているだろう。
照れから、視線を逸らした。
「私の目は曇っていたようだ」
彼はフォークを置くと、まっすぐにリュシアンを見据えた。
「ドゥ・ファルギエール大公の悪辣さは、王家でも有名なのだ。彼の周りには、常に黒い噂が付きまとっている。明らかにいくつかの陰謀の黒幕なのだが、証拠を掴めず好きにさせてしまっている」
彼は語り出した。
「君が私の契約婚の相手に決まったときも、大公が何か企んでいるに違いないと思ったのだ。君は企みのために送り込まれてきたのだと……」
説明を受けて、理解した。彼が敵意を向けてきたのは、父の手先だと思ったからだったのだ。
話によれば、父はいろいろとあくどいことをしてきたようだ。疑われても仕方がないだろう。
「ケーキ一つで、疑いが晴れたっていうのか?」
ケーキを食べてくれて嬉しいのに、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「そうではない。『赤の他人なのではないか?』と尋ねたときには、心の奥底では君が何かを企むような人ではないとわかっていたのだ。けれども、信じる勇気が出なかった」
それから、彼は頭を下げた。
「申し訳なかった。私は君に、いろいろと酷いことを言ってしまった」
「な、王太子が簡単に何度も頭を下げるんじゃない! それもオメガに!」
これで頭を下げてくるのは、二度目だ。調子が狂う。
顔を上げたエドゥアールは、真剣そのものの表情で言った。
「相手がオメガかどうかなど、一切関係がない。オメガ相手であれば、頭を下げなくていいなどということはない」
オメガに対しての差別意識があったわけではないのだ。彼は、自分がオメガだからと偏見の目で見ていたわけではなかった。
鼻の頭がつんと痛くなって、目の前が潤んでいく。堪えようと思ったのに、意志に反して涙の粒が勝手に零れ落ちた。
「リュシアン? すまない、私の言葉が何か気に障ってしまっただろうか?」
「ち、違う……そうじゃなくて、今まで、オメガだから疎まれているんだと、思っていたから……」
落ちてくる涙の粒の数に比例するように、呼吸が乱れていく。突如として還俗させられて、契約婚させられて、契約婚した相手が辛辣で。自分で思っていた以上に、現状に傷ついていたようだ。
今まで感じていた苦しみを全て身体の外に排出するかのように、止め処もなく涙が溢れた。
「リュシアン……」
ガタリと音を立てて、彼が立ち上がった。
「私は君をそこまで苦しめてしまっていたのだな」
すぐ傍まで来た彼が、そっと手を伸ばす。彼の指が優しく涙を拭った。
「申し訳ない。悔やんでも悔やみ切れない。過去に戻って自分の発言を取り消せるならば、取り消したいくらいだ。オメガだから君のことが疎ましいだなんて、そんなことは決してない。ただ、私が臆病だっただけなのだ」
彼は懐からハンカチを取り出すと、涙を拭きとり始めた。拭き取られる端から、次から次へと涙が溢れ出ていく。
まるで子供になってしまったような気分だ。孤児院の子供が泣いたとき、こんな風に涙を拭ってあげたのを思い出す。
「べ、別に安心したから涙が出てきただけで……辛かったわけじゃない」
涙声で強がった。
「わかった。せめて泣き止むまで、傍にいさせてくれ」
彼の手が、リュシアンの背中を軽くさする。
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