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3.講習会
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その二日後。
謙士はきちんと時間通り──やや早めに──店を訪れた。今日は仕事が休みとのことで。
「せっかくの休日に…。今更だけど、良かったんですか?」
文人が尋ねれば、謙士は頭をかきつつ。
「ほかに行く当てもありませんから。それに、今日はここに来るのが楽しみで仕方なかったんです。なんたって、あの綺麗な文人さんとふたりきりの講義ですから」
「はは…。謙士さんは口が上手いね」
「あ、その『さん』と敬語、やめませんか?」
「どうしてですか?」
文人は首をかしげるが。
「文人さん、年上じゃないですか。だから俺のことは呼び捨てで、『けんし』って。敬語も必要ないですし…。お願いします!」
上背のある背を丸め、顔の前で両手を合わせ拝まれる。
そうは言っても…。
しかし、ね? ね? っといって、謙士は一歩も引かない様子。しかたなく、希望に応える事にした。でないと先へ一向に進まない。
「──わかりました。…いや、分かったよ。謙士…?」
たどたどしくそう返せば、謙士は嬉しそうに満面の笑みを浮かべ。
「やった。これでかなり近づけましたね?」
「…どうだろう。だって、謙士とは会ってまだ二回だよ? 近づいたのかな?」
「いやだな。悲しいこと言わないでくださいよ。まずは形から。──じゃ。講義お願いします」
「わかった…。ほら、服、汚れたら困るからエプロン。サイズあうかな?」
謙士はラフな濃紺のスウェットのトップに、下は履き古したジーンズと言う出で立ちだ。気軽な服装だが、コーヒーのシミは取れにくい。エプロンは必須だろう。
ごく普通に店でも使う店のロゴの入ったエプロンだ。濃紺のそれは大柄な人間でもサイズ的にはあうはずだが。
首紐をかけてもらった後、前から腕を回し、腰ひもを結ぼうとしたが、腕を回すのがやっとで結ぶことができない。
腰回りにガッチリ筋肉がついているせいで回らないのだ。仕方なく横着せず、背後に回って紐を結ぶことにした。
やっぱり。ちょっと紐が短いかな? LLサイズってあるのかな?
謙士は太っているわけではない。ただ、筋肉の圧が半端ないのだ。次は紐を足そうと思った。
「今日はこれで我慢だね? 苦しくない?」
なんとかきゅっと結んで、後ろから謙士を見上げれば。
「大丈夫です──が…」
「が?」
「いえ…。大丈夫です…」
なぜか謙士は耳のあたりを赤くしてそう答えた。よくわからない。
前に戻った文人は早速、コーヒーを淹れる入れる準備に取りかかった。
まず、カップとサーバーを温めることから始める。ミルで分量の豆を挽き、ドリッパーに入れてお湯を差す。熱湯ではなく少し覚ましたお湯で。
豆を蒸らしてから、ゆっくりと円を描きつつ注ぐ。縁にはかけないようにするのがポイントだ。もこもこと挽いた豆が盛り上がってきて、思わず笑みがこぼれた。
ふと見上げると、同じように謙士も笑んでいる。──視線がこちらに向けられていた気もしたが──気のせいかも知れない。
◇
「じゃ、同じようにやってみようか」
「はい」
同じ手順で淹れていくが、やはり入れる時が難しいらしい。上手く円が描けず、お湯もついどっと入ってしまう。
「大丈夫。慣れだから。ちょっとやればすぐできるようになるよ。謙士は丁寧だから」
「そうですか…。そうだといいですが…」
互いに淹れ終わったコーヒーを飲みあう。やはり、味が違った。こればかりはコツと回数が必要で。
しょげた謙士の腰辺りを軽く叩くと。──本当は肩を叩きたいが、位置が高いのだ。
「家でもやってごらん。そのうち嫌でもできるようになるから。大丈夫」
「本当かなぁ。味が全然違う…」
肩を落とす謙士が体格に似合わず可愛く見えた。文人はくすと笑うと。
「僕はかなり不器用だったんだ。それでも、丁寧にやるようにして──ここまでこれた。かなり怒られもしたけどね。なんとかなるって」
「…本当ですか? 不器用って」
「本当だよ。みじん切りだってろくにできなくて、何度やり直しさせられたか…。調理師の免許を取るために専門に行ったけど、その時は何もできなかったからね。気合で乗り切った感じだよ」
「へぇ。そのころの文人さん、見てみたかったなぁ…」
「やだよ。恥ずかしくて見せられない…。今よりもっともさっとしてるし、いつも泣きそうな顔しててさ。見られたくないよ。あれは…」
「いや。きっとかわいかったですって。今だって──」
と言いかけた謙士はそこで口ごもる。
「どうした?」
「──いや。なんでも。とにかく、絶対かわいかったですって。いつか見せてくださいね?」
「いやだよ。却下」
つれないーと謙士はぼやくが、無視しても一度挑戦させた。
そうこうしている内に、あっという間に一時間は経つ。謙士は肩をもみつつ。
「…意外に肩がこりますね」
「緊張したもんな? ケトルもつ手が、こう──」
謙士のマネをしてプルプルさせると、謙士は頬を膨らませ。
「やめてくださいよ。こっちは文人さんの前で恥かいて悲しいってのに…。いつか、文人さんを唸らせる腕になって見せますから!」
「期待してるよ。──そろそろ時間だよ? 帰らなくていいの?」
彼女か家族か。待っている相手がいるだろう。しかし、謙士は唸った後。
「その…ここで夕飯、食べて行っても?」
「え? って、構わないけど…。いいの? それで?」
「もちろん! てか、洗い物ぐらい手伝いますよ。だって今日の講習料、取らないんでしょう?」
「それは──取るほどじゃないし…。でもだからって、手伝わなくても。明日も仕事だろ?」
「大丈夫です。──ただで教えてもらって終わりなんて、そんなのこっちが落ち付きませんから。お願いします!」
そう言って頭を下げてくる。文人は慌てて肩に手をかけそれを起こさせると。
「もう、止めろって。…わかった。その代わり、適当な所で切り上げていいから。じゃあ、夕飯は先に僕とでいい? 簡単な賄いになるよ?」
「もちろん!」
笑顔になってそう答える。
なんだかとんでもないことになった気がした。
◇
案の定、常連は洗い場に見ない影を見つけ驚く。しかもかなり大柄な男がドンとそこに立っているのだ。いやでも目が行く。
文人はコーヒー講習の経緯を話し、講習料の代わりに今日だけ助っ人に入ったと説明するが、みな不審そうな顔をしていた。
文人以外のものが、カウンター内にいると言うのはかなり異例な事で。バイトさえ雇ったことがないのだ。
「きみは──誰かの紹介でここを知ったのかい?」
常連でも古株にはいる壮年の客が声をかける。洗い場にいた謙士はああ、と声を漏らした後。
「えーと、実は菅原さんに誘われて一度来たことがあって…。でも、その時、中が混んでたんで、外で飲んだんです。立ち飲みで」
「そうだったの?」
小鉢に料理を盛りつけながら、文人は驚いて謙士を振り返る。
そんなことは一言も聞いていない。偶然、軒先で雨やどりしたのが初めてだと思っていた。
確かに天気のいい日や混んだ日は、外にもテーブルを出した。椅子はつけず、立ち呑みにちょうどいい高さのテーブルだけだ。
暖かくなると、そっちがいいとわざわざ外を希望する客もいる。
「ええ。だから、中に入らなかったんで、誰も顔は覚えていないと思います」
「そうか。菅原さんのね…。だったら仕方ねぇか…」
常連客は諦めたようにつぶやく。
菅原は祖父の代から来ている客で、定食を出すようになってからは、夜も来てくれるようになった客だ。
ここでは仕事の話しはご法度となっているが──常連の中でそうなったらしい──菅原の仕事は知られていて、出版関係とのことだった。謙士も同じ会社に所属しているのだろう。
すでに頭髪には白髪の混じる年齢だが、かくしゃくとしていて、週に数回は顔をだす。
「それはいつ頃?」
文人の問いに、謙士はいつだったかなぁと呟くと。
「あっと、五月の半ばころ──だったかな?」
「ひと月前くらいか…。忙しいと外のお客さんは見てないからなぁ。謙士くらいだときっと目についたと思うけど…」
「俺、小さくなってたんで」
「それ。無理でしょ?」
文人は笑う。すると、常連が面白くなさそうな顔をして。
「文ちゃん…。あんまり、人を簡単に信用しちゃいけないよ?」
「そうそう。まだどんな奴か分からないうちから、そんな所にあげてさ。襲われたらどうすんの?」
「はは…。襲うってないですよ。それに、皆さんがいらっしゃるんで、大丈夫ですって。──謙士、それ終わったら上がってくれていいよ? 講師料はもう十分だからさ」
「え? そうですか? まだやれますけど…」
不満そうな顔を見せるが。
「兄ちゃん。そこはでかいのがいたら邪魔なんだって。一人で切り盛りするのに丁度いい広さに作ってんだからさ。もう帰れ帰れ」
そうだそうだと、周囲の常連もうなずく。
皆に言われては謙士もそれ以上、粘ることはできない。
しかも常連はかなり年上だ。年長者の意見は尊重すべきと感じたのだろう。それが、謙士の意に反する言葉であっても。
常連はみな、謙士がそこにいることをよしとしなかったのだ。謙士は諦めて。
「分かりました。退散します…」
「ありがとう。皆の言葉は真に受けないでね? また飲みに来てよ。──もう彼も常連でしょ?」
そう言って文人は常連客を振り返る。すると、皆、互いにちらちらと視線を交わしバツが悪そうにした後。
「──まあ、な。仕方ない。文ちゃんがそういうんじゃな。常連予備軍てとこだ」
「そうだ。本決まりじゃないな」
「決まりじゃない」
みな口々にそう言うが、文人は笑って、
「良かったね、謙士。皆に認められて。次は大きな顔で入ってきていいよ」
「ありがとうございます」
大きな体を縮めつつ、頭を下げて見せた。
◇
謙士はそうして帰って行った。
エプロンは置いて行っていいと言ったが、次来た時洗って返しますと言い、持って行ってしまった。するとすかさず常連が。
「ありゃ、またくる口実を作りたかったんだな」
「だな。あれはすぐ来るぞ…」
「文ちゃん。あんた、とんでもないもんに気に入られちまったな?」
「とんでもないって、彼もお客さんですから」
文人は笑うが。
「いいや。あの男、下心が見え見えだ。──文ちゃん。十分気をつけろよ? 俺たちも気をつけるけどさ」
「そうそう。崇の後釜はぜったいあいつじゃないぞ?」
「もう。勝手に話しを作らないでくださいよ。そんなんじゃないですから。──はい、お待たせしました」
小鉢をそれぞれに出すと、次の準備に入る。常連は先に小鉢で一杯やるのが常になっているのだ。
準備をするために洗い場に移動しようとして、先ほどまでそこにいた謙士を意識した。
僅かな時間そこに立っていただけなのに、存在感はかなりあった。いなくなるとそれがよくわかる。
けれど、彼はただのお客だ。
それ以上になどならないことは分かっている。後釜には、誰も入る予定はないのだから。
謙士はきちんと時間通り──やや早めに──店を訪れた。今日は仕事が休みとのことで。
「せっかくの休日に…。今更だけど、良かったんですか?」
文人が尋ねれば、謙士は頭をかきつつ。
「ほかに行く当てもありませんから。それに、今日はここに来るのが楽しみで仕方なかったんです。なんたって、あの綺麗な文人さんとふたりきりの講義ですから」
「はは…。謙士さんは口が上手いね」
「あ、その『さん』と敬語、やめませんか?」
「どうしてですか?」
文人は首をかしげるが。
「文人さん、年上じゃないですか。だから俺のことは呼び捨てで、『けんし』って。敬語も必要ないですし…。お願いします!」
上背のある背を丸め、顔の前で両手を合わせ拝まれる。
そうは言っても…。
しかし、ね? ね? っといって、謙士は一歩も引かない様子。しかたなく、希望に応える事にした。でないと先へ一向に進まない。
「──わかりました。…いや、分かったよ。謙士…?」
たどたどしくそう返せば、謙士は嬉しそうに満面の笑みを浮かべ。
「やった。これでかなり近づけましたね?」
「…どうだろう。だって、謙士とは会ってまだ二回だよ? 近づいたのかな?」
「いやだな。悲しいこと言わないでくださいよ。まずは形から。──じゃ。講義お願いします」
「わかった…。ほら、服、汚れたら困るからエプロン。サイズあうかな?」
謙士はラフな濃紺のスウェットのトップに、下は履き古したジーンズと言う出で立ちだ。気軽な服装だが、コーヒーのシミは取れにくい。エプロンは必須だろう。
ごく普通に店でも使う店のロゴの入ったエプロンだ。濃紺のそれは大柄な人間でもサイズ的にはあうはずだが。
首紐をかけてもらった後、前から腕を回し、腰ひもを結ぼうとしたが、腕を回すのがやっとで結ぶことができない。
腰回りにガッチリ筋肉がついているせいで回らないのだ。仕方なく横着せず、背後に回って紐を結ぶことにした。
やっぱり。ちょっと紐が短いかな? LLサイズってあるのかな?
謙士は太っているわけではない。ただ、筋肉の圧が半端ないのだ。次は紐を足そうと思った。
「今日はこれで我慢だね? 苦しくない?」
なんとかきゅっと結んで、後ろから謙士を見上げれば。
「大丈夫です──が…」
「が?」
「いえ…。大丈夫です…」
なぜか謙士は耳のあたりを赤くしてそう答えた。よくわからない。
前に戻った文人は早速、コーヒーを淹れる入れる準備に取りかかった。
まず、カップとサーバーを温めることから始める。ミルで分量の豆を挽き、ドリッパーに入れてお湯を差す。熱湯ではなく少し覚ましたお湯で。
豆を蒸らしてから、ゆっくりと円を描きつつ注ぐ。縁にはかけないようにするのがポイントだ。もこもこと挽いた豆が盛り上がってきて、思わず笑みがこぼれた。
ふと見上げると、同じように謙士も笑んでいる。──視線がこちらに向けられていた気もしたが──気のせいかも知れない。
◇
「じゃ、同じようにやってみようか」
「はい」
同じ手順で淹れていくが、やはり入れる時が難しいらしい。上手く円が描けず、お湯もついどっと入ってしまう。
「大丈夫。慣れだから。ちょっとやればすぐできるようになるよ。謙士は丁寧だから」
「そうですか…。そうだといいですが…」
互いに淹れ終わったコーヒーを飲みあう。やはり、味が違った。こればかりはコツと回数が必要で。
しょげた謙士の腰辺りを軽く叩くと。──本当は肩を叩きたいが、位置が高いのだ。
「家でもやってごらん。そのうち嫌でもできるようになるから。大丈夫」
「本当かなぁ。味が全然違う…」
肩を落とす謙士が体格に似合わず可愛く見えた。文人はくすと笑うと。
「僕はかなり不器用だったんだ。それでも、丁寧にやるようにして──ここまでこれた。かなり怒られもしたけどね。なんとかなるって」
「…本当ですか? 不器用って」
「本当だよ。みじん切りだってろくにできなくて、何度やり直しさせられたか…。調理師の免許を取るために専門に行ったけど、その時は何もできなかったからね。気合で乗り切った感じだよ」
「へぇ。そのころの文人さん、見てみたかったなぁ…」
「やだよ。恥ずかしくて見せられない…。今よりもっともさっとしてるし、いつも泣きそうな顔しててさ。見られたくないよ。あれは…」
「いや。きっとかわいかったですって。今だって──」
と言いかけた謙士はそこで口ごもる。
「どうした?」
「──いや。なんでも。とにかく、絶対かわいかったですって。いつか見せてくださいね?」
「いやだよ。却下」
つれないーと謙士はぼやくが、無視しても一度挑戦させた。
そうこうしている内に、あっという間に一時間は経つ。謙士は肩をもみつつ。
「…意外に肩がこりますね」
「緊張したもんな? ケトルもつ手が、こう──」
謙士のマネをしてプルプルさせると、謙士は頬を膨らませ。
「やめてくださいよ。こっちは文人さんの前で恥かいて悲しいってのに…。いつか、文人さんを唸らせる腕になって見せますから!」
「期待してるよ。──そろそろ時間だよ? 帰らなくていいの?」
彼女か家族か。待っている相手がいるだろう。しかし、謙士は唸った後。
「その…ここで夕飯、食べて行っても?」
「え? って、構わないけど…。いいの? それで?」
「もちろん! てか、洗い物ぐらい手伝いますよ。だって今日の講習料、取らないんでしょう?」
「それは──取るほどじゃないし…。でもだからって、手伝わなくても。明日も仕事だろ?」
「大丈夫です。──ただで教えてもらって終わりなんて、そんなのこっちが落ち付きませんから。お願いします!」
そう言って頭を下げてくる。文人は慌てて肩に手をかけそれを起こさせると。
「もう、止めろって。…わかった。その代わり、適当な所で切り上げていいから。じゃあ、夕飯は先に僕とでいい? 簡単な賄いになるよ?」
「もちろん!」
笑顔になってそう答える。
なんだかとんでもないことになった気がした。
◇
案の定、常連は洗い場に見ない影を見つけ驚く。しかもかなり大柄な男がドンとそこに立っているのだ。いやでも目が行く。
文人はコーヒー講習の経緯を話し、講習料の代わりに今日だけ助っ人に入ったと説明するが、みな不審そうな顔をしていた。
文人以外のものが、カウンター内にいると言うのはかなり異例な事で。バイトさえ雇ったことがないのだ。
「きみは──誰かの紹介でここを知ったのかい?」
常連でも古株にはいる壮年の客が声をかける。洗い場にいた謙士はああ、と声を漏らした後。
「えーと、実は菅原さんに誘われて一度来たことがあって…。でも、その時、中が混んでたんで、外で飲んだんです。立ち飲みで」
「そうだったの?」
小鉢に料理を盛りつけながら、文人は驚いて謙士を振り返る。
そんなことは一言も聞いていない。偶然、軒先で雨やどりしたのが初めてだと思っていた。
確かに天気のいい日や混んだ日は、外にもテーブルを出した。椅子はつけず、立ち呑みにちょうどいい高さのテーブルだけだ。
暖かくなると、そっちがいいとわざわざ外を希望する客もいる。
「ええ。だから、中に入らなかったんで、誰も顔は覚えていないと思います」
「そうか。菅原さんのね…。だったら仕方ねぇか…」
常連客は諦めたようにつぶやく。
菅原は祖父の代から来ている客で、定食を出すようになってからは、夜も来てくれるようになった客だ。
ここでは仕事の話しはご法度となっているが──常連の中でそうなったらしい──菅原の仕事は知られていて、出版関係とのことだった。謙士も同じ会社に所属しているのだろう。
すでに頭髪には白髪の混じる年齢だが、かくしゃくとしていて、週に数回は顔をだす。
「それはいつ頃?」
文人の問いに、謙士はいつだったかなぁと呟くと。
「あっと、五月の半ばころ──だったかな?」
「ひと月前くらいか…。忙しいと外のお客さんは見てないからなぁ。謙士くらいだときっと目についたと思うけど…」
「俺、小さくなってたんで」
「それ。無理でしょ?」
文人は笑う。すると、常連が面白くなさそうな顔をして。
「文ちゃん…。あんまり、人を簡単に信用しちゃいけないよ?」
「そうそう。まだどんな奴か分からないうちから、そんな所にあげてさ。襲われたらどうすんの?」
「はは…。襲うってないですよ。それに、皆さんがいらっしゃるんで、大丈夫ですって。──謙士、それ終わったら上がってくれていいよ? 講師料はもう十分だからさ」
「え? そうですか? まだやれますけど…」
不満そうな顔を見せるが。
「兄ちゃん。そこはでかいのがいたら邪魔なんだって。一人で切り盛りするのに丁度いい広さに作ってんだからさ。もう帰れ帰れ」
そうだそうだと、周囲の常連もうなずく。
皆に言われては謙士もそれ以上、粘ることはできない。
しかも常連はかなり年上だ。年長者の意見は尊重すべきと感じたのだろう。それが、謙士の意に反する言葉であっても。
常連はみな、謙士がそこにいることをよしとしなかったのだ。謙士は諦めて。
「分かりました。退散します…」
「ありがとう。皆の言葉は真に受けないでね? また飲みに来てよ。──もう彼も常連でしょ?」
そう言って文人は常連客を振り返る。すると、皆、互いにちらちらと視線を交わしバツが悪そうにした後。
「──まあ、な。仕方ない。文ちゃんがそういうんじゃな。常連予備軍てとこだ」
「そうだ。本決まりじゃないな」
「決まりじゃない」
みな口々にそう言うが、文人は笑って、
「良かったね、謙士。皆に認められて。次は大きな顔で入ってきていいよ」
「ありがとうございます」
大きな体を縮めつつ、頭を下げて見せた。
◇
謙士はそうして帰って行った。
エプロンは置いて行っていいと言ったが、次来た時洗って返しますと言い、持って行ってしまった。するとすかさず常連が。
「ありゃ、またくる口実を作りたかったんだな」
「だな。あれはすぐ来るぞ…」
「文ちゃん。あんた、とんでもないもんに気に入られちまったな?」
「とんでもないって、彼もお客さんですから」
文人は笑うが。
「いいや。あの男、下心が見え見えだ。──文ちゃん。十分気をつけろよ? 俺たちも気をつけるけどさ」
「そうそう。崇の後釜はぜったいあいつじゃないぞ?」
「もう。勝手に話しを作らないでくださいよ。そんなんじゃないですから。──はい、お待たせしました」
小鉢をそれぞれに出すと、次の準備に入る。常連は先に小鉢で一杯やるのが常になっているのだ。
準備をするために洗い場に移動しようとして、先ほどまでそこにいた謙士を意識した。
僅かな時間そこに立っていただけなのに、存在感はかなりあった。いなくなるとそれがよくわかる。
けれど、彼はただのお客だ。
それ以上になどならないことは分かっている。後釜には、誰も入る予定はないのだから。
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