雨やどり

マン太

文字の大きさ
7 / 17

6.それは突然に

しおりを挟む
 その日も雨だった。
 梅雨はそろそろ明ける時期だったが、雨は時折降る。お陰で、客の出足は鈍かった。
 文人はその日の定食のひとつ、アジの南蛮漬けを皿に盛り付けながら、ふと店の出入口に目を向ける。
 謙士の既読はついたものの、あれから返信はなかった。返信するまでもない、と言うことか、他に考えあってのことか。今の文人に確認するすべはない。
 仕事も忙しいのだろう。ここへも姿を現さないのがいい証拠だった。

 彼女との時間を大切にしているのかもしれないしな…。

 ここへ来たのも、空いた時間を持て余していたからに過ぎないのだろう。そこを埋める相手が現れれば、当然、こちらへ足が向かなくなるのに決まっている。

「文ちゃん、あいつ来なくなったな…」

 と、ひとりの常連客の問いかけに、他の常連がこのバカ! と小さな声で怒鳴りつけ袖を引いた。どうやら気を使わせていたらしい。文人は笑うと。

「仕事が忙しいんでしょうね。すっかりここに馴染んでいたんで、少し寂しい気もしますが…。そのうちまたひょっこりあらわれるでしょう。──彼女を連れてね」

「そ、そうだな…。あいつ、彼女もちだったな…」

 常連達は互いに目くばせをし沈黙したが、しばらくして、他の常連客が来店したのをきっかけに、いつもの空気に戻った。
 けれど、分かっている。
 突然、来なくなったものはそのまま消えてしまうものだと。続くものは細々とでも顔を出す。要は来る気はなくなったからそうなるのだ。
 出来上がってきた常連客の一人が、コップ酒を傾けながら。

「ったく。荒らすだけ荒らしやがって…。だから若い奴は気に食わねぇんだ」

 常連の妙齢の客はちっと舌打ちした。隣の客も頷くと。

「文ちゃんには俺たちがいるからな? 俺たちがこなくなる時は、死んだ時だ。それまではきっちりここに嫌がられても来るからな?」

「はは。嫌だなんてそんなことありませんよ。──でも、ありがとうございます。これからもごひいきに」

 そう言って、追加で筍の土佐煮を出す。

「知り合いに筍を作っている人がいて。おすそ分けがあったので良ければ。おごりです」

 おおっと声が上がった。それでしんみりとした空気が一掃される。
 お酒と美味しい料理で人はいくらでも幸せになれる。悲しみも和らげてくれるのだ。
 いなくなった大きな存在も、そのうち気にならなくなるはずだった。



 そんなある夜。
 そろそろ閉店時間になるからと、暖簾を下げに外に出た所で。

「──文人さん!」

 突然呼ばれて振り返ると、そこに謙士が立っていた。
 急いできたのか、大きな身体を揺らし肩で息をしている。片手にはスーツケースを引きずっていた。

「どうしたの? そんなに慌てて──」

「あの、閉店なのは分かっているんですが…。──少しだけ、簡単なもの、食べさせていただけませんか?」

「いいよ、大丈夫。簡単と言わず、定食出せるから。ほら、入って、入って」

 暫く訪れていなかったことなど、気にしない素振りで中へと招き入れる。それに、やはり嬉しかったのだ。
 常連の深酒で暖簾はしまっても、店は開けていることはままある。一人分の食事位どうということはなかった。

「何食べる? 今だせるのは銀鱈定食に、オムライスかな?」

 本当は他にもあったのだが、すでに材料を切らしていた。謙士はすかさず、

「銀鱈で」

「了解。はい、おしぼり」

 温かいおしぼりを渡すと水を出し、早速料理に取り掛かる。
 冷蔵庫に入れたあった銀鱈を取り出し、ついていた酒粕その他調味料を拭き取る。しばらく室温に戻してからじっくり焼くのだ。

「急いでいるようだけど、帰りも急ぐ? 時間はあるの?」

「なんとか。二時間は大丈夫です」

「そう。って、仕事帰り──ってふうでもないね? 今日はどうしたの?」

「出張先からここに直行して…。この後、空港に行きます」

「空港? って、海外かなにか?」

「はい。取材で南米の方に…」

「へえ。それは──期間はどれくらい?」

「一カ月くらいです…」

「大変だ。いつもそうなの?」

「はい。つい最近も海外出張があって…。殆どとんぼ返りです。急に行けなくなった奴の代わりで東南アジアの方へ取材に行ってて…」

「そっか…。だから急に来なくなったんだね? 連絡もないから心配したよ? 常連の皆もね」

「そうですか…。心配かけてすみません。連絡も慌ただしくてしていられなくて…」

「いいって。こっちは別に。気をつかう場所じゃないからさ。もっと他の事に気をつかって。──はい、先に小鉢。魚もじきに焼けるから」

 他のこと。

 それは、彼女の存在に他ならない。
 謙士の前に小鉢を三つほど並べる。すべて旬のものばかりだ。
 アスパラ、そら豆、ゼンマイ。それぞれゆでたり、炒ったり、和えたり。冷ややっこもつく。謙士はそれらをじっと見つめた後。

「すごく、気にかかってたんです…」

「謙士?」

「俺、──何かしでしたでしょうか?」

「え…?」

「家に誘ったの、いけなかったですか? …返事を聞くのが怖くて、つい、返信もしないままになってしまって…。結局、当分だめになりますけど…」

 どうやら、謙士には分かっていたらしい。

「いけない、ってことはないけど…。謙士は──僕の性的志向は知っているよね?」

「…はい」

「だから、相手がいるのに、僕がそこへ行くのはどうかなって。二人きりはね? 何もないにしても、相手が知ったら誤解するかもしれないし。だから断ったんだ。ごめんな。でも、これはけじめとしてで──」

「相手って…?」

「この前、女性連れてきたよね? 彼女でしょ?」

 ああ! と謙士は声を上げて頭を掻きむしった後。

「…あれは、同僚です。まあ、その…。過去に付き合った時期もありましたけど…」

「今も付き合っているんじゃないの? いい子そうだったよ? 彼女、まだ気がありそうだった…」

 二人が話しているとき、彼女はかなり熱っぽい目で謙士を見ていたのだ。

「…みたいですけど。断りました」

 あっさり謙士は口にする。

「どうして? あんないい子、もったいない」

「その──色々思う所があって…。てか、俺のことはいいんです。俺、分かってます。──分かってて、誘ったんです」

 言って謙士は文人を見つめてくる。

「…だって。謙士──」

 どういうつもりで?

 そこでタイマーが鳴る。慌ててグリルを確認した。

 大丈夫、丁度いい焼け具合だ。

 いつもならきちんと見ながら焼くのだが、つい気をそらしてしまった。
 手早く皿に盛り付け、味噌汁と一緒にカウンターに並べる。謙士は手を合わせたあと、いただきますと口にして黙々と食べ始めた。
 文人は特別サービスに、いただきもののスイカを食べやすい大きさに切り分け差し出すと、同じく黙っていた。

 分かっていて誘ったって…。どうしてだろう?

 謙士は最後に出されたスイカまで、美味しそうに食べ終え、お茶を飲み干すと。

「──はぁ、生き返った…。やっぱり、文人さんの料理はおいしいです。本当、生きてて良かったって思える」

「そんな大げさな…。ごく普通のものしか出してないよ?」

「いや。違うんです…。海外に行っている間、文人さんの料理が食べたくて食べたくて…。それで、帰ってきて、急いで仕事を片づけてすぐここに寄ったんです。次の出張に出る前にどうしても食べたくて」

「あはは。そこまで? まあ、確かに日本食を食べたくはなるんだろうけれど──」

「文人さんの料理が食べたかったんです!」

 言い終わらないうちに、謙士はひたとこちらを見つめ強い口調で否定してくる。

 なんだろう。これは──。

 それから、ああもう! と半ば叫ぶように再び声をあげると、謙士はがしがしと頭を掻きむしって。

「──出張から帰ってきたら、ちゃんと話します。…いろいろ」

「う、うん?」

「じゃあ、これで──」

 そう言って、謙士は取り出した財布から料金を出そうとするが。

「あ、餞別だからお代はいいよ! 無事に帰ってくればそれで──」

 財布から取り出そうとした手を軽く押さえる。その時、謙士の太くガッシリとした指に初めて触れた。少しかさついた指先。

 でも温かい。

 当たり前なのだけど。
 謙士はじっとしていたが、ふと我に返ったように顔を上げて。

「その──俺が帰って来るまで、誰とも付き合わないでくれませんか?」

「え……」

「お願いします!」

 そう言うと、ペコリと頭を下げ荷物を掴むとさっさと出て行ってしまう。

「ちょ、謙士なに──!」

 慌てて追いかけたが、タイミングよく通りかかったタクシーを止めて乗り込んでしまった後だった。

「謙──」

 文人はただ遠くなるタクシーのテールランプを見送ることしかできなかった。



「あいつ、まだ来てないのかい?」

 常連が手酌で日本酒を口にしながら、ちらと文人を見上げた。

「──そう、みたいですね? お仕事が忙しいようですよ?」

 文人は何ごともなかった素振りで返す。
 あの日のことは常連客に言ってはいなかった。言うほどのことでもないだろうし、それに言ってなにか勘ぐられても困る。

 いったい、謙士が何を思ってあんな事を言ったのか…。

 帰ってきて話を聞くまでは自分の胸の内にしまって、大事にしておきたかったのだ。
 あの夜以降、謙士からは連絡がない。海外出張はひと月近く。当分、謙士は姿を見せないだろう。
 謙士とは連絡先のやり取りはしてある。だが、必要以上にしない主義らしく。
 コーヒーの淹れ方を講習した時も、少し遅れそうになったとき以外、連絡はしてこなかった。連絡は直接言葉で、顔を合わせて。謙士とのやり取りはそれが主だった。
 まして、海外になど行ってしまえば、顔など合わせられるはずもなく。用がない限り連絡をしてこないタイプなら、余計に意思疎通はなくなる。
 文人も相手が嫌がることはしたくない。
 頻繁に連絡を取ることで、時間を取らせることにもなる。それくらいなら、連絡をしない方が良かった。

 それはそれで、元気にやっている証拠なんだろうな。

 カウンターの奥の席には、件のクマのぬいぐるみが鎮座してる。常連客はそれを眺めつつボヤいた。

「…あいつなら、文ちゃんにいいかと思ったけどさ。上手くはいかねぇなぁ」

 文人はそれに、笑みを浮かべるだけにとどめた。
 上手く行くときは、トントンと物事が進んでいく。どこかでつまずくのは──そう言うことなのだ。
 謙士とはどうなのか。トントン…とは行かないまでも、繋がりは切れそうで切れていない。

 帰ってきたら──また、顔をだしてくれるようだったし。

 最後の言葉を思い出す。

 帰ってくるまで、誰とも付き合うなって、早々、そんな相手が見つかる訳ないのにな。

 文人はくすと笑う。
 つまずいては、いないはずだ。最後に会ったあの時の様子から、やはり謙士はなんらかの思いを文人に持っていると言っていい。
 元彼女の存在やノンケだと言うことは、とりあえず置いておいて。
 どんなに打ち消しても期待が残る。

 ──でも、期待は怖い。

 そうして、裏切られることがあったからだ。
 恋人を亡くしてから、なんとなくそういう雰囲気になった相手がいた。
 けれど、最後はやはり無理だと去られ。相手から近付いてきたのに──だ。
 ため息がもれてしまう。
 それなら、近付かないで欲しかった。ただの客としてそこにいて欲しかったのに。
 別れ際、文人が女性だったら良かったのに、そう言われた。

 なんだよ、それ。

 と思う。

 僕は僕だ。

 他のなにものかになんて、なれるはずもないのに。
 結局、そこまで強い思いではなかったと言うことだ。興味本位とまでは行かないにしろ、実際、近付いてみて、現実を目の当たりにしたら怖くなった──そんな所だろう。

 もう、傷つきたくない。

 だから、自分からは近付かない。
 謙士が連絡をしてこないなら、それでいいのだと思える。
 確かに寂しい。けれど、自分から近づいて、これ以上、余計な傷を作りたくはなかった。

「いらっしゃいませ」

 常連客が暖簾をくぐって入ってくる。
 ただこうして、皆がなごむ居場所を作ること、それが今は大事なのだ。
 例え謙士と、トントン拍子に行かなかったとしても。
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

青龍将軍の新婚生活

蒼井あざらし
BL
犬猿の仲だった青辰国と涼白国は長年の争いに終止符を打ち、友好を結ぶこととなった。その友好の証として、それぞれの国を代表する二人の将軍――青龍将軍と白虎将軍の婚姻話が持ち上がる。 武勇名高い二人の将軍の婚姻は政略結婚であることが火を見るより明らかで、国民の誰もが「国境沿いで睨み合いをしていた将軍同士の結婚など上手くいくはずがない」と心の中では思っていた。 そんな国民たちの心配と期待を背負い、青辰の青龍将軍・星燐は家族に高らかに宣言し母国を旅立った。 「私は……良き伴侶となり幸せな家庭を築いて参ります!」 幼少期から伴侶となる人に尽くしたいという願望を持っていた星燐の願いは叶うのか。 中華風政略結婚ラブコメ。 ※他のサイトにも投稿しています。

何度でも君と

星川過世
BL
同窓会で再会した初恋の人。雰囲気の変わった彼は当時は興味を示さなかった俺に絡んできて......。 あの頃が忘れられない二人の物語。 完結保証。他サイト様にも掲載。

禁書庫の管理人は次期宰相様のお気に入り

結衣可
BL
オルフェリス王国の王立図書館で、禁書庫を預かる司書カミル・ローレンは、過去の傷を抱え、静かな孤独の中で生きていた。 そこへ次期宰相と目される若き貴族、セドリック・ヴァレンティスが訪れ、知識を求める名目で彼のもとに通い始める。 冷静で無表情なカミルに興味を惹かれたセドリックは、やがて彼の心の奥にある痛みに気づいていく。 愛されることへの恐れに縛られていたカミルは、彼の真っ直ぐな想いに少しずつ心を開き、初めて“痛みではない愛”を知る。 禁書庫という静寂の中で、カミルの孤独を、過去を癒し、共に歩む未来を誓う。

【完結済】どんな姿でも、あなたを愛している。

キノア9g
BL
かつて世界を救った英雄は、なぜその輝きを失ったのか。そして、ただ一人、彼を探し続けた王子の、ひたむきな愛が、その閉ざされた心に光を灯す。 声は届かず、触れることもできない。意識だけが深い闇に囚われ、絶望に沈む英雄の前に現れたのは、かつて彼が命を救った幼い王子だった。成長した王子は、すべてを捨て、十五年もの歳月をかけて英雄を探し続けていたのだ。 「あなたを死なせないことしか、できなかった……非力な私を……許してください……」 ひたすらに寄り添い続ける王子の深い愛情が、英雄の心を少しずつ、しかし確かに温めていく。それは、常識では測れない、静かで確かな繋がりだった。 失われた時間、そして失われた光。これは、英雄が再びこの世界で、愛する人と共に未来を紡ぐ物語。 全8話

君さえ笑ってくれれば最高

大根
BL
ダリオ・ジュレの悩みは1つ。「氷の貴公子」の異名を持つ婚約者、ロベルト・トンプソンがただ1度も笑顔を見せてくれないことだ。感情が顔に出やすいダリオとは対照的な彼の態度に不安を覚えたダリオは、どうにかロベルトの笑顔を引き出そうと毎週様々な作戦を仕掛けるが。 (クーデレ?溺愛美形攻め × 顔に出やすい素直平凡受け) 異世界BLです。

綴った言葉の先で、キミとのこれからを。

小湊ゆうも
BL
進路選択を前にして、離れることになる前に自分の気持ちをこっそり伝えようと、大真(はるま)は幼馴染の慧司(けいし)の靴箱に匿名で手紙を入れた。自分からだと知られなくて良い、この気持ちにひとつ区切りを付けられればと思っていたのに、慧司は大真と離れる気はなさそうで思わぬ提案をしてくる。その一方で、手紙の贈り主を探し始め、慧司の言動に大真は振り回されてーー……。 手紙をテーマにしたお話です。3組のお話を全6話で書きました! 表紙絵:小湊ゆうも

彼の理想に

いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。 人は違ってもそれだけは変わらなかった。 だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。 優しくする努力をした。 本当はそんな人間なんかじゃないのに。 俺はあの人の恋人になりたい。 だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。 心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

処理中です...