8 / 17
7.お土産
しおりを挟む
その日も雨が降っていた。
小雨だが一日降り続くらしい。とっくに梅雨の時期は過ぎている。けれど、ここ最近、雨が多かった。
窓から外の景色を眺めた後、傘立てをいつものように外へと運び出す。重いそれは祖父母の頃から使われている年代物だ。
そういえば、謙士が軒先にいたのも、こういう日だったな。
今はあの時より暖かい。けれど、降り続く雨で少し肌寒くも感じた。
「よっと」
背中でドアを押しながら、外へと運び出せば。
「文人さん…」
ふいに呼ばれて顔をあげる。
と、雨の中、スーツケースを手にした謙士が立っていた。
無精ひげが前より濃くなっている。さらに日に焼けたらしく真っ黒に見えた。まるで大きなクマのよう。あれから、丁度ひと月経っただろうか。
「──久しぶりだね? 出張、どうだった?」
たいして時間が経っていないかのように声をかければ、謙士はくっと眉根をひそめ。
「…その、お土産を…」
そうボソボソと口にして、手にしていたビニール袋を突き出してきた。文人は軒先に傘立てを置くと、
「とにかく、こっち入りなよ。濡れるって」
「直ぐに社に戻らないといけないんです。とにかく、顔だけ見たくて…」
そう言いながらこちらに近づくと、軒先に立つ文人の胸元に、袋を押し付けてきた。中はチョコレート菓子のよう。
それを受け取り、再び謙士を見上げると。
「ありがとう──」
久しぶりに間近で見た。
身長まで伸びたのではと思えるほど。見下ろす謙士の眼差しはどこか哀し気で、それでいて優しい。
黙って見つめてくる謙士を訝しく思い、首をかしげる。
「──謙士?」
「すみません…」
急にあやまってきた。
なんだろうと思った次の瞬間、文人の肩に手が置かれ、唇にひんやりと冷たい、でも柔らかいものが触れる。
──あ…。
謙士が文人のそれへ。自分の唇を重ねてきたのだ。
屈んで傾けたそれが、確かに押し付けられている。お土産を手にしていた文人は、胸をおしのけることも、顔を払いのけることもできない。
──もとより、そのつもりはなかったが。
視界一杯にひろがる謙士の顔。文人は目を閉じた。雨音が遠くに聞こえる。
謙士は合わせただけの唇を、ゆっくり離すと、文人を熱の籠った眼差しで見下ろし。
「──また、来ます…」
「……」
文人は息をするのも忘れて謙士を見つめる。きっと目が真ん丸になっていたはずだ。
うっすらとその思いに気づいていたとはしても、こうして実力行使に出るとは思ってもみなかった。たいてい、怖くて手もだしてこないと言うのに。
それから、振り返りもせず、謙士は足早に立ち去った。
いったい、何が?
暫く呆然として、店の軒先に立ちつくす文人だった。
◇
その後、なんとか平常心をたもちつつ、文人はカフェの時間を終え、夜の為に店を開けた。
ぽつぽつと常連がやってくる。
雨の日は出足が遅い。または来ない客も多かった。
今日のメニューはホッケ定食に、メンチカツ定食にポトフ。ポトフだけパンかご飯を選べる。出足を考えてあまり量は用意していなかった。
調理や接客の間中、謙士からされたキスが頭の中を巡っていたが、それをなんとか端に追いやって仕事を続けていた。考えた所で答えが出るわけではないのだ。
しかし。
謙士がもし、自分を好きだったとして。応えると言う選択肢はあるのだろうか?
──わからない。
謙士がどこまで真剣なのか。
それを見極めない限り、近付くことはできない。余計な傷は増やしたくないのだ。
雨は止まない。それでも常連客はそれなりに増えてきた。いつも通り賑やかになった頃、新たな客が入ってくる。
「いらっしゃいませ―…」
言いながら顔を上げて、思わず固まってしまう。謙士がそこに顔を見せたからだ。
暖簾の間からぬっと顔を出し、中を見回した後、こちらに視線を向けてきた。文人は軒下でしたキスを思い出し、思わず視線を逸らしてしまう。
「おお、来たな?」
「もう来ないと思ったぞ!」
皆から声がかかった。謙士は頭を掻きつつ、空いている席に大きな身体を縮こませ座る。
「はは、すんません。実は仕事で海外に行ってて──あ、俺、直ぐめしで! えーっと、メンチカツ…も、いいけどポトフもいいなぁ…」
「じゃあ、メンチがメインで、味噌汁の代わりにポトフ半分にしとく?」
「あ! それで」
声を弾ませて答える。ニコニコ顔がまるで幼い子供のようだ。
思わず口元に浮かびそうになった笑みを堪えて、顔を引き締めると準備を始めた。
「しかし、久しぶりだな? ええ? 二月近くはきてねぇだろ?」
「そんなになりますかね…。もっと早くに来たかったんですけど、色々急がしくて。あ! でも、文人さんには少し会ってました。その…さっきも──」
その言葉に、皆が一斉に謙士を見た後、こちらにも視線を向けてきた。ギンと音がしそうなくらい強い眼差しだ。
「あれ? 文ちゃん。そんなこと一言も言わなかったよね?」
「あ…えっと、慌ただしかったからつい言いそびれて…」
「うーん。隠すってことは何か言いたくない事でもあったのかな?」
常連の一人がニヤニヤ笑って見せた。文人は何も言えない。ただ、頬だけが熱くなった。
「そんなことは…」
すると一方の常連が。
「まあまあ、言いたくない事のひとつやふたつ、あるさ。ね? ──けど謙士」
そう言って、隅っこに座る謙士に、厳しい顔をして向き直ると。
「文ちゃんには不真面目な気持ちで手を出しちゃいけねぇよ? もし、文ちゃんが傷つくようなことがあったら、俺たちがゆるさねぇからな?」
そうだ! そうだ! とほうぼうから声が上がった。謙士は困ったように身体を小さくする。
文人は助け舟を出す様に、その場の空気に割って入ると。
「さあさあ、それくらいで。──はい。先に小鉢」
「あ、有難うございます…」
へへっと笑んだ謙士は嬉しそうにそれに箸をつける。
茄子の煮びたし風、ピーマンのきんぴらにトマトとキュウリの三杯酢和え。メンチカツは揚げている真っ最中だ。ぱちぱちと細かい泡が出はじめ、揚げ時を知らせる。
謙士はいつも美味しそうに食べてくれる。自分が作ったものをそうして食べてくると本当に嬉しくて。やっていて良かったと思える瞬間だ。
笑みを浮かべて、そんな様子をを眺めていれば。
「あーあ、とうとう春が来たか…」
空になったお銚子をひっくり返しながら、常連客がそう口にした。
「え? これから夏真っ盛りですよね?」
天然なのか、謙士が驚いて答える。
それでどっと笑いが起こった。文人も苦笑するしかない。
まあでも、本当に春がくるのかは、蓋を開けてみなければわからないのだ。
──キスは、されたけれど。
何かの気の迷いもあるかもしれない。
いつだったか、好意を寄せられた相手に、試しにとキスを迫られたことがあった。
それでオーケーならいいが、だめとなった時の自分がかわいそうで、丁寧にその申し出を断ったことがある。
謙士は──どうなのだろう?
こうして以前と変わりなく、みなに混じって酒を飲み、文人の作った定食を食べてはいるが。
何を考えているかなど、幾ら詮索しても分からないのだ。
◇
雨が降る中、常連客がそれぞれ帰宅の途に就き、ようやく店内は静けさを取り戻した。
いつの間にやら、謙士は洗い場に立っていて。疲れているだろうに、殆どの食器を洗うのを手伝ってくれた。あとは明日の簡単な仕込みをして終われる。
「ありがとう、謙士。疲れたでしょ? コーヒー飲んでく? サービスで。──ていうか、時給の代わりに今日のお代はいらないよ。本当に人がいいんだから…」
文人は返事のないまま、コーヒー豆をはかりミルに入れる。ついでに自分の分も入れた。
豆を挽き出すといい薫りがうっすらと漂い始める。
本当はなんでもない会話をしながらも、ドキドキと胸が高鳴ってはいた。これはどうしようもない。
謙士は黙って最後に残った皿を丁寧に拭き、棚へと片付けていた。どこかぼんやりしているようでもある。返事がないのが証拠だ。
「謙士?」
「あ…はい。飲みます!」
「…良かった」
沸かしたお湯を一旦冷ましたあと、サーバーの上にドリッパーを置いてお湯を注ぐ。もこもこと豆が盛り上がった。
いつものあれだ。まるで生き物の様なそれは見ていて飽きない。コーヒーの香りが本格的に漂う。
と、気が付けば謙士がこちらを見つめていた。
「どうした?」
「いえ…その…。変わりないなって…」
もどかしそうな顔をして俯く。
「──そう、見える? これでもさ。結構緊張してるんだ。…意識もね」
「!」
その言葉に謙士がぱっと顔を上げた。
まるで、褒められた犬の様だと思う。クマだったり犬だったり。謙士は忙しい。
文人は手元のドリッパーにお湯を注ぎながら。
「…僕ね。結構怖がりなんだ。前に付き合っていた人、亡くしてから余計に…。もともと同性同士は気を遣うけど、傷つくのももう嫌で…。慎重になってる」
「…はい」
「謙士がさ、どこまで真剣なのか分からない。…けどもし、どこかに付き合えばなんとかなるとか、好きなら乗り越えられるとか。思っているなら、やめた方がいい。──というか、やめて欲しい」
「……」
「こう見えて、僕一直線なんだよね。好きだとなったら。──なのに、そこまで思いがないのに来られると──大抵壊れてさ。…もう、こりごりで」
情けないが本音だ。
好きになる自分が悪いのだ。相手が乗せたから、じゃない。
引き返すことだってできたのに、相手がひるんでいるのを分かって付き合って。
結局、寂しかったのだ。それでもいいからと、付き合ってしまう自分。弱いと思う。
きちんと一人で立てるようになって、初めてひとと付き合うべきなのだろうと思った。
もう、吹っ切れてはいると思うけれど。
時折、現れる元恋人の影に、やはり心揺さぶられる。
「俺…」
謙士が口を開こうとするが。文人は淹れ終わったコーヒーをカウンターにおくと。
「飲もう。冷めちゃうよ」
「……」
言われて謙士はカウンターにつく。文人もその隣に腰かけた。
横からクマのぬいぐるみがじっと見ている。
これで終わるのか、始まるのか。
今の言葉でもしかしたら──終わりに傾いたかもしれない。
それならそれでいい。これくらいで引くなら、それまでだったのだ。けれど、それを哀しく思う自分もいた。
返事次第では、もうここへ謙士が来なくなってしまうのだから。
小雨だが一日降り続くらしい。とっくに梅雨の時期は過ぎている。けれど、ここ最近、雨が多かった。
窓から外の景色を眺めた後、傘立てをいつものように外へと運び出す。重いそれは祖父母の頃から使われている年代物だ。
そういえば、謙士が軒先にいたのも、こういう日だったな。
今はあの時より暖かい。けれど、降り続く雨で少し肌寒くも感じた。
「よっと」
背中でドアを押しながら、外へと運び出せば。
「文人さん…」
ふいに呼ばれて顔をあげる。
と、雨の中、スーツケースを手にした謙士が立っていた。
無精ひげが前より濃くなっている。さらに日に焼けたらしく真っ黒に見えた。まるで大きなクマのよう。あれから、丁度ひと月経っただろうか。
「──久しぶりだね? 出張、どうだった?」
たいして時間が経っていないかのように声をかければ、謙士はくっと眉根をひそめ。
「…その、お土産を…」
そうボソボソと口にして、手にしていたビニール袋を突き出してきた。文人は軒先に傘立てを置くと、
「とにかく、こっち入りなよ。濡れるって」
「直ぐに社に戻らないといけないんです。とにかく、顔だけ見たくて…」
そう言いながらこちらに近づくと、軒先に立つ文人の胸元に、袋を押し付けてきた。中はチョコレート菓子のよう。
それを受け取り、再び謙士を見上げると。
「ありがとう──」
久しぶりに間近で見た。
身長まで伸びたのではと思えるほど。見下ろす謙士の眼差しはどこか哀し気で、それでいて優しい。
黙って見つめてくる謙士を訝しく思い、首をかしげる。
「──謙士?」
「すみません…」
急にあやまってきた。
なんだろうと思った次の瞬間、文人の肩に手が置かれ、唇にひんやりと冷たい、でも柔らかいものが触れる。
──あ…。
謙士が文人のそれへ。自分の唇を重ねてきたのだ。
屈んで傾けたそれが、確かに押し付けられている。お土産を手にしていた文人は、胸をおしのけることも、顔を払いのけることもできない。
──もとより、そのつもりはなかったが。
視界一杯にひろがる謙士の顔。文人は目を閉じた。雨音が遠くに聞こえる。
謙士は合わせただけの唇を、ゆっくり離すと、文人を熱の籠った眼差しで見下ろし。
「──また、来ます…」
「……」
文人は息をするのも忘れて謙士を見つめる。きっと目が真ん丸になっていたはずだ。
うっすらとその思いに気づいていたとはしても、こうして実力行使に出るとは思ってもみなかった。たいてい、怖くて手もだしてこないと言うのに。
それから、振り返りもせず、謙士は足早に立ち去った。
いったい、何が?
暫く呆然として、店の軒先に立ちつくす文人だった。
◇
その後、なんとか平常心をたもちつつ、文人はカフェの時間を終え、夜の為に店を開けた。
ぽつぽつと常連がやってくる。
雨の日は出足が遅い。または来ない客も多かった。
今日のメニューはホッケ定食に、メンチカツ定食にポトフ。ポトフだけパンかご飯を選べる。出足を考えてあまり量は用意していなかった。
調理や接客の間中、謙士からされたキスが頭の中を巡っていたが、それをなんとか端に追いやって仕事を続けていた。考えた所で答えが出るわけではないのだ。
しかし。
謙士がもし、自分を好きだったとして。応えると言う選択肢はあるのだろうか?
──わからない。
謙士がどこまで真剣なのか。
それを見極めない限り、近付くことはできない。余計な傷は増やしたくないのだ。
雨は止まない。それでも常連客はそれなりに増えてきた。いつも通り賑やかになった頃、新たな客が入ってくる。
「いらっしゃいませ―…」
言いながら顔を上げて、思わず固まってしまう。謙士がそこに顔を見せたからだ。
暖簾の間からぬっと顔を出し、中を見回した後、こちらに視線を向けてきた。文人は軒下でしたキスを思い出し、思わず視線を逸らしてしまう。
「おお、来たな?」
「もう来ないと思ったぞ!」
皆から声がかかった。謙士は頭を掻きつつ、空いている席に大きな身体を縮こませ座る。
「はは、すんません。実は仕事で海外に行ってて──あ、俺、直ぐめしで! えーっと、メンチカツ…も、いいけどポトフもいいなぁ…」
「じゃあ、メンチがメインで、味噌汁の代わりにポトフ半分にしとく?」
「あ! それで」
声を弾ませて答える。ニコニコ顔がまるで幼い子供のようだ。
思わず口元に浮かびそうになった笑みを堪えて、顔を引き締めると準備を始めた。
「しかし、久しぶりだな? ええ? 二月近くはきてねぇだろ?」
「そんなになりますかね…。もっと早くに来たかったんですけど、色々急がしくて。あ! でも、文人さんには少し会ってました。その…さっきも──」
その言葉に、皆が一斉に謙士を見た後、こちらにも視線を向けてきた。ギンと音がしそうなくらい強い眼差しだ。
「あれ? 文ちゃん。そんなこと一言も言わなかったよね?」
「あ…えっと、慌ただしかったからつい言いそびれて…」
「うーん。隠すってことは何か言いたくない事でもあったのかな?」
常連の一人がニヤニヤ笑って見せた。文人は何も言えない。ただ、頬だけが熱くなった。
「そんなことは…」
すると一方の常連が。
「まあまあ、言いたくない事のひとつやふたつ、あるさ。ね? ──けど謙士」
そう言って、隅っこに座る謙士に、厳しい顔をして向き直ると。
「文ちゃんには不真面目な気持ちで手を出しちゃいけねぇよ? もし、文ちゃんが傷つくようなことがあったら、俺たちがゆるさねぇからな?」
そうだ! そうだ! とほうぼうから声が上がった。謙士は困ったように身体を小さくする。
文人は助け舟を出す様に、その場の空気に割って入ると。
「さあさあ、それくらいで。──はい。先に小鉢」
「あ、有難うございます…」
へへっと笑んだ謙士は嬉しそうにそれに箸をつける。
茄子の煮びたし風、ピーマンのきんぴらにトマトとキュウリの三杯酢和え。メンチカツは揚げている真っ最中だ。ぱちぱちと細かい泡が出はじめ、揚げ時を知らせる。
謙士はいつも美味しそうに食べてくれる。自分が作ったものをそうして食べてくると本当に嬉しくて。やっていて良かったと思える瞬間だ。
笑みを浮かべて、そんな様子をを眺めていれば。
「あーあ、とうとう春が来たか…」
空になったお銚子をひっくり返しながら、常連客がそう口にした。
「え? これから夏真っ盛りですよね?」
天然なのか、謙士が驚いて答える。
それでどっと笑いが起こった。文人も苦笑するしかない。
まあでも、本当に春がくるのかは、蓋を開けてみなければわからないのだ。
──キスは、されたけれど。
何かの気の迷いもあるかもしれない。
いつだったか、好意を寄せられた相手に、試しにとキスを迫られたことがあった。
それでオーケーならいいが、だめとなった時の自分がかわいそうで、丁寧にその申し出を断ったことがある。
謙士は──どうなのだろう?
こうして以前と変わりなく、みなに混じって酒を飲み、文人の作った定食を食べてはいるが。
何を考えているかなど、幾ら詮索しても分からないのだ。
◇
雨が降る中、常連客がそれぞれ帰宅の途に就き、ようやく店内は静けさを取り戻した。
いつの間にやら、謙士は洗い場に立っていて。疲れているだろうに、殆どの食器を洗うのを手伝ってくれた。あとは明日の簡単な仕込みをして終われる。
「ありがとう、謙士。疲れたでしょ? コーヒー飲んでく? サービスで。──ていうか、時給の代わりに今日のお代はいらないよ。本当に人がいいんだから…」
文人は返事のないまま、コーヒー豆をはかりミルに入れる。ついでに自分の分も入れた。
豆を挽き出すといい薫りがうっすらと漂い始める。
本当はなんでもない会話をしながらも、ドキドキと胸が高鳴ってはいた。これはどうしようもない。
謙士は黙って最後に残った皿を丁寧に拭き、棚へと片付けていた。どこかぼんやりしているようでもある。返事がないのが証拠だ。
「謙士?」
「あ…はい。飲みます!」
「…良かった」
沸かしたお湯を一旦冷ましたあと、サーバーの上にドリッパーを置いてお湯を注ぐ。もこもこと豆が盛り上がった。
いつものあれだ。まるで生き物の様なそれは見ていて飽きない。コーヒーの香りが本格的に漂う。
と、気が付けば謙士がこちらを見つめていた。
「どうした?」
「いえ…その…。変わりないなって…」
もどかしそうな顔をして俯く。
「──そう、見える? これでもさ。結構緊張してるんだ。…意識もね」
「!」
その言葉に謙士がぱっと顔を上げた。
まるで、褒められた犬の様だと思う。クマだったり犬だったり。謙士は忙しい。
文人は手元のドリッパーにお湯を注ぎながら。
「…僕ね。結構怖がりなんだ。前に付き合っていた人、亡くしてから余計に…。もともと同性同士は気を遣うけど、傷つくのももう嫌で…。慎重になってる」
「…はい」
「謙士がさ、どこまで真剣なのか分からない。…けどもし、どこかに付き合えばなんとかなるとか、好きなら乗り越えられるとか。思っているなら、やめた方がいい。──というか、やめて欲しい」
「……」
「こう見えて、僕一直線なんだよね。好きだとなったら。──なのに、そこまで思いがないのに来られると──大抵壊れてさ。…もう、こりごりで」
情けないが本音だ。
好きになる自分が悪いのだ。相手が乗せたから、じゃない。
引き返すことだってできたのに、相手がひるんでいるのを分かって付き合って。
結局、寂しかったのだ。それでもいいからと、付き合ってしまう自分。弱いと思う。
きちんと一人で立てるようになって、初めてひとと付き合うべきなのだろうと思った。
もう、吹っ切れてはいると思うけれど。
時折、現れる元恋人の影に、やはり心揺さぶられる。
「俺…」
謙士が口を開こうとするが。文人は淹れ終わったコーヒーをカウンターにおくと。
「飲もう。冷めちゃうよ」
「……」
言われて謙士はカウンターにつく。文人もその隣に腰かけた。
横からクマのぬいぐるみがじっと見ている。
これで終わるのか、始まるのか。
今の言葉でもしかしたら──終わりに傾いたかもしれない。
それならそれでいい。これくらいで引くなら、それまでだったのだ。けれど、それを哀しく思う自分もいた。
返事次第では、もうここへ謙士が来なくなってしまうのだから。
26
あなたにおすすめの小説
青龍将軍の新婚生活
蒼井あざらし
BL
犬猿の仲だった青辰国と涼白国は長年の争いに終止符を打ち、友好を結ぶこととなった。その友好の証として、それぞれの国を代表する二人の将軍――青龍将軍と白虎将軍の婚姻話が持ち上がる。
武勇名高い二人の将軍の婚姻は政略結婚であることが火を見るより明らかで、国民の誰もが「国境沿いで睨み合いをしていた将軍同士の結婚など上手くいくはずがない」と心の中では思っていた。
そんな国民たちの心配と期待を背負い、青辰の青龍将軍・星燐は家族に高らかに宣言し母国を旅立った。
「私は……良き伴侶となり幸せな家庭を築いて参ります!」
幼少期から伴侶となる人に尽くしたいという願望を持っていた星燐の願いは叶うのか。
中華風政略結婚ラブコメ。
※他のサイトにも投稿しています。
禁書庫の管理人は次期宰相様のお気に入り
結衣可
BL
オルフェリス王国の王立図書館で、禁書庫を預かる司書カミル・ローレンは、過去の傷を抱え、静かな孤独の中で生きていた。
そこへ次期宰相と目される若き貴族、セドリック・ヴァレンティスが訪れ、知識を求める名目で彼のもとに通い始める。
冷静で無表情なカミルに興味を惹かれたセドリックは、やがて彼の心の奥にある痛みに気づいていく。
愛されることへの恐れに縛られていたカミルは、彼の真っ直ぐな想いに少しずつ心を開き、初めて“痛みではない愛”を知る。
禁書庫という静寂の中で、カミルの孤独を、過去を癒し、共に歩む未来を誓う。
【完結済】どんな姿でも、あなたを愛している。
キノア9g
BL
かつて世界を救った英雄は、なぜその輝きを失ったのか。そして、ただ一人、彼を探し続けた王子の、ひたむきな愛が、その閉ざされた心に光を灯す。
声は届かず、触れることもできない。意識だけが深い闇に囚われ、絶望に沈む英雄の前に現れたのは、かつて彼が命を救った幼い王子だった。成長した王子は、すべてを捨て、十五年もの歳月をかけて英雄を探し続けていたのだ。
「あなたを死なせないことしか、できなかった……非力な私を……許してください……」
ひたすらに寄り添い続ける王子の深い愛情が、英雄の心を少しずつ、しかし確かに温めていく。それは、常識では測れない、静かで確かな繋がりだった。
失われた時間、そして失われた光。これは、英雄が再びこの世界で、愛する人と共に未来を紡ぐ物語。
全8話
君さえ笑ってくれれば最高
大根
BL
ダリオ・ジュレの悩みは1つ。「氷の貴公子」の異名を持つ婚約者、ロベルト・トンプソンがただ1度も笑顔を見せてくれないことだ。感情が顔に出やすいダリオとは対照的な彼の態度に不安を覚えたダリオは、どうにかロベルトの笑顔を引き出そうと毎週様々な作戦を仕掛けるが。
(クーデレ?溺愛美形攻め × 顔に出やすい素直平凡受け)
異世界BLです。
綴った言葉の先で、キミとのこれからを。
小湊ゆうも
BL
進路選択を前にして、離れることになる前に自分の気持ちをこっそり伝えようと、大真(はるま)は幼馴染の慧司(けいし)の靴箱に匿名で手紙を入れた。自分からだと知られなくて良い、この気持ちにひとつ区切りを付けられればと思っていたのに、慧司は大真と離れる気はなさそうで思わぬ提案をしてくる。その一方で、手紙の贈り主を探し始め、慧司の言動に大真は振り回されてーー……。 手紙をテーマにしたお話です。3組のお話を全6話で書きました!
表紙絵:小湊ゆうも
彼の理想に
いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。
人は違ってもそれだけは変わらなかった。
だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。
優しくする努力をした。
本当はそんな人間なんかじゃないのに。
俺はあの人の恋人になりたい。
だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。
心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる