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黽池の会【藺相如・昭襄王】3
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「ねぇ秦王、趙王は楽しう瑟を弾きましたんよぅ。そうでしょう? 次は秦王の順番ちゃうんかなぁ?」
そんなことはできるはずもない。
徳利と盆を打ち鳴らす。確かにそんな楽しみ方もある。しかしそれは庶民が行うものだ。貴族の、ましてや王が行うものでは断じてない。
なのに、その冥府の王はするすると蛇が地を這うがごとく秦王の膝もとまで至ってその長い指を伸ばし、徳利を秦王の顔に近づける。顔につくほどに近く。徳利から酒がこぼれ、冥府の王の袖にかかり、また甘い香りが周囲を漂う。異質な雰囲気に、その口から漏れあふれる粘りつくような呪詛に絡め取られて誰も動くことはできなかった。
「あぁあどうしてもだめなんかなぁ? そんなら困るねぇ? ふふふまた私は無礼なんやろうかぁ? それやったら今度こそ私の首を切り落としてしもたらどうやろなぁ? あぁでもそうなると王に血ぃがようけかかってしまうねぇ? ほぅらこんな近うなってしもうたさかいに」
冥府の王はぬるりと秦王のそばに絡まるように立ち、冷気とともに秦王を見下ろす。
「ぶっ無礼な!!」
そう言って気力を振り絞って刀を抜こうとした武官は冥府の王の視線に貫かれて即座に刀を取り落す。
その目は明確にこう言っていた。
近づいたら秦王を殺す
冥府の王の長い指がつまむ徳利は秦王の頬につくほど近く、それはいかにも容易に思えた。
秦王は口をパクパクしながら何かを求めて軽く左右に目を配ったが、その触れるような距離に間に合う者はいなかった。秦王はやむなく冥府の王から徳利を受け取り、おそるおそる冥府の王の持つ盆にひとあて、そのコツリという小さな音は静まり返った場にひどく大きく響いた。
「書士の方、ちゃんと記録してぇなぁ」
可哀想な書記官は蚊の泣くような小さな声で述べた。
「ほほほ本日、秦王はッ趙王のたメに徳利をををを打つッ」
書記官は他国の臣下に指図されるいわれはないけれども、その場にいた者は誰もが書記官に同情の眼差しを送った。それを見て秦王はギョロリと一同を睨んだ。
冥府の王は秦王に背を向け地獄に底に帰還する途中、その視線が趙王側に向いていたせいか、秦王側に対する圧が少し弱まった。
その隙に文官の1人が勇気を振り絞り叫んだ。
「ちちちち趙の15城市をを献上して秦王ののの幸福を祝してはどどどうでしょうかッ!?」
それはもともとこの宴で秦が趙から奪おうとしていたもの。和氏の璧の意趣返し。秦が渡すと申し向けた15の城市と同じ数。
冥府の王はゆっくり振り向き、何やら妙に優しげな視線でその文官を眺める。その瞬間、文官は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「それはえぇ話やねぇ。ほんなら秦王も咸陽を献上して趙王の幸福を寿いではどうやろうなぁ?」
そのまま冥府の王はするすると席に戻り、その帰り際に趙王の肩をとんとんとその長い指でつついた。
顔を上げた超王はキョロキョロと周りを見渡し、よくわからない、というように首を少しかしげた。
咸陽は秦の国都である。献上するなどありえない。
そんなことがわからぬ者はここにはいない。
その後も秦の文官が口を開こうとすると何か音を発する前に超王の後ろから発せられる視線に貫かれ、何も言うことができなくなった。
楽しげな宴はまるで通夜のような雰囲気となり、ただ趙王ばかりがキョロキョロとするのみであった。
秦の臣下はみんな思った。
なんで趙王はあんなのを配下にして平気なんだろう……。
◇◇◇
「ふぅ、一時はどうなることかと思ったけど、何もなくて和議を結べてよかったよ」
「ほんまにそうですなぁ」
恵文王と藺相如は帰りの馬車の中で背後に遠ざかる秦の青い山々を見ながら菓子をつまんでいた。
「目を瞑ってるように言ったのはなんだったたの?」
「ああ、あれはまあちょっと、お耳にいれんほうがええかと思て」
「ふうん? まあいいや。でも秦はやっぱり信用できないから、また攻めてきたら嫌だよね」
「大丈夫ですよ。廉頗がちゃんと兵整えとるから」
「え、そうなの?」
「そうそう、まあ大丈夫でしょうよ、王が生きとる間は」
「またなんか不吉なこと言う~」
カラカラと回る車輪の先には国境で大きく手を振る廉頗の姿が見えた。
-付言
原典:史記 廉頗・藺相如列伝 第二十一
恵文王の時代は基本的に廉頗と趙奢と平原君ががんばるから趙はわりかし平和でした。
まあ戦争はしてたんだけど。
恵文王が亡くなった後は長平の戦いで秦の白起にボロ負けします。
何十万人生き埋めにされたっていうアレです。
そんなことはできるはずもない。
徳利と盆を打ち鳴らす。確かにそんな楽しみ方もある。しかしそれは庶民が行うものだ。貴族の、ましてや王が行うものでは断じてない。
なのに、その冥府の王はするすると蛇が地を這うがごとく秦王の膝もとまで至ってその長い指を伸ばし、徳利を秦王の顔に近づける。顔につくほどに近く。徳利から酒がこぼれ、冥府の王の袖にかかり、また甘い香りが周囲を漂う。異質な雰囲気に、その口から漏れあふれる粘りつくような呪詛に絡め取られて誰も動くことはできなかった。
「あぁあどうしてもだめなんかなぁ? そんなら困るねぇ? ふふふまた私は無礼なんやろうかぁ? それやったら今度こそ私の首を切り落としてしもたらどうやろなぁ? あぁでもそうなると王に血ぃがようけかかってしまうねぇ? ほぅらこんな近うなってしもうたさかいに」
冥府の王はぬるりと秦王のそばに絡まるように立ち、冷気とともに秦王を見下ろす。
「ぶっ無礼な!!」
そう言って気力を振り絞って刀を抜こうとした武官は冥府の王の視線に貫かれて即座に刀を取り落す。
その目は明確にこう言っていた。
近づいたら秦王を殺す
冥府の王の長い指がつまむ徳利は秦王の頬につくほど近く、それはいかにも容易に思えた。
秦王は口をパクパクしながら何かを求めて軽く左右に目を配ったが、その触れるような距離に間に合う者はいなかった。秦王はやむなく冥府の王から徳利を受け取り、おそるおそる冥府の王の持つ盆にひとあて、そのコツリという小さな音は静まり返った場にひどく大きく響いた。
「書士の方、ちゃんと記録してぇなぁ」
可哀想な書記官は蚊の泣くような小さな声で述べた。
「ほほほ本日、秦王はッ趙王のたメに徳利をををを打つッ」
書記官は他国の臣下に指図されるいわれはないけれども、その場にいた者は誰もが書記官に同情の眼差しを送った。それを見て秦王はギョロリと一同を睨んだ。
冥府の王は秦王に背を向け地獄に底に帰還する途中、その視線が趙王側に向いていたせいか、秦王側に対する圧が少し弱まった。
その隙に文官の1人が勇気を振り絞り叫んだ。
「ちちちち趙の15城市をを献上して秦王ののの幸福を祝してはどどどうでしょうかッ!?」
それはもともとこの宴で秦が趙から奪おうとしていたもの。和氏の璧の意趣返し。秦が渡すと申し向けた15の城市と同じ数。
冥府の王はゆっくり振り向き、何やら妙に優しげな視線でその文官を眺める。その瞬間、文官は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「それはえぇ話やねぇ。ほんなら秦王も咸陽を献上して趙王の幸福を寿いではどうやろうなぁ?」
そのまま冥府の王はするすると席に戻り、その帰り際に趙王の肩をとんとんとその長い指でつついた。
顔を上げた超王はキョロキョロと周りを見渡し、よくわからない、というように首を少しかしげた。
咸陽は秦の国都である。献上するなどありえない。
そんなことがわからぬ者はここにはいない。
その後も秦の文官が口を開こうとすると何か音を発する前に超王の後ろから発せられる視線に貫かれ、何も言うことができなくなった。
楽しげな宴はまるで通夜のような雰囲気となり、ただ趙王ばかりがキョロキョロとするのみであった。
秦の臣下はみんな思った。
なんで趙王はあんなのを配下にして平気なんだろう……。
◇◇◇
「ふぅ、一時はどうなることかと思ったけど、何もなくて和議を結べてよかったよ」
「ほんまにそうですなぁ」
恵文王と藺相如は帰りの馬車の中で背後に遠ざかる秦の青い山々を見ながら菓子をつまんでいた。
「目を瞑ってるように言ったのはなんだったたの?」
「ああ、あれはまあちょっと、お耳にいれんほうがええかと思て」
「ふうん? まあいいや。でも秦はやっぱり信用できないから、また攻めてきたら嫌だよね」
「大丈夫ですよ。廉頗がちゃんと兵整えとるから」
「え、そうなの?」
「そうそう、まあ大丈夫でしょうよ、王が生きとる間は」
「またなんか不吉なこと言う~」
カラカラと回る車輪の先には国境で大きく手を振る廉頗の姿が見えた。
-付言
原典:史記 廉頗・藺相如列伝 第二十一
恵文王の時代は基本的に廉頗と趙奢と平原君ががんばるから趙はわりかし平和でした。
まあ戦争はしてたんだけど。
恵文王が亡くなった後は長平の戦いで秦の白起にボロ負けします。
何十万人生き埋めにされたっていうアレです。
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