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1章 僕の怪談のはじまり ~新谷坂山の口だけ女~
神社合祀と伝承の断絶
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いつもお読みいただき、ありがとうございます。
今日は第一章の『僕の怪談のはじまり』の3話でチラッと出た『神社の合祀とか廃祀とか』のあれこれです。
ニワカですので、あんまり深くは突っ込まない方針で客観的にいきたいと思ってます。
【1】神社の合祀
ところで神社ってなんとなく昔からずっと変わらずあるものと思いますよね。まぁ神様を祀っているんだからそんなにコロコロ変わっても困るというか。
けれども事実は大分異なり、幕末明治期で激動の中を潜り抜けてきたのです。
明治39年に発布された「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件」ってご存じでしょうか。
短いので、全文引用してみます。少し平易文に直しました。
「勅令第220号
神社寺院佛堂の合併により不要に帰したる境内官有地は官有財産管理上必要のものを除くの外内務大臣において、これをその合併したる神社寺院佛堂に譲興することを得。」
これは国立公文書館デジタルアーカイブに原文が保管されています。
これだけ見るとそうは思えないですが、最終的には、1つの町村には1つの神社にしなさい、と解釈されました。
どう解釈されたのは後に譲りますが、この勅令は都道県知事への裁量が大きかったとされています。
実際に京都は1割くらいしか減ってないようです。京都は他より寺社仏閣というか、宗教勢力の力が強かったのかも。そういえば朝廷にも明治2年まで陰陽寮もありました。
陰陽寮は明治2年に天社禁止令によって廃止されたのですが、これは最後の陰陽師である土御門晴雄の薨去を機に行われたものです。この令によって公式職としての陰陽師は終了しました。なので、今いる陰陽師は自称陰陽師です。
その陰陽寮は飛鳥時代に天武天皇によって設置された古い機関です。陰陽師というとなぜか歌いながら呪文を唱える印象が強いですが、江戸時代以降に重要なのは暦の編纂、そのための天文知識、そして漏刻(時間の管理)です。
ところが、明治政府がグレゴリオ暦を採用して天文・暦法のお仕事がなくなり、最後期には大嘗祭等の儀典のお仕事くらいしかなかったようです。こちらは文科省の天文台に引き継がれたようですね。
この辺の話はアルファにはまだUPしてないけど『陰陽師土御門鷹一郎』っていうシリーズに関連するのでそのうちもってきます(宣伝失礼)。
そんなわけで京都では寺社のちからは強かったものの、一方、三重や和歌山は合祀が多く行われて、三重は9割くらいの神社がなくなったそうです。
これについては、反対運動は行われたものの、そんなに大規模には行われていなかったようです。
その1人に南方熊楠がいます。
南方熊楠はどちらかというと、植物学とか粘菌学で有名な人ですが、民俗学等を含めてあらゆる事象に興味赴く人だったようです。
和歌山にある南方熊楠記念館に行ったことあるのですが、そこは鉱石とか粘菌とかの博物学的なものがメインだった記憶。小高い山の上にあって景色が結構よかったです。
おそらくとても魅力的な人物だと思うのですが、変り者でもあったようです。酔っぱらって人の家に押し入って逮捕されて入った刑務所で粘菌みつけて発表しています。
そんな南方熊楠が記した「神社合祀に関する意見」では、合祀の状況についてこんな風にかかれています。
なお、青空文庫で全文読めます。これも多少平易に直しました。
【去年12月19日と今年1月20日の『読売新聞』によれば、在来の19万400社の内より、すでに府県社5、郷社15、村社5652、無格社51566、計57238社を合併しおわり、目下合併準備中のもの、府県社1、郷社12、村社3500、無格社18900、計22413社あり。残れる11万ばかりの神社もなお減ずべき見込み多】い。
この時点で、全国の自社の1/3以上は合併または廃社です。
さて、そもそも明治政府は何故これほど神社を減らそうとしたのでしょうか。
明治政府は国家神道を採用していました。神社が名目的に多くあるよりまとめて資本を投下して威厳を保ちたい、というのと、後でも少し書きますが、仏教が管理してた檀家を神社に移行しよう、という狙いがあったようです。
ただ、なんとなく近代化の流れも感じます。文明開化の中で、宗教の合理化の動きがあった。神道は民間伝承色も強くて怪しげなのも多かったのです。これらを推進したのが国学派という人々で、国家神道というものを推し進めていくために有象無象の古事記に基づかないよくわからないものを一層してやれというのがざっくり行ったところの国学派の考えでした。詳しくは後に回します。
そして合祀にあわせて鎮守の森や御神木もずいぶん伐採され、南方熊楠はこの点も反対しています。
ところで今回のテーマは神社合祀ですが、近世というレベルで広く見ると、この頃廃されたのは神社だけじゃありませんでした。
【2】本地垂迹に見られる日本の宗教感
ところで、仏教と神道の違いはご存じでしょうか。
仏教はインド伝来の釈迦(ゴーダマ・シッダールダ)を開祖とした教え、経典及びそれに基づく教義解釈、神道は古事記・日本書紀をはじめとした日本神話を起点とした民間伝承、そう考えるのが今の世の中です。
ところが、これは少なくとも200年以上前は一般的な考えではありませんでした。
【神仏習合】という考えがあります。日本では奈良時代に仏教が入ってきましたが、その後、護国のために広く仏教寺院が建てられるようになりました。聖徳太子のころですね。
そういえば聖徳太子は聖人君主なイメージですが、実際はアグレッシブな人で、若い頃は戦争ばっかりしています。蘇我氏と物部氏が仏教布教をめぐって争ったと学校で習いますが、多分実態としては信心の話じゃ全然なくて、軍事とか外交とかの方面の争いと思われます。
そして、その頃から神社と仏閣はどんどん混ざっていきます。
まったりまじりあって平安時代には神社でお経を唱えるとかかなりゆるふわな感じになりました。神宮寺とか別当寺とかですが、神社の中にお寺を建てたりお寺の中で神社を建てたりしています。
今でも結構残っていて、日光東照宮の中にはお寺があるし、奈良の宝生寺には鳥居がある。少なくとも国学が起こる江戸中期くらいまではこれが普通でした。
でも、仏教と神道が混ざり合った場合、何に祈ればいいのでしょう。
基本的には同じものに祈ってるって考えます。「神様仏様」はまさにその表れ。
この辺がさっきの『仏教と神道は何が違うの』っていうとこにもどります。
そもそも、神様って違う宗教でも同時並行で存在することはわりとよくあります。その場合は他の神を下に置くことが多いです。これはアジアだけじゃなくてキリスト教でもそうですが、征服して行った地の神様を悪魔に落として恐れさせるのはよくあること。オリエントの慈雨の神のバアルセブルが蝿の王ベルゼブブになったり枚挙にいとまがありません。神様の世界も戦争で大変なのです。
イスラム教も似ていて、アダム、ノア、エイブラハム、モーゼ、イエスの5人の予言を完成させたのが最後の預言者ムハンマドのコーラン、という定義で優位性を主張しています。
日本でカオスなのは「本地垂迹」という考えをしたことです。これは、『もともとは仏教の神様なんだけど、仮の姿で現れたのが日本の神様』と考えます。反本地垂迹説っていう変化後のほうが本質という考え方もあるけど、もとの仏教を否定したりはされません。
そうすると大日如来が天照大御神になるわけです。
対応を見てると色々面白くて、千手観音が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)になってたりします。どういう共通点なんでしょうね。
このように日本ではあまり神道や仏教を信仰的にも理屈的にもあまり区別せずに、地域の守り手とか道徳教育の担い手的なものとして、ゆるふわく信仰されていたました。地域色も濃い。あ、禅寺とか修験者を除いた民間信仰としての話です。ガチ勢は別です。
そんなわけで昔の神道は地域の氏神を中心としていましたし、かなり自由度が高すぎます。
とりあえずそんな神仏習合は、戦国時代になって儒教とより深く混じり合い天道思想に至ります。簡単にいうと、すべての宗教は一つにつながり、人の行いは天道様が見ていて最終的には自分に返ってくる、ってもの。まぁ、昔でいうところの「お天道様がみている」ってやつです。
このころ、天命、とかなんとなく厨二っぽい言葉が流行ります。
なお、最初はキリスト教もお天道に入っていましたが、日本人を奴隷にして海外に売ってたのがバレたので排除されました。豊臣秀吉の行った『天正十五年六月十八日付覚』でも日本人の売買を禁止しています。なお、当初の覚自体は、むしろ信教の自由を認めるような内容でキリスト教自体を否定するものではありません。まあその後『吉利支丹伴天連追放令』いわゆるバテレン追放令ではキリスト教を邪法と断じています。キリスト教は日本人奴隷をたくさん売りすぎた。
この時の統治者が豊臣秀吉ってのも大きかったのだと思います。この当時は日本でも人身売買自体は普通にありましたしポルトガルにおける奴隷制度も日本の人身売買とさほど変わらなかったようです。
しかし豊臣秀吉は労働力確保の観点から人身売買禁止を何本も出していて、ポルトガル本国とも掛け合って最終的には本国でも日本人奴隷が禁止になりました。まあ結局は本国で禁止令をだしても目が届かない東アジア領域にはたくさん奴隷が連れて行かれたわけですが。
この辺の書簡とかやりとりを見てると、キリスト教の奴隷感が興味深いです。
ゆるふわな宗教観が終わるのは江戸時代末期。
実際には江戸時代を通して少しづつ雰囲気はかわってて交じりあいながらもだんだん仏教が強くなっていった。これは教えとか信仰とかじゃなくて、生臭い権力的な話です。
徳川幕府は民衆の管理のために寺請制度をとっていました。お寺が寺請証文っといってキリシタンじゃないという証明をします。これがのちには戸籍のようなものになり、転居等にも証文が必要になりました。檀家にならないと葬式もできない。こういう流れで仏教僧侶の権力が強くなっていきます。
そこで神仏分離と廃仏毀釈の流れです。
【3】国家神道以外の宗教の排除
明治政府は武力による革命政権です。だから権威付けが必要でした。
王権神授説的な。そこで『国家神道』という概念を作ります。
国家神道に権威を持たせるためには、神道と仏教が混じったなんだかよくわからない状況なのはまずい。仏教の力も弱めたい。
そういう思惑も上で、明治1年前後に、全部合わせると「神仏分離令」と呼ばれる布告類を出しました。
具体的には、神社にいるお坊さんを還俗させたり神社に仏像を安置するのを禁止したり。そこから本居宣長や平田篤胤らの系譜の国学者が神官と一緒に民衆を煽って「廃仏毀釈」を起こします。
そこで現れるのが「ええじゃないか」。
「ええじゃないか、ええじゃないか」っていって町を踊りまわるものですが、少し詳しく見ていくと、「天から御札が降ってくる、慶事の前触れだ」という噂で踊り狂うんです。なんか狂気。
ちなみにこれ、慶応3年の夏から秋の出来事です。慶応4年が明治元年で、神仏分離とほぼ時期が被る。多分、「ええじゃないか」のノリで仏寺に襲い掛かったのが廃仏毀釈じゃないかな。
平田派の仕込み感が強いけど、とりあえず妄想ということで。
廃仏毀釈は神仏分離を拡大解釈して民衆が「勝手に」行ったといわれています。
寺に火を放ち暴徒が押し寄せ、仏像に矢を射かけて地蔵を打ち壊す。仏像・仏具・仏塔・仏跡なんでもかんでも壊され持ち去られ、何が何だかわからなくなりました。
そのどさくさに紛れてか、神社のご神体が入れ替わり、お祀りする神様も変わりました。つまり、今の神社は明治以前と違うものを祀ってるってことは普通に多いのです。
その被害は文化的には文革レベルじゃないでしょうか。貴重な経典や資料はかなり失われました。
明治4年と8年に上知令が出され、寺社領をのある寺社の所領が次々に切り取られていきました。京都の清水寺も、往時の1/10サイズになったそうです。
この流れで、日本の仏寺は半分まで減りました。
なお上知令というと水野忠邦の天保の改革のほうが有名ですが、今回は明治政府が行った上知令についてです。
当時、寺社は寺社領という領地を持っていました。これは寺社を運営するためのものですが、そもそもは古代の荘園のころからある制度です。今回は江戸時代のころの話なのでそこを中心にですが、豊臣秀吉は太閤検地で寺社領のほとんどを解体しました。その後徳川幕府になって、幕府から朱印状を付されたものを朱印地、大名から黒印状を付されたものを黒印地として一部が寺社に返還されました。
それらを明治政府が上知令で境内以外の寺社領地を返還させました。
色々例はあるのですが、ぱっと思いついて大きいのは次の通りです。
上野にある動物園や各種博物館がある上野公園はもとは上野東照宮の寺社領です。溜池山王の議員会館や国会議事堂あたりは、確か日枝神社の寺社領です。
京都だと花見小路界隈は建仁寺の寺社領で、円山公園あたりも八坂神社あたりの複数の寺社領だったと記憶しています。あとは、奈良県庁とか奈良地裁とかあのあたり一帯は興福寺の寺社領だったんじゃないかな。
上記のように土地利用のために利用されたケースも多いのですが、今回話題にあげた清水寺及び高台寺は山林伐採のためのもののようです。江戸時代は寺社が管理していた京都三山は、明治時代にはげ山になりました。
このような利用の他にも、民間に競売された旧寺社領も多かったようです。
ともあれ、幕末明治を期に、日本の宗教観は恐ろしく確変されたというお話でした。
何故こんなことになってしまったのか。
先ほどの寺請制度でお寺の腐敗がひどくて民衆の不満がたまってたっていうのが通説ですが、長年の話だろうしそんな急に爆発するだろうか? むしろ時代的な狂気を感じる。やっぱり革命前夜・後ってテンションがおかしいんじゃないかな。
神官と平田派がタッグを組んで煽りに煽ったっていう話だし。
先ほどから出ているこの平田派というのは江戸中期に起こった国学という日本の根っこを見直そうという学派です。有名なのは本居宣長・平田篤胤で、古い神道を復活させようとしていた。ちなみに古神道という名前でも呼ばれますが、幕末にできた新興宗教です。
そんなわけで神仏分離・廃仏毀釈・神社合祀とコンポが続いて日本の宗教界は虫の息です。こんな状態で廃祀されて、その後復祀(復活)されても、伝承が続かなくても道理ですよね。
そんなわけで作中の新谷坂神社も神社合祀で廃された後、復活はしたけどいわれは失われています。今は神津市の神職が片手間管理しています。
作中にあった昔のトンネル工事っていうのは、神社合祀の際の自然破壊なのかもしれません。
【4】結局のところ国家神道とは何か
以下は政治的な話を多少含むので、ご興味がないかたは次の項まで飛ばしてください。
国家神道が何か、というのは実は難しい。国家神道という言葉自体は大戦後にGHQが使用したのが初出です。
ざっくりいうと明治にできた新興宗教。天皇陛下御一家を現人神として、わかりやすく王権神授説に則ったものと思われます。
なお、日本には人を神とする考えは昔からありました。菅原道真は天神様、徳川家康は東照大権現で、それぞれ太宰府天満宮と日光東照宮に祀られています。ですから、人が神になること自体はそれほど珍しくはありません。いや、珍しいと言えば珍しいのは間違いないんだけど。
珍しいのはその枠組み。
国家神道は宗教ではないんです。 明治時代の「大日本帝国憲法」にも「信教の自由」はありました。
もともと、明治政府は王政復古(まつりごとを古い時代に戻す)と祭祀一致(宗教と政治を一致させる)を目指していて、天皇を中心とした国家神道を国教にしようとしていました。
当時は強大な欧米列強に対抗する必要があって、国を一致団結して引っ張っていく、という目的には必要だったのかもしれません。この辺は3章の備忘でもちょっと書く。
で、平田派が強プッシュして神仏分離を強行しましたが、平田派自身は理論派であって実践派じゃない。古典復興しか言わない平田派では新しい時代の舵取りは難しかったのかもしれません。すぐあとの明治4年に、神祇官という祭祀をつかさどる役職ができるころには平田派の重鎮は国事罪(内乱罪のようなもの)で捕まってしまいました。
それで神祇官は国家神道を広げる役職なのに、内ゲバ的に宗教論争・権力闘争をして結局倒れてしまいます。それでやっぱり神祇官は廃止して、仏教主導で明治5年に教部省ができますが、これも結局キリスト教の外圧に倒れてなくなって(それだけではないけども)、最終的には大日本帝国憲法に「信教の自由」が入ります。
なお、教部省が教えを広めるために作った大教院というのが増上寺に作られたのですが、放火されて本堂が全焼しました。増上寺は東京タワーの真下にあって、結構きれいなお寺です。
すげぇグダグダ。
このころにはもう国家神道の内実はグダグダです。憲法にも信教の自由を入れてしまった。けれども目的の、国民が一致団結して国は守らねばならないという前提条件は変わらない。そこでコペルニクス的転回の登場です。
国家神道は「国家の宗祀」である。「宗祀」をweblioで調べると、「最も大切なものとしてまつること。」と出ます。ようするに、国で一番大切なことだから、他の宗教とは違うよっていうこと。神道はもともと民間信仰で、固定の教義も特にないから宗教じゃないっていう理屈もつけて。
それで、神(現人神)を敬うことを国民の義務として、明治憲法発布の翌年に教育勅語を道徳の基本として発布されます。
実際「国家神道」が何かっていうのは自分もよくわかりません。宗教というよりは組織を作るための制度っぽい気がしますね。
【5】次回予告
そんなわけであんまりまとまらなかったです。
歴史の話を面白く書くのは難しい。本当は神社神道と教派神道とか、日本書紀って何かとかも書きたかったけれど、それは継ぎに譲ろう。
次の備忘は多分6話目と同時くらいに入ります。次は唐突に【富士登山と高山病】という話になりますが、何でもありのエッセイなのでお気楽に。その後はえーと【死体の分類とエジプト神話】についてです。ネタバレになるので今のところタイトルは伏せ。何が何だかよくわかりませんね。
本編のお知らせですが、この少しあと、いよいよ東矢一人は新谷坂の封印を解いてしまいます。それが全ての始まりで、ここからわけのわからない事件に巻き込まれていく。
こりずにまた読んでいただけると嬉しいです。
今日は第一章の『僕の怪談のはじまり』の3話でチラッと出た『神社の合祀とか廃祀とか』のあれこれです。
ニワカですので、あんまり深くは突っ込まない方針で客観的にいきたいと思ってます。
【1】神社の合祀
ところで神社ってなんとなく昔からずっと変わらずあるものと思いますよね。まぁ神様を祀っているんだからそんなにコロコロ変わっても困るというか。
けれども事実は大分異なり、幕末明治期で激動の中を潜り抜けてきたのです。
明治39年に発布された「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件」ってご存じでしょうか。
短いので、全文引用してみます。少し平易文に直しました。
「勅令第220号
神社寺院佛堂の合併により不要に帰したる境内官有地は官有財産管理上必要のものを除くの外内務大臣において、これをその合併したる神社寺院佛堂に譲興することを得。」
これは国立公文書館デジタルアーカイブに原文が保管されています。
これだけ見るとそうは思えないですが、最終的には、1つの町村には1つの神社にしなさい、と解釈されました。
どう解釈されたのは後に譲りますが、この勅令は都道県知事への裁量が大きかったとされています。
実際に京都は1割くらいしか減ってないようです。京都は他より寺社仏閣というか、宗教勢力の力が強かったのかも。そういえば朝廷にも明治2年まで陰陽寮もありました。
陰陽寮は明治2年に天社禁止令によって廃止されたのですが、これは最後の陰陽師である土御門晴雄の薨去を機に行われたものです。この令によって公式職としての陰陽師は終了しました。なので、今いる陰陽師は自称陰陽師です。
その陰陽寮は飛鳥時代に天武天皇によって設置された古い機関です。陰陽師というとなぜか歌いながら呪文を唱える印象が強いですが、江戸時代以降に重要なのは暦の編纂、そのための天文知識、そして漏刻(時間の管理)です。
ところが、明治政府がグレゴリオ暦を採用して天文・暦法のお仕事がなくなり、最後期には大嘗祭等の儀典のお仕事くらいしかなかったようです。こちらは文科省の天文台に引き継がれたようですね。
この辺の話はアルファにはまだUPしてないけど『陰陽師土御門鷹一郎』っていうシリーズに関連するのでそのうちもってきます(宣伝失礼)。
そんなわけで京都では寺社のちからは強かったものの、一方、三重や和歌山は合祀が多く行われて、三重は9割くらいの神社がなくなったそうです。
これについては、反対運動は行われたものの、そんなに大規模には行われていなかったようです。
その1人に南方熊楠がいます。
南方熊楠はどちらかというと、植物学とか粘菌学で有名な人ですが、民俗学等を含めてあらゆる事象に興味赴く人だったようです。
和歌山にある南方熊楠記念館に行ったことあるのですが、そこは鉱石とか粘菌とかの博物学的なものがメインだった記憶。小高い山の上にあって景色が結構よかったです。
おそらくとても魅力的な人物だと思うのですが、変り者でもあったようです。酔っぱらって人の家に押し入って逮捕されて入った刑務所で粘菌みつけて発表しています。
そんな南方熊楠が記した「神社合祀に関する意見」では、合祀の状況についてこんな風にかかれています。
なお、青空文庫で全文読めます。これも多少平易に直しました。
【去年12月19日と今年1月20日の『読売新聞』によれば、在来の19万400社の内より、すでに府県社5、郷社15、村社5652、無格社51566、計57238社を合併しおわり、目下合併準備中のもの、府県社1、郷社12、村社3500、無格社18900、計22413社あり。残れる11万ばかりの神社もなお減ずべき見込み多】い。
この時点で、全国の自社の1/3以上は合併または廃社です。
さて、そもそも明治政府は何故これほど神社を減らそうとしたのでしょうか。
明治政府は国家神道を採用していました。神社が名目的に多くあるよりまとめて資本を投下して威厳を保ちたい、というのと、後でも少し書きますが、仏教が管理してた檀家を神社に移行しよう、という狙いがあったようです。
ただ、なんとなく近代化の流れも感じます。文明開化の中で、宗教の合理化の動きがあった。神道は民間伝承色も強くて怪しげなのも多かったのです。これらを推進したのが国学派という人々で、国家神道というものを推し進めていくために有象無象の古事記に基づかないよくわからないものを一層してやれというのがざっくり行ったところの国学派の考えでした。詳しくは後に回します。
そして合祀にあわせて鎮守の森や御神木もずいぶん伐採され、南方熊楠はこの点も反対しています。
ところで今回のテーマは神社合祀ですが、近世というレベルで広く見ると、この頃廃されたのは神社だけじゃありませんでした。
【2】本地垂迹に見られる日本の宗教感
ところで、仏教と神道の違いはご存じでしょうか。
仏教はインド伝来の釈迦(ゴーダマ・シッダールダ)を開祖とした教え、経典及びそれに基づく教義解釈、神道は古事記・日本書紀をはじめとした日本神話を起点とした民間伝承、そう考えるのが今の世の中です。
ところが、これは少なくとも200年以上前は一般的な考えではありませんでした。
【神仏習合】という考えがあります。日本では奈良時代に仏教が入ってきましたが、その後、護国のために広く仏教寺院が建てられるようになりました。聖徳太子のころですね。
そういえば聖徳太子は聖人君主なイメージですが、実際はアグレッシブな人で、若い頃は戦争ばっかりしています。蘇我氏と物部氏が仏教布教をめぐって争ったと学校で習いますが、多分実態としては信心の話じゃ全然なくて、軍事とか外交とかの方面の争いと思われます。
そして、その頃から神社と仏閣はどんどん混ざっていきます。
まったりまじりあって平安時代には神社でお経を唱えるとかかなりゆるふわな感じになりました。神宮寺とか別当寺とかですが、神社の中にお寺を建てたりお寺の中で神社を建てたりしています。
今でも結構残っていて、日光東照宮の中にはお寺があるし、奈良の宝生寺には鳥居がある。少なくとも国学が起こる江戸中期くらいまではこれが普通でした。
でも、仏教と神道が混ざり合った場合、何に祈ればいいのでしょう。
基本的には同じものに祈ってるって考えます。「神様仏様」はまさにその表れ。
この辺がさっきの『仏教と神道は何が違うの』っていうとこにもどります。
そもそも、神様って違う宗教でも同時並行で存在することはわりとよくあります。その場合は他の神を下に置くことが多いです。これはアジアだけじゃなくてキリスト教でもそうですが、征服して行った地の神様を悪魔に落として恐れさせるのはよくあること。オリエントの慈雨の神のバアルセブルが蝿の王ベルゼブブになったり枚挙にいとまがありません。神様の世界も戦争で大変なのです。
イスラム教も似ていて、アダム、ノア、エイブラハム、モーゼ、イエスの5人の予言を完成させたのが最後の預言者ムハンマドのコーラン、という定義で優位性を主張しています。
日本でカオスなのは「本地垂迹」という考えをしたことです。これは、『もともとは仏教の神様なんだけど、仮の姿で現れたのが日本の神様』と考えます。反本地垂迹説っていう変化後のほうが本質という考え方もあるけど、もとの仏教を否定したりはされません。
そうすると大日如来が天照大御神になるわけです。
対応を見てると色々面白くて、千手観音が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)になってたりします。どういう共通点なんでしょうね。
このように日本ではあまり神道や仏教を信仰的にも理屈的にもあまり区別せずに、地域の守り手とか道徳教育の担い手的なものとして、ゆるふわく信仰されていたました。地域色も濃い。あ、禅寺とか修験者を除いた民間信仰としての話です。ガチ勢は別です。
そんなわけで昔の神道は地域の氏神を中心としていましたし、かなり自由度が高すぎます。
とりあえずそんな神仏習合は、戦国時代になって儒教とより深く混じり合い天道思想に至ります。簡単にいうと、すべての宗教は一つにつながり、人の行いは天道様が見ていて最終的には自分に返ってくる、ってもの。まぁ、昔でいうところの「お天道様がみている」ってやつです。
このころ、天命、とかなんとなく厨二っぽい言葉が流行ります。
なお、最初はキリスト教もお天道に入っていましたが、日本人を奴隷にして海外に売ってたのがバレたので排除されました。豊臣秀吉の行った『天正十五年六月十八日付覚』でも日本人の売買を禁止しています。なお、当初の覚自体は、むしろ信教の自由を認めるような内容でキリスト教自体を否定するものではありません。まあその後『吉利支丹伴天連追放令』いわゆるバテレン追放令ではキリスト教を邪法と断じています。キリスト教は日本人奴隷をたくさん売りすぎた。
この時の統治者が豊臣秀吉ってのも大きかったのだと思います。この当時は日本でも人身売買自体は普通にありましたしポルトガルにおける奴隷制度も日本の人身売買とさほど変わらなかったようです。
しかし豊臣秀吉は労働力確保の観点から人身売買禁止を何本も出していて、ポルトガル本国とも掛け合って最終的には本国でも日本人奴隷が禁止になりました。まあ結局は本国で禁止令をだしても目が届かない東アジア領域にはたくさん奴隷が連れて行かれたわけですが。
この辺の書簡とかやりとりを見てると、キリスト教の奴隷感が興味深いです。
ゆるふわな宗教観が終わるのは江戸時代末期。
実際には江戸時代を通して少しづつ雰囲気はかわってて交じりあいながらもだんだん仏教が強くなっていった。これは教えとか信仰とかじゃなくて、生臭い権力的な話です。
徳川幕府は民衆の管理のために寺請制度をとっていました。お寺が寺請証文っといってキリシタンじゃないという証明をします。これがのちには戸籍のようなものになり、転居等にも証文が必要になりました。檀家にならないと葬式もできない。こういう流れで仏教僧侶の権力が強くなっていきます。
そこで神仏分離と廃仏毀釈の流れです。
【3】国家神道以外の宗教の排除
明治政府は武力による革命政権です。だから権威付けが必要でした。
王権神授説的な。そこで『国家神道』という概念を作ります。
国家神道に権威を持たせるためには、神道と仏教が混じったなんだかよくわからない状況なのはまずい。仏教の力も弱めたい。
そういう思惑も上で、明治1年前後に、全部合わせると「神仏分離令」と呼ばれる布告類を出しました。
具体的には、神社にいるお坊さんを還俗させたり神社に仏像を安置するのを禁止したり。そこから本居宣長や平田篤胤らの系譜の国学者が神官と一緒に民衆を煽って「廃仏毀釈」を起こします。
そこで現れるのが「ええじゃないか」。
「ええじゃないか、ええじゃないか」っていって町を踊りまわるものですが、少し詳しく見ていくと、「天から御札が降ってくる、慶事の前触れだ」という噂で踊り狂うんです。なんか狂気。
ちなみにこれ、慶応3年の夏から秋の出来事です。慶応4年が明治元年で、神仏分離とほぼ時期が被る。多分、「ええじゃないか」のノリで仏寺に襲い掛かったのが廃仏毀釈じゃないかな。
平田派の仕込み感が強いけど、とりあえず妄想ということで。
廃仏毀釈は神仏分離を拡大解釈して民衆が「勝手に」行ったといわれています。
寺に火を放ち暴徒が押し寄せ、仏像に矢を射かけて地蔵を打ち壊す。仏像・仏具・仏塔・仏跡なんでもかんでも壊され持ち去られ、何が何だかわからなくなりました。
そのどさくさに紛れてか、神社のご神体が入れ替わり、お祀りする神様も変わりました。つまり、今の神社は明治以前と違うものを祀ってるってことは普通に多いのです。
その被害は文化的には文革レベルじゃないでしょうか。貴重な経典や資料はかなり失われました。
明治4年と8年に上知令が出され、寺社領をのある寺社の所領が次々に切り取られていきました。京都の清水寺も、往時の1/10サイズになったそうです。
この流れで、日本の仏寺は半分まで減りました。
なお上知令というと水野忠邦の天保の改革のほうが有名ですが、今回は明治政府が行った上知令についてです。
当時、寺社は寺社領という領地を持っていました。これは寺社を運営するためのものですが、そもそもは古代の荘園のころからある制度です。今回は江戸時代のころの話なのでそこを中心にですが、豊臣秀吉は太閤検地で寺社領のほとんどを解体しました。その後徳川幕府になって、幕府から朱印状を付されたものを朱印地、大名から黒印状を付されたものを黒印地として一部が寺社に返還されました。
それらを明治政府が上知令で境内以外の寺社領地を返還させました。
色々例はあるのですが、ぱっと思いついて大きいのは次の通りです。
上野にある動物園や各種博物館がある上野公園はもとは上野東照宮の寺社領です。溜池山王の議員会館や国会議事堂あたりは、確か日枝神社の寺社領です。
京都だと花見小路界隈は建仁寺の寺社領で、円山公園あたりも八坂神社あたりの複数の寺社領だったと記憶しています。あとは、奈良県庁とか奈良地裁とかあのあたり一帯は興福寺の寺社領だったんじゃないかな。
上記のように土地利用のために利用されたケースも多いのですが、今回話題にあげた清水寺及び高台寺は山林伐採のためのもののようです。江戸時代は寺社が管理していた京都三山は、明治時代にはげ山になりました。
このような利用の他にも、民間に競売された旧寺社領も多かったようです。
ともあれ、幕末明治を期に、日本の宗教観は恐ろしく確変されたというお話でした。
何故こんなことになってしまったのか。
先ほどの寺請制度でお寺の腐敗がひどくて民衆の不満がたまってたっていうのが通説ですが、長年の話だろうしそんな急に爆発するだろうか? むしろ時代的な狂気を感じる。やっぱり革命前夜・後ってテンションがおかしいんじゃないかな。
神官と平田派がタッグを組んで煽りに煽ったっていう話だし。
先ほどから出ているこの平田派というのは江戸中期に起こった国学という日本の根っこを見直そうという学派です。有名なのは本居宣長・平田篤胤で、古い神道を復活させようとしていた。ちなみに古神道という名前でも呼ばれますが、幕末にできた新興宗教です。
そんなわけで神仏分離・廃仏毀釈・神社合祀とコンポが続いて日本の宗教界は虫の息です。こんな状態で廃祀されて、その後復祀(復活)されても、伝承が続かなくても道理ですよね。
そんなわけで作中の新谷坂神社も神社合祀で廃された後、復活はしたけどいわれは失われています。今は神津市の神職が片手間管理しています。
作中にあった昔のトンネル工事っていうのは、神社合祀の際の自然破壊なのかもしれません。
【4】結局のところ国家神道とは何か
以下は政治的な話を多少含むので、ご興味がないかたは次の項まで飛ばしてください。
国家神道が何か、というのは実は難しい。国家神道という言葉自体は大戦後にGHQが使用したのが初出です。
ざっくりいうと明治にできた新興宗教。天皇陛下御一家を現人神として、わかりやすく王権神授説に則ったものと思われます。
なお、日本には人を神とする考えは昔からありました。菅原道真は天神様、徳川家康は東照大権現で、それぞれ太宰府天満宮と日光東照宮に祀られています。ですから、人が神になること自体はそれほど珍しくはありません。いや、珍しいと言えば珍しいのは間違いないんだけど。
珍しいのはその枠組み。
国家神道は宗教ではないんです。 明治時代の「大日本帝国憲法」にも「信教の自由」はありました。
もともと、明治政府は王政復古(まつりごとを古い時代に戻す)と祭祀一致(宗教と政治を一致させる)を目指していて、天皇を中心とした国家神道を国教にしようとしていました。
当時は強大な欧米列強に対抗する必要があって、国を一致団結して引っ張っていく、という目的には必要だったのかもしれません。この辺は3章の備忘でもちょっと書く。
で、平田派が強プッシュして神仏分離を強行しましたが、平田派自身は理論派であって実践派じゃない。古典復興しか言わない平田派では新しい時代の舵取りは難しかったのかもしれません。すぐあとの明治4年に、神祇官という祭祀をつかさどる役職ができるころには平田派の重鎮は国事罪(内乱罪のようなもの)で捕まってしまいました。
それで神祇官は国家神道を広げる役職なのに、内ゲバ的に宗教論争・権力闘争をして結局倒れてしまいます。それでやっぱり神祇官は廃止して、仏教主導で明治5年に教部省ができますが、これも結局キリスト教の外圧に倒れてなくなって(それだけではないけども)、最終的には大日本帝国憲法に「信教の自由」が入ります。
なお、教部省が教えを広めるために作った大教院というのが増上寺に作られたのですが、放火されて本堂が全焼しました。増上寺は東京タワーの真下にあって、結構きれいなお寺です。
すげぇグダグダ。
このころにはもう国家神道の内実はグダグダです。憲法にも信教の自由を入れてしまった。けれども目的の、国民が一致団結して国は守らねばならないという前提条件は変わらない。そこでコペルニクス的転回の登場です。
国家神道は「国家の宗祀」である。「宗祀」をweblioで調べると、「最も大切なものとしてまつること。」と出ます。ようするに、国で一番大切なことだから、他の宗教とは違うよっていうこと。神道はもともと民間信仰で、固定の教義も特にないから宗教じゃないっていう理屈もつけて。
それで、神(現人神)を敬うことを国民の義務として、明治憲法発布の翌年に教育勅語を道徳の基本として発布されます。
実際「国家神道」が何かっていうのは自分もよくわかりません。宗教というよりは組織を作るための制度っぽい気がしますね。
【5】次回予告
そんなわけであんまりまとまらなかったです。
歴史の話を面白く書くのは難しい。本当は神社神道と教派神道とか、日本書紀って何かとかも書きたかったけれど、それは継ぎに譲ろう。
次の備忘は多分6話目と同時くらいに入ります。次は唐突に【富士登山と高山病】という話になりますが、何でもありのエッセイなのでお気楽に。その後はえーと【死体の分類とエジプト神話】についてです。ネタバレになるので今のところタイトルは伏せ。何が何だかよくわかりませんね。
本編のお知らせですが、この少しあと、いよいよ東矢一人は新谷坂の封印を解いてしまいます。それが全ての始まりで、ここからわけのわからない事件に巻き込まれていく。
こりずにまた読んでいただけると嬉しいです。
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