明治幻想奇譚 〜陰陽師土御門鷹一郎と生贄にされる哀れな俺、山菱哲佐の物語

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月の足る宮 富士に登った左文字の話(一旦中断中)

静謐で不穏な入定

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 夜半、俺はひっそりと山小屋を出た。どうにも落ち着かなかったのだ。
 風は変わらず強く、しかも日が落ちて久しい。世界は凍てつくように寒い。油紙で僅かに風を防ぎ、羽織った着ゴザでその内に微かに熱を溜める。極寒の中で、そのわずかな暖はまさに地獄に仏。
 手探りで岩場を探り、なんとか烏帽子岩えぼしいわまで向かう。山小屋のすぐ近くだ。半分より少し欠けた月が世界を静かに照らしている。足元に浮かぶ雲はその月を柔らかく照り返し、あたかも銀色の海に波が立つようだ。まさに仙界の眺めというものだろう。

 足下に細心の注意をしながらようやくたどり着いた烏帽子神社はゴツゴツと大きな烏帽子型の岩があり、社が設けられていた。ここが食行身禄じきぎょうみろくが入定し、死んだ場所だ。入定したのは旧暦6月10日というから今頃の時期だ。環境はさほど変わらぬだろう。
 そしてその遺体は当時対立していた村上派に打ち壊され、以降石棺に納められて秘されていると聞く。

 食行身禄はこの荒涼とした地獄のような土地で、何を考えていた。何故入定したのだ。
 俺がいつも巻き込まれる『生贄』というものは、もっとわかりやすいものだ。例えば誰かを取って喰おうとする化け物が目の前にいて、俺をその身代わりとする。あるいはその化け物を誘き寄せるためにその前に立つ。そうすれば俺はその化け物に襲われる。
 要するに俺は大体の場合、複数ある犠牲者候補の中で俺が選ばれやすいというだけで、その選択を行うのは化け物だ。だからそもそも化け物がいなければ生贄など不要なパッシヴなものだ。
 けれども今回の生贄というものはそういうものではないらしい。おそらくもっとアクティヴなものなのだ。先程山小屋で御師と話した食行身禄の入定がやけに気になっていた。

「山菱さん、今日はお疲れ様でした。それにしても体力あるね。向いてるんじゃないの、修験者」
「皆さんほどじゃありませんよ」
「そら俺らはこのシーズンは毎日毎日仕事で富士に登っているからね。比べられちゃ困っちゃうよ。今日なんかはうまく晴れたが、時には雨なこともあるし、こんな夏でも吹雪くことすらなくはない」

 現し世では想像もつかないが、富士の山は日が落ちれば身を切るような寒さが襲う。今も道者たちは山小屋で身を寄せ合って眠っている。雨雲が富士にかかればその中を突っ切らねばならぬ。直接に体温が奪われそうで、その行程は相当に大変なものだろう。

「修験者といえば村山修験道の方々はこの山で修業をしているのですよね」
「そうだがよ。奴らは目的がちがうかんな」
「目的が?」
「うーんそっか。山菱さんも俺らとは目的が違うのか」
「目的?」
「ああ。宍野さんから聞いたが病気の人を治すための修行するんだろう?」
「え、えぇ」
「最近はすっかり見ねぇが修験の奴らは自ら悟って神通力を得るために登ってっからな。けどそんなら山菱さんは富士講のほうが近いのかも知んねぇな。誰かのために登るってのは。なんか食行身禄師みたいだ」
「あの、食行身禄という方はどういう方なのでしょうか」
「……本当によく知らねぇで登ってんだな」

 食行身禄はお江戸八百八講と言われた富士講の中興の祖にあたる人間で、今からおおよそ150年前、丁度この八合目にある烏帽子岩で即身仏となった。
 元々は伊勢三重の出身で名を伊藤いとう伊兵衛いへえというらしい。13の時に江戸の商人の徒弟に入り、その後、油売りとして独立して財を成した。
 富士講との出会いは17の時だ。五世行者富士講代表月行げつぎょうに出会って修行を初め、以降毎年富士に登り、46の時に月行を継いで六世行者になった。その翌年 仙元大菩薩せんげんだいぼさつ、神道で言うところの木花咲耶姫にまみえ、その導きによって厳しい修行をした後に入定す即身仏になることに決めた。
 入定すると決めたって……。
 俺はほろ酔いの鷹一郎にわけのわからない文脈で即神仏の成り方を聞いたことがある。あれはいつだったか大学近くの居酒屋でのことで、本当に何の脈略もなく鷹一郎はこう呟いた。

「私も即身仏にでもなれば早くあの方の元に行けるのでしょうかねぇ」
「物騒だな。いきなり何を言いやがる」
「物騒だと言われましても。私の今世というものは7歳の折に既に定められているのです」
「後追いしろとか言われてないんだろ?」
「なんですかそれは。死ぬために死ぬだなんて無意味です」

 鷹一郎は珍しく唇を尖らせた。
 詳細は知らぬが、鷹一郎は子どもの頃に主人とも言うべき何者かに行き交い、なんらかの約束をしたらしい。
 そして何故だかはよくわからぬものの、今世ではもう会えそうにないらしい。だから来世か何かでその何者かの役に立たぬかと思って怪しげなものを集めているそうだ。俺としては来世で役に立てるとか意味がわからぬし、趣味としか思えん。

「私も哲佐君ほど徳が有れば迷いはしないのですがねぇ」
「なんだとこの野郎」
「残念ながら私にはさほど徳はなさそうです。さもしい私はつい差し引き計算をしてしまう。今入定すればその分、早くお会いできないかなぁとか、こんな暮らしをしているのだからどうせ同じくらいかなぁとか。けれども私程度の徳では即神仏になっても大したことはなさそうですし」
「そうそう。断食なんて腹減って大変だぞ。お前、美味い飯食うの好きだろ」

 ピンク色に染まった美味そうな煮蛸の小鉢を鷹一郎の前に押し出すと、その箸先が柔らかく引き裂いた。
 なんで即身仏の話になったのか未だにわからないが、妙に鷹一郎の機嫌がよく、面白そうにころころと笑った。

「さては哲佐君は断食すれば即身仏になると思ってますね」
「違うのかよ」
「まぁね。即身仏になるには『木食修行もくじきしゅぎょう』と『土中入定どちゅうにゅうじょう』という2つの行程があります。哲佐君が言っているのは土中入定、いわゆる断食のことでしょう?」
「うん? まあそうだな」
「日本で即身仏になるのって哲佐君が思っているより大変なんですよ。哲佐君は即身仏をご覧になったことはありますか」
「うん、まああるよ。東北には多いんだ」
「ああ、そういえばそうでしたね。即神仏は骨と皮であられるでしょう?」

 出羽三山の湯殿山ゆどのさん信仰では入定する者が多い。即神仏となった者は生き仏として敬われ、寺社に祀られる。死して尚生き、食べ物を供えられて定期的に衣も着替える。生きていた時と同じように。その姿は骨に皮が乾き張り付いたものだが、ひょっとしたら生きているのではないかと思うほど、妙な存在感がある。

「日本でミイラを作るのは極めて難しい。だからこそ彼らは仏なのです」
「そうなのか?」
「ええ。日本は高温多湿です。だから死んでしまえば腐るんです。そうでしょう?」
「そういえば、そうなのかな」
「だからそうならないために木食修行をして体内の水分を極力抜くんです。だから死ぬ前から既にミイラなんですよ。その配分が物凄く大変なのです。中途半端なら腐って即身仏になりません。だから即身仏になろうとしても、木食修行の段階で失敗して死ぬ者のほうがよほど多い。腐敗の機序は生物の授業で習ったでしょう?」

 そう言って鷹一郎は乾いた裂きイカを箸で摘み上げた。こいつが腐っていないのは炙られて乾燥したからだ。
 腐敗というのは脂肪やタンパク質を細菌が食べることによって発生する。だから木食修行で山籠りをするという。穀物を食べずに木の実や皮、草を食べる。それを3年から15年ほど続ける。そんな生活を続けるとだんだん脂肪がなくなり、筋肉が糖に変わって消費され、腐敗する余地を削っていく。そしてすっかり水分を失い、断食して土に潜るより前に既に生きながらミイラとなっている。
 だから埃及エジプト木乃伊ミイラのようにわざわざ腐りやすい内臓を抜くなどという手間もない。既に乾ききっているのだから。
 そんな話を聞いていると、なんだか気分が悪くなってきた。

「なんでそんなことするんだよ」
「さて。理由は色々とあるんでしょうよ。真言密教には即身成仏という概念があって即身仏になれば大日如来と一体となってそのまま仏になるという人もいますし、悟りを得るためという人もあります。後は……物凄く遠い将来に弥勒菩薩が下生この世に現れるする時を待ちお役に立つためとかね」
「お前は仏教徒じゃねえんだろ?」
「勿論です。それで即身仏になる自信はあるのですが、それにしたって時間がかかる。なっても甲斐はなさそうですし。だからどうも化け物集めをしたほうが割がよさそうなんですよね」
「そのほうがいい。お前はなんでも下心有りだ。仏になんぞなれるもんか」
「おや。仏になるつもりはないのですよ。でもそうすると哲佐君に色々お願いすることになりますね」
「うるせぇ」

 そんな話をした記憶。
 それで目の前の御師の話に出てくる食行身禄はそんな苦行を何年も行った上で土中に入り、自ら即身仏になった。その覚悟には身震いを覚える。つまり極めてアクティヴに死んだのだ。

「どうした」
「身禄って本名じゃなかったんですね」
「ああ。食行身禄が入定された時は丁度享保の大飢饉ってやつだったそうだ。みろくの世ってやつが来るらしく、それで衆生を救おうとなされて入定されたそうだ」

 享保161731年末より天候悪く翌年6月ごろまで雨と低温が続いた。そこから更に梅雨の長雨が2ヶ月続いて冷夏となり、加えて蝗害によって西方諸国の石高は3割程度に落ち込んだ。これによって1万2000人が餓死し、250万人強が飢餓に苦しんだ。
 江戸の商家が米の買い占め未曾有の米不足が発生し、翌享保18年正月には江戸市民による打ちこわしが発生した。世の飢饉を救うために食行身禄が入定したのはその夏である。

「それで徳川様はそのころさ、なんでだか米価高騰を維持する政策をなされていたそうで、食行身禄は御添書おそえがきというものを書いてを翻させたということさ」
「それで、即身仏になった……のか?」
「ああ。ここからすぐ近くに烏帽子岩えぼしいわがある。そこで白木の庫裏くりに入って周囲を石で塞がせ、弟子の田辺十郎左衛門たなべじゅうろうざえもんに口伝したものが経典の『三十一日の巻』だ。入定してから31日間にその教えを語って聞かせたものだそうだ。それで入定35日後に仏になられたのだ」
「その三十一日の巻ってのは何が書いてあるんです?」
「……それほど難しいものじゃない。お米には仏が宿っているから大切にして、正しく生きて勤勉に働き、周囲を大事にせよってことだな」

 崇敬するような御師の表情にをよそに、気持ちの悪さが俺の身中に渦巻いていた。
 御師は当然富士を、そして食行身禄を信仰しているわけだ。だから食行身禄の行為はとても尊いものなのだろう。
 けれども即身仏とは何なのだ。食行身禄は何故即身仏になったのだ? 飢饉が起こってそれをおさめるため? 民のため? それではやはり……生贄のようじゃないか。何故わざわざ生贄になる。

 もちろん食行身禄は自ら進んで即身仏になったのだろう。けれども即身仏となったことで何か良い結果が生じたとは思えない。
 米価格の高値維持は米を業者に卸して食っている武士と百姓を保護するためだろう。買い占めも多少の影響はあるのだろうが、問題の所在は流通ではなく米そのものの不足なのだ。3割まで石高が下がればそれは流通以前の問題だ。江戸の人口を賄えるほどの米の量がそもそも『ない』。それであればどこかから持ってくるしかない。それが備蓄米の放出や酒づくりの制限なのだろう。そして米以外の穀物栽培、主には甘藷さつまいもの栽培の奨励がなされた。
 そうするとつまり、食行身禄の入定と飢饉対策にさほどの関連はない。ないが、その単純な教えが富士講として広がり、今に至っている。
 食行身禄はどこまで何を考えていたのだ。このアクティヴな生贄という行為はパッシヴな生贄と異なり、誰かを助けたり何かを得たりといった直接的な結論は得られない。即身仏になって、どうしたかったのだ。

『何かの行為を目的としての生贄なら、効果を及ぼすためにはやはり定められた手順はきちんと踏まなければなりません』

 不意に鷹一郎の言葉が思い浮かぶ。
 『即身仏となり衆生潔斎する』。
 それは客観的に叶っていない。それでも富士講は続いている。食行身禄は一切衆生を目的として入定した。それほど訴えたいことでもあったのかと思えば、富士講の教えとはいわゆる道徳に近しい。そんなものを広めるために即身仏に?
 そんな未来のわからぬ理由でアクティヴに死ねるものなのか?

 俺が何故そんなことが気になるか、理由は明白だ。
 左文字の件だ。左文字の言う生贄も、アクティヴな生贄なのだ。
 鷹一郎が俺に金を払うと言うことは、おそらく俺はその生贄の端っこに加わるのだろう。鷹一郎の依頼の報酬は高額だが、その分大抵が恐ろしい目に遭い、たまに大怪我をしたり病を患う。それでいて鷹一郎は結構抜けているところがあるものだから、後から考えれば無駄な怪我だったんじゃないかと思うことが時折あるのだ。

 今回もどうせ鷹一郎は何がどうなると言う機序をわざわざ俺に話したりはしないだろう。この富士の上は異界だ。助けも医者も簡単には呼べない。とすれば何かあれば即命にかかわる。だから俺は、俺のためにも左文字の生贄の機序を調べる必要がある。

 左文字は何故生贄になる。
 何故生贄となる理由が伝わっていない。
 平安時代から続いている生贄なのであれば、噴火を鎮めるため、というのが穏当にたどり着く理屈だろうか。けれどもそれであればそのように伝わっているべきなのではないのだろうか。なにせ生贄というのは人を何かの対価にする行為なのだ。人の命を費やして、他の何者かを助ける行為だ。謂れもないものは続けられないだろう?
 第一村山修験道は今は滅びかけているそうだ。

「おお、山菱さんここにいたのかね」

 突然背後から聞こえた御師の言葉に振り返る。
 気づけば山小屋のほうがざわめいていた。

「何かありましたか?」
「何かって、ひょっとして一晩中ここにいたのかい? けれどももう出発の時間だよ」
「え、もうですか?」
「そうさ、体を休めるよう言ったのに。でも待てないからね。ほら、みんなも支度してる。はやく用意して!」

 まじか。そういえば月は早々に地に落ちて、後は闇が広がったままだった。
 こう暗いと時間の感覚など覚束ない。けれども見上げた星空は、確かにここに来たときとその形を変えているようには思われた。
 そそくさと急いで荷物をかついで一番最後に山小屋を出ると、一斉に祈られた。どうやら俺は一晩中食行身禄が即身入定した烏帽子岩で祈りを捧げていたことになっているらしい。
 まじか。
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