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あけぬ夜はなし 朝を待ちわびる二人の話 崩春解故外伝
帽子と洋装
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「夕霧、俺はお前に帽子を作ろうと思う」
「帽子、でありんすか」
「ああ。俺は帽子屋だからな。お前が五十を超えているというのは本当なのだろう。それならきっと、俺より随分長く生きるのだろうな。そう考えればいずれ、俺はお前を置いて死ぬ。『ずっと一緒』にはおられんのだろう。だから何かお前に残したいのだ」
夕霧は嬉しそうに目を細めた。
弥治郎の心からは恐怖は拭い去れはしなかったが、夕霧が喜んでいることに弥治郎は確かに満足し、幸福を感じた。なんだか水に浸した紙縒りのように、いつ千切れるかもわからない幽けき満足ではあったけれども、夕霧との差異を考えればそれもやむを得ないと感じていた。
弥治郎は自身の心境が余人に理解し難いものだろうとも思っていた。だから誰にも話さなかった。それは自分と夕霧の差異のことで、他人には関係のないことだからだ。
弥治郎は心の底から夕霧を好いていた。夕霧のために死んでも良いと思えるほどだ。けれども同時に夕霧に根源的な恐怖を抱いていた。夕霧は弥治郎の捕食者であることは疑いがない。近くにいるだけで身が縮み、目の前の存在が夕霧だと強く認識しなければ叫び出してしまいそうなほどの恐怖。
それでも弥治郎にとって、目の前の夕霧は美しく、愛しかった。そして夕霧への恋慕は恐怖にわずかに優っていた。
そうでなければ幽凪屋に足を向けられるはずがない。
「わっちは帽子を被ったことがありんせん。似合いんしょうか」
「そうだね、今度見本を持ってこよう。そういえばお前、洋装を持っていないだろう? 和装に帽子は似合わないかも知れないな。折角だから洋装も仕立ててやりたいが、困ったな。遊女は新地を出られないものな」
「お気持ちだけで、わっちは幸福でありんす」
幸福そうに笑う夕霧を見るのが弥治郎は何よりも嬉しかったのだ。だからその帰り、広間にいる幽凪に尋ねた。
「楼主様、夕霧に洋装を仕立ててやりたいのです。仕立て屋を呼んでもよろしいでしょうか」
「ご自由にどうぞ。それにしても洋装ですか。私もお見立て頂くことはできますでしょうか」
「楼主様もですか?」
「ええ。私は色々特殊でして、洋装は布地が合わぬのです。これまで何軒かにお願いしたのですが、うまく仕立てて頂けず」
そういえば楼主の洋装を見たことはない。弥治郎はそう思いおこす。
けれども遊女屋の楼主なのだから和装なものだろうと、これまで取り立てて疑問には思ってはいなかった。
以前に宇吉に聞いたところでは、通常の洋装とは体を大きく見せるものなのだそうだ。あらためて記憶を探れば、宇吉が仕立てた青山の洋装は弥治郎がいつもカフェーから見る洋装とは随分異なり、青山の身に沿って青山を随分上品に見せていた。
確かに楼主のこの華奢ななりでは、通常の洋装を纏っても服に着せられているように見えるだろう。
「わかりました。ご要望に合うかは分かりかねますが、合わせて依頼してみましょう」
「ありがとうございます。礼と言っては何ですが、ご入用なら恐怖を和らげる薬を差し上げましょう」
「そんなものが?」
「お客様は随分顔色がお悪い。夕霧とも相談なされるがよろしい」
楼主は煙管の端を弥治郎に向ける。
「夕霧と?」
「ええ」
弥治郎の顔色は日毎に悪化し、いつしか土気色となっていた。白河屋の番頭や周囲はそれが制帽のコンペティションが間近に迫り、弥治郎が根を詰めているからだと思っていたものだから、口々に体を労わるように述べた。それでも弥治郎は生活を改めることはなかった。
「白河さん、皆さんのいう通りです。制帽の案はこれでいいと思います。これ以上ないものと思います。少しはお休みになられては」
「やはり顔色が悪いのでしょうか」
その日宇吉の店を訪れた際、従業員の誰も彼もが心配そうに宇吉を見ていた。
「ええ大分。今にも倒れてしまいそうです」
「そうですか。では一つだけお願いがございます。山辺さん、ドレスというものを作って頂けますか?」
宇吉は突然の提案に目をぱちくりさせ、そしてその予感に思い当たり、破顔した。
「白河さんも身請けされるのですね! 私もそのつもりです。素敵なウェディングドレスを作りましょう」
「ウェディング、ドレス?」
聞き慣れぬ言葉に、弥治郎は思わず問い返す。
「ええ。私も東雲の身請けと同時に所帯を持つつもりです。そのためのドレスを作っているところです」
東雲というのは宇吉が惚れている遊女の名前だ。
宇吉の指す店内の一角には美しい純白ドレスが飾られ、宇吉の笑顔と同様に輝かしくキラキラと光が当たっていた。その清麗さは弥治郎を打った。
「とても美しいドレスですね」
「ええ。西洋人はこのような純白のドレスを着て、神の前で結婚を誓うのだそうです。私も新地の教会でそのように式を挙げたいと考えております。白河さんも如何ですか?」
「そのようなものがあるのですね。けれども夕霧は日の光の下に出られぬ体質でして」
「そう……なのですね。差し出がましいことでした。お詫びいたします。ともあれドレスについてはお任せください。それに新地教会は夜半でも開いていたとは思いましたが、もし宜しければご一緒に」
純白のドレスと同様、その幸福に何の疑念も抱いていないであろう宇吉の笑顔が、弥治郎にとって酷く眩しく見えた。
その夜、宇吉と共に新地に向かった。幽凪屋に入って楼主に挨拶し、宇吉は改めてのアポイントを取る。そして戸惑う夕霧に失礼しますと述べ、背後からメジャーをわたして手早く計測し、手元の一覧表にサイズを書き付ける。そして日めくりのような図帳からたくさんのデザインを示す。初めて見る華やかなドレスというものに夕霧が華やぐ。
「お越し頂けないとのことですので、細部は当方で調整致します。お任せください。どのようなデザインがお好みでしょう」
「……わっちにはようわかりんせん」
東雲の申し訳無さそうな申し出に、宇吉は安心させるように頷いた。
「ふふ、私の東雲もそのように申しました。では白河さんのお好みも聞いてみましょうか」
唐突に話を振られて困惑する弥治郎だったが、並べられた絵姿を真剣に眺める。どれも洋装として知識にはあるものの、身近に考えるものとは全く思っていなかった。
「スカァトの部分は俺にはわからんが、袖はない方がよいな。それから帽子が似合うような服が良いのだが、どのようなものが合うのかはやはりよくわからない」
「白河さんはどんな帽子を作られる予定です?」
「そうですね、花をあしらったものを考えておりましたが、ウェディングドレスというものにはどのような帽子が合いましょうか」
弥治郎がそう述べると、宇吉は何度も頷きニコリと笑った。
「なるほど、了解いたしました。帽子が主役なのですね。ではそのようなドレスを作りましょう」
「いえ、素敵なドレスを作って頂けましたらそれで」
「駄目です。白河さんが一番大事な部分を作らないとダメなのですよ。その方が夕霧様も喜ばれましょう。それでは夕霧様、白河さんとデザインを詰めて後、お伺い致しますね」
宇吉がそのように述べれば夕霧はおかしそうに微笑んだ。宇吉の通う遊女屋も新地内にあり、これから向かうらしい。
「すまないね。山辺さんも早く会いたいだろう」
「いいえ。白河さんのためですから、その位、東雲も許してくれるでしょう」
「帽子、でありんすか」
「ああ。俺は帽子屋だからな。お前が五十を超えているというのは本当なのだろう。それならきっと、俺より随分長く生きるのだろうな。そう考えればいずれ、俺はお前を置いて死ぬ。『ずっと一緒』にはおられんのだろう。だから何かお前に残したいのだ」
夕霧は嬉しそうに目を細めた。
弥治郎の心からは恐怖は拭い去れはしなかったが、夕霧が喜んでいることに弥治郎は確かに満足し、幸福を感じた。なんだか水に浸した紙縒りのように、いつ千切れるかもわからない幽けき満足ではあったけれども、夕霧との差異を考えればそれもやむを得ないと感じていた。
弥治郎は自身の心境が余人に理解し難いものだろうとも思っていた。だから誰にも話さなかった。それは自分と夕霧の差異のことで、他人には関係のないことだからだ。
弥治郎は心の底から夕霧を好いていた。夕霧のために死んでも良いと思えるほどだ。けれども同時に夕霧に根源的な恐怖を抱いていた。夕霧は弥治郎の捕食者であることは疑いがない。近くにいるだけで身が縮み、目の前の存在が夕霧だと強く認識しなければ叫び出してしまいそうなほどの恐怖。
それでも弥治郎にとって、目の前の夕霧は美しく、愛しかった。そして夕霧への恋慕は恐怖にわずかに優っていた。
そうでなければ幽凪屋に足を向けられるはずがない。
「わっちは帽子を被ったことがありんせん。似合いんしょうか」
「そうだね、今度見本を持ってこよう。そういえばお前、洋装を持っていないだろう? 和装に帽子は似合わないかも知れないな。折角だから洋装も仕立ててやりたいが、困ったな。遊女は新地を出られないものな」
「お気持ちだけで、わっちは幸福でありんす」
幸福そうに笑う夕霧を見るのが弥治郎は何よりも嬉しかったのだ。だからその帰り、広間にいる幽凪に尋ねた。
「楼主様、夕霧に洋装を仕立ててやりたいのです。仕立て屋を呼んでもよろしいでしょうか」
「ご自由にどうぞ。それにしても洋装ですか。私もお見立て頂くことはできますでしょうか」
「楼主様もですか?」
「ええ。私は色々特殊でして、洋装は布地が合わぬのです。これまで何軒かにお願いしたのですが、うまく仕立てて頂けず」
そういえば楼主の洋装を見たことはない。弥治郎はそう思いおこす。
けれども遊女屋の楼主なのだから和装なものだろうと、これまで取り立てて疑問には思ってはいなかった。
以前に宇吉に聞いたところでは、通常の洋装とは体を大きく見せるものなのだそうだ。あらためて記憶を探れば、宇吉が仕立てた青山の洋装は弥治郎がいつもカフェーから見る洋装とは随分異なり、青山の身に沿って青山を随分上品に見せていた。
確かに楼主のこの華奢ななりでは、通常の洋装を纏っても服に着せられているように見えるだろう。
「わかりました。ご要望に合うかは分かりかねますが、合わせて依頼してみましょう」
「ありがとうございます。礼と言っては何ですが、ご入用なら恐怖を和らげる薬を差し上げましょう」
「そんなものが?」
「お客様は随分顔色がお悪い。夕霧とも相談なされるがよろしい」
楼主は煙管の端を弥治郎に向ける。
「夕霧と?」
「ええ」
弥治郎の顔色は日毎に悪化し、いつしか土気色となっていた。白河屋の番頭や周囲はそれが制帽のコンペティションが間近に迫り、弥治郎が根を詰めているからだと思っていたものだから、口々に体を労わるように述べた。それでも弥治郎は生活を改めることはなかった。
「白河さん、皆さんのいう通りです。制帽の案はこれでいいと思います。これ以上ないものと思います。少しはお休みになられては」
「やはり顔色が悪いのでしょうか」
その日宇吉の店を訪れた際、従業員の誰も彼もが心配そうに宇吉を見ていた。
「ええ大分。今にも倒れてしまいそうです」
「そうですか。では一つだけお願いがございます。山辺さん、ドレスというものを作って頂けますか?」
宇吉は突然の提案に目をぱちくりさせ、そしてその予感に思い当たり、破顔した。
「白河さんも身請けされるのですね! 私もそのつもりです。素敵なウェディングドレスを作りましょう」
「ウェディング、ドレス?」
聞き慣れぬ言葉に、弥治郎は思わず問い返す。
「ええ。私も東雲の身請けと同時に所帯を持つつもりです。そのためのドレスを作っているところです」
東雲というのは宇吉が惚れている遊女の名前だ。
宇吉の指す店内の一角には美しい純白ドレスが飾られ、宇吉の笑顔と同様に輝かしくキラキラと光が当たっていた。その清麗さは弥治郎を打った。
「とても美しいドレスですね」
「ええ。西洋人はこのような純白のドレスを着て、神の前で結婚を誓うのだそうです。私も新地の教会でそのように式を挙げたいと考えております。白河さんも如何ですか?」
「そのようなものがあるのですね。けれども夕霧は日の光の下に出られぬ体質でして」
「そう……なのですね。差し出がましいことでした。お詫びいたします。ともあれドレスについてはお任せください。それに新地教会は夜半でも開いていたとは思いましたが、もし宜しければご一緒に」
純白のドレスと同様、その幸福に何の疑念も抱いていないであろう宇吉の笑顔が、弥治郎にとって酷く眩しく見えた。
その夜、宇吉と共に新地に向かった。幽凪屋に入って楼主に挨拶し、宇吉は改めてのアポイントを取る。そして戸惑う夕霧に失礼しますと述べ、背後からメジャーをわたして手早く計測し、手元の一覧表にサイズを書き付ける。そして日めくりのような図帳からたくさんのデザインを示す。初めて見る華やかなドレスというものに夕霧が華やぐ。
「お越し頂けないとのことですので、細部は当方で調整致します。お任せください。どのようなデザインがお好みでしょう」
「……わっちにはようわかりんせん」
東雲の申し訳無さそうな申し出に、宇吉は安心させるように頷いた。
「ふふ、私の東雲もそのように申しました。では白河さんのお好みも聞いてみましょうか」
唐突に話を振られて困惑する弥治郎だったが、並べられた絵姿を真剣に眺める。どれも洋装として知識にはあるものの、身近に考えるものとは全く思っていなかった。
「スカァトの部分は俺にはわからんが、袖はない方がよいな。それから帽子が似合うような服が良いのだが、どのようなものが合うのかはやはりよくわからない」
「白河さんはどんな帽子を作られる予定です?」
「そうですね、花をあしらったものを考えておりましたが、ウェディングドレスというものにはどのような帽子が合いましょうか」
弥治郎がそう述べると、宇吉は何度も頷きニコリと笑った。
「なるほど、了解いたしました。帽子が主役なのですね。ではそのようなドレスを作りましょう」
「いえ、素敵なドレスを作って頂けましたらそれで」
「駄目です。白河さんが一番大事な部分を作らないとダメなのですよ。その方が夕霧様も喜ばれましょう。それでは夕霧様、白河さんとデザインを詰めて後、お伺い致しますね」
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