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第3話 太子丹の帰国
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今日も薊城の町は噂に満ちていた。
太子丹が秦から逃げ帰ったと言う噂はしばらく前から流布していた。市井はその話で持ちきりとなっていた。むろん悪い方向で、だ。なぜこのような秦軍が国境に迫る時期に秦から逃亡したのか。太子丹を追って秦が攻めてくるのではないか。太子丹の帰国は薊城に大きく暗い影を落とした。
そして今日新しく噂が加わった。秦の将軍であった樊於期が燕に亡命し、それを太子丹が匿っているという。秦王政は樊於期の一族郎等を皆殺しにし、樊於期の首に多額の賞金をかけた。そのような人物を匿っているのだ。太子丹の名はさらに不穏を伴って取り沙汰されるようになった。
太子丹は不遇の人だった。幼少より隣国の趙で人質として囚われていた。趙でさほど粗雑には扱われることはなかったものの、いざと言うときは簡単に死が訪れる。死ぬために生かされる存在、それが人質だ。戦国の世のことだ。本国にとって重要でない者が送られる。その時分の丹は未だ太子ではなく、王族の子の一人に過ぎなかった。いらぬ者、その事実は人質となる者の心に大きく突きつけられた。
そんな中、丹は趙の国都である邯鄲で当時の秦王の孫である嬴政に出会った。
嬴政の境遇は更に悲惨だった。
もともと嬴政の父は当時の秦王の子だったが、後ろ盾もなく重用もされていなかった。だから人質として趙に送られた。誰も後に王位につくとは思っていなかったが、豪商であった呂不韋が近づき工作を始めた。嬴政の父は呂不韋からその妾を譲られ、邯鄲で生まれたのが嬴政である。
その後、当時の秦王は嬴政の父が人質となっているにもかかわらず趙を攻めて邯鄲を包囲した。嬴政の父は処刑される寸前に辛くも門番を買収し、嬴政と妾を捨てて邯鄲を出た。このような出自から、嬴政は本当に秦王の血を継ぐのかすら疑われ、虐げられたと聞く。
幼少の折の丹と嬴政は比較的親しい関係であったとも聞くが、そもそもそれも丹からの話に過ぎず、嬴政から見ればまた異なるのかもしれない。
嬴政の預かり知らぬうちに嬴政の父は呂不韋の後ろ盾で秦王となり、嬴政は父のもとに突然呼び戻された。その後丹は人質として秦に送られた。丹は秦王政に友誼を求めたが、すげなく遇されたという。
◇
「田光先生はおられますでしょうか」
その日、儂の家を鞠武が訪れた。太子丹の側近だ。
儂は会いたくはなかった。法は義と相容れぬが、政も義と相容れぬ。政が取りこぼしたものを義が拾うのだ。
だが。
麴武は侠である儂を頼って来たという。そうであれば断れぬ。儂はこの薊城に根を張ってしまった。こういう時、身軽な荊軻を少し羨ましく思う。
荊軻は真の義侠だ。あらゆる者と酒を酌み交わし友誼を広げるが、いざ義兄弟の契りなどの深い誼を迫られるとひょうと姿を晦ます。その様子を臆病だとか不義だという者もいるが、儂はそうは思わぬ。
義とは難しい生き方だ。一度誼を交わすと裏切ることは決して叶わぬ。その者のために命を賭す。当然だ。義とはそういうものなのだから。だから、安易に誼を結ぶと身動きが取れなくなる。最初は同じ道を歩き誼を結んだとしても、その後道が分かれることはある。敵対する者のために死ねるのでなければその義は本物ではなかったということだ。誼を結んだ者どうしが敵対することもありうる。そうなった時、一方に味方することは他方に不義となる。またいずれも味方しない場合も双方に不義となる。
儂はそのような事態に陥っても、年の功と人の縁でうまく収めて来ただけなのだ。あたかも儂が義侠であるかのように言われるが、儂は多くの者と誼を結び身動きの取れなくなった義侠になりきれぬ紛い物だ。しかし荊軻は違う。荊軻はいざというときに己の真の義を示すため、余人と誼を交わさずただ一人孤高にある。
酒を酌み交わしながら荊軻の求める義を尋ねたことがあった。
「私は名を為したいのです」
「名を、かね」
多くの侠客は義で名を残すことを欲している。けれども荊軻のその申し出は意外に聞こえた。その飄々とした風情にそぐわないように思われた。それに荊軻はこのあたりではすでに『荊卿』と言われて多くの者に慕われている。これまで過ごした国でも同様に聞いている。すでに名は知れ渡っている。
「荊さんの求める名というのはどのようなものかな」
「そうですね」
荊軻は少し恥ずかしそうに、少年のようにはにかんだ。
「私はもともと、祖国衞の官吏となることを志して諸国に学びました。けれども私の弁は衞の君主である元君に全く通じませんでした。真剣に国について考えたのに何故理解されぬのか、ととても落胆しました。自暴自棄にもなりました。私は衞を飛び出し、再び諸国を放浪しました。その時はお恥ずかしながら荒れておりまして、各地で揉め事を起こす毎日でした」
「ほう、今の荊さんの姿からはちっとも想像できないね」
「私はある人と友となりました。その人は立派な義士でした。やさぐれた私に何くれとかまってくれて世の中というものを見せてくれたのです」
「名のある人物だったのかな」
「いえ、小さな村の人でした。ただ、義というものはどのような人の魂にも宿るのだと気付かせられました。そういえばその人の歌は高氏の筑の音によく似ていた。そのほかの点でも高氏とはよく似ておりますね」
荊軻は懐かしそうに茶器から立ち上る暖かい湯気を眺める。
そういえば、荊軻は高漸離の筑の音で飲むときだけは周りに誰もいないかのように泣くという。その様が薄気味悪いと言われることもあるが、普段飄々としている荊軻のそのような姿に心を打たれる者も多いと聞く。荊軻にとって高漸離とは稀有な心を許せる友なのだろう。
荊軻は昔を思い起こすような目をして再び口を開く。
「私はこれまでの自分は官吏になるために学んでいたのであって民のために学んでいたのではなかったことを知りました。それで自分の声がなぜ元君に、いや、人に届かなかったのかがわかりました。私の言は上っ面ばかりだったのです。そして私の進むべき道は民のためにあり、義であることに得心したのです」
「得難い出会いであったのだね」
「はい。本当に。それからは義とは何かを考え続けました。私はその友に立派な義士になると誓いました。それが私を救ってくれた友に対する礼だと考えました。そのために義侠として大きく名を残したいのです。ですから私は小事に捉われず大きな機を得るのを待っているのです」
「荊さんは本当に大きなことを為そうとしているのだね。名を成すまでは荊さんに落ち着ける場所はないということか」
荊軻はゆっくりと頭を振り、儂の目をまっすぐ見つめ、静かに告げた。
「死して名を残すのがいい」
その言葉は、静かな湖面に滴が落ちて波紋ができるように儂の心に広がっていった。絶句する。何故だ、何故そんな考え方をする。生きて義をなし続けることこそ最善ではないか。誼を結んだ者のために命を賭すのが義侠の姿だとしても、死を前提とする者はいない。特に名を残そうとする者には。戸惑う儂に荊軻は続ける。
「田光先生、私は私という存在を歴史に刻みたいのです。余人に果たせぬ義を果たし、それに殉じたい。私にとっての義というものは重いものなのです。それに私には一つの義を心に抱けば他のものを入れる余裕はないでしょう。私自身がその義を果たすために全てを捧げる。だから私にはその後に新たな義を求めるということは想像が浮かばないのです」
そこで荊軻は一度言葉を切り、羨ましいものを見るように儂を見た。
「私には先生のように多くの義をその懐のうちに収めることなど到底できぬのです。そういうわけで、私はずっと私の抱くべき義を探しているのですが、なかなかままならないものですね」
荊軻は少し寂しそうに述べた。
他の男が言ったのであれば一笑に付す言葉だ。だが荊軻の目には半端な義しかなすことの叶わぬ儂に対する嘲りなどなにもなく、ただ、儂は儂と荊軻の義のありようの違いをまざまざと突き付けられた思いがした。
儂はようやく理解した。荊軻は義という生き物だ。なんと鮮烈で破滅的な男だろう。荊軻はまっすぐな男だ。そしてとても不器用な男でもある。多少のことに目を瞑ることができないから、義を成し遂げ名を残すまでただ一人で孤高を歩いてゆかざるをえない。そして義を遂げた後は、そのたった一つの義を心に抱いてやはり孤高であり続けるしかない。何がそれほど荊軻を律するのか。それはわからない。けれどもその魂のありようは孤高で美しかった。儂とは全く異なるな、と嘆息した。
そんな話をしたのは少し前の話だ。
「田光先生、いかがなされますか」
ふと現実に戻される。そうであったな。
「麴武殿にお会いしよう」
儂は座り慣れた椅子から重い腰を上げた。荊軻とは異なるが、それでも儂は儂で義侠として生きている。その姿を示さねばなるまい。
太子丹が秦から逃げ帰ったと言う噂はしばらく前から流布していた。市井はその話で持ちきりとなっていた。むろん悪い方向で、だ。なぜこのような秦軍が国境に迫る時期に秦から逃亡したのか。太子丹を追って秦が攻めてくるのではないか。太子丹の帰国は薊城に大きく暗い影を落とした。
そして今日新しく噂が加わった。秦の将軍であった樊於期が燕に亡命し、それを太子丹が匿っているという。秦王政は樊於期の一族郎等を皆殺しにし、樊於期の首に多額の賞金をかけた。そのような人物を匿っているのだ。太子丹の名はさらに不穏を伴って取り沙汰されるようになった。
太子丹は不遇の人だった。幼少より隣国の趙で人質として囚われていた。趙でさほど粗雑には扱われることはなかったものの、いざと言うときは簡単に死が訪れる。死ぬために生かされる存在、それが人質だ。戦国の世のことだ。本国にとって重要でない者が送られる。その時分の丹は未だ太子ではなく、王族の子の一人に過ぎなかった。いらぬ者、その事実は人質となる者の心に大きく突きつけられた。
そんな中、丹は趙の国都である邯鄲で当時の秦王の孫である嬴政に出会った。
嬴政の境遇は更に悲惨だった。
もともと嬴政の父は当時の秦王の子だったが、後ろ盾もなく重用もされていなかった。だから人質として趙に送られた。誰も後に王位につくとは思っていなかったが、豪商であった呂不韋が近づき工作を始めた。嬴政の父は呂不韋からその妾を譲られ、邯鄲で生まれたのが嬴政である。
その後、当時の秦王は嬴政の父が人質となっているにもかかわらず趙を攻めて邯鄲を包囲した。嬴政の父は処刑される寸前に辛くも門番を買収し、嬴政と妾を捨てて邯鄲を出た。このような出自から、嬴政は本当に秦王の血を継ぐのかすら疑われ、虐げられたと聞く。
幼少の折の丹と嬴政は比較的親しい関係であったとも聞くが、そもそもそれも丹からの話に過ぎず、嬴政から見ればまた異なるのかもしれない。
嬴政の預かり知らぬうちに嬴政の父は呂不韋の後ろ盾で秦王となり、嬴政は父のもとに突然呼び戻された。その後丹は人質として秦に送られた。丹は秦王政に友誼を求めたが、すげなく遇されたという。
◇
「田光先生はおられますでしょうか」
その日、儂の家を鞠武が訪れた。太子丹の側近だ。
儂は会いたくはなかった。法は義と相容れぬが、政も義と相容れぬ。政が取りこぼしたものを義が拾うのだ。
だが。
麴武は侠である儂を頼って来たという。そうであれば断れぬ。儂はこの薊城に根を張ってしまった。こういう時、身軽な荊軻を少し羨ましく思う。
荊軻は真の義侠だ。あらゆる者と酒を酌み交わし友誼を広げるが、いざ義兄弟の契りなどの深い誼を迫られるとひょうと姿を晦ます。その様子を臆病だとか不義だという者もいるが、儂はそうは思わぬ。
義とは難しい生き方だ。一度誼を交わすと裏切ることは決して叶わぬ。その者のために命を賭す。当然だ。義とはそういうものなのだから。だから、安易に誼を結ぶと身動きが取れなくなる。最初は同じ道を歩き誼を結んだとしても、その後道が分かれることはある。敵対する者のために死ねるのでなければその義は本物ではなかったということだ。誼を結んだ者どうしが敵対することもありうる。そうなった時、一方に味方することは他方に不義となる。またいずれも味方しない場合も双方に不義となる。
儂はそのような事態に陥っても、年の功と人の縁でうまく収めて来ただけなのだ。あたかも儂が義侠であるかのように言われるが、儂は多くの者と誼を結び身動きの取れなくなった義侠になりきれぬ紛い物だ。しかし荊軻は違う。荊軻はいざというときに己の真の義を示すため、余人と誼を交わさずただ一人孤高にある。
酒を酌み交わしながら荊軻の求める義を尋ねたことがあった。
「私は名を為したいのです」
「名を、かね」
多くの侠客は義で名を残すことを欲している。けれども荊軻のその申し出は意外に聞こえた。その飄々とした風情にそぐわないように思われた。それに荊軻はこのあたりではすでに『荊卿』と言われて多くの者に慕われている。これまで過ごした国でも同様に聞いている。すでに名は知れ渡っている。
「荊さんの求める名というのはどのようなものかな」
「そうですね」
荊軻は少し恥ずかしそうに、少年のようにはにかんだ。
「私はもともと、祖国衞の官吏となることを志して諸国に学びました。けれども私の弁は衞の君主である元君に全く通じませんでした。真剣に国について考えたのに何故理解されぬのか、ととても落胆しました。自暴自棄にもなりました。私は衞を飛び出し、再び諸国を放浪しました。その時はお恥ずかしながら荒れておりまして、各地で揉め事を起こす毎日でした」
「ほう、今の荊さんの姿からはちっとも想像できないね」
「私はある人と友となりました。その人は立派な義士でした。やさぐれた私に何くれとかまってくれて世の中というものを見せてくれたのです」
「名のある人物だったのかな」
「いえ、小さな村の人でした。ただ、義というものはどのような人の魂にも宿るのだと気付かせられました。そういえばその人の歌は高氏の筑の音によく似ていた。そのほかの点でも高氏とはよく似ておりますね」
荊軻は懐かしそうに茶器から立ち上る暖かい湯気を眺める。
そういえば、荊軻は高漸離の筑の音で飲むときだけは周りに誰もいないかのように泣くという。その様が薄気味悪いと言われることもあるが、普段飄々としている荊軻のそのような姿に心を打たれる者も多いと聞く。荊軻にとって高漸離とは稀有な心を許せる友なのだろう。
荊軻は昔を思い起こすような目をして再び口を開く。
「私はこれまでの自分は官吏になるために学んでいたのであって民のために学んでいたのではなかったことを知りました。それで自分の声がなぜ元君に、いや、人に届かなかったのかがわかりました。私の言は上っ面ばかりだったのです。そして私の進むべき道は民のためにあり、義であることに得心したのです」
「得難い出会いであったのだね」
「はい。本当に。それからは義とは何かを考え続けました。私はその友に立派な義士になると誓いました。それが私を救ってくれた友に対する礼だと考えました。そのために義侠として大きく名を残したいのです。ですから私は小事に捉われず大きな機を得るのを待っているのです」
「荊さんは本当に大きなことを為そうとしているのだね。名を成すまでは荊さんに落ち着ける場所はないということか」
荊軻はゆっくりと頭を振り、儂の目をまっすぐ見つめ、静かに告げた。
「死して名を残すのがいい」
その言葉は、静かな湖面に滴が落ちて波紋ができるように儂の心に広がっていった。絶句する。何故だ、何故そんな考え方をする。生きて義をなし続けることこそ最善ではないか。誼を結んだ者のために命を賭すのが義侠の姿だとしても、死を前提とする者はいない。特に名を残そうとする者には。戸惑う儂に荊軻は続ける。
「田光先生、私は私という存在を歴史に刻みたいのです。余人に果たせぬ義を果たし、それに殉じたい。私にとっての義というものは重いものなのです。それに私には一つの義を心に抱けば他のものを入れる余裕はないでしょう。私自身がその義を果たすために全てを捧げる。だから私にはその後に新たな義を求めるということは想像が浮かばないのです」
そこで荊軻は一度言葉を切り、羨ましいものを見るように儂を見た。
「私には先生のように多くの義をその懐のうちに収めることなど到底できぬのです。そういうわけで、私はずっと私の抱くべき義を探しているのですが、なかなかままならないものですね」
荊軻は少し寂しそうに述べた。
他の男が言ったのであれば一笑に付す言葉だ。だが荊軻の目には半端な義しかなすことの叶わぬ儂に対する嘲りなどなにもなく、ただ、儂は儂と荊軻の義のありようの違いをまざまざと突き付けられた思いがした。
儂はようやく理解した。荊軻は義という生き物だ。なんと鮮烈で破滅的な男だろう。荊軻はまっすぐな男だ。そしてとても不器用な男でもある。多少のことに目を瞑ることができないから、義を成し遂げ名を残すまでただ一人で孤高を歩いてゆかざるをえない。そして義を遂げた後は、そのたった一つの義を心に抱いてやはり孤高であり続けるしかない。何がそれほど荊軻を律するのか。それはわからない。けれどもその魂のありようは孤高で美しかった。儂とは全く異なるな、と嘆息した。
そんな話をしたのは少し前の話だ。
「田光先生、いかがなされますか」
ふと現実に戻される。そうであったな。
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