あの子が空を見上げる理由

堀井菖蒲

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一枚板の看板とおかしな隣人-4

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 関わらなければ良かったと思いながら、洗い直した食器を拭く。
 食事が終わった後、そのままでいいという美葉みよの言葉を頑なに断り、正人まさとはきれいに食器を洗った。正直、爪が伸びた薄汚れた手で食器を洗ってもらっても困ると思った。少なくとも一ヶ月はまともに風呂に入っていない男に、失礼かもしれないと思いつつ風呂に入っていかないかと聞いてみた。
 「いいんですか!?」
 正人はうれしそうに応じた。
 そして今、正人は風呂に入っている。風呂場から、正人の鼻歌が聞こえる。音程は確かで声も悪くないが、歌詞があまりにもでたらめだ。
 食事を与え、風呂で汚れた体を清める。
 まるで捨てられた犬を拾ったみたいだ。
 とても変な人。悪い人間ではないが、あまりにも生きていくための能力に欠けている。このまま放っておいたら、いずれ死体で発見されるかもしれない。全く知らない間柄であれば、「お気の毒」とさらりと思い、「何も隣で死ななくてもいいのに」とちょっと非難めいた気持ちを抱き、体育館を見るたびに嫌な思いをする、くらいで済むだろう。だが、こうして会話をし、食事を提供し、生活能力が無いということを知ってしまったら、遺体として発見されたことに責任を感じてしまうことだろう。
 「だからって、ずっと面倒見てあげるわけにも行かないし。」
 美葉が一つため息をついたときだった。
 風呂場から、けたたましい悲鳴が聞こえた。美葉は驚いてレンゲを床に落としてしまう。
 落としたレンゲを拾うのは後にし、風呂場に駆けつける。
 「どうしたの?」
 恐る恐る木のドアに声をかける。
 木のドアが少し開き、正人のぬれた前髪が覗いた。
 「すいません。自分の顔に、びっくりして。」
 正人の前髪から、しずくが落ちる。
 「は?」
 美葉は眉をしかめた。
 「鏡をしばらく見ていなかったから、こんなに髪や髭が伸びていると思っていなくて。鏡に映った自分の姿を見て不審者だと思ったんです。」
 へへ、と照れくさそうに正人は笑った。
 「髭、そこにあるT字カミソリ使って剃っていいですよ。」
 美葉は投げやりにいって立ち去ろうとする。
 「ああ、待ってください。これも、借りていいですか?」
 ドアの隙間から、正人はバリカンを差し出した。

 三十分後、裏庭に並べた椅子に、正人と和夫が並んで座っていた。
 二人とも、頭が通るように穴を開けたゴミ袋を被っている。その背後に、美葉がバリカンを持って立っていた。
 バリカンを使うのかまわないが、脱衣所や風呂場で使われると後片付けがやっかいだ。それに、そもそも正人はバリカンを使ったことはないという。
 ならば、ちょうど和夫の髪が伸び放題になっていたのでまとめて刈ってしまおうということになったのだ。
 和夫の髪は、母が毎月刈りそろえていた。刈ってくれる人がいなくなると、自分から理髪店に向かうことをせず、伸び放題になる。あまりにも見苦しくなると、美葉が半ば無理矢理刈ることになる。頻繁に刈るのが面倒なのでかなり短く刈り込むのが和夫は気に入らないようだ。だったら自分で何とかしろと思う。
 和夫は先にゴミ袋を被って座っている正人を見て、
「誰?」
と聞いた。
 正人は立ち上がって直立し、
 「ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。先月隣に引っ越してきました木全正人と申します。」
 と深々と頭を下げた。
 「はぁ、どうも。谷口です。」
 和夫はちょこんと頭を下げ、どっこらしょと椅子に座る。
 体育館に引っ越してきた隣人が、初対面で自分のスエットの上下を着て(何ならパンツも自分のだけど)ゴミ袋を被って座っているというシチュエーションに、このリアクションの薄さはないだろう、と美葉は思う。力任せにバリカンにアタッチメントを取り付ける。
 「六ミリにしてくれ。」
 和夫は振り返らずに言う。
 「どうせ、三ヶ月もしたら六ミリの長さになるでしょ。」
 美葉は素っ気なく言い返し、一ミリのアタッチメントで頭をそり始めた。
 ああ、と和夫の口からため息がこぼれる。
 二人の様子を眺めながら、正人がふふ、と笑みをこぼした。
 襟足から、頭頂部に向かってバリカンを走らせる。この感触は嫌いではない。小さい頃は面白がって母にせがんで刈らせてもらった。必ず虎刈りになるので、母は一番長いアタッチメントをつけたバリカンを持たせていた。上手になった頃には、父親の頭に好んで触ろうと思う年は過ぎてしまった。久しぶりにバリカンを持ったのは、去年の暮れだったと思う。
 和夫の髪は、あっという間に刈り上がった。
 美葉はアタッチメントを12ミリに変えた。正人の髪質は柔らかくて癖がない。長めに刈っても変に張り出したりはしないだろう。長髪から突然丸坊主もかわいそうだし、まだ年も若そうなのでおしゃれ坊主にしてあげようと思ったのだ。
 「沢山、木を植えているんですね。」
 バリカンを入れたところで、正人が、ぽつりとそう言った。
 物干し竿の向こうに、一坪ほどの庭があり、取り囲むように低木が植えられている。低木の向こうには、背の高い木が何種類か、低木や庭を守るように立っている。どの木もまだ冬囲いが外されていない。
 「正面が蝦夷山桜えぞやまざくら。奥のがブンゲンストウヒ、その隣が、蝦夷赤松えぞあかまつ。手前のはみんな紫陽花あじさいです。」
 和夫が力ない口調で答える。
 「へぇ、山桜は立派な枝振りですね!」
 正人が身を乗り出そうとするので、動かないで!と美葉がゴミ袋を引っ張った。
 「山桜は、結婚の記念に植えました。ブンゲンストウヒは美葉が生まれた記念樹です。蝦夷赤松は景観のために町から無料で配られたものです。紫陽花は、毎年母の日に新しい品種の鉢植えを買って、秋に庭に下ろして育てていたんです。…家内がね。」
 「奥さん、紫陽花がお好きなんですね。見事だろうな、この紫陽花の庭は。」
 「…。」
 和夫は無言で立ち上がり、ゴミ袋を頭から外して椅子の上に置き、立ち去ってしまった。
  「あ…。」
 後ろ姿を追うように動かした頭を、美葉がぐい、と押さえた。
 「気にしないで。」
 バリカンを動かしながら美葉は素っ気なく言った。
 「お母さんが死んでからずっとああなの。」
 はっ、と正人が息をのむのを感じたが、美葉は手元に集中した。心を動かさないようにするためだ。
 「悲しんでいたって、時間は流れるのにね。」
 バリカンの長いアタッチメントでは、きれいに長さをそろえるのが難しい。それでも一通り刈り終えたので、正人から体を離し、長さがそろっているかどうかを確認する。
 「いいんじゃないかな。」
 小さくつぶやいてから、
 「できたよ。」
 と正人に告げた。
 正人は自分の頭を左手で触る。感触を確かめているようだ。
 「ありがとうございます。」
 正人は笑顔で美葉を振り返った。
 美葉ははっと息をのんだ。
 美術室にあるギリシャ人の胸像のような、彫りの深い顔立ち。柔らかく細められた切れ長の目。形の良い唇が優しく微笑みかけている。
 現実離れした美青年がそこにいた。
 うわぁ!、と心の中で叫ぶ。
 お父さんのパンツはいてよれよれのスエット着て頭からゴミ袋被ってるけど、すごいイケメン!
 「こんなに短くしたの、久しぶりです。頭、涼しくなりました。」
 正人が立ち上がると、ゴミ袋にたまっていた薄茶色の髪の毛がぱらりと、雪解けでやっと顔を見せたばかりの芝生に落ちる。
 正人は膝に頭がつくのではないかと思うくらい深々と頭を下げる。
 「食事をさせてもらい、風呂に入れてもらい、髪まで切ってもらい、本当に何から何までありがとうございます。おかげさまで、生き返った心地です。」
 そう言ったとたんに、正人の腹が大きくなった。
 正人は自分の腹を抱え、赤面する。恥ずかしそうに固く閉じたまぶたを、長いまつげが縁取っている。
 イケメンでも、変な人は変な人だ。
 美葉は苦笑して言った。
 「晩ご飯も、食べていく?」
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