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一枚板の看板とおかしな隣人-5
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照り焼きにしようと思っていた鳥もも肉を大きめの一口大に切り、白菜と長葱、人参、椎茸を土鍋に入れ、味噌と豆乳で煮立てる。砂糖と醤油で味を調え、多めのすりごまを入れた。冷蔵庫に入っているのはいつも二人分の食材なので、飢餓状態を満たすには物足りないかもしれない。冷凍庫を確認したら、うどんがあった。美葉は一つ頷く。うどんでしめれば腹は満たされるだろう。
食卓には正人が見るからにわくわくしながら待っている。和夫は、ぼんやりとテレビ番組を見ていた。
「コンロ、用意して。」
美葉に声をかけられ、大儀そうに和夫は立ち上がり、冷蔵庫の上から卓上コンロを出した。ガスボンベを取り出し、軽く振って中身があるのを確かめてからコンロに取り付ける。そこへ、土鍋を抱えた美葉がやってくる。コンロの上に土鍋が置かれ、弱火にかけられる。
美葉が土鍋の蓋を開けると、もわっと白い湯気が立った。
乳白色のだしが、小さくふつふつと沸いており、出汁を含んで柔らかくなった白菜に人参が色を添えている。
正人は、口を半開きにし、目を見開いて鍋を凝視している。まるで感動的な映画に見入っているようだ。美葉が黒いとんすいに一通りの具材をとりわけ、目の前に置くと、息をのむ気配が聞こえた。うやうやしく両手で包み、匂いを嗅ぐ。そして、微かに震える手をしっかりと合わせ、深々と頭を下げた。
「い…。」
「あ、熱いからね。」
美葉は慌てて声をかける。はっと正人は顔を上げ、上目遣いに美葉を見てから至極真面目な顔で大きく頷く。そして、改めて深く頭を下げた。
「いただきます。」
正人は箸で白菜をつまみ出すと、フーフーと強く息を吹きかけた。口に入れ、しっかりとかみしめる。時間をかけて咀嚼し、飲み込んだ正人の目から、大粒の涙がこぼれた。
「え!?」
美葉は絶句する。
正人はまたとんすいの中身に箸をつける。昼間の雑炊の時とは違い、一箸ごとにじっくりと味わっているようだ。咀嚼する頬に涙が幾筋も伝う。美葉も和夫もぽかんとその様子を見ていた。
スープを飲み干し、正人は深い息をゆっくりとついた。
「生きていて、良かった。」
深い息とともに、正人のつぶやきが漏れ聞こえた。
息をついたところで、やっと美葉と和夫の視線に気づいたようである。両手で涙を拭き取り、恥ずかしそうに笑った。
「すいません。驚かせてしまいました。お鍋を囲む、という行為があまりにも久しぶりだった上に、あまりにも美味しくて、感動的で…。今生きて、この時を迎えられていることが本当に心から良かったと思うと、涙が止まらなくなってしまいました。」
「まぁ、今日出会わなければ、本当に餓死してたかもしれないしね。」
美葉が肩をすくめる。心に黒いもやがかかって、言葉にとげが混じってしまった。
美葉の心にもやを作ったのは、「生きていて良かった。」という言葉だった。言葉にならない不愉快さを感じたが、表に出してこの男の純粋な感激に水を差すつもりもなく、美葉も箸を動かし始めた。
和夫が立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。無言で片方を正人に差し出す。
正人はえ、と驚いた顔を和夫に向けながら缶ビールを受け取った。しばらく包むように両手で持ってから、身体から遠ざけるようにテーブルに置いた。
「ありがとうございます。」
深々と頭を下げてから、眉尻を下げた。
「でも、これはいただけません。」
「酒は苦手かい?」
和夫が問う。正人は大きく首を横に振った。
「いえ、苦手と言うことはありません。しかし、今日はいただくわけにはいきません。お酒は、一日の労をねぎらうためにあるのだと思っています。今日、僕は実になる働きを何一つしなかった。それだけでなく、こうやって美葉さんに窮地を救っていただき、食事をいただき、風呂に入らせていただき、身なりを整えていただきました。労働をせず与えていただいてばかりの一日でしたから、お酒をいただくには値しません。」
「はぁ。」
和夫はぽかんとして間抜けな声を返す。
「堂々と胸を張ってお酒が飲める日が来るといいね。」
美葉はそう言いながら空になった正人のとんすいに二敗目の鍋を取り分ける。美葉が放ったのは皮肉だった。実態のない家具屋に、客が来る日などないだろうと思ったのだ。そんな美葉に正人は純粋な笑みを返す。
「はい、頑張ります。」
力強い握りこぶしを作ってみせる。美葉はため息をつき、とんすいを正人に手渡した。
今日は、予定外の事が多すぎた。
美葉は机に向かい、参考書をにらみ、数学の問題を解いていく。数学は今年の内に一通り理解しておくつもりだ。学校の授業に合わせていてはとても間に合わない。入学の時点で進学校に行った者に比べて大きなハンデを負っている。そこを詰めていかなければならない。
シャープペンシルを握る指先に力がこもる。
大きく息を吸う。
息が、しにくい。
呼吸はしている。でも、苦しい。喉の奥に大きな塊が閊えている。その塊のせいで、息を吸っても、吸っても、本当に必要なものが入っていかないような気がする。
この塊は、いつの頃からか常に美葉の喉の奥にある。日々の日課をこなすことに集中していれば、忘れていられる。でも、しんとした空気の中にいると息苦しさが増してどうしようもなくなる。
首を上げて天井を仰ぎ、大きく息を吸う。
負けてしまうわけにはいかない。
目を閉じて、奥歯をかみしめる。ぎりり、と嫌な音が鳴った。
目を開けると、窓の外の暗闇が目に飛び込んでくる。街灯も何もない田園地帯は、夜になると真の闇に包まれる。闇には果てが無く、その先はこの世では無い場所に繋がっているように思えた。
美葉はもう一度大きく息を吸い、再び参考書に視線を移した。
そのとき、まぶたの上に光を感じた。視線を挙げると、オレンジ色の光が闇の中にぽうっと浮んでいる。体育館の窓に明かりがともったのだ。
いただきます。そう言って丁寧に両手を合わせた正人の姿が目に浮んだ。久しぶりの食事を急いでかきこみたいのに、美葉の言葉を忠実に守って雑炊を必死で冷まし、ものすごい早さで咀嚼する姿。濡れた前髪からしずくを垂らして恥じ入る姿。
「おかしな人だったな。」
オレンジ色の光を眺めながら、ふう、吐息をはく。肩から力が、ほんの少し抜けた気がする。正人は何をしているのだろう、と身を乗り出して窓の光をのぞき込むが、人影は見えない。目をこらした先に、微笑みかける端正な顔が浮び、頬が熱くなるのを感じた。
美葉は小さく頭を振り、両手で自分の頬を軽く叩いた。
「集中しなくちゃ。」
参考書に目を移す。不思議と息苦しさが和らいで、数式を解くことに意識が吸い込まれていった。
食卓には正人が見るからにわくわくしながら待っている。和夫は、ぼんやりとテレビ番組を見ていた。
「コンロ、用意して。」
美葉に声をかけられ、大儀そうに和夫は立ち上がり、冷蔵庫の上から卓上コンロを出した。ガスボンベを取り出し、軽く振って中身があるのを確かめてからコンロに取り付ける。そこへ、土鍋を抱えた美葉がやってくる。コンロの上に土鍋が置かれ、弱火にかけられる。
美葉が土鍋の蓋を開けると、もわっと白い湯気が立った。
乳白色のだしが、小さくふつふつと沸いており、出汁を含んで柔らかくなった白菜に人参が色を添えている。
正人は、口を半開きにし、目を見開いて鍋を凝視している。まるで感動的な映画に見入っているようだ。美葉が黒いとんすいに一通りの具材をとりわけ、目の前に置くと、息をのむ気配が聞こえた。うやうやしく両手で包み、匂いを嗅ぐ。そして、微かに震える手をしっかりと合わせ、深々と頭を下げた。
「い…。」
「あ、熱いからね。」
美葉は慌てて声をかける。はっと正人は顔を上げ、上目遣いに美葉を見てから至極真面目な顔で大きく頷く。そして、改めて深く頭を下げた。
「いただきます。」
正人は箸で白菜をつまみ出すと、フーフーと強く息を吹きかけた。口に入れ、しっかりとかみしめる。時間をかけて咀嚼し、飲み込んだ正人の目から、大粒の涙がこぼれた。
「え!?」
美葉は絶句する。
正人はまたとんすいの中身に箸をつける。昼間の雑炊の時とは違い、一箸ごとにじっくりと味わっているようだ。咀嚼する頬に涙が幾筋も伝う。美葉も和夫もぽかんとその様子を見ていた。
スープを飲み干し、正人は深い息をゆっくりとついた。
「生きていて、良かった。」
深い息とともに、正人のつぶやきが漏れ聞こえた。
息をついたところで、やっと美葉と和夫の視線に気づいたようである。両手で涙を拭き取り、恥ずかしそうに笑った。
「すいません。驚かせてしまいました。お鍋を囲む、という行為があまりにも久しぶりだった上に、あまりにも美味しくて、感動的で…。今生きて、この時を迎えられていることが本当に心から良かったと思うと、涙が止まらなくなってしまいました。」
「まぁ、今日出会わなければ、本当に餓死してたかもしれないしね。」
美葉が肩をすくめる。心に黒いもやがかかって、言葉にとげが混じってしまった。
美葉の心にもやを作ったのは、「生きていて良かった。」という言葉だった。言葉にならない不愉快さを感じたが、表に出してこの男の純粋な感激に水を差すつもりもなく、美葉も箸を動かし始めた。
和夫が立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。無言で片方を正人に差し出す。
正人はえ、と驚いた顔を和夫に向けながら缶ビールを受け取った。しばらく包むように両手で持ってから、身体から遠ざけるようにテーブルに置いた。
「ありがとうございます。」
深々と頭を下げてから、眉尻を下げた。
「でも、これはいただけません。」
「酒は苦手かい?」
和夫が問う。正人は大きく首を横に振った。
「いえ、苦手と言うことはありません。しかし、今日はいただくわけにはいきません。お酒は、一日の労をねぎらうためにあるのだと思っています。今日、僕は実になる働きを何一つしなかった。それだけでなく、こうやって美葉さんに窮地を救っていただき、食事をいただき、風呂に入らせていただき、身なりを整えていただきました。労働をせず与えていただいてばかりの一日でしたから、お酒をいただくには値しません。」
「はぁ。」
和夫はぽかんとして間抜けな声を返す。
「堂々と胸を張ってお酒が飲める日が来るといいね。」
美葉はそう言いながら空になった正人のとんすいに二敗目の鍋を取り分ける。美葉が放ったのは皮肉だった。実態のない家具屋に、客が来る日などないだろうと思ったのだ。そんな美葉に正人は純粋な笑みを返す。
「はい、頑張ります。」
力強い握りこぶしを作ってみせる。美葉はため息をつき、とんすいを正人に手渡した。
今日は、予定外の事が多すぎた。
美葉は机に向かい、参考書をにらみ、数学の問題を解いていく。数学は今年の内に一通り理解しておくつもりだ。学校の授業に合わせていてはとても間に合わない。入学の時点で進学校に行った者に比べて大きなハンデを負っている。そこを詰めていかなければならない。
シャープペンシルを握る指先に力がこもる。
大きく息を吸う。
息が、しにくい。
呼吸はしている。でも、苦しい。喉の奥に大きな塊が閊えている。その塊のせいで、息を吸っても、吸っても、本当に必要なものが入っていかないような気がする。
この塊は、いつの頃からか常に美葉の喉の奥にある。日々の日課をこなすことに集中していれば、忘れていられる。でも、しんとした空気の中にいると息苦しさが増してどうしようもなくなる。
首を上げて天井を仰ぎ、大きく息を吸う。
負けてしまうわけにはいかない。
目を閉じて、奥歯をかみしめる。ぎりり、と嫌な音が鳴った。
目を開けると、窓の外の暗闇が目に飛び込んでくる。街灯も何もない田園地帯は、夜になると真の闇に包まれる。闇には果てが無く、その先はこの世では無い場所に繋がっているように思えた。
美葉はもう一度大きく息を吸い、再び参考書に視線を移した。
そのとき、まぶたの上に光を感じた。視線を挙げると、オレンジ色の光が闇の中にぽうっと浮んでいる。体育館の窓に明かりがともったのだ。
いただきます。そう言って丁寧に両手を合わせた正人の姿が目に浮んだ。久しぶりの食事を急いでかきこみたいのに、美葉の言葉を忠実に守って雑炊を必死で冷まし、ものすごい早さで咀嚼する姿。濡れた前髪からしずくを垂らして恥じ入る姿。
「おかしな人だったな。」
オレンジ色の光を眺めながら、ふう、吐息をはく。肩から力が、ほんの少し抜けた気がする。正人は何をしているのだろう、と身を乗り出して窓の光をのぞき込むが、人影は見えない。目をこらした先に、微笑みかける端正な顔が浮び、頬が熱くなるのを感じた。
美葉は小さく頭を振り、両手で自分の頬を軽く叩いた。
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