夢憑き喰らう

香津宮裕介

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第二章 藤田正典

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 かっこいい女の子を見た。
 見たのは夢の中だったけど、俺は憶えている。断片が鮮烈すぎて、細かいところまでは忘れてしまったが、残された部分を強く意識することでイメージの確立をはかった。
 消えてほしくなかったのだ。
 あれはたぶんセーラー服。ブレザーが全盛の時代に、学校制服としては減少の傾向にあるらしい。
 そういえば俺が学生の頃は(母校はブレザーだったが)、みんなやたらとスカートを短くしたがった。それがオシャレで可愛いという感性らしかった。一見普通そうな子も、家庭環境のおかげかそれとも本人の完全になりきれない性格ゆえかは知らないが、スカートを切ることに抵抗があったらしく、腰周りをひとつ余計に折り込むという、涙ぐましい努力を垣間見た。
 最近、道行く学生を見ていると、当時に比べると幾分スカート丈が長くなったように思う。それでも規定の標準かと言われれば、やはり少し短いのかな? というぐらいであろう。
 だからその夢の中に現れたセーラー服の少女が、いわゆる膝丈の、標準の長さのスカートを穿いていたのは新鮮な気がした。特にその標準サイズというのは、いかにも垢抜けない地味な子の象徴という感じで、見様によってはダサく見える場合もあるのだが。
 セーラー服の少女は、革手袋グローブの手に刃物を持っていた。それはペーパーナイフを思わせる長さで、しかし割合に太く、三角錐の形状は肉食動物の牙を思わせた。
 そうしてその瞳――長すぎず短すぎない黒髪は激しく乱れ、しかしそこからのぞく金色に輝く瞳は冷酷なほど澄んでいて、きッと彼方を凝視していたのだった。
 それはさながら、牙を持った獣であった。
 少女は俺の前に――そう、まるで俺を守るかのように立ちはだかったのである。
 夢の中で俺は、たしかなにかに怯えていた。それがなんであるか、いまとなっては思い出せない。
 とても恐ろしいモノであったような気がする。思い出さない方が良いような気もする。
「これは夢喰の牙。悪夢を喰らうことのできる唯一の武器」
 やがて少女は、俺に背を向けたまま語りかける。その声は思いのほか、年頃の娘にしては低くかった。本来の声を、わざと押し殺しているような響きでもあった。
「夢喰の牙は、あなたの悪夢を残らず消し去る。けれども、それによってあなたは一生夢を見ることができなくなってしまう。楽しい夢も、悲しい夢も、なにもかも」
 今にして思えば、少女は俺の返答を待っていたのだろう。
 彼女の体越しに、彼方の闇に醜悪な恐怖がいた。それは何事かをうめくように、わめくようにこちらに向かって来ようとしているのだった。おそらく、アレに捕まれば俺は殺されてしまうだろう予感はあった。
 けれども、その時の俺はそんな恐怖よりも、目の前の少女に釘付けになってしまっていた。
 ああ、そうだ。俺は不気味なモノ共に囲まれていたのだ。そこにこのが颯爽と現れ、その手にした牙でことごとく蹴散らしてくれたのだった。マンガかなにかみたいだ。
 そうして俺が思い出すこともできないそいつらは、重なり、合わさり、混じりあいながら、ひとつの――ひとつの……
 それから、ようやく思い出す。
 俺はその獣の瞳をした少女を、どこかで知っている気がした。

       *

 唐突だが、俺はメガネ女子というものが好きだ。
 メガネ女子とは眼鏡っ子とは似て非なるものである。おしゃれ眼鏡をかけてる女の子を見かけると、ついドキドキしてしまう。
 赤縁がいいと思う。かわいいと思う。
 近眼の女の子も好きだ。目を細めるしぐさがたまらない。
 でも、目が悪くないくせに眼鏡をかけてる女子もすこぶる好きだ。
 俺も最近は視力の衰えを感じるが、まだまだ眼鏡のお世話になるほどではない。
 そのくせ、たまに眼鏡をかける。度の入ってないやつだ。黒ブチの。おしゃれ眼鏡であるが、もうひとつ理由がある。
 眼鏡は変装アイテムである。
 同時に、防衛アイテムでもある。
 装備すると守備力が上がるアクセサリーだったりする。世のRPGはよくわかっている。
 俺はあまり人ごみが好きではない。見ているのは好きだが、見られるのは苦手だ。
 だから眼鏡をかける。
 これは自己を守るため。自分の素顔を隠すためだ。
 たとえば女性が執拗に塗りたくる化粧と同じだ。女は己を美しく見せようとする。
 それは武器だ。
 けれどもそれは、男に対してではない。比較するのはいつだって同性だ。おかしく見られやしないか、ちゃんと化粧をしないとはずかしいと、そんなことを考えながら白く塗る。
 男が毎日ひげを剃るように、女性が毎日化粧をして出かけるのは、歯を磨くようなエチケットと同じようなものかもしれない。
 あいにく俺は、平均的な一般成人男性だと思い込んでいるので、化粧の習慣がないから、そのじつは想像と願望でしかない。
 残念ながら化粧をしても、防御力は上がらない。その代わり、見られることを意識したそれは、見る者に少なからず影響を与える。だから武器なのだ。
 それにひきかえ俺の眼鏡は、見られることを守ろうとする。
 方向性は化粧とは反対の、内側のベクトルのものである。あくまで俺の場合は、であるが。
 もともと眼鏡をかけようと思った動機は、俺の目つきが悪いことにある。
 これがいけない。
 気分屋の俺など、機嫌の悪いときには三割増しでシャープになるらしい。それがそうとう怖いらしい。
 これではいけない。と思った。
 口下手の俺なのだ。気の利いたことひとつ言えない。たとえば合コンに参加して、後日の印象が「目つきの悪いやつ」で完結してる場合も多いだろう。
 それは困る。
 ケータイ番号を強引に語呂合わせにして、わざとらしく印象づけたところで、次回に会うときにはすっかり忘れられているのだ。
 そこで俺は眼鏡をかけた。
 目つきの悪い男はそこにはおらず、眼鏡をかけた男がそこにいた。
 眼鏡をかけたやつのあだ名が、かなりの高確率で「眼鏡」になるのは、周知のことである。
 ちなみに他に特徴的な外見があれば、そちらが優先されてしまうわけだが、あいにく俺はそれほど個性的ではない。と思っている。
 だからどこまでも、どこにでもいる「眼鏡」になろうとした。
 俺は自分を偽るために眼鏡をかける。
 素顔を見られたくないのだ。
 くどいようだが口下手なのだ。気の利いたことひとつ言えない。そのうえ、目つきが悪いと誰も声をかけてくれないんじゃないかと不安なのだ。
 俺は自分に自信をつけるために眼鏡をかける。俺は俺でない俺になる。
 この眼鏡は勇気をくれる。
 折りしも最近は、メガネ男子がもてはやされる。悪くない。
 自然な流れで俺はメガネ男子になる。
 そうして溶け込めない集団に溶け入ろうとする。悪くない。
 社会で盾を構えていては臆病だと思われ、鎧を着込んでいれば慎重だと思われ、兜をかぶっていれば自己顕示欲と被害妄想の強さに失笑を禁じえない。
 その点、眼鏡はあくまでアクセサリーである。本質はオプションなのだ。
 知力が上がったり、かっこよさが上がったりもするらしい。いや、ゲームの中での話だが。
 しかしながら、この現実社会においても、それに近い効果がないとは言いきれないこともない。
 インテリ作用で知力が上がったように見せかけたり、外見の質が向上したりなども充分考えられる。TPOプラスαの要因ではあろうが。
 ところが眼鏡というやつは、おしゃれと言いながらも意外にも不衛生になりがちな存在である。
 一日中肌に密着しているそれは、肌着同然である。実家の祖父など、一日中眼鏡を着用して畑仕事にいそしんでいるが、老眼鏡を洗っているのを見たことがない。
 だから俺はしっかり、眼鏡と一緒に風呂にだって入る。眼鏡愛用者には当然のことかもしれないが、俺はにわかなのだ。そんな常識も案外知らない。
 話は戻るが、俺はメガネ女子が好きだ。
 なぜとか、どうしてとか、明確な理由を答えることはできないが、そもそも好き嫌いななんて感覚的なものだ。
 他人に己の趣味嗜好を明確に説明できるほど、俺はディープじゃない。まあ結局は、やっぱりにわかだということだろう。
 しかし、メガネ女子が好きだと言ったからって、どんな眼鏡でも良いわけではない。
 これ見よがしに大きな眼鏡をかけている人も見かけるが、そういうのは野暮ったくてちょっと違うと思う。場合によってはあざとささえ感じる。
 極論としては似合ってさえいれば問題ないのだが、厳密なことを言うとそうとだけは言いきれない部分もあり、あまりにも普通に馴染んでいる感じだと面白味がないときもある。
 逆にあまり似合っていないほうが、案外その無理しちゃってる具合が個人的には好きだったりすることもあるのだった。
 俺が眼鏡に目覚めたのは大学を卒業して、社会人になってからだった。
 もともと俺は地味で目立たないタイプだったから、これを機に、いわゆる社会人デビューというやつを狙ってみた。そしたら意外なほど好評で、ずいぶんオイシイ目を見た。
 メガネ男子藤田正典の勝率は、決して低くない。おかげで、すっかり眼鏡信者だ。
 道行く人だって、眼鏡をかけている子にはついつい目が行ってしまうし、それがまた結構好みの感じだったらときめいてしまう。
 ところでおしゃれ眼鏡は若者のファッション的な要素があって、年をとれば必然的に本物の眼鏡率が高くなる。だから社会に出ると、会社や取引先での眼鏡率もぐんと上がる。
 でも、やっぱり自分の求めているものとは違うので、少しがっかりしてしまうのだった。もし学生時代に目覚めていたら、もっと楽しい学校生活が送れていたんじゃないかと思うことさえある。
 ところが、眼鏡はかっこわるいとか面倒とかいう風潮があって、それがコンタクトレンズ市場を盛り上げたに違いないとにらんでいるのだが、もうなんと言うか割れろと思う。
 しかしながら思い出してみると、学生時代は男子より女子の方が眼鏡率が高かった気がする。
 女は目が弱いのだ。言い換えれば、普段あまり眼鏡をかける若い男を見かけないから、世の中「メガネ男子」なんて言葉が流行ったのだろう。
 ウチの会社にもメガネ女子はいる。事務の若い子なんて、本当に目は悪いんだろうとは思うけど、フレームなんかはおしゃれで凝っている。それは見られることを意識しているわけだから、じつに油断ならない。そのうえ可愛いし、しっかりイケメン彼氏もいる。それでも俺は、毎日ときめいてしまうのである。
 なにせ中小企業。従業員の若い子比率も当然低くなる。そこにきて可愛いメガネ女子ともなれば、もはや一割以下ではないだろうか。
 ぜひとも確保したいと奮闘するのだが、さすがに防御力が高いので、攻撃力が並の俺ではまったく歯が立たないのだった。
 そんな彼女の隣に、それよりもうちょっとだけ年の行った事務の女性がいるのだが、やはり眼鏡である。
 まだ二十代後半らしいのだが、失礼を承知で思わず二回聞き返してしまったくらい、もう十は年齢が上の貫禄があった。
 彼女の眼鏡はとてもシンプルな、なんというか、中学生のときから掛け続けていると言われても素直に信じてしまう、おしゃれのカケラも微塵に感じさせないものだった。
 それが逆に、彼女の素朴さ質素で朴訥なところに非常に合っていた。しかし悲しいかな、その他の持ち物や身に付けている物などから見るに、彼女は美しさや可愛らしさからはまったく無縁だったのだ。
 まず俺よりも年上だったが、身長も上だった。体重なんて倍近くあったかもしれない。どんくさくて、仕事ができなかった。陰でコモドというあだ名がついていたが、携帯電話メーカーのもじりかと思ったら、竜の名前を冠する爬虫類からだった。
 以前からよく目が合うなと思っていたらある日、入社三年目の俺は、入社十年目の彼女コモドに、こともあろうに告白された。当然ノーだ。考えるまでもない。
 もっとも俺にも隙があったのだ。俺はよく彼女コモドの眼鏡を見ていた。そうだ、眼鏡が悪いんだ。罪悪感もなかったし、どちらかと言えば嫌悪感だけが残った。
 そしたら翌日、彼女コモドは電話一本で会社を辞めた。よくそんなメンタルでやってこれたものだ。
 ところがその晩から、俺はおかしな夢を見た。

 ――、だった。

 世界は目玉で出来ていた。
 道路は目玉だった。俺が歩くたび、まるでカエルの卵のように、ぷちぷちと目玉が潰れた。
 俺は嫌悪感をあらわに街を歩いている。すれ違う人間は皆、サングラスをしていた。男も女も、子どもも老人も。それが当たり前のように。
 なんだ、今日は紫外線が強いのかと空を仰げば、太陽は巨大な眼球で、血まみれの視神経を引きずって移動をしていた。まるでなにかを探すように。
 では俺はといえば、サングラスも眼鏡もしていない。どうもこの街では、俺だけのようだ。
 ぷちぷち、と足下で目玉が潰れる。なにやら知らぬ液体で、靴の中までぐしゃぐしゃだった。
 梱包材のエアクッションを潰すような快感はなかった。ぷちぷち、ぷちぷち、ただただ不快だった。
 よそ見をしていたせいで、誰かとぶつかる。
 すいません、ととっさに謝る。
 相手は拍子にサングラスを落としたようだった。あわてて拾って返そうとして、目を疑った。
 その人には眼球がなかったのである。
 顔を上げると、誰もが皆サングラスをしていて、ではその奥がどうなっているのか、ここからではわからなかった。
 無性に自分の顔が見たかった。
 俺はどんな顔をしていただろう。
 はたして――
 目玉は
 周囲を見まわす。鏡がない。ガラスがない。どこにも見られない。俺の顔が見たい。
 あれ。俺の顔どんなだっけ?
 こんな顔だっけ?
 想像がイメージを形作らない。俺は自分の顔を知らない。
 頬になにか当たる。誰かがカサをひろげるのが見えた。
 降ってくる雨も目玉だった。大粒の激しい目玉だった。
 街頭のテレビでは、緊急ニュース速報が流れていた。

 ――『』。

 飛び起きた俺は、まっさきに洗面所に走った。
 自分の顔が見たかった。
 寝起きでぼさぼさの髪、血色の悪い顔。……
 まぶたをこする。二重写しのように、鏡に映った自分がダブって見える。眼鏡をかける。なんだか最近、目が悪くなってきたような気がする。いつかは度を入れないとだめだろうか。
 だいたいに良いという触れ込みのブルーベリーは効いてる感じがしないし、「個人差があります」なんて逃げ道を用意して宣伝するのもじつにあざとい。これだから世の健康食品ブームは終わらないのだ。
 それでも二十五になろうという歳で、悲しいかな徐々に体力の衰えの兆しを感じはじめているのは事実である。会社の先輩の言では、「男は二十六すぎたら一気に来るぞ」ということで、その予防線として俺はサプリメントを欠かさない。
 その日、会社が休みだった俺は行きつけの眼鏡屋に向かった。そこで俺は、濃いめのサングラスをひとつ買った。
「どうしたの、それ」
 デートに遅れてきた彼女は、待ち合わせ場所に着くなり、開口一番にそう言った。
「あ、遅れてゴメン」
 三ヵ月前の合コンで意気投合した莉里香りりかとは、一応付き合っている。とりあえず、というところだろうか。俺の場合、わりと付き合いは浅くて短い。
「そのメガネいいね。正典はほんとメガネ似合うよね」
 と、俺を真っ先にほめた。そう言う彼女は、いつもと同じ眼鏡だったが。たまには違う眼鏡もかけてほしいものだ。
「どうしたの、そのサングラス」
 莉里香はもう一度言った。
くまがひどくて」
 俺の弁明に、彼女は心配げに顔をくもらせた。
「仕事忙しいの? ごめんね、せっかくのお休みなのに」
「せっかくのお休みだから、ついつい夜更ししたんだ」
 笑うと、莉里香も笑った。
「似合ってるよ、そのサングラス。かっこいい」
「そう?」
「……たぶん」
 子どもの頃、粋がって父親のサングラスをかけてみたことはあったが、こうやって人前にサングラスで出歩くことは初めてだった。
 こうやってみると、案外悪くないことに気づく。伊達メガネは防具であったが、サングラスは攻守ともに優れている気がする。
 だから今日はちょっと強気でいける。注文オーダーの遅いパスタ屋の店員に文句を言ったら、相手は恐縮しまくっていた。良い気分だった。
「なんか今日、変じゃない?」
 莉里香は不審そうな顔をしていた。
「なにが? 変なことなんてないだろう。サングラス?」
「ううん。別にいいけど。食べるときぐらい外しなよ」
「いや、だからくまがさ、ひどいんだって」
 俺のペペロンチーノと、莉里香の鮭とイクラのスープパスタがやってきた。
「俺、イクラって苦手なんだよなァ」
「いいじゃない、食べるの私なんだし」
「だってさ、カエルの卵みたいだろう?」
「ねぇちょっと、いまから食べる人にそういうこと言う?」
 いやしかし、イクラも鮭の卵なわけだから、形状が似ていてもちっともおかしくないのだが。イクラよりも筋子のほうがそれらしいか。
 すると、なにを思ったか莉里香は持っていたフォークでぷちぷちと、イクラを一個一個、わざわざ潰しだしたのである。
 ぷっくりと丸いそれは、あふれたように破裂して、ぐしゃりと中身を飛び散らせる。
 ぷちッ、ぐしゃ。
 ぷちっ、ねちゃ。
 本来は鮮やかな色をしているのであろうが、サングラス越しには濁った茶色にしか見えない。
「おいちょっと、行儀悪いだろう。やめろよ」
 注意すると、莉里香はきょとんとした顔を上げた。
「あ、ごめんごめん。私、イクラ好きなんだけど食感が苦手で。先に潰さないと食べれないのよ」
 ぷちッ、ぐしゃ。
 ぷちっ、ねちゃ。
「やめろって、おい」
「イクラつぶすのマナー違反だって、聞いたことないよ。あんただってサングラス取りなよ。食事中、マナー悪いわよ」
「いや、だからさぁ、ひどい顔してるんだって」
「べっつに誰が見てるわけじゃないでしょう。なにそれ有名人のつもり?」
 莉里香はからかうように笑った。それでも手は休めず、ぷちぷちと器用にイクラを潰していく。
「なに、それともあれ? 自分でカエルの卵、想像しちゃった? だから気持ち悪いんじゃないの? サングラス取りなよ、こんなキレイな色したカエルの卵あるわけないでしょう」
 莉里香はフォークを置くと、身を乗り出してきた。
「ほら」
 と、無遠慮にサングラスを取った。それから彼女は少し眉をしかめて、
「いっつもメガネかけてるからかもしれないけど、なんか取ると不思議な感じね」
 と言った。
 それは俺のあまり言われたくないセリフであったから、結構強引に奪い返した。
 莉里香は不機嫌そうだった。
「目、充血してる」
「見るなよ」
「いいじゃん。あ、ほらこすったらダメだよ。ケツマクエンになるんだよ」
「…………」
「ん、なに?」
 今一瞬、莉里香がダブって見えた。どうやら本当に目がいけないらしい。
 その現象は、それから頻繁に起こるようになった。
 それにも増して、目はいつも充血していたし、しまいにはごろごろした異物感さえ覚えるまでになった。
 しかしまぶたをめくって見ても、特にゴミらしきものは見当たらなくて困った。時には痛みすら伴うようになった。
 眼球の痛みというのは、普段なかなか体感できるものではなくて、この異物感というのは刺される痛みに近いのではないかと思っている。指に棘が刺さる感触が一番近いだろうか。それが目にあるのだ。
 しかもいつもするわけでは(異物感は常にあったが)なく、なにかの拍子に眼球を動かした場合に痛みがして、こすったり、目薬や涙で流そうとしてみたり、水の中でまばたきなんかもしてみたが、どうにもならなかった。
 いっそくり抜いてごしごし洗ったら、さぞ気持ちのいいことだろうなと、恐ろしい想像までしてしまう。
 会社の人には心配される(目を開けていると特に痛いから、眼帯ですごしていたのでなおさらだろうが)し、それ以上にいつまでたってもよくならないものだから俺も不安になって、とうとう次の休みに病院に行くことにした。
 個人医院も考えたが、ここは念のため大きな総合病院でてもらったほうが確実だろうと、市内で一番大きな大学病院に向かったのである。
 この病院はいつも混んでいる。待ち時間が長いので良くない。ロビーはセーラー服の女子高生が、呆然と立ちすくんでいた。なんでここにいるのかわからないといった顔で、怪訝にながめていると、思い出したように病室棟のほうへ歩いていった。花を持っていたので誰かの見舞いだろう。
 セーラー服なんて、どこの学校だろう。ふと記憶に引っかかるものを感じたが、それがなんであるのか思い出せなかった。
「ちょっと炎症起こしてますね」
 と、医者は言った。
 自分が異物感だと思っていたのは、どうも傷らしく、しかも目薬で簡単に治るという。それではいくら流そうとしても落ちないはずだ。一週間後にまた来いと言われた。
 医者の薬はやっぱりよく効く。二、三日もすれば痛みはなくなり、五日もしたらすっかり元通りだった。
 そうして一週間後、再び病院にやって来た俺は、「きれいに治ったね」と完治のお言葉をいただいた。
 莉里香にメールを送ると、すぐに「よかったね!」と返ってきた。
 しかし普段から眼鏡をかけているのに、いつの間に傷ついたんだろう。ようやく考えるゆとりをもてるようになって、いろいろ思い返してみる。
 ウチの会社は結構ぼろい。中小ゆえと言うより、家族経営ゆえと言ったところか。給料はべらぼうに安く、そのくせ家族の従業員だけが優遇されているという、まあ非常に入れ替わりの激しい会社だった。要は社長がクズなのである。
 とことん経費削減を訴えながら、会社と隣接している自宅では、家族社員と昼には平気で寿司をとったりしている。その匂いをかぎながら、従業員は冷たい弁当やカップ麺を食ってるわけだが。本当に腐った会社だ。この間もいい歳したオヤジが面接に来たが、本人には申し訳ないが落とされて良かったと思う。
 そんなわけだから、パソコンはいまだにブラウン管のモニタを使っている。当然OSもサポート終了なのだが、買い替える予定はまだしばらくないらしい。
 可愛い方の事務の子は、「ブラウン管はですね、ほこりが舞い上がるんですよ。そんで、ずっとモニタを見てるとほこりが目に飛び込んでくるんですよ。これがパソコンしてると目が悪くなるメカニズムです」と得意げに教えてくれた。そんな彼女が余計愛しかった。
 正直に言うと、莉里香より可愛いし、莉里香よりも好きだった。今度また懲りずに夕飯に誘ってみよう。
 しかし俺が眼鏡を外すのは、家にいるときだけなので、自宅で問題があったのだろう。
 朝起きて、出かける前にかける。夜帰ってきて、着替えるときに一緒に外す。
 特別変わったことをした覚えはない。
 ああ、でもなにか。
 なんだろう、なにか――
 あの日は莉里香とデートのはずで。なんで俺、普段はあまりかけないサングラスなんか。
 …………?
 どうしてだっけ。
 なんで俺は、目を守ろうとしたんだっけ。紫外線から? いや、見られるのが嫌だったんだ。どうして? 朝、目が覚めたら充血していた。ひどい真っ赤だった。
 目が――
 目。
 不意になにかを、……思い出しかけた。
 心の中で、なにかが引っかかっている。目にゴミが入ったような感じで、なかなか取れないわだかまりだった。
 新しい眼鏡がほしかった。
 行きつけの眼鏡屋に行く。
 初めて入った眼鏡屋がここで、ここ以外では買ったことがない。
 眼鏡屋には眼鏡店員しかいない。従業員が揃って眼鏡をかけているのは、やはり一種の制服のようなものなんだろうか。
 そこそこ人が入っていたが、二人ばかり店員が空いている。顔見知りの店員だったので、近づいて声をかけた。
 中年ぐらいであろうが、上品な眼鏡のチョイスで実際より若く見える。俺もそのくらい掛けこなして、立派な眼鏡マンになりたいと常々思っていた。
 しかし、いつまで待っても反応はなかった。
 聞こえなかったのかと思い、俺はもう一度声をかけた。少しだけ声のボリュームを上げて。
 それでもこちらを見ることはなかった。この店員だけではない。誰も顔をあげない。なんだろう。こんなおかしなことってあるだろうか。
 わざと店員の前に立ったりしてみたが、やはりこちらを見ていない。まるで小学時代に受けたいじめのようだ。
 俺は苦い気持ちで立ちつくしていた。
 そうして、ふと脇の鏡を見れば……俺もここで眼鏡を選んで、似合ってるかどうか確認するためによくのぞくのだが――自分おれの姿が映っていない。
 驚いて飛びついた。
 俺が映っていない。
 何度見返しても、まばたきしても頬をつねっても。
 顔が見えない、体が見えない。
 この卓上鏡だけではない。壁に備え付けの大きな姿見にも、店のショーウィンドウにも、どこにも、どこにも俺の姿が映らないのだ。
 なのに、そうして本来あるだろうべき顔の位置で、まるで下手なドラマの透明人間のコメディさながらに、――眼鏡だけが浮かんでいるのである。
 なんだこれは?
 なんだこれは!
 俺は叫んだ。
 でも、誰にも聞こえない。誰も俺を見ない。
 ここにいるだろう。ここにあるだろう。
 俺は眼鏡を指した。
 たとえ俺が見えなくても、眼鏡が見えるだろう。この眼鏡が目に入るだろう。
 見えない。見えない。気づかれない。
 なんだこいつら。
 自分がおかしい可能性を認めもせず、俺は悪態をつく。自分ではなく周りがおかしい。
 そもそも第一、こいつら……
 目玉はツイテルンダロウカ。
 突然顔を上げる店員たち。こちらをふり返る店内の客。
 そのすべて、すべて。
 落ちくぼんだ目玉の穴。そこにはまっているはずの眼球は、誰ひとりとしてなく、代わりにずらりと、この部屋、この店、所狭しと並んでいる眼鏡はすべて、すっかり眼球に姿を変えている。
 ――なんだ、ここはだったのか。
 わけもわからぬことを――知りもしないことを知ったように理解する。さも当たり前のように、なんの疑いもせずに。
「いらっしゃいませ」
 目玉のない店員が、俺に向かって声をかける。なんだ、ようやく見えるようになったのか。
 けれど、どうして目がないのに見えるのか。
 目はモノを見るための器官ではないのか。
 ああ、しかし。
 俺はいま、一体どんな目玉をめているのだろう。おかしくはないか。笑われやしないだろうか。
 眼鏡を外してみる。
 手が滑り、お気に入りの眼鏡は床に落ちて、あっけなく割れてしまった。
 その途端に真っ暗で、真っ暗になってなにも見えない。
 誰からも見られないが、誰も見れない。
 なにも見えないのに、そこに存在するのはわかる。けれども、それだけだった。ただそこにいるだけだった。なのに、それもあやしかった。
 俺はどこだろう。
 眼鏡がほしかった。
 守るため、逃げるため、確認するための眼鏡がほしかった。
 目が見えない。
 手を伸ばすが闇。触れられない。
 足許は不安定な床。
 ……なんだろう。でこぼこしているのに、弾力があって不安定で、沈みそうなのに浮かんでいる。まるで、小さな風船の上に立っているようだった。
 歩き出せばぷちぷちと、俺の重みで潰れる。それは潰れるというより、割れるという感触に近かく、縁日の水風船の、その二、三日して空気が抜けかけた感じを思い出した。
 風船がひとつ割れるたびに、俺の目の奥に鈍い痛みを感じた。堪えきれないほどではなかった。だから前に進んだ。どちらが前かもわからなかったが。
 しかし、行けども行けども闇の中は歩きにくく、どこもかしこもぬめっているし、不安定だった。拍子に足を滑らせて転んでしまった。
 顔にはべっちょりと、ぬめぬめに濡れた液体がへばりつく。ぬめぬめで、ぬちゃぬちゃしていた。
 その手がなにかをつかんだ。感触には馴染みがあった。
 眼鏡の蔓だ。
 とっさに理解した俺は、あわてて引き寄せた。
 急に光を取り戻したように、目の前が開けた。眼鏡を掛ければ見えてくる、丸い、丸い世界。
 それはなんだか、巨大な球の中にいるようで、見わたすかぎりにびっしりと、びっしりと眼球の群れ。無数の群れ。ピンポン玉が敷きつめられているような錯覚をおぼえた。
 そうしてこの丸い世界も、なんだか眼球の内面であるかのようにさえ思えるのであった。
 どこへ行っても目が、どこまで行っても目が、目が、目が。ぎっしりと、絶え間なく。
 俺を見ているのだ。
 ああ、サングラスがほしい。
 あれらに全部、掛けてやりたい。そうして俺のことなど見ないでほしい。
 ふり返れば、歩いてきた道筋に目玉が潰れている。俺が踏み潰したのだ。ことごとく、このうえなく。
 子どもの頃に叩き潰して遊んだ、カエルの卵のようだった。
 世界には俺と目玉しかない。
 どこからともなく奇妙なサイレンが鳴って、なぜかしっかりテロップで『大目玉注意報』が発令される。
 ばつばつと、目玉が降ってくる。
 俺はいつの間にかカサを持っている。広げると、べちゃべちゃと目玉がはじける。思いのほか柔らかい。
 もっと大きなサイレンが鳴る。今度は太字のテロップで『大目玉警報』と出る。
 大粒の目玉がさらに激しく降ってくる。とうとうカサに穴が空いて、そこからあふれたように目玉が落ちてくる。
 顔も体もぐしゃぐしゃだった。頭に落ちて、伝って口にも流れ込む。鼻をすすれば、なんだか生卵のようななめらかさで、思わずむせてしまった。
 そうしてついに、カサは骨だけになってしまう。
 気がつけば、俺の体も目玉に削られて、えぐられて、骨だけになっていた。なのに、しっかり両目には眼球が、ぎょろぎょろと残っているのだった。
 誰に見られているわけでもないのに、自分の骨がはずかしかった。早く肉を着たかった。服で誤魔化したかった。
 すっ、と横からカサを差し出される。
 俺は礼を言おうとふり返った。
「よく降りますね」
 彼女は無感情にそうつぶやいた。
 ええ、そうですね。と俺が答える。
 真っ赤なカサの持ち主は、セーラー服の少女だった。
 少女のカサは落ちてくる大目玉など、ものともしない。まるで新品のような、抜群の防水効果だった。カサに当たると、ぽんぽん軽快に目玉がはずむのだ。
 ここは一体どこでしょう、と俺がたずねると、少女は「さあ、わかりません」と答えた。
 やや低めの、押し殺したような響きだった。
「ただここが、あなたの夢ということに間違いはないですが」
 夢? 夢ですか。
 たしかにそうだろう。こんなおかしなこと、夢でなければ説明がつかない。
 なのに俺は、それを意味としてとらえていない。言葉として聞き、そうしてとどめておくことなく流してしまう。
「夢は非現実への入口。決して安全なものばかりではないから。――悪夢は時に、人を殺す」
 俺は少女の横顔を眺め、美しく通った鼻梁が、眼鏡を乗せるには良さそうだと思った。
 あの、と俺は声を掛ける。どこかでお会いしたことありましたっけ、と。こんな姿で言うのもはずかしいのだが。
 少女はふり向き、その金色の瞳を油断なく光らせて、俺を上から下まで時間をかけて観察したあと、冷たく突き放すように答えた。
「覚えがない」
 俺は苦笑した。骸骨がまともに笑えているのかは自信がない。笑われることはあろうが。
 それになにより、しゃべってい
「ただ、……あなたが憶えているんでしょう」
 意味がわからなかった。
「夢は記憶の再現。無から有は生まれない。この世界もここでの出来事も、すべてあなたによって作り出された事象」
 はあ、としか答えることができない。ただの相槌だ。もちろん意味は意識を流れていく。
 俺はぼんやり少女を眺めた。真っ赤なカサを持つ手には、年頃の可愛らしい外見には似つかわしくなく、黒い革の手袋をはめていて、それが妙にアンバランスだった。脚は濃いストッキングということもあり、とことん肌の露出が少ない。もったいないな、と思った。
 あの、どこまで行くんでしょう。
 いつの間にか靴も脱げ(この足で履いていられるわけがないのだが)、貧相な骨の足ががしがしと地面の目玉を踏み潰している。そうすると指の間がぬめぬめして気持ち悪いのだ。
「……さあ?」
 少女は首をかしげた。
「あなたの行きたいところまで」
 奇妙で不気味な世界に、美少女と相合傘というのも、そんなに悪いシチュエーションではなかった。
 目玉の雨はまだやまない。
 そのうちに俺は、おかしなことに気づく。
 ふり返れば、俺が潰してきた目玉の残骸。そうして新たな残骸を踏み締めて、先に進んでいた。
 なのに、目の前にはすでに潰れた眼球の道。
 ……振り出しに戻ってきた、ということか?
 なので、今度はその道を垂直に折れた。
 そうしてしばらく行くと、またしても踏み荒らされた眼球の足跡のところに出た。
 これで十字に交わったことになる。
 どういうことだろう。
 どうということもない。
 ぐるりと空を仰ぐ。天球も丸い。地面も丸い。単純だ。子どもの頃に習った。この世は丸いのだ。
 丸い世界をぐるぐると、その内面を俺たちは歩いていたのだろう。
 しかし、これでは先に進めない。
 どこへ行ったらいいんだろう、と思わずつぶやきが洩れる。
「さあ? どこへでも。あなたの行きたいところに行けばいい」
 少女の言葉は声同様に冷たかった。
 俺にはわからなかった。どこに行きたい? この夢の中で?
 だいたい、俺がわからない。
 こんな骸骨の姿をしていたら、顔も格好も忘れてしまいそうだ。忘れられてしまいそうだ。そう言えば、声も出ない。
 このところ、しばらくしゃべっていないような気がする。俺、どんな声してたっけ。会社の女コモドもひどい声だった。辞めちまったけど。うん、あれなら思い出せる。潰れたカエルみたいな声だ。俺もあんな声だっけ?
 もこもこと、目の前の目玉がうごめいた。カーペットが波打つような感じで、あの目玉たちはひょっとしたら単体ではないのかもしれないと感じた。
「来るよ、イチカ!」
 どこから出てきたのか、小さな女の子がカサのまわりをうろちょろしていた。青白く透けていて、眼球がない。
 なんだろうこれは。俺はぽかんと、飛びまわる存在を眺めている。まるで幽霊のようだが、それにしては愛嬌たっぷりだ。
「……が見えるか」
 セーラー服の少女が息をついた。
「次はない、ということか」
 眼球の波は激しく蠕動ぜんどうし、勢い強く隆起して、起立する。そうしてそれが人型になってしまうと、その不気味で醜悪な姿は、一層邪悪さを見せた。
 体中に眼球をはりつけた存在――そのすべてが一斉にこちらを見る。全身が総毛立つのを感じた。骨に毛穴なんてないのに。
 アレはなんなのだ、と俺は少女にたずねた。彼女なら、すべてを知っているような気がして。
「それを表す適切な言葉は、残念ながらない。アレはあなたが恐れているものの姿だから。なにせ、本来それは形を持たない。恐怖の夢にかって、姿を持つ存在。そう、あえて呼ぶとするなら――【悪夢ナイト・メア】」
 悪夢と呼ばれた目玉だらけの化け物は、それを聞き、おののく俺を見て、……笑っていた。どこに声帯があるのかもわからないのに、声をあげて笑うのだ。空間を震わせて。
「あなたはこの夢から出ることはできない。……おそらく、だが」
 なにを言っているんだろう。夢なら覚める。
「――普通の夢なら」
 少女は寂しげにささやいた。
「ひゃー、来たよ来たよ」
 幽霊の娘があわただしく騒ぐ。
 【悪夢ナイト・メア】は一段と膨れあがると、まるでスイカの種でも飛ばす勢いで目玉を吐き飛ばした。それはドッジボールほどの大きさで、俺たち目掛けて襲ってきた。
 少女――伊知花いちかは鋭く脚を振り上げ、飛んできた目玉を蹴り返す。そうして露わになった左のももには、真っ赤なベルトが巻かれているのが扇情的で、俺の目に飛び込んできた。
 すかさず伊知花は、そこに留められていたナイフを引き抜いた。
 それは、ナイフというよりも牙と言った方がしっくりくる奇妙な武器であった。そうしてそれが世界に姿を見せた瞬間、――たしかに空気が変わった。
 このままここにいては危険だとわかっているのに、俺の体は動かない。
 そりゃそうだ。俺は骸骨なのだ。筋肉もないのに動けるはずがない。
 それまでどうやって歩いていたのかも忘れ、俺はただ立ち続ける。立っていることしかできない。それもじきにくずれるだろうか。
 しゃべることだってできないのだ。聞くことだってできるはずがない。しかしそれは、夢であるからこそ考えが言葉になって、彼女たちには伝わっているのだろう。
 それに、この通り眼球は付いているから、見ることだけはできるようだった。
「バカか。自分で自分に暗示呪いをかけるやつがいるか! 自分の夢を自分で支配しなければ、消されるのはあなたの方だぞ」
 動けない俺を狙って、目玉が飛んでくる。それを伊知花は牙で突き、切り裂き、靴底で蹴り飛ばす。
 それが跳ね返って、めめのそばをかすめていく。ひゃっ、と短い悲鳴をあげて、パニックになって飛びまわる。
「あっぶないなァ、イチカ! めめちゃん殺す気!?」
 伊知花は答えず、牙を振るう。
 目玉の弾丸は、さらに速度を増し、矢継ぎ早に飛び掛ってくる。
 蹴り飛ばし、弾き返し、斬りつけてかわす。驚くべき反射神経であった。大きさはドッジボールほどであっても、その重さはまるでボーリングの球のようだった。
 けれども、体力はやはり少女のそれである。いくらもしないうちに、徐々に精度が落ちてきているのが目に見えてわかった。
 肩で息をする伊知花に、めめは悲鳴をあげた。
「ダメだよ、イチカ。さっさとその【悪夢ナイト・メア】ぶち殺すか、一旦逃げるかしようよ! てか、そんなヤツ、あっという間でしょう」
 しかし彼女は俺の前に立ちはだかり、その背中で強くその意見を拒絶した。その時になってようやく彼女が、動けない俺をかばってくれているのだと気がついた。
 俺はその光景を、どこか前にも見たことを思い出した。
 少女は気丈にも手にしたナイフを構え、【悪夢ナイト・メア】に向けて静かに突き出した。
「これは夢喰の牙。悪夢を喰らうことのできる唯一の武器」
 やがて少女は、俺に背を向けたまま語りかける。その声は思いのほか、年頃の娘にしては低くかった。本来の声を、わざと押し殺しているような響きでもあった。
「夢喰の牙は、あなたの悪夢を残らず消し去る。けれど、それによってあなたは一生夢を見ることができなくなってしまう。楽しい夢も、悲しい夢も、なにもかも」
 【悪夢ナイト・メア】はもこもこと体を震わせる。
 次の瞬間、息をつく間もなく吐き出された一撃は、彼女の左肩を鋭く打ち据えた。目にも止まらぬ速さであった。彼女の細い体は、眼球だらけの地面に叩きつけられる。
「わ! わわ、イチカぁ。ひゃー、ひゃー」
 めめはパニックになって、ぐるぐる回っている。
 そこに追い討ちの強烈な一打が、伊知花を襲った。衝撃に体は弾んで、吹き飛ばされた。
「『夢憑』なんて放っとけばいいんだよ! そんなのいくらでもいる。でも、イチカが死んだらおしまいなんだよ。イチカだって、夢の中で死んだら、本当に死んじゃうんだからね!」
「……うるさい」
 泣きそうなめめに、のろのろと立ち上がった伊知花が悪態をつく。セーラー服には、潰れた眼球の残骸がまとわりついていた。スカートの端からは、粘着質な液体がしたたった。
 彼女は息を整えると、まっすぐ俺を見た。
「もう一度言う。前回はまだその時ではなかったから逃げられた。だが、次はない。夢に殺されて終えるか、夢を亡くして生きるか」
 この少女は一体なにを言ってるんだろう。
 俺が殺される? どうして?
 それに、この幽霊幼女の言葉――
(夢の中で死んだら、本当に死んじゃうんだからね!)
 たしかにそういう話、聞いたことがある。聞いたことはあっても、そういう人は見たことがない。
 もっとも、そんな死因は解明されようがないのだが。
(もう一度言う。前回はまだ、その時ではなかったから逃げられた)
 前回は……? 俺は以前にも、こんなシーンを憶えていたのではないか。
(これは夢喰の牙。悪夢を喰らうことのできる唯一の武器)
 そう言って俺と、【悪夢ナイト・メア】の間に立ちはだかる少女。
 ――どこで見た夢だろう。
 いつかどこかで、かっこいい女の子を見た。
 スカートをひるがえして、ローファーの蹴りで牽制する美少女の存在を。金色の瞳を持った彼女は獣だった。しかし牙は、その手に携えていた。
 この世界は俺の夢だと言う。
 ……夢は人を殺すのか?
「イチカ!」
 めめが叫んだ。
 それと同時に、伊知花は飛んだ。次の瞬間、少女がいた場所には、ひと抱えもある巨大な目玉が叩き込まれる。まるで鋼鉄のような重量で、地面が押し潰される。
 飛び退いた少女だったが、不安定な足許で着地に失敗する。
「きゃー、イチカぁ!」
 すかさずそこへ、最後の一弾が飛んできた。
 伊知花はとっさに両手で構え、牙のきっさきを前方に突き出した。
 迫り来る巨大な眼球は、激しい勢いで牙に突き刺さる。少女の体が一瞬、押し返される。
 しかし拮抗きっこうして、前にも後にも進まない。苦々しい表情で、伊知花がそれを抑え込もうとしているのだ。
 ぎりぎりと、少しずつ少女の体は後退していく。
「ちょっとアンタ!」
 眼窩がんかが血のように赤い幽霊幼女が、責めるような声をあげた。
「イチカが死んだらアンタのせいだからね!」
 そんなことを言われても困る。勝手に人の夢に出てきて、勝手に戦いはじめて、勝手に死んだところで、俺にどう責任があるというのだろう。
 俺にどうしろと言うんだ。
「……選びなさい」
 吐き出すように伊知花がつぶやいた。まるで運動会の大玉転がしの球のような大きさの目玉に飲まれながら、セーラー服の少女が言う。
「夢喰の牙は、あなたの悪夢を残らず消し去る。けれども、それによってあなたは一生夢を見ることができなくなってしまう。楽しい夢も、悲しい夢も、なにもかも」
 夢を見れなくなる?
「寝て見る夢だけじゃない。たとえば将来の夢、明日への不安やあこがれ、結婚や老後の輝かしい新生活を想像することも――日々を心豊かにすごしていくための感情一切を失ってしまうでしょう」
 なにをバカな――。そんなおかしなことがあってたまるか。
 だいたい【悪夢ナイト・メア】というやつは、なんだって俺を殺そうというんだ。
「……それはあなたの呵責かしゃく。夢は記憶の再現。一旦記憶の引き出しの奥にしわまれてしまえば、思い出せないことも当然あるわ」
「もういいよ、イチカ。さっさとやっちゃってよ! どうせコイツ、ばかなんだよ。どうなろうと、めめちゃんには全然関係ないし!」
 俺は不審な目を、脇の青白い幽霊の幼女に向けた。
 ずっと気になってはいたが、こいつは悪霊かなにかだろうか。
「うわ。うわ。聞いた、イチカ。コイツ、めめちゃんのこと悪霊だって。悪霊だって! こんな可愛いのに! こんなに善良なのに! 信じらんない! 信じらんない!」
 まくしたてるように抗議する悪霊に、伊知花は少しだけ笑ったようだった。
 そうして息を整えると、彼女は雄叫びをあげた。
 いままさに少女の華奢きゃしゃな体が、地面と眼球に挟まれめり込もうという瞬間、――鈍い破裂音が鳴り響いた。
 伊知花を押し潰そうとしていた眼球は、まるでパンクした風船のように割れてしまった。
「きゃっほー」
 うれしそうに悪霊が、ぐるぐる旋回している。
 伊知花はまっすぐ俺を見ていた。血にまみれた眼漿がんしょうを浴びなたら、少女の表情は変わらない。
 俺は苦笑いをうかべるしかなかった。
 だって、選択肢なんてないのだ。そんなもの、初めから与える意味がない。
 つまりは、死にたくなければ夢を見るな。
 …………
 ……なんてね。
 バカバカしい。
 俺は自分の骨の体に、血と肉が戻ってきているのを感じた。動く。体が動く。
 だってさ、これは夢だろう。
 見ろよ、これが俺の姿だ。
「帰ってくれないか。そろそろ起きないと。仕事に遅れるんだ」
 俺は手を振った。
 たぶん笑っていたんだと思う。
「……そう」
 答えた少女の表情は、やっぱり変わらなかった。
「ほらね、やっぱりコイツばかだ」
 めめが悪態をつく。
 俺は肩をすくめる。
「おまえたち、死神かなにかか? 俺は殺されてやらない」
「好きにしたらいい。あなたが死んだら、わたしたちもこの夢に閉じ込められてしまうから」
 帰るわね、と彼女はつぶやき、俺に背を向けた。その肩にまとわりついている幽霊は、あかんべーをする。
 俺はため息をついた。
 邪魔者がいなくなったからか、【悪夢ナイト・メア】の無数の目線が一斉に俺に集まった。ようやく標的ターゲットを戻すことにしたらしい。
 俺はあきれた。グロテスクな嫌悪感はあったが、恐怖はなかった。
 だってこれは夢だから。だったら、目覚めてしまえばそれでおしまい。最悪、明晰夢として夢を支配してしまうことだってできるだろう。死ぬことはない。たとえ死んでも、夢は夢。
 ドン、と衝撃が走った。
 【悪夢ナイト・メア】の吐き出した目玉がぶち当たったようだ。ボーリング玉級の大きさと重さをしていた。見れば、俺の右腕が吹っ飛んでいた。
 激しい痛みは遅れて襲ってきた。
 血が出ていた。決壊したダムのように、とめどなくあふれていた。激痛でその場にうずくまる。
 ドン、と今度は背中に叩きつけられそうになるのを、俺はすんでのところで転がって回避する。
「な、なんだよ――痛ぇぞ」
 吐き出す息が熱い。鉄に似た血の匂いまで嗅ぐことができた。
 だが、夢に匂いはない。
 立ち上がることができなかった。体が震えた。震えて止まらなかった。
 痛ぇ、痛ぇ!
 あれ、俺、本当に死ぬんじゃね? と思った。
 ドン、と硬い目玉が飛んでくる。俺の頭目掛けて。
 目を閉じた。覚悟した。俺は潰れたカエルのようになるのだ。そうして死ぬのだと。
 けれども、衝撃はやって来なかった。
 顔を上げると、ピカピカのローファーが見えた。そして、サッカーボールのように蹴り返された目玉が、遠くに消えていくのを見た。
「目覚めが悪いのはごめんなの」
 少女は無表情だった。
「ああ……お願いだ、俺の【悪夢ナイト・メア】を殺してくれ!」
 俺は叫んだ。声のかぎりに懇願した。
 少女は答えない。その代わりに牙を振りかざし、高く、高く飛んだ。その先には【悪夢ナイト・メア】の無数の目玉が待ち構えている。
 そうして、まばゆい光に包まれる。俺の体は光の中へ。

       *

 単調な電子音が鳴り響いている。
 それが目覚ましの音だと気づくには時間がかかった。
 見慣れた天井だった。俺の家だ。
 顔を向けると、真っ赤な目をした莉里香がいた。
「……どうした?」
 俺が問うと、彼女は不満そうに頬をふくらませた。
「なんか正典、起きなかったから。心配で……ずっと見てたの」
「俺が? なんで?」
 枕元の眼鏡と携帯電話を引き寄せる。
 なにかおかしな夢を見ていた気がするが、思い出そうとしてもすでにきれいにさっぱり忘れてしまった後だった。
「……俺、寝てたのか?」
 眼鏡をかけながらたずねる。
「でも二日ぐらいだよ。起こそうとしても全然起きないの。いい加減救急車呼ぼうと思った」
 莉里香の目から涙がこぼれる。そして、ヨカッタと抱きついてきた。聞いた話だが、彼女の双子の兄も、ずっと眠ったまま起きない病気で入院しているのだという。
 俺は混乱していた。眼科に行った日から、二日が経過しているらしい。それからずっと眠っていたのだという。
「うそだろう?」
 莉里香は首を振った。そんな彼女の姿が二重写しのようにダブって見えた。
 俺は眼鏡を外した。
「……どうしたの?」
「いや。――眼鏡屋に行こうとしてたんだ。ちょっと乱視の疑いがあってね。ついてくるか?」
 俺は立ち上がり、彼女にたずねた。莉里香はすぐにうなずいた。

 往来で俺は、彼女と並んで歩いている。昼の商店街は大にぎわいだ。
 俺の眼鏡好きはやっぱり治らないようで、街中で可愛いメガネ女子を見かけると、ついつい目が行ってしまう。とはいえ、さすがに今回ばかりは自重した方がいいだろうか。
 そんな俺たちの脇を、セーラー服の少女が通りすぎていった。
 眼鏡が似合う可愛い少女だったなぁと思ったが、同時にどこかで見かけたような気もした。しかし向こうは、そんな俺の視線に気づいたようでもなく、あっという間に人ごみに消えてしまった。
 もっとも、よく通る道なので、前にどこかで見たことがあっても不思議ではない。そう納得させると、俺は眼鏡屋への道を急いだ。
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