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第一章 鷺沼崇の場合
七 ◯鷺沼 崇【 1月10日 午後5時30分 】
しおりを挟むホテルに入る方法は、二つ。一つ目は入口の自動ドアを抜けるルート。他の宿泊客同様、ここに泊まっている客であると装い、入るルートである。
しかしこのルートを選ぶつもりは無い。入口の目の前にあるフロントを通らなければならないからだ。客でも無い俺が通ろうとすれば、フロントマンに呼び止められる可能性は高いし、そうなった場合、誤魔化せるだけの嘘が俺の頭では思い浮かばなかった。
もしもそこで怪しまれ、警察を呼ばれてしまったら。それっきりでホテルに入る計画は無と消えてしまうし、脅迫状の条件「その場にいたという痕跡は残さないこと」に反してしまう。
したがって、俺が取るべきルートは一つしかなかった。
ホテルの入口…では無く、裏手側に回る。このホテルの裏手には、狭いスペースながら数十台程車が停車できる駐車場がある。その端の方に、中へつながる扉が設置されていた。その扉から侵入する、これが第二のルートである。
喫茶店に入る前、周辺を散策した際に見つけたものだ。何のための扉なのか、非常用のための扉なのだろうか。しかし、今はそんなことはどうでも良い。周辺に人がいないことを十分に確認した。現在時点でもうすぐ午後六時を迎えることもあって、幸い辺りは薄暗く、俺の体も周囲の暗闇に同化している。
駐車場内に足を運んだ。少々前傾姿勢となりこそこそと進む俺の姿は、正直不審人物以外の何者でも無い。
ものの数秒で、扉の前にたどり着く。そこには少々錆びの入ったスタンド型の灰皿があり、扉を開くのに邪魔だったが、どうやら固定設置はされていないようだ。素早く扉の真横に移動させた。
そのままホテル壁面に体をぴったりと付け、体を屈める。これで、駐車場に止まっている車の陰に隠れることができた。こちらを余程注視しなければ、俺を視認できる者はいないだろう。
扉の下まで進み、ドアノブに手をかけた。そのまま、手首とともにノブを回す。ギィィ…と重苦しい音を立て、扉が開いた。それと同時に、俺もまたはぁぁと重々しい息を吐く。良かった、この扉に鍵がかかっていたら、ホテル内への道は閉ざされていた。
それにしても、この扉は常時開放されているのだろうか。まったく、人通りが少ないとは言いつつも、流石に防犯体制がなっていないのでは無いか。まあ、今の俺からしたら、鍵がかかっていない方が好都合ではあるが。そろりそろりと中へ。後ろ手に扉を閉めた。
周囲を見回す。機械室のようである。何だかよくわからない機具が、重低音を響かせながら動いている。また、箒や塵取りなどの掃除用具が地面に散乱している。天井は低く、ダクトが張り巡らされており、両手を伸ばしながら思い切り跳ぶと手が届く。壁はコンクリート製で部屋全体は薄暗く、歩くだけで埃が舞った。この埃っぽさから見て、どうやらこの部屋には従業員も滅多に来ないようだ。
こめかみより流れる冷や汗を手の甲で拭いながら、薄暗い部屋の中、歩みを進める。目の前にまた扉が見えてきた。さて、ここを開けた先は天国か、はたまた地獄か。ゆっくりと、慎重に扉を開けた。
途端に白い光が自分の目の中に入ってくる。眩しい…何も見えない。手で目を隠し、何度か瞬きをして光に慣れさせる。数秒後、やっと身の周りの現状を視認することができた。
右手側には壁があり、エレベーターが二台備え付けられている。そして左手側…今は死角で見えないが、おそらく入口がある。それが分かる理由として、斜め左方向にフロントがあるからだ。最悪な場所に出てきてしまった。しかしまさに地獄に仏。今この時、フロントマンも警備員もフロント周辺には見当たらなかった。この機会を逃してはいけない。すかさずエレベーターの上昇ボタンを押した。
(早く来い、早く、早く…!)
心臓は今にも飛び出しそうな勢いだ。
エレベーターの到着を示す、軽快なチャイムの音が鳴った。実際には数秒程度の待ち時間だったのだろうが、今の俺にとってはその数秒が倍以上かかったように感じた。目の前の扉が開く。中には誰もいない。飛び込むように入り込み、扉を閉めるボタンを連打した。これまたゆっくりと(同じく俺の体感時間のせいだ)、扉が閉まった。
「はああああ」
誰もいない密室で、大きく溜息を吐いた。ここまで緊張するものとは。
まあ考えれば俺はここに泊まりにきたわけではない。人を殺しに来ているのだ。そのためにこうして、不法侵入という罪を犯している。緊張もするだろう。
『行先の階数ボタンを押してください』
突然の声に鳥肌が立ったがなんてことはない、エレベーターの音声ガイドである。エレベーターに乗ったばかりで安心してしまい、階数ボタンを押すことを忘れていた。
確か…そうだ、柳瀬川は二十一階より上の階の警備担当だったはず。とりあえず、二十一階まで行ってみよう。ボタンを押すと、エレベーターは今の位置からよりゆっくりと上昇し始めた。それに呼応するように緊張の度合も高まる。
轟々とした駆動音の終わりと共に、到着を告げるチャイムの音が鳴る。その直後、扉が開いた。ゆっくりと一歩、また一歩と前へ歩みを進める。
その場所は十五畳程度の広さのエレベーターホール。随分と開けた場所である。目の前と左右に廊下が伸びており、目の前は数十メートル先に壁が見える。左右の先は遠くてよく見えないが、目を細めて見ると壁になっており、道は折れ曲がっているようだ。
おそらく、このホテルの各フロアは漢字の「日」を横にしたような造りをしているのだろう。このエレベーターホールは、「日」の真ん中の線が垂直に交わる二つの部分のどちらか…に当たるのだろう。
俺から発せられる音以外、物音はしない。今、このフロアの廊下には誰もいないようだ。警備員の柳瀬川が客室内に入ることは無いはず。したがって、廊下にいなければ奴はその階にいない。そう判断しても良いかもしれない。
考えてみれば、奴が警備する範囲はここから四十階まであるのだ。全ての階を行ったり来たりしているのかもしれない。奴の仕事のリズムを何も把握していない分、これは長旅になりそうだ。
「もう少し、調べる時間があれば良かったんだけどなあ」
ぼやきつつ、内心溜息をつく。しかしそれは仕方がない。脅迫状を受け取ったのが三日前、個人で情報を得るには限界があった。まして、自分は探偵じゃない。ホテルへの侵入ルートを入口以外に見つけただけでも、己を褒めても良いくらいであった。
念のため二十一階の廊下を慎重に歩き、元の場所であるエレベーターホールまで戻ってきた。やはり最初の目論見どおり。このフロアに柳瀬川はいない。手当たり次第に四十階まで調べていくしかなさそうだ。
落胆したと同時にふと、エレベーターホールの横の扉、緑の蛍光色を放つプレートが掲げられた扉が目に留まった。
これは。扉まで歩いていき、ノブを回す。鍵はかかっていなかったようで、すんなりと開いた。途端に一月の冷気が二十一階に入り込む。
この扉はホテルの外階段につながる非常口のようだある。鉄筋だが、簡素な造りの階段で、走ったり思い切り飛び跳ねたりした場合、固定している部分が外れ、最悪転落する危険性もあり得る。だが、フロア毎に調べるならエレベーターより階段の方が手っ取り早い。それにエレベーターでは、扉が開いたその場所に柳瀬川がいる場合もあり得る。それだけは何としても避けたい。
俺は、ゆっくりと一歩ずつその階段を上がり始めた。
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