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第一章 鷺沼崇の場合
十四 ◯鷺沼 崇【 1月10日 午後10時30分 】
しおりを挟む噂をすれば影がさす、ということわざがある。人の噂をしていると、思いがけず当人が現れる、というものだ。しかし噂をしておらずとも影がさす時もある。今が、その時だ。
檜山は、拳銃を持ったまま立ちすくむ俺の元へと近寄ってきた。
「あんた。これは取り返しつかないと思いますがね。あーあ、どこで手に入れたのか分かりませんが、拳銃なんて使っちゃって」
彼は俺の目をしっかりと見て言った。何も言えない。取り返しがつかないなんて、脅迫者の思惑に乗り、柳瀬川を殺そうと決めた時から十分に理解していることと思っていた。しかし改めて他人からそれを突き付けられると、その言葉の重みに押しつぶされそうな、奇妙な錯覚に囚われた。
黙っていると、檜山は溜息をついた。
「…鷺沼さん、さっきのように逃げないで、黙って聞いてくれると嬉しいんですが」
沈黙する俺を見て、檜山は勝手に了解だと思い込んだようだ。そのまま話を続ける。
「あんた、うちの小林、殺したんですか?」
「どうして、それを…」
反射的に聞き返すと、「やはりそうなのか」と言った納得の表情で俺を見た。
「私の携帯電話に非通知が入ったんですよ。いつもなら出ないんですが、なんだか昨日は変に胸騒ぎがしまして。電話に出ると、その人物から驚くようなことを言われるじゃないですか」
「驚くようなこと、ですか」
「ええ。小林は十二月三十日の夜、あんたに殺された…なんてね。もう本当にびっくりしちゃいましたよ私。小林は私の部下でして。前日二十九日の仕事納めの日まで、一緒に仕事していましたから。まあ、確かに年明けの業務は全て無断欠勤しておりますし、仕事には真面目な男でしたから、何かあったんじゃないかとは思っていましたが」
檜山はそう言いながら俯く。
「すると、本当に殺したんですかい。全く…あんた本気でどうかしちまってるよ」
そう言った次の瞬間、檜山は勢いよく俺との間を詰めてきた。そして俺の腕を手で掴み、もう片方の手で拳銃をはたき落とす。
「ぐあっ」
痛みが走る。なす術もなく、胸ぐらを掴まれそのまま空中を回転し、地面へと派手に落下した。コンクリートの地面に体が触れた瞬間、電気が走ったように、全身が痺れた。どうやら俺は投げ飛ばされたようだ。仰向けになって倒れ込む。
「とりあえず、あんたには一緒に来てもらいますよ。あいつを殺したツケを支払って貰わなきゃならんですからねえ」
腹に檜山が跨ってくる。必死で振りほどこうにも、檜山の体重には何も抵抗することができない。
もはやここまでか。半ば諦めの境地に差し掛かっていた時、手にある物が触れた。檜山に投げ飛ばされた際散らばった、背負っていたリュックサックの内容物の一つである。
それは包丁だった。脅迫者より拳銃と共に受け取った物で、柳瀬川殺害の条件に登場する代物だ。条件五つ目「肌身離さず持っておくこと」により、リュックサックに入れていたが、条件三つ目「包丁は殺す対象には使用してはいけない」から使用することができない、木偶と言っても良い物であった。
ま、待てよ。あの条件を改めてしっかり考えてみろ。これを使ってはいけないのは対象(柳瀬川)に対してのみだったはずだ。したがって、対象以外にはこの包丁を使っても良いのではないか。それにこの現状で、包丁を使い檜山に対抗すること以外、俺の力で敵いそうなものでは無かった。
(これは使って良いものだ。そうだ、そうに違いない…!)
それからの俺の行動は早かった。その包丁の柄をしっかりと握り、檜山の脇腹に、思い切り突き刺したのだ。
「がっ!」
反撃を食らうとは夢にも思っていなかったのだろう。檜山は俺が刺した拍子に、まるでそれを避けるかのように体の上から地面へと移動する。同時に包丁も、脇腹から抜け落ちる。途端にふわっと体の自由がきくようになった。この隙を、俺は逃さなかった。
地面に落ちた包丁をすかさず手に取り立ち上がり、檜山を見る。彼は地べたに這いつくばり必死に呼吸をしていた。片方の手で、俺が包丁を刺した脇腹を抑えている。
「て、てめえ…なんてことをしやがるんだ」
苦し紛れに睨みを効かせてくるが、俺は全く意に介していなかった。ある重要なことに気がついたからだ。
「そうだ、条件…」
まるで目の前の檜山が見えていないかのように独り言を呟く。当然条件と言われても、檜山は何のことだかわからない。頭の上に疑問符を浮かべたまま、俺を見上げている。
考えてもみれば、この檜山の登場で、脅迫状の条件一つ目「殺害する瞬間を誰にも見られてはいけない」に反していることに、今更気がついた。
どうすれば。もし条件違反と見られてしまえば、小林を殺した罪を公表され、報酬の一億円も貰うことができない。それは嫌だ。絶対に嫌だ。唇を震わせ、前を見る。その時、檜山と目が合った。
「お、おい…何を考えてやがる」
真っ直ぐ、檜山の顔を凝視する。
(そうか、それなら…)
誰にも見られていない状況に、また戻してしまえば良いのだ。
まだ間に合う。包丁の切っ先を檜山の顔と重ねる。彼は察したのか、地面に這いつくばったまま俺から遠ざかろうと必死で後ずさる。しかし上手く下がることができない。俺は思った以上に深くまで包丁を突き刺したらしい。激痛により体の感覚が麻痺しているようだ。
この男は今、怯えている。これまでずっと、俺に強気な態度を取っていた男が。俺に、この俺に、怯えている。
「ふふっ」笑いがこみ上げてくる。
「はは、はははは」
自分の声ではないと感じる程の甲高い声が喉から出た。こんな声を上げたことはこれまでの人生一度も無い。そんな俺を、檜山は何かおぞましいものを見ているかのように、怯え慄いている。包丁を逆手に持ち変えた。
「や、やめろ…やめてくれ」
その時点になって漸く、檜山は弱々しく懇願してきた。しかし、その願いはもう遅い。俺の中で、もう次の行動は決まっていた。
俺はその手を、檜山の腹部に突き刺した。
再び刃が人肉に入る、柔らかな感覚。今度はすぐに抜かず、そのまま力の限り前へ押し込む。そうしてから抜く。どろりとした真っ赤な血が、刺し口から飛び出してくる。
「げふっ」檜山が呻き声と共に血を吐く。そんなことには気にも留めず、更に一回、二回、三回。とどめにもう一回。その頃にはもう、それは慣れた感覚となっていた。
檜山は息をしていなかった。いつからそうだったのだろう。それすら分からない程に、夢中で刃を振るっていた。柄の部分まで血塗れになった包丁を抜き取り、地面に落とす。俺自身も同様に、地面に落ちるようにへたり込んだ。
小林や柳瀬川を殺した時と違い、不思議と罪悪感や後悔という感情は生まれてこない。それどころか反対に、これで脅迫状の条件を全て満たしたことに、一人安堵していた。
(安堵、か…)
冷静になってみれば、おかしな話だ。周囲から見たら、先程檜山に言われたとおり、既に取り返しはつかない状況だと誰もが思うはずだ。それなのに俺は安堵しているという。そんな自分がおかしくて、笑えてくる。
いや…自分がおかしいのは、前々から分かっていたことだろう。ちづるや小林の時、ちょっとしたことですぐに頭に血が上り、彼らに刃を向けた。一人は大怪我、一人は命まで奪っている。客観的に見れば、これは常人では考えられないことである。また、今回もそうだ。自分の保身のために人を殺すことなんて、通常は拒否反応を示すところだ。
しかし実際には、脅迫者より拳銃を受け取り、脅迫状を読んでいた時の俺には、怯えはすれど笑みもこぼれていた。
(…考えてもみろよ)と、自分の心が俺に問いかける。そもそも柳瀬川を殺したからといって、脅迫者が俺の罪を公表しない保証がどこにある?報酬の一億円だって、それが貰えると何故信用した?
保証も無い脅迫だというのに、ほいほいとその内容を受け止め、柳瀬川を殺し、脅迫状に書かれた条件についても、自分の中で勝手に問題ないと判断し、更に檜山まで殺した。こう客観的に己を見ると、どうしようもなく愚かで、おかしな存在であることには違いなかった。
「ひ、ひぃ!」
そんな放心した状態の俺の耳に、女の小さな叫び声が聞こえた。その声で、瞬時に現実に引き戻される。
声のした方を向くと、そこには見知った顔の女が震えながら立っていた。ちづるが働いていた愛彩の同僚だった、本多瑞季だった。
派手な色のコート、また、夜中だというのにしっかりとした化粧の具合。こんな夜遅くに西街とは逆方向からやってきたということは、今から仕事に行く途中だったのだろうか。わなわなと小刻みに震えながら、俺、檜山の死体、そして柳瀬川の死体に点々と視線を移していく。そして小さく後ずさりすると、俺を素通りし、即座に駆け出した。
「ひ、人殺し!誰か、誰かあ!」
走りながら大声で叫び離れていく彼女を見て、堰を切ったように俺も同じ方向に駆け出す。
見られた…また見られてしまった!まずいことになった。しかも彼女が駆け出した方向には西街がある。夜の店が多いあの場所は、この時間であっても人は沢山いる。このまま行かせるわけにはいかなかった。
こうなっては仕方がない。この女も檜山と同様死んでもらうしかない。血で真っ赤に塗れた包丁を握りしめ、彼女を追いかける。相手がヒールということもあって、足は俺の方が速いようだ。徐々に彼女との差は埋まっていく。
(あと、数メートルで手が届く…!)
その時だった。突如、耳の鼓膜が破れる程の大きな音が空中に木霊した。同時に腿に強烈な痛みが走る。その痛みは腿から始まり、衝撃は全身へと響き渡った。
「な!?」
突然の痛みからバランスを崩し、その場に派手に転ぶ。前世はゴムボールだったのかと思う程、俺の体は走っていた勢いから何度か前方にバウンドし、地面にへばりついた。脚や腕の所々を擦りむき、血が滲む。腿の激痛を筆頭に、全身を打ち付けた痛みに軽く涙が出た。
何が起こったのか。自分の腿を見る。衣服に五百円硬貨程の穴が開いており、その場所から、どくどくと血が流れ出ている。その穴の周辺の衣服には、焦げ跡が付いていた。
「動くな!」
突然の大声に、一瞬痛みを忘れて硬直した。恐々と声のした方向、前方に顔を向ける。そこには先程追っていた瑞季が、一人の男の方にしがみついていた。
彼の風貌には見覚えがあった。濃紺の制帽を被り、これまた濃紺の制服を身に纏っている。街角でよく見かける、誰もが知っている存在と同様の格好である。
「け、警察?」
目の前には、拳銃の銃口を俺に向けた、力強い眼をした男の警察官が立っていたのだ。
きりっとした一重まぶたに少し色黒のさっぱりした短髪の男。俺はその男の顔に若干の見覚えがあったが、詳細に思い出すことができ無かった。
「は、早く!やっちゃって!」
警官の男の肩を揺さぶり、瑞季は必死で懇願している。
そんな。嫌だ、こんなところで。こんな終わり方なんて。嫌だ。嫌だ!
思うが早く、俺は両手両足で踏ん張り立ち上がった。撃たれた腿が叫ぶように痛みを発する。しかし、それすらもう感じない程に、心に余裕がなかった。
まさか、この脚で立つとは夢にも思わなかったのだろう。目の前の二人の男女は、信じられないといった風に俺の顔を見た。瑞季が金切り声を上げる。
「ちょ、ちょっと!達ちゃん!」
「おい、動くな。動くと容赦はしないぞ」
警官が俺に向かって言う。軽く嗄れた、随分と低い声。しかし滑舌は良く、はっきりとしたものである。聞いたことがない声色だと思いつつも、何故だろうか。彼の声には聞き覚えがある。どこかで会ったことがあり、何かしら接点があったような気がした。
数秒その警官と対峙していたが、ここに来てやっと、自分が手に何かを握っていることを思い出した。
それはまたしても包丁だった。瑞季を亡き者にしようと、咄嗟に掴んだものだった。腿を撃たれ派手に転倒しようともこれだけは離していなかったなんて、自分に驚きを隠せない。
そうか、これは俺の決意の表れだ。この包丁を使い、こいつらを殺し、今とは違う未来へと踏み出せ、という…俺の心の表れなのだ。包丁を握った手に力を入れた。そして目の前の警官に向かって、大きな奇声を上げながら突進した。
しかし、悲しいことに。俺は一歩も踏み出すことができなかった。体全体に鈍い感触がする。直後にこれまでに味わったことのない激痛が俺の腹部に襲いかかった。
(や、野郎。撃ちやが、った)
そう考えた時には既に、俺の意識はその場から、この世界から消え失せていた。
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