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第二章 檜山武臣の場合
八 ◯檜山 武臣【 1月10日 午後6時30分 】
しおりを挟むそれから各フロアの確認作業が始まった。しかし運が悪いのか何なのか、鷺沼の姿は見えなかった。
二十七階の確認作業を終え、非常階段を下る。ここまで十三階分の外れを引いてきたこともあって、昨日Aから聞いた内容に猜疑心を抱いていた。
鷺沼がここに本当にいるのであれば、半分の数を調べるまでには一度落ち合うことになりそうなものだが。ここまで外れを引いたのは、人生でもそうそう無いかもしれない。
やはり、昨日の電話の内容は嘘だったのか。考えたら、そもそも匿名で、しかもにわかには信じがたい内容であったというのに、何故俺はそれを鵜呑みにしてここに来ているのだろう。勘と言われればそうかもしれないが、そんな根拠にもならない抽象的な物に縋って、今俺はここにいる。自分の阿呆さ加減に笑えてくる。
くそ。階段を降りつつ、舌打ちをする。このままいなかったとしても少しは気が晴れるものかと思ったが、そんなことは無さそうだ。本当に、単純に時間を無駄にした。
仕方ない。二十六階を最後に、このホテルでの鷺沼の探索は一度諦めることにしよう。奴は明日、家に行って話を聞けば良い。そう心に決め、二十六階のエレベーターホールに続く非常階段の扉を開けた。
「え、檜山さん!?」
その瞬間、俺の名を呼ぶ声が聞こえた。前を向くと、鷺沼ではないが別のよく見知った顔が立っていた。青い警備用の服を着た男だ。いつも会う時は眠たそうな目をしているが、今はしっかりと見開いている。コモレビで俺が担当している債務者の一人、柳瀬川和彦であった。
俺は会釈する。柳瀬川もそれに遅れる形で、お世話になっております、と慌てて深々と頭を下げる。
「いつもどうも。こんな所でまさか柳瀬川さんにお会いするとは。どうしてここに?」
「あ、ええ…私、ここのホテルで警備の仕事をしているんですよ。今は見回りの最中です。ひ、檜山さんこそどうして。このホテルに宿泊されているんですか?」
思い出した。この男は半年前、うちにやって来た。その時は二十万円程貸しただけであったが、その次の月に五倍の百万円を貸した。現在では元金百二十万円、毎月五万円の返済をしてもらっている。金を借りる際、職業を書いてもらったが、確かパートナーガードと記入していた。…まさか、このホテルの警備担当だとは。
「いや、まあ少しね。一応部屋はとっていますよ」
「そ、そうなんですか。もしかしてスカイタワーの観光ですか?でも、今日に限ってそれは違いそうですね。だって…」
「そんな観光する金なんかありゃしませんよ。金貸しの金が無いなんて、笑い話にしかならんですが」
わざとらしく笑顔を向ける柳瀬川の言葉を遮って、俺は手を振る。
自分が口に出した金という言葉に、ふと思いついたことがあった。別件だが、柳瀬川と会ったことはちょうど良い。
「…そういえば柳瀬川さん、今回の返済期限はそろそろのはずですがねえ。忘れていないでしょうね」
俺がそう言うと、柳瀬川は眉間に皺を寄せた。
「ええ、も、もちろん!今回はちゃんと払いますから」
「あんた、先月のお支払い少し遅れたじゃないですか。今月はちゃんとしてくださいよ」
ついでに嫌味を言っておく。返済の件で嫌味を言われた、と柳瀬川の記憶に刻ませるためだ。
「わ、分かっております。今月は必ず…期限までに支払います」
「よろしくお願いしますよ。さもないと、また前みたいにこちらから催促させていただきますからねえ」
先月柳瀬川が返済期限を超過した際、俺は部下を何人か連れて家まで押しかけた。その際この男は居留守を使ったため、少し強引に取り立てを行なったのだ。
「は、ははあ、それだけはご勘弁を…見込はありますので」
柳瀬川は後頭部を掻きながら、ぺこぺこと俺に何度も頭を下げる。その見込が本当かどうかは分からないが、俺からしたら返済期限内に金を返してくれればそれでいい。
「へえ、そんじゃあ期待していますよ」
はあ、と気の抜けた声を上げて頭を下げる柳瀬川を見て、今度は別の話を切り出した。
「それはそうと柳瀬川さん。瑞季とは会ってんですかい?」
俺の言葉に、柳瀬川は一瞬ぎょっとしたように身じろいだ。
「え! まあ…ぼちぼちですね」
彼には、春子という配偶者がいる。しかしこの男、共働きということを良いことに、仕事が終わった後に愛彩に入り浸り、昨日話をしたキャバクラ嬢、瑞季に貢いでいるのであった。
そもそもそうなる程、瑞季の虜になってしまったのは何故だろう。後に彼本人から聞いた話では、春子との夫婦関係は冷めきっており、そんな折に訪れた愛彩で、自分好みの女性に会ってしまったそうである。そして現在に至る。
キャバクラで好みの嬢に金銭や贈り物をする男性客は珍しくない。女が喜ぶ姿を見て、満足感というか、快感を得たいがためである。しかし、柳瀬川と瑞季の二人は単にそれだけの関係ではない。何故そこまで言い切れるのかというと。
「へへえ。全く、あんたも俺に負けず劣らず悪いお人ですよ。とにかく、程々にしておくのが吉ですよ。あの手の連中は、はまり込むと抜け出せられない奴らばっかりなんですから」
そこで俺は声量を下げ、柳瀬川の耳元で囁いた。
「あんたが瑞季ちゃんとホテルから出てきたことは大丈夫、内緒にしておいていますよ。…きちんと返済期限を守ってくれさえすればね」
柳瀬川は俺から瞬時に離れた。
先月。仕事帰りに柳瀬川と瑞季がホテルから出てくるところに出くわしたのだ。単にキャバクラの嬢に貢いでいるだけではなく、その嬢と不倫までしていたのか、と憐れに思ったことを覚えている。
それにしても鷺沼といい、柳瀬川といい、どうしてこう借金をしてまで女に貢ぐのか。そこまでしてその女と懇意にしたい、あわよくば…という下心が働くというのか。人には自制心というものがある。
しかし、その自制心は、食欲・性欲・睡眠欲という人間の三大欲求にはうまく働かない。中でも性欲は、自制心が働いていないと、犯罪行為や取り返しのつかない状況にも発展する。しかもそれに気付いていない者が多い。鷺沼も柳瀬川もそうだ。
「わ、分かっていますよ」
柳瀬川は俺に向かって頭を軽く下げる。本当に、何度も簡単に頭を下げる男である。苛々するが、一応は金の貸し借りをしている契約相手だ。表情には出せない。
腕を組む。そうだ、忘れていた。かなり話がずれてしまったが、柳瀬川に鷺沼を見たのかどうか聞かなくては。
「さて、柳瀬川さんにここで会ったついでに聞きたいことがあるんですがねえ。あんた、鷺沼って男を知っていますかい?」
そう聞くと、柳瀬川は片目を吊り上げ手を顎に沿わせ唸った。
「え、うーん。鷺沼…ですか。いやあ、そんな男は知らないですが。その方がどうかされたんですか?」
柳瀬川のぽかんとした顔を見て、しまったと感じた。そうか、債務者同士知り合いというわけではあるまいし、鷺沼なんて名前だけ言われても何のことか分かるわけがない。
「柳瀬川さんと同様に、うちの金をお貸ししている方なんですがね。実は今、少し探しておりまして」
「はあ…」
「写真を渡しておくんで、もし見つけた場合連絡ください」
俺は着ているスーツの胸ポケットから鷺沼の写真を取り出し、柳瀬川に渡した。
「わ、分かりました」
写真を受け取り、その人となりを一瞥し、柳瀬川は了承した。最初の質問以降、特に何も聞いてこないのは、それ以上自分が興味本意で関与してはいけないと、柳瀬川なりに察したのだろう。
「じゃ、じゃあ私、まだ仕事がありますので」
確か、この男は働いている最中だった。沢山働いて貰って、きちんと金を返してもらわないと困るし、そもそもこの男に用があってホテルに来たわけじゃない。この会話にもそろそろ終止符を打つことにしよう。
「よろしくお願いしますよ。お金の方もね」
俺の言葉に少し頷きながら、彼は非常階段に続く扉を開け、このフロアから去った。
…さてと、どうするか。エレベーターホールを見回す。ホールの端には壁で仕切られた、喫煙スペースがある。ゆっくりと俺はその場所まで歩く。
煙草を取り出す。先端に着火したその時、チャイム音が鳴り、一方のエレベーターの扉が開いた。中には誰もいない。俺と会う前に、柳瀬川が上昇ボタンを押していたのだろうか。しかし、既に彼は非常階段を使って別のフロアに移動している。
扉はすぐに閉まる。ふぅ、と口から煙を吐く。エレベーターホールの灯りに靄がかかる。何だか柳瀬川と話をしたことで、張っていた気が緩んでしまった。鷺沼の写真を見た柳瀬川の反応の無さから、今日このホテルで奴を見ていないのだろう。
先程考えたとおり、ここに奴はいないのか。仕方がない、時間を無駄にしたが、奴と話すのは明日にしよう。吸いかけの煙草を吸い殻入れに落とし、エレベーターの扉の前に歩みを進めた。その時。死角から何者かが飛び出してきた。その何者かは俺にぶつかり、ぶつかった反動でその場に大きく転倒した。
その顔を見た時、目を疑った。
「おや、誰かと思えば」
言うと同時にその者の胸ぐらを掴み、力を込めて無理に立たせた。そして、顔を俺の目の前に合わせる。
「うちのお得意様の鷺沼さんじゃないですかい。こんな所で会うなんて、奇遇ですねえ」
そこにいたのは今日一番求めていた、鷺沼崇であった。
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