殺人計画者

夜暇

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第二章 檜山武臣の場合

九 ◯檜山 武臣【 1月10日 午後6時40分 】

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 今の俺の顔は、如何にも大衆小説に出てくる悪者のように、下劣な笑みを浮かべているに違いない。
 目の前には、怯えた表情で俺を見つめている鷺沼がいる。髪は無造作にぼさついており、顔は皮脂で光を反射している。恐らく今日起きてから顔を洗っていないのだろう。よくもまあ、こんな酷い顔で家から出て来たものだ。俺には絶対できない。
 まあそれはいいのだ。大事なのは、このホテルに鷺沼がいたということである。つい数秒前までは半ば諦めていたが、本当にいるとは。
 ということは、昨日のAの話のうち鷺沼の動向については、偽りはなかったということだ。俺は柳瀬川と、他フロアに繋がるエレベーターホールで話をしていた。つまり理由は不明だが、こいつはその前からこのフロアに身を潜めていたということになる。
 どうして身を潜めていたのか。宿泊予約をして入った俺と違い、この男はここに、不法に侵入したのだろう。故に、従業員を含めできる限り人に会わないよう、隠れながらここまで来たのではないか。それ以外に身を潜める理由が考えられない。
 …そうだ。この男は何かしらの用があってここに来ている。その用が人に見られてはいけないような、後ろめたいものだったとしたら?
「ど、どうして…」
 その時、鷺沼が言葉を発した。いけない、そのまま少しだが考え事をしていた。今の疑問も、これからこいつに聞けば良いだけの話である。
「どうして、その続きはここにですかな?」
 目を見開いて鷺沼を恫喝する。彼を掴む手に力が入る。それに呼応するように、恐怖からか鷺沼は足をばたつかせる。
「それはもちろん、あんたに用事があったからです」
「俺に…よ、用事ですか」
「ええ。なあに、大したことじゃありませんわ。鷺沼さんが知っていればの話であって、もしも知らないのであれば謝罪しますので」
「一体、どんな」
 鷺沼も少しだけ落ち着きを取り戻してきたようだ。今なら聞きたいことも聞けるはず。
 まずは…そうだ。昨日のAの電話のとおり、こいつは小林を本当に殺したのか、その真偽を問いたい。
「鷺沼さん。あんた、うちの会社の小林って男を知っていますかい?知っていますよね?」
 そう俺が口にした途端、鷺沼の顔色があからさまに青くなった。そのまま何も答えない。無言…それは既にもう答えではあったが、俺はあえて聞くことにした。鷺沼の口から出た、鷺沼の言葉で、真かどうかを確認したかったのだ。
 深呼吸をして、俺は続ける。
「ここ数日、会社に出社していないんですよ。家にもいないようで。奴の人柄から、誰にも何も告げずにいなくなるなんて考えられなくてねえ。…鷺沼さん、何か心当たりがありますかい?」
 そう言い切った途端。捕まえていた鷺沼が、これまでとまるで違うように暴れ出したのである。
「こ、こいつ!落ち着け!」
 その挙動は何の前触れもなく起こったため、俺の対応は数秒遅れたが、必死で抑え込もうと力を加えた。…しかしそれが原因で鷺沼は更に熱が入ったのだろう、こいつは俺の手を、自分の爪で思い切り引っ掻いてきた。
「があ!」
 激痛が走る。その痛みにより、反射的に鷺沼を掴んでいる手を離してしまった。その隙を彼は見逃さなかった。俺を無理矢理に引き剥がし、少しばかり距離を取る。
「この野郎…!やっぱり、あの電話の内容は本当だったんだな!」
 痛みに耐えつつも、叫ぶ。鷺沼に引っ掻かれた手の甲を見る。じわじわと赤い血が滲み出ていた。もう片方の手で抑える。まさか、小林の名前を出した途端、これ程の力で俺を引き剥がすとは。
「あの電話…?」
 鷺沼は動揺しながら、そう聞き返す。が、
「それならこっちも手加減してらんねえ!大人しく来い!」
 俺の耳には既に聞こえていなかった。とりあえずまた暴れられては困る。さっさと捕らえ、聞くべきことを聞いてやる。拳を固く握り締め、鷺沼目掛けて勢い良く振った。しかし振りかぶりで次の行動を読まれてしまったのか、その拳はすれすれで避けられてしまった。また、勢いをつけすぎたためにその場で止まることができず、直進方向に置いてあった喫煙スペースの仕切り壁に顔面から衝突する。
 全身に衝撃が走り、痺れる。そうしている間に、鷺沼は俺に背を向け、非常階段の扉に走り出した。
「待て!鷺沼ぁ!」
 逃してたまるか。折角見つけたのだ。何としてでもここで…!
 顔面、特に鼻の痛みに耐えながらも、鷺沼の後を追うように非常階段の扉を開けた。しかし俺の願いも虚しく、鷺沼ははるか下の階、遠く離れてしまっていた。微かに階段を下りる音と、鷺沼の勢いがあるのか、微弱な振動が階段に伝わってくる。
 拳を壁に叩きつけた。俺としたことが、まさかあの場面で逃してしまうとは。
 それにしても鷺沼のあの態度。奴の担当は今も昔も俺だけだ。小林は奴に関与したことはない。故に、小林の名前と所在を聞いただけで奴が暴れるなんてあり得ない。何か二人の間で、込み入った関係が無ければ。
 やはり奴は小林を殺したということなのか。急いで柳瀬川に連絡をとる。
『は、はい』
「檜山です、お仕事中すみませんね」
『い、いえ、大丈夫です。それより何か…?』
「先程写真を渡した男ですが。このホテルにいたんですよ」
『え、本当ですか!?』
 電話の向こう側で、柳瀬川は素っ頓狂な声を上げる。
『一体、どうして…』
「は?」
『い、いえ何でも。それじゃあ、もう彼との用事は済んだんですか?』
「いやそれが、隙を突かれて逃げられちまいまして」『な、なるほど』
「そうなんで。柳瀬川さん、奴を見かけたら連絡ください。ここに留まっている可能性もありますから」
『は、ええ、はい。わかりました』
 俺は柳瀬川との電話を切った。さて。奴はこのホテル内にいるはずだ。片っ端から調べていくしかないが、今度は一階から四十階、全てのフロアが対象となる。その上奴自身も動いているとなると、調べ終わったフロアに舞い戻っていることも有り得る。俺が探していることは奴に知られているため、そのフロア移動も警戒から一貫性はないだろう。
 捕まえるというか、出会う確率さえ低くなってしまった。あの場で逃してしまったことが益々悔やまれる。数分程頭を悩ませていると、ポケットに入れていた携帯が震え出した。携帯を取り出し画面を見ると、そこには「非通知」と表示されている。
 まさか。俺は急いで通話ボタンを押し、携帯を耳に当てた。
「…もしもし」
『こんばんは、檜山さん』
 昨日同様、何か機械を通したようなくぐもった声。Aからの着信だった。
「お前…Aか」
『調子はどう?鷺沼には会えた?』
「ああ、まあ会えたには会えたが…」
『会えたっていうのに、あまり嬉しそうじゃないね』
「いや、なんというか」
『逃げられたんでしょ?見ていたよ』
「え?」
 見ていた、だって?
 後ろを振り向く。人の気配は感じない。このフロアには現時点ではもう他に誰も…いない、はず。
『折角会えたのに、残念だね』
 電話先でAは嘲笑う。こめかみの辺りから汗が流れ出る。
「…確かに。昨日聞いたとおり、鷺沼はこのホテルにいた。つまり嘘ではなかった、ということになる。一先ず感謝するよ」
『だから単なる情報共有だって言っただろ。変な情報なんて共有しないよ。それなのに、勝手に檜山さんが疑っただけじゃん』
「まあな。しかしそうなるとやはり、お前が何者かということが気になってくる。何故俺に伝えるのかということも」
 Aはあのねえと溜息混じりに言う。『昨日も言ったけど、そんなことはどうでも良いんだって。それよりも、今は逃げた鷺沼の動向の方が大事なんじゃないかな?』
「何だと」
 この口ぶり。こいつは鷺沼が今どこにいるのか、知っているのか。しかしどうして、それがこいつに分かる。
「お前、鷺沼の居場所が分かるのか」そう聞くと、「うん」とAは即座に答えた。
『分かるよ。どうして分かるか…なんてつまらないことは聞かないでね。檜山さんは、俺が鷺沼の動向が分かっている、と言うことだけ理解してくれれば良いよ。オーケー?』
 一々発言がくどいが、そこを指摘するのは憚られた。今は相手を逆撫でするような言動は、控えるべきだ。
「…分かった。それでは教えてもらいたい。鷺沼は今どこにいるんだ」
 しかしAは黙っている。
「どうした?」
『いやあ、待てよ。そうだな…』
「なんだ?早く教えてもらえないか」
 そう催促しても、うーんうーん、と唸ったままである。生声ではなく、機械を通した人工的な声で唸られると、どこか違和感がある。
『あのさ。そう簡単に全部を教えるのもつまらないなって』
「はっ?」と思わず声が出た。
 呆気にとられている俺を置いて、Aはまるで名案が浮かんだかのように、続ける。
『考えた。今の段階だと檜山さんにはこれだけ教えることにするよ。「鷺沼はこのホテルから離れ、西街方面へ逃げた」。どう、結構重要な情報でしょ?』
「…」
『どうしたの?檜山さん、黙っちゃって』
 そのAの問いかけに、俺は眉根を寄せていた。
 こいつの真意は未だ掴むことはできていないが、今の言葉で、やはり単なる情報提供ではないことは確実だった。何かしらこいつにとって面白くなるように、俺は誘導させられているということか。
 このまま、言うがままに動いてしまって良いのだろうか…
『大丈夫だよ。檜山さん』心の中を読まれたのか、と内心驚いたが、次の言葉でそれは違うということがわかった。
『今はそうだっていうだけで、頃合になったら教えてあげるからさ。それも、今日中に絶対。安心してよ』
 Aは、詳細な場所を教えて貰えないことへの不満で、俺が押し黙ったものと思ったらしい。あながち間違いではないが。
「…分かった。とりあえず今は、奴がこのホテルにいないという情報だけでもとても助かる。まあそれが本当に正しい情報であれば、の話だが」
『おいおい、まだ疑っているのかよ。そんなに疑い深いと、ストレスで長生きできないぞ。それじゃあ、また少し後に連絡するからね』
 皮肉混じりの台詞を最後に添え、Aは電話を切った。
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